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11・記憶の断片
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蘇芳の発した名前に、薄紅の胸がどくんと鳴った。
「……し……おん?」
繰り返して名を紡げば、呼応して薄紅の鼓動が早鐘を増す。体中を巡る血液がせき立てるように強く脈打ち、鈍く疼き出した頭痛が思い出せと薄紅の記憶に手を伸ばした。
「……紫苑、さま?」
薄紅の儚い声音に乗せられた名を受け取って、目の前の鬼がひどく優しい笑みを浮かべた。
『薄紅。君を私の妻に迎えたい』
『紫苑様。……はい』
山藤の下で告げられた求婚の申し出。覚えのない光景はけれど記憶からしっかりとよみがえり、恥じらう薄紅の体を優しく抱きしめたのは白髪を黒に変えた青年――紫苑の姿だった。
藤の下で逢瀬を重ねる二人が自分であったと認識すると同時に、見たこともない記憶の断片が薄紅の中に急流のように押し寄せた。激しい記憶の波は戸惑う薄紅の意識さえ弾き飛ばし、目の前の鬼も記憶の紫苑も巻き込んで全てを闇に包んでいく。
遠くで常磐が名を呼んでいるのを聞いた気がした時にはもう、薄紅の意識は記憶の波に攫われて遠くへと流されていった後だった。
***
「お嬢様どちらに行かれるんですか?」
屋敷の裏口から人目を憚るように出て行こうとしていた薄紅が、背後からかけられた常磐の声にぎくりと肩を震わせた。
涼しげな薄水色の着物を着た薄紅が振り返ると、白い肌に引いた紅に目を奪われた。元より色白の薄紅は白粉を塗るほどでもなく、紅を差すだけでも十分に化粧映えする。加えて結わえた髪に挿した藤の簪が薄紅の行き先を無言で示しており、聡い常磐はそれ以上追求することを止めて溜息をひとつ零した。
「夕刻には蘇芳様もお戻りになられますから、それまでには必ずお戻り下さいね?」
「ありがとう、常磐。約束するわ」
急ぎ足で裏口から出ていく後ろ姿を見つめながら、常磐は改めて恋が齎した薄紅の変化に驚いていた。
元来大人しい性格の薄紅は、争いとは無縁の穏やかな時間を過ごしてきた。唐棣家の一人娘と言う事もあり大事に育てられ、蘇芳の言う事には何一つ逆らわない。
そんな薄紅を変えたのは、たったひとつの「恋」だった。
「紫苑様!」
駆け寄る薄紅を愛しげに抱きしめる青年、紫苑。彼は薄紅の屋敷、唐棣から分家した浅縹家の養子だった。
子宝に恵まれなかった浅縹の当主が引き取った孤児ではあったが、成人する頃には容姿も振る舞いも本家の者と比べて遜色がないほどに立派な青年へと成長していた。
「そんなに慌てなくても私はどこにも行かないよ」
「それはそうですけど……お会いできる時間が限られているんですもの。少しくらい急がせて下さい」
紅を引いた唇を尖らせて頬を膨らませるその様子さえ愛らしく、頭を撫でた手で髪に挿した簪に触れると、紫苑が胸に抱きしめたままの薄紅の額へそっと唇を寄せる。
「簪、付けてくれたんだね」
恥じらい俯く薄紅の顎を細い指先で撫で上げると、わずかに熱の篭もった瞳が重なり合う。
「やはり君には藤が良く似合う」
呼んだはずの名は紫苑本人の唇に攫われ、次第に深くなる口づけに薄紅の意識がくらりと揺らぐ。柔らかい雰囲気を纏う普段の紫苑からは想像も出来ないほどの、熱く艶めかしい口づけ。男の色香を滲ませた吐息が唇の端から零れ落ちるのを聞いて、薄紅の体が奥深いところでぞくりと震えた。
「愛しい薄紅。私だけの……」
絡めた指。肌を這う熱い舌先。のし掛かる体の重みさえ愛おしく、今この瞬間に互いの家柄や未婚の貞操などは邪魔でしかない。
いつかは紫苑のもとへ嫁ぐことを夢見て、薄紅は抗えない情欲の波に溺れていった。
「……し……おん?」
繰り返して名を紡げば、呼応して薄紅の鼓動が早鐘を増す。体中を巡る血液がせき立てるように強く脈打ち、鈍く疼き出した頭痛が思い出せと薄紅の記憶に手を伸ばした。
「……紫苑、さま?」
薄紅の儚い声音に乗せられた名を受け取って、目の前の鬼がひどく優しい笑みを浮かべた。
『薄紅。君を私の妻に迎えたい』
『紫苑様。……はい』
山藤の下で告げられた求婚の申し出。覚えのない光景はけれど記憶からしっかりとよみがえり、恥じらう薄紅の体を優しく抱きしめたのは白髪を黒に変えた青年――紫苑の姿だった。
藤の下で逢瀬を重ねる二人が自分であったと認識すると同時に、見たこともない記憶の断片が薄紅の中に急流のように押し寄せた。激しい記憶の波は戸惑う薄紅の意識さえ弾き飛ばし、目の前の鬼も記憶の紫苑も巻き込んで全てを闇に包んでいく。
遠くで常磐が名を呼んでいるのを聞いた気がした時にはもう、薄紅の意識は記憶の波に攫われて遠くへと流されていった後だった。
***
「お嬢様どちらに行かれるんですか?」
屋敷の裏口から人目を憚るように出て行こうとしていた薄紅が、背後からかけられた常磐の声にぎくりと肩を震わせた。
涼しげな薄水色の着物を着た薄紅が振り返ると、白い肌に引いた紅に目を奪われた。元より色白の薄紅は白粉を塗るほどでもなく、紅を差すだけでも十分に化粧映えする。加えて結わえた髪に挿した藤の簪が薄紅の行き先を無言で示しており、聡い常磐はそれ以上追求することを止めて溜息をひとつ零した。
「夕刻には蘇芳様もお戻りになられますから、それまでには必ずお戻り下さいね?」
「ありがとう、常磐。約束するわ」
急ぎ足で裏口から出ていく後ろ姿を見つめながら、常磐は改めて恋が齎した薄紅の変化に驚いていた。
元来大人しい性格の薄紅は、争いとは無縁の穏やかな時間を過ごしてきた。唐棣家の一人娘と言う事もあり大事に育てられ、蘇芳の言う事には何一つ逆らわない。
そんな薄紅を変えたのは、たったひとつの「恋」だった。
「紫苑様!」
駆け寄る薄紅を愛しげに抱きしめる青年、紫苑。彼は薄紅の屋敷、唐棣から分家した浅縹家の養子だった。
子宝に恵まれなかった浅縹の当主が引き取った孤児ではあったが、成人する頃には容姿も振る舞いも本家の者と比べて遜色がないほどに立派な青年へと成長していた。
「そんなに慌てなくても私はどこにも行かないよ」
「それはそうですけど……お会いできる時間が限られているんですもの。少しくらい急がせて下さい」
紅を引いた唇を尖らせて頬を膨らませるその様子さえ愛らしく、頭を撫でた手で髪に挿した簪に触れると、紫苑が胸に抱きしめたままの薄紅の額へそっと唇を寄せる。
「簪、付けてくれたんだね」
恥じらい俯く薄紅の顎を細い指先で撫で上げると、わずかに熱の篭もった瞳が重なり合う。
「やはり君には藤が良く似合う」
呼んだはずの名は紫苑本人の唇に攫われ、次第に深くなる口づけに薄紅の意識がくらりと揺らぐ。柔らかい雰囲気を纏う普段の紫苑からは想像も出来ないほどの、熱く艶めかしい口づけ。男の色香を滲ませた吐息が唇の端から零れ落ちるのを聞いて、薄紅の体が奥深いところでぞくりと震えた。
「愛しい薄紅。私だけの……」
絡めた指。肌を這う熱い舌先。のし掛かる体の重みさえ愛おしく、今この瞬間に互いの家柄や未婚の貞操などは邪魔でしかない。
いつかは紫苑のもとへ嫁ぐことを夢見て、薄紅は抗えない情欲の波に溺れていった。
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