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第3章 海賊と聖女と海軍と

3-4・君にその愛称を許した覚えはない

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 突然響いた爆音に、会場にいた全員が動きを止めた。入口を吹き飛ばした猛火はそのまま意思を持つ獣のように壁に沿って流れ、あっという間に会場内を炎の壁で取り囲んだ。
 空気すら焦がす勢いで猛る炎は、けれどそれ以上燃え広がることはない。ただ会場にいる者を逃がさぬ檻として、そこにあるようだった。
 これではメルヴィオラも逃げ出すことは叶わない。そう思っていると、海賊たちが動揺している隙を突いてそばに来たフードの男――ラギウスが、メルヴィオラの腕を掴んでいた男の腹に盛大な蹴りをお見舞いした。

「きゃっ!」

 一緒に引きずられて吹き飛びそうになった体が、逆方向にくんっと引き寄せられる。かと思うと、メルヴィオラはそのままラギウスの肩に担ぎ上げられてしまった。

「逃げるぞ!」
「ちょ……っと、一人で歩けるわ!」
「面倒な奴が来た。お前の足じゃ、すぐ追いつかれる」
「だからって、こんな荷物みたいに持たなくても……」

 メルヴィオラはいま、ラギウスの背中の方を向いて担がれている。彼の顔の横には当然お尻があるわけで、しかも服を着替えているのでスカートの丈もいつもより短いのだ。かろうじてスカートの裾を押さえる形で支えられているのはわかったが、それでもかなり際どい姿勢であることには変わりない。
 スカートが捲れないように、ラギウスの背に手をついて必死に上半身を持ち上げると、ぐんっと高くなった視界を覆い尽くして炎の槍が迫ってくるのが見えた。

「その汚らわしい手を今すぐ離せ」

 槍と思ったのは、炎を纏わせた剣の刃だった。振りかぶるのではなく、刺突した剣の切っ先はメルヴィオラを綺麗に避けて、ラギウスの頭部のみに狙いを定めている。
 背後からの素早い攻撃。更に炎の魔力も加算された攻撃をすんでの所で躱し、ラギウスが面倒そうに舌打ちをこぼした。

「よぉ、リッキー。相変わらず仕事が早ぇな」
「やはり君だったか、ラギウス」

 剣を構えたパトリックとは反対に、ラギウスはメルヴィオラを担いだまま、腰に佩いた剣に手をかけることもない。それをラギウスの隙だと思わないのは、彼と何度か剣を交えたパトリックだから感じられる直感のようなものだ。
 武器を手にしていなくても、ラギウスにはこの場から逃げ出せる算段がある。だからパトリックも警戒を緩めず、炎を剣に纏わせて、いつでも応戦できる体制を崩さない。

「君にその愛称を許した覚えはない」
「まだ言ってんのかのよ。細かい男は嫌われるぜ? なんなら俺のこともラギって呼んでくれていいんだぜ」
「遠慮する」
「そうかよ。コイツはそう呼んでくれてんだけどな」
「呼んでなっ……きゃあっ! ちょっと、どこ触ってるのよ!」

 思わず悲鳴を上げたのは、お尻にさわ……っとした感触があったからだ。それが何かと考えなくてもわかる。ラギウスがメルヴィオラのお尻を撫で下ろしたのだ。パトリックに見せつけるように、挑発の意味を込めてねっとりと触ると、最後にぱしんっと軽く叩かれる。

「変態っ! サイテー! 降ろしなさいよっ、今すぐ!」
「なに照れてんだよ。いつものことだろ?」
「いつもって何よ! そんなの知らないっ」

 力一杯ぽかぽかと背中を叩いてみるも、ラギウスにはまったく効いていないようだ。それどころかまた軽くお尻を触られ、自分でも予想だにしない気の抜けた声が漏れる。

「お、イイ声」
「バカッ!!」

 端から見れば、ただのいちゃつく二人だ。そんな光景に海賊たちは唖然とするばかりだったが、ただひとり、パトリックだけはさっきよりも鋭く眼光を光らせてラギウスをぎろりと睨み付けていた。

「貴様っ! 聖女に対して何たる無礼を……っ。即刻手を離せ! さもなくばその両腕、二度と不埒な真似ができないよう、炎で焼き尽くすぞ!」

 パトリックの右手に嵌められた赤い石の指輪がきらりと光る。かと思えば剣身に絡みついていた炎の勢いが増し、熱風に煽られてパトリックの金髪が怪しげに揺れた。

「おぉー! 相変わらず炎の魔力と相性がいいんだな。その指輪、すげぇ馴染んでんじゃん」
「君には関係ない!」

 パトリックが剣を振り下ろすと、ステージの床を割って炎が走る。それを脇へ避けたラギウスの行動を先読みして回り込んだパトリックが、一気に間合いを詰めて剣を薙ぎ払った。

「何だよ。やけに熱くなってるじゃねぇか。原因は聖女コイツか?」
「当たり前だ。彼女は神聖なフィロスの聖女。君如き下賤の者が軽々しく触れていい相手じゃない」
「んなこと言ったって、お前だってコイツを抱いてんだろ?」
「…………は?」

 気の抜けた声と共に、パトリックの攻撃が止まった。何を言われたのか理解が追いついていないらしく、青い瞳を丸くしたまま硬直している。
 ぎくりと震えたのはメルヴィオラの方だ。慌ててラギウスの言葉を牽制しようとするも虚しく……。

「世話になってる礼に、海軍大佐にご奉仕してるって言ってたぜ」

 にやりと笑うラギウスに、あの時ついた嘘を盛大に暴露されてしまった。

「わあああああっ! なっ、なな、なんっ……何言って……っ!」
「あぁ? お前が言ったんだろ?」
「バカ、バカッ! そんなこと……っ、言ってない!」

 羞恥で顔に血が上っているのがわかる。メルヴィオラの嘘がわかっているくせに、ここで本人にそれを言うラギウスの意地悪さが憎々しい。
 がばっと体を起こしてラギウスの頭を思いっきり強く叩いた。こんな攻撃、どうせ痛くもかゆくもないのだろう。そう思うと更に歯がゆくなって、メルヴィオラはなおも強くぽかぽかと拳でラギウスの頭を叩き続けた。

「おま……っ、ちょっと待て。フードが落ちるだろうが!」
「考えなしの頭も一緒に落ちちゃえばいいんだわ! ラギウスなんて嫌いっ!」

 メルヴィオラの怒鳴り声に呼応するように、二人の前でごうっと勢いよく炎が噴き上がった。その中心にいるパトリックが、剣を握りしめた手をわずかに震わせてラギウスをぎろりと睨み付けている。

「ラギウス。……いい加減、その口を閉じろ。神聖なる聖女をこれ以上貶めることは許さない」

 パトリックを中心にして渦を巻く炎は天井にまで届き、会場の屋根がぶすぶすと焼け焦げていく。海賊たちを逃がさないための炎壁はまだそこにあり、パトリックの剣にも炎は巻き付いたままだ。膨大な魔力の源はパトリックの指に嵌められた赤い指輪なのだが、それにしてもここまでの炎を出し続けられるのは稀だ。よほど炎の魔力と相性がいいのだろう。
 メルヴィオラもパトリックのことは人並み程度に知ってはいたが、彼の炎を操る力がここまで凄いとは思わなかった。以前、悪漢から助けてくれた時に見た炎の剣とは桁違いだ。

「まぁ、そんなに熱くなるなって」

 熱気溢れる会場に、その声はまるで涼やかな風のように響いた。

 逃げ場など、もうどこにもない。周囲は炎にまかれ、目の前には剣を構えたパトリックがいる。彼の操る強大な炎の力に、ラギウスが打ちできるとはまるで思えなかった。――と、そこまで考えて、はたと我に返る。

(私……どうしてラギウスの心配なんて……。逃げ出すならパトリックのいる今が絶好のチャンスじゃないの!)

 成り行きに任せて、思考がラギウスと一緒に逃げる方に傾いていたらしい。競売から助け出してくれたのはラギウスだったが、メルヴィオラが戻る場所はパトリックのいる、いつもの世界だ。
 暴力に溢れた恐ろしい場所から、救い出してくれる手がすぐそこにある。そう思うのに、なぜかメルヴィオラはパトリックへ手を伸ばすのを躊躇ってしまった。

 その一瞬に、メルヴィオラのいた元の世界がくんっと引き離される。

「全部カタがついたら、そん時に相手してやるから……。悪ぃ、今日は帰るわ」

 悪びれもなくそう言うと、ラギウスがわずかに身を屈めた。かと思えば一気に距離を縮め、パトリックの目の前で軽やかに跳び上がった。
 メルヴィオラを抱えたままで跳べる高さではない。その身体能力に驚いて見上げると、パトリックの肩についた手を軸にして、ラギウスがひらりと一回転した。

「……くっ!」

 振り返れば、ラギウスはもう海賊の波を掻き分けて入口へと走り出している。

「待て! 彼女を離せ!」
「それは無理。だってコイツ、もう俺のモンだしな」

 去っていく後ろ姿に炎を投げつけても、そのすべてをことごとく躱される。けれども入口は炎の壁で塞がれているのだ。ここから逃げられる者などいない。
 そうわずかに気の緩んだパトリックの目の前で、入口の炎壁が溶けるように消失した。

「なっ……!」

 炎壁の消えた入口を易々と通り抜け、最後にラギウスが肩越しに振り返る。その顔には憎らしいほど清々しい笑みが浮かんでいて。

「じゃぁな、リッキー。また遊ぼうぜ」

 そう言って軽く手を振ると、ラギウスはメルヴィオラを担いだままティダールの街へと走り去っていった。


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