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第1章 攫われた聖女
1-3・狼に好かれても嬉しくない
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潮風の匂いがする。
弾ける波飛沫の音をかき消して、ドタドタと騒がしい足音がメルヴィオラの意識を覚醒させた。
ゆっくりを瞼を開くと、最初に目に映ったのはぼろぼろの天幕とその向こうに広がる青空だ。あちこち穴の開いた天幕は日よけの意味を成さず、案の定メルヴィオラの目を容赦なく突き刺してくる。寝起きに見るには強烈な日差しだ。思わず体を捩って光から逃げると、今度はその視界に突然ぬぅっと強面の男が現れた。
「あらン、起きた?」
厳つい顔からは想像もできないほど甘ったるい声が響く。空耳かと思ったが、周りにはこの筋肉ムキムキの大男しかいない。目の前の現実をよく理解できないでいると、男は欠けた木の器に水を注いでメルヴィオラに手渡してくれた。それもやけに丁寧に、両手で。
「まったくもぅ、女の子を崖から落とすなんて信じらんない。でもアナタに怪我がなくてよかったわ」
「え、えぇと……」
「そうよね。混乱してるわよね。ごめんなさい」
両手の指先を綺麗に合わせてシュンと肩を落とすその様子は、どこから見ても乙女チックなポーズだ。それを角刈りのムキムキ男がしているのだから、メルヴィオラの思考は混乱するばかりだ。何も言えずに俯くと、それを不安と受け取った男が、急にメルヴィオラの体をぎゅうっと抱きしめた。
「わかる。わかるわぁ! 急にこんな所に連れて来られて不安よね。周りはむさ苦しい男ばっかりだし、どうしていいかわからないわよね。でも安心して! 同じ女だもの。アタシがアナタを守ってあげるわ」
そう言って抱きしめる力が、既に女のそれじゃない。絞め殺されると言ってもいいほどの圧力に、メルヴィオラの意識が本気で吹き飛びそうになった。
「おいコラ、イーゴン! テメェ、何やってやがる!」
別の男の――聞き覚えのある声がしたかと思うと、「ごふぅ!」という呻き声と共に、メルヴィオラを抱きしめていた凶悪な力が消えた。軽く咳き込んで目を開くと、メルヴィオラの前にあの黒銀色の狼が立ちはだかっている。
「テメェが怪力なのを忘れてんじゃねぇぞ。コイツは俺のもんだ。勝手に触って傷でもつけてみろ。切り刻んだテメェの体を海に放り込んで、ガルブスの餌にしてやる」
「イヤン。怒ったラギウスも素敵。それにおいしいガルブスを釣れるなら、アタシ喜んでアナタの夕食の餌になるわ」
吹き飛ばされて尻餅をついたまま、イーゴンと呼ばれた大男が頬に手を当てて――なぜだかわからないが――照れている。心なしかその目がハートに見えなくもない。
「暑苦しいほどのラギウス愛だね」
ふと気付けば、隣に白い髪の少年が立っていた。メルヴィオラよりも年下のようだが、気怠げな喋り方は年齢不詳というか、まるで神官長みたいに大人びた雰囲気を醸し出している。
いつの間にそばにいたのか不審げに目をやると、少年の不思議な銀色の瞳がやわらかく弧を描いた。
「改めてこんにちは、お姉さん。海賊船エルフィリーザへようこそ」
「その声……あなた、メーファ?」
「そうだよ。よくわかったね」
「人の背中に遠慮なく乗っかってきたんだもの。忘れるわけないわ」
嫌味を交えて言ったつもりなのに、白髪の少年メーファは特に気にした様子もなくやわらかに微笑する。
「それを言うなら、お姉さんもラギウスの背中に乗ったでしょ。もうラギウスの忘れられない女になっちゃったね」
「あれは何かに吹き飛ばされて仕方なくよ!」
「あぁ、それごめん、僕。お姉さんを攫うために、僕がちょっとだけ風を背中にぶつけちゃった」
てへ、と舌を出してあどけなく笑うメーファに、メルヴィオラの眉間が深い皺を刻む。メーファがぶつけたという風の威力は、ちょっとだけといった可愛いものではなかった。下手をすれば、階段を転がり落ちて大怪我をしたかもしれないのだ。それを軽く謝罪するだけに留められれば、沸々とした怒りが込み上げてくるのも仕方がない。
「ちょっとって……あなたねぇ」
「そんなに怒んないでよ。大丈夫だったでしょ」
「それは結果でしょ!」
「そうなるように仕向けたからね。僕がお姉さんを吹き飛ばして、ラギウスが無防備になったお姉さんをかっ攫う。どう? 上手くいったでしょ?」
「上手くいくも何も、結局は人攫いじゃない。もういいから、私を帰して!」
逃げるようにして立ち上がると、まるで見計らったかのように船が大きく揺れ動いた。波に乗り上げたのか跳ねるように上下した衝撃に、踏ん張りの利かないヒールが木の甲板に滑ってしまい、メルヴィオラの体がふわっと宙に浮く。
「きゃっ!」
また転ぶのかと強張らせた体が、既視感のあるやわらかな黒銀色に受け止められた。本日二回目の、狼の背乗りだ。
「っとに、落ち着きのねぇ聖女サマだな」
「……狼っ!」
「狼じゃねぇ、ラギウスだ」
「どっちでもいいわよ。この人攫い!」
「威勢のいい女は嫌いじゃねぇが、ナニをするにしても、まずはこの呪いを解いてもらうのが先だ」
そう言って、狼はメルヴィオラを背中に乗せたまま軽やかに船を駆け上がっていく。人ひとり乗せているとは思えないほどの俊敏さと脚力だ。普通の狼よりも体は大きいが、それにしてもラギウスと名乗る黒銀色の狼は普通と比べて異様に身体能力が高いように思えた。
「ちょっと……降ろして!」
「そう噛み付くなよ。少し話をするだけだ。二人っきりでな」
向かう先に見えた扉に、メルヴィオラの背筋がさぁっと凍る。大きな狼と密室に閉じ込められるなんて、身の危険しか感じない。男しかいない甲板も嫌だが、外の方がまだ逃げ道はあるような気がする。最悪、海に飛び込んで……。
「言っとくが、海に落ちて逃げようって思ってるんならやめときな」
「……っ!」
「ここはもうイスラ・レウスからは随分と離れてるし、追いかけてきた海軍も撒いたからな。逃げ道なんてどこにもねぇから、今はおとなしく俺の言うことを聞いてた方が利口だぜ、聖女サマ」
そうこうしているうちに狼は器用に扉を開けて、メルヴィオラは部屋の中へと連れ込まれてしまった。どうやらここは船長室、なのだろう。置かれている家具はそれなりに上等そうに見える。机に本棚、板張りの床には赤い絨毯が敷かれていて、窓際にはベッドが備え付けられている。そのベッドのシーツの乱れ具合を目にした途端、メルヴィオラは慌てて顔をぷいっと横に逸らした。
「そんなに緊張しなくても、別に取って食いやしねぇよ」
やっと背中から下ろされ自由になったと思ったが、扉の前は狼が陣取っていて逃げ出すのは難しそうだ。せめて武器になりそうなものをと部屋を見回せば、床の上に幾つかの空き瓶が転がっているのが見えた。
「近寄ったら殴るわよ」
空き瓶のひとつを手に取って構えると、強い酒の匂いがメルヴィオラの鼻を突く。ちょっとだけ飲み残された酒がこぼれてきたが、今はこれが唯一の武器だ。汚いからといって放り投げるわけにはいかない。
「見かけによらず、ほんっと勝ち気だな、お前。イイ女だ」
「狼に好かれても嬉しくない」
「つれねぇな」
狼のくせに、にやりと笑う。ひどく人間くさい表情に気を取られていると、その間に距離を詰めた狼があっという間にメルヴィオラを押し倒してのし掛かった。
「それに俺は狼じゃない。ラギウスって言っただろ?」
殴ろうとした空き瓶を、鼻先で易々と払いのけられる。頬に垂れ落ちた酒の一滴をべろりと舐められて、メルヴィオラの肩がびくんと震えた。
「この姿は呪いだ。お前にはこの魔狼の呪いを解いてもらいたい」
ラギウスと名乗った黒銀色の狼はそう言って、敵意のないマリンブルーの瞳をまっすぐにメルヴィオラへと向けてきた。
弾ける波飛沫の音をかき消して、ドタドタと騒がしい足音がメルヴィオラの意識を覚醒させた。
ゆっくりを瞼を開くと、最初に目に映ったのはぼろぼろの天幕とその向こうに広がる青空だ。あちこち穴の開いた天幕は日よけの意味を成さず、案の定メルヴィオラの目を容赦なく突き刺してくる。寝起きに見るには強烈な日差しだ。思わず体を捩って光から逃げると、今度はその視界に突然ぬぅっと強面の男が現れた。
「あらン、起きた?」
厳つい顔からは想像もできないほど甘ったるい声が響く。空耳かと思ったが、周りにはこの筋肉ムキムキの大男しかいない。目の前の現実をよく理解できないでいると、男は欠けた木の器に水を注いでメルヴィオラに手渡してくれた。それもやけに丁寧に、両手で。
「まったくもぅ、女の子を崖から落とすなんて信じらんない。でもアナタに怪我がなくてよかったわ」
「え、えぇと……」
「そうよね。混乱してるわよね。ごめんなさい」
両手の指先を綺麗に合わせてシュンと肩を落とすその様子は、どこから見ても乙女チックなポーズだ。それを角刈りのムキムキ男がしているのだから、メルヴィオラの思考は混乱するばかりだ。何も言えずに俯くと、それを不安と受け取った男が、急にメルヴィオラの体をぎゅうっと抱きしめた。
「わかる。わかるわぁ! 急にこんな所に連れて来られて不安よね。周りはむさ苦しい男ばっかりだし、どうしていいかわからないわよね。でも安心して! 同じ女だもの。アタシがアナタを守ってあげるわ」
そう言って抱きしめる力が、既に女のそれじゃない。絞め殺されると言ってもいいほどの圧力に、メルヴィオラの意識が本気で吹き飛びそうになった。
「おいコラ、イーゴン! テメェ、何やってやがる!」
別の男の――聞き覚えのある声がしたかと思うと、「ごふぅ!」という呻き声と共に、メルヴィオラを抱きしめていた凶悪な力が消えた。軽く咳き込んで目を開くと、メルヴィオラの前にあの黒銀色の狼が立ちはだかっている。
「テメェが怪力なのを忘れてんじゃねぇぞ。コイツは俺のもんだ。勝手に触って傷でもつけてみろ。切り刻んだテメェの体を海に放り込んで、ガルブスの餌にしてやる」
「イヤン。怒ったラギウスも素敵。それにおいしいガルブスを釣れるなら、アタシ喜んでアナタの夕食の餌になるわ」
吹き飛ばされて尻餅をついたまま、イーゴンと呼ばれた大男が頬に手を当てて――なぜだかわからないが――照れている。心なしかその目がハートに見えなくもない。
「暑苦しいほどのラギウス愛だね」
ふと気付けば、隣に白い髪の少年が立っていた。メルヴィオラよりも年下のようだが、気怠げな喋り方は年齢不詳というか、まるで神官長みたいに大人びた雰囲気を醸し出している。
いつの間にそばにいたのか不審げに目をやると、少年の不思議な銀色の瞳がやわらかく弧を描いた。
「改めてこんにちは、お姉さん。海賊船エルフィリーザへようこそ」
「その声……あなた、メーファ?」
「そうだよ。よくわかったね」
「人の背中に遠慮なく乗っかってきたんだもの。忘れるわけないわ」
嫌味を交えて言ったつもりなのに、白髪の少年メーファは特に気にした様子もなくやわらかに微笑する。
「それを言うなら、お姉さんもラギウスの背中に乗ったでしょ。もうラギウスの忘れられない女になっちゃったね」
「あれは何かに吹き飛ばされて仕方なくよ!」
「あぁ、それごめん、僕。お姉さんを攫うために、僕がちょっとだけ風を背中にぶつけちゃった」
てへ、と舌を出してあどけなく笑うメーファに、メルヴィオラの眉間が深い皺を刻む。メーファがぶつけたという風の威力は、ちょっとだけといった可愛いものではなかった。下手をすれば、階段を転がり落ちて大怪我をしたかもしれないのだ。それを軽く謝罪するだけに留められれば、沸々とした怒りが込み上げてくるのも仕方がない。
「ちょっとって……あなたねぇ」
「そんなに怒んないでよ。大丈夫だったでしょ」
「それは結果でしょ!」
「そうなるように仕向けたからね。僕がお姉さんを吹き飛ばして、ラギウスが無防備になったお姉さんをかっ攫う。どう? 上手くいったでしょ?」
「上手くいくも何も、結局は人攫いじゃない。もういいから、私を帰して!」
逃げるようにして立ち上がると、まるで見計らったかのように船が大きく揺れ動いた。波に乗り上げたのか跳ねるように上下した衝撃に、踏ん張りの利かないヒールが木の甲板に滑ってしまい、メルヴィオラの体がふわっと宙に浮く。
「きゃっ!」
また転ぶのかと強張らせた体が、既視感のあるやわらかな黒銀色に受け止められた。本日二回目の、狼の背乗りだ。
「っとに、落ち着きのねぇ聖女サマだな」
「……狼っ!」
「狼じゃねぇ、ラギウスだ」
「どっちでもいいわよ。この人攫い!」
「威勢のいい女は嫌いじゃねぇが、ナニをするにしても、まずはこの呪いを解いてもらうのが先だ」
そう言って、狼はメルヴィオラを背中に乗せたまま軽やかに船を駆け上がっていく。人ひとり乗せているとは思えないほどの俊敏さと脚力だ。普通の狼よりも体は大きいが、それにしてもラギウスと名乗る黒銀色の狼は普通と比べて異様に身体能力が高いように思えた。
「ちょっと……降ろして!」
「そう噛み付くなよ。少し話をするだけだ。二人っきりでな」
向かう先に見えた扉に、メルヴィオラの背筋がさぁっと凍る。大きな狼と密室に閉じ込められるなんて、身の危険しか感じない。男しかいない甲板も嫌だが、外の方がまだ逃げ道はあるような気がする。最悪、海に飛び込んで……。
「言っとくが、海に落ちて逃げようって思ってるんならやめときな」
「……っ!」
「ここはもうイスラ・レウスからは随分と離れてるし、追いかけてきた海軍も撒いたからな。逃げ道なんてどこにもねぇから、今はおとなしく俺の言うことを聞いてた方が利口だぜ、聖女サマ」
そうこうしているうちに狼は器用に扉を開けて、メルヴィオラは部屋の中へと連れ込まれてしまった。どうやらここは船長室、なのだろう。置かれている家具はそれなりに上等そうに見える。机に本棚、板張りの床には赤い絨毯が敷かれていて、窓際にはベッドが備え付けられている。そのベッドのシーツの乱れ具合を目にした途端、メルヴィオラは慌てて顔をぷいっと横に逸らした。
「そんなに緊張しなくても、別に取って食いやしねぇよ」
やっと背中から下ろされ自由になったと思ったが、扉の前は狼が陣取っていて逃げ出すのは難しそうだ。せめて武器になりそうなものをと部屋を見回せば、床の上に幾つかの空き瓶が転がっているのが見えた。
「近寄ったら殴るわよ」
空き瓶のひとつを手に取って構えると、強い酒の匂いがメルヴィオラの鼻を突く。ちょっとだけ飲み残された酒がこぼれてきたが、今はこれが唯一の武器だ。汚いからといって放り投げるわけにはいかない。
「見かけによらず、ほんっと勝ち気だな、お前。イイ女だ」
「狼に好かれても嬉しくない」
「つれねぇな」
狼のくせに、にやりと笑う。ひどく人間くさい表情に気を取られていると、その間に距離を詰めた狼があっという間にメルヴィオラを押し倒してのし掛かった。
「それに俺は狼じゃない。ラギウスって言っただろ?」
殴ろうとした空き瓶を、鼻先で易々と払いのけられる。頬に垂れ落ちた酒の一滴をべろりと舐められて、メルヴィオラの肩がびくんと震えた。
「この姿は呪いだ。お前にはこの魔狼の呪いを解いてもらいたい」
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