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第六十話 幸福の定義
60-3.愛情と同情
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「馬鹿な。ご自分が後悔してるからでは?」
言いすぎた。思ったときには苗子の身体が傾いでいた。前のめりになってテーブルに手をつく。手元のカップが高い音を立ててソーサーの上で転がった。
「大丈夫ですか」
「ええ。疲れただけよ。心配しなくても大丈夫」
席を立って苗子の脇に行き体を支えて背もたれにもたせ掛ける。
目を閉じたまま息をつく顔を見ながらこの女性は歳を取ったのだと感じた。教育に情熱を捧げ、地位と名誉を得てもなお、この広い屋敷に一人きりのこの人は。
達彦の脳裏に久しく思い出すことのなかったオーレンカのことが浮かんだ。神のごとく愛を与えて見返りを求めず打算もない、母性愛というもの。
カップの底に残っていた薄茶色の液体がゆっくりと筋をつくってテーブルのへりに至り一滴二滴しずくを垂らした。それを目の端で捉えて達彦は目を覚ます。
水は低きに流れる。愛もそうなのではないか。自分より苦しんでいる者、不遇な者に優しい感情を向ける。愛情さえ覚える。
それは哀れみというやつだ。今まさに自分が感じたのはそういうものだ。
「愛情と同情は違いますか?」
唐突な質問だったが、苗子は瞼を上げて何をあたりまえのことを、とつぶやいた。
「同情が愛に変わると言う人もいるけどね。まったく別のものでしょうね。極端な話、同情は誰が相手でもできるけど、愛情はそうはいかない」
夏の長い日も傾いて、日当たりのいいリビングの中も薄暗くなってきていた。
「教育者が言ってはいけないことだけど」
「僕は城山苗子さんに訊いたのですよ」
テーブルの上を片づけながら達彦はそっけなく返す。苗子は黙っていた。
「お見合いはお断りします」
帰りがけに念を押す。
「わかったわ」
「暗くなってきました。明かりをつけていきますか?」
「このままで良いわ」
「ではお暇します」
「……また来てね」
踵を返しかけた足を戻して、達彦は丁寧に頭を下げた。
外に出ると涼しいけれどねばつくような風が肌にまとわりついてくるのを感じた。
自宅に向かいかけ、思い直して河原に戻る。
彼女にも尋ねてみたかった。それくらい、まともに答えてくれてもいいじゃないかと思った。
思わぬ願望にようやく気がつく。そうか、もっと縛ってほしいのだ。がんじがらめに、息ができないくらいに。
言いすぎた。思ったときには苗子の身体が傾いでいた。前のめりになってテーブルに手をつく。手元のカップが高い音を立ててソーサーの上で転がった。
「大丈夫ですか」
「ええ。疲れただけよ。心配しなくても大丈夫」
席を立って苗子の脇に行き体を支えて背もたれにもたせ掛ける。
目を閉じたまま息をつく顔を見ながらこの女性は歳を取ったのだと感じた。教育に情熱を捧げ、地位と名誉を得てもなお、この広い屋敷に一人きりのこの人は。
達彦の脳裏に久しく思い出すことのなかったオーレンカのことが浮かんだ。神のごとく愛を与えて見返りを求めず打算もない、母性愛というもの。
カップの底に残っていた薄茶色の液体がゆっくりと筋をつくってテーブルのへりに至り一滴二滴しずくを垂らした。それを目の端で捉えて達彦は目を覚ます。
水は低きに流れる。愛もそうなのではないか。自分より苦しんでいる者、不遇な者に優しい感情を向ける。愛情さえ覚える。
それは哀れみというやつだ。今まさに自分が感じたのはそういうものだ。
「愛情と同情は違いますか?」
唐突な質問だったが、苗子は瞼を上げて何をあたりまえのことを、とつぶやいた。
「同情が愛に変わると言う人もいるけどね。まったく別のものでしょうね。極端な話、同情は誰が相手でもできるけど、愛情はそうはいかない」
夏の長い日も傾いて、日当たりのいいリビングの中も薄暗くなってきていた。
「教育者が言ってはいけないことだけど」
「僕は城山苗子さんに訊いたのですよ」
テーブルの上を片づけながら達彦はそっけなく返す。苗子は黙っていた。
「お見合いはお断りします」
帰りがけに念を押す。
「わかったわ」
「暗くなってきました。明かりをつけていきますか?」
「このままで良いわ」
「ではお暇します」
「……また来てね」
踵を返しかけた足を戻して、達彦は丁寧に頭を下げた。
外に出ると涼しいけれどねばつくような風が肌にまとわりついてくるのを感じた。
自宅に向かいかけ、思い直して河原に戻る。
彼女にも尋ねてみたかった。それくらい、まともに答えてくれてもいいじゃないかと思った。
思わぬ願望にようやく気がつく。そうか、もっと縛ってほしいのだ。がんじがらめに、息ができないくらいに。
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