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これからのこと

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 王都にあるベーヴェルシュタムの屋敷では毎年、新年の1週間ほどはお茶会や晩餐会をいくつか開き、多くの客人が挨拶に訪れる。その時期にはミオは離れに閉じこもっているのが定例で、サミュエルやウィルフリッドのような親しい間柄の客人の応対以外は外に出ることは無かった。それでも、屋敷中が浮足立っている雰囲気というのは嫌でも伝わってきて、酷く落ち着かない気分になるのだ。

 しかし今年はセバスチャンと2人きりの静かな新年だった。炊事、洗濯、清掃などの屋敷内の雑事は昨日までにすっかり片付けられていて、全ての使用人に3日間の休暇を与えたらしい。

 セバスチャンにも食事の用意だけしてもらえたら後は休んでいいと伝えたところ、彼は大いに喜んで何故か休暇期間だけミオと食事をとりたいと申し出た。ミオとしては『1人で好きなように過ごせ』という意味合いで言ったつもりだったのだが、こういう時のセバスチャンの理解不能な行動についてはすでに諦めている節が多分にあるので、深く考えることはせず久しぶりの世話係との食事を楽しんだ。

 そうして昼食を終えた頃には空を覆っていた雲の裂け目から青空が覗き始めた。年末からずっとぐずついていた天気がゆっくりと好転していくさまは新しい年の始まりを祝っているようにさえ見えて、つい浮かれてしまったのだ。


「ちょっと庭を歩いてくるから」

「ええ、寒いのでお気をつけて」


 久方ぶりに注いだ太陽の光に誘われるままミオはソファから立ち上がった。セバスチャンが心得たように広げたコートに袖を通し、静まり返った廊下をひとり歩いた。窓から入る眩しい日差しは別邸内に淀む薄暗く重たい雰囲気を揮発させているようだった。セバスチャンの随伴なしに1人で移動することも、他人の気配を警戒せずにいることも、思えば久しぶりだったからかもしれないけれど。

 正面玄関ではなく、厨房を通り抜けて勝手口から外に出た。厨房は別邸の北側の端に位置していて、勝手口から出て真っすぐ進むとすぐに城壁にぶつかる。城壁に沿って東へ歩いてゆくと、石畳が敷かれただけの簡素な風景が低い生け垣で仕切られて庭園へとつながる。冬咲きの花々に彩られたい花壇はどれも慎ましやかで美しく、冷たい空気の中でそこだけはどこか暖かさを感じさせた。

 丁寧に手入れされている花壇を眺めながらゆっくりと歩いていたミオは、手のひらくらいの大きさで俯きがちに咲いている花に目を留めてその前にしゃがみ込んだ。膝を抱えた体勢からさらに身を屈めて花を覗き込んでいたところで一際強い風が吹いた。ぎゅっと身を竦めて風をやり過ごしてから、おもむろに立ち上がって風の吹いてきた方向を見遣った。

 城壁の向こう側、別邸が建つ丘の稜線の先には湖面を真っ白に凍てつかせた湖があった。ここに来たばかりの頃には陽光をきらきらと反射させていた水面も今は完全に氷に覆われていた。風が吹こうともじろぎひとつしないその姿は、自然の中にあってなおどこか無機的ですらあった。魔力濃度が最も高く、一連の騒ぎの原因に関係しているであろう山あいの湖。

 ──街で一瞬だけ視た『水脈』は、ひどく乱れていた。あんなにも荒々しい流れを視たのは初めてだった。『水脈』が騒ぐ、それが起きるのはどんな時なのか。幼い自分にあのひとは何と語っていただろうか。

 がこん、という鈍い音にハッと我に返った。ぱちぱちと幾度か瞬きをしながら辺りを見渡すと、すぐに嗄れ声の悪態が聞こえてきた。その聞き覚えのある声がした方向へ向かってみると、通路に落ちた石のブロックを屈んで拾っているトムソンがいた。近くに倒れた台車があるのを見るに、石畳の隙間に車輪をとられてしまったのだろう。ミオは少し迷ってから彼の元へ駆け寄ると何も言わずに台車を引き起こした。

 こちらをじっと見てくるトムソンとは目を合わさずに、通路に散らばってしまったブロックを台車へ積み直していれば、また嗄れ声で「すまねえな」と聞こえた。それにミオは頷くだけで答えた。


「これをあっちのガゼボに運んでくれや」

「えっ、あ、はい」


 綺麗に積み直されたブロックを前に立ち去ろうとしたミオにトムソンは当たり前のようにそう言った。あまりにも自然な言い方で思わず返事をしてしまったミオは彼に言われるがまま、重たい台車を押し始めた。要望通りブロックを運び終えたミオにトムソンはすかさず剪定で切り落とされた枝の片付けを頼んできた。その次には肥料播きを、その次には大量の鉢植えの運搬を頼まれた。次々に仕事を指示されてしまい、どうしてこんなことに、とミオは内心頭を抱えた。しかし、手伝いの内容が力仕事中心で、かつトムソンが右足をやや引きずって歩く様子に、これらの仕事はもう1人の庭師であるヘレナの父親が請け負っていたものなのだろうと容易に推測できた。彼に勝手に休暇を取らせた負い目もあって、ミオはせっせと精を出して働いた。


「ありがとうよ。バスティ……セバスチャン様には言わんといてくれよ」

「……はい」


 正直、手も服も土まみれでセバスチャンに隠し通すことは無理だろうとは思ったが、とりあえずトムソンの名前を出さないようにはしようと心に決めて頷いた。トムソンはそんなミオに眼を細めてからふいっと視線を城壁の外へ振った。それにつられるようにミオも彼の視線の先へ目を向けると、冷たく凍り付いた湖があった。


「湖が全部凍っちまったろ。ありゃあ、不吉な予兆なのさ。凍った湖を渡って災厄が街を襲いに来るってな。ガキの頃にゃあ、さんざひいばあさんに脅されたよ。『山の神さんに連れていかれるぞ』ってな」


 トムソンは深い溜め息をつきながらつばが擦り切れたハンチング帽を外して、薄くなっている頭をかき混ぜた。


「それに加えてこの流行病さ。いざ目の前まで死に際がせまりゃあ、まあおかしくなっちまう奴がいても無理はねえんじゃねえか」


 ミオはトムソンの言わんとすることを察してじっと彼を見つめた。


「街を助けろって話ですか?」


 思ったより険のある声が出た。身を固くして目の前の老爺を警戒するミオの様子に、トムソンは苦笑して肩を竦めた。


「そうやって思ってる奴も多いみてえだな」

「死にたくないなら街から逃げたらいい。それだけで済む話なのに、まるでこの世の終わりみたいに……」

「……事実この世の終わりなのさ。赤ん坊のころから何十年もこの街で生きてきてんだ。このままじゃ死ぬかもしれねえと言われたって、この街を捨てることの方がずっと恐ろしいのさ」


 俺も含めてな、と言ったトムソンの表情が、あまりにもさっぱりとして朗らかでさえあることにミオはわずかに息を吞んだ。そんなミオの様子に気付かないままトムソンは話し続ける。


「かといって街に縁もゆかりもねえ坊ちゃんに恥も外聞もなく泣きつくのには感心しねえよ。この街と生きてきたんなら、この街が死ぬときゃ一緒さ。ここまで来りゃ、そうやって腹ァ括るしかあるまいよ。若い衆にはよくよく言い聞かせるんでな、あんまり怒らんでやってくれや」


 それだけ言ってトムソンは外していたハンチング帽をかぶり直すとミオに背を向けて歩き始めた。膝が悪いらしい右足を引きずるようにして歩く後ろ姿に声を掛けようとしてから、何を言うべきか、何を言いたいのかわからなくて口を閉じた。それでも肚の底から湧きおこる激情がミオにただ黙していることを許しはしなかった。


「……っ! それでっ……! それでいいのかよ! 本当にっ……!」


 ミオの大声にトムソンは驚いた顔で振り向いた。そしてしばらくこちらを見つめたあと、また肩を竦めて言った。


「そりゃ明日死にますって言われてハイそうですか、とまでは言えねえが、なるようにしかならねえだろ」

「……」


 トムソンはしばらくミオの反応を待っていたけれど、何も言い返さないと判断して再びゆっくりと歩き始めた。非対称な歩きで遠ざかってゆく彼をミオはただ見つめていた。心臓が変なふうに跳ねていた。指先が氷のように冷たいのは多分寒さのせいではない。ぎゅ、と唇を噛み締めてミオは下を向いた。

 外の世界を知らないから──それだけのことが死を選ぶ理由に値するのか。そんな疑問の答えが是であることもまた、ミオは知っていた。トムソンの言い分は嫌というほど理解できたのだ。だって、自分自身もそう言い聞かされて育てられてきたのだから。


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