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9・花散らしの娘(*)
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ざあざあと打ち付ける激しい雨音は、一人残された不安をより一層助長させる。
石でも降っているのではないかと思うほど屋根を叩く雨音は強く、視界は靄のように煙って遠くまで見通せない。轟音に近い雨音が一切の音を飲み込んでしまい、世界にたった一人取り残された錯覚に陥ってしまう。
心細さを紛らわせようと受け取った手拭いで髪を拭いた瞬間に、ふっと甘い藤の香りが鼻腔をくすぐった。
『代わりにこれを持って行くといい』
よみがえる昨夜の記憶が、薄紅から不安を一瞬にして取り除いた。鬼の細い指先、儚げな微笑、額に触れた冷たい唇の感触。思い出される鬼のすべてが、薄紅の胸を不安とは違う優しい熱で満たしていく。
『やはりお前には藤が良く似合う』
緩く纏めた髪に挿した藤の花。鬼を思い、鬼に触れるように、そっと自身の頭の後ろへ伸ばした薄紅の手が――湿った無骨な男の手に掴まれていた。
***
じっとりと湿った黴臭い畳の上に投げ出されても、薄紅は自分に何が起こったのか理解できないでいた。薄暗い視界に慣れた瞳が映すのは、腐った床板と破れた襖。荒れ果てた家屋の一部屋に引きずり込まれたことを思い出すと同時に、その原因である骨張った手が再び薄紅の肩を上から強く押さえ込んだ。
下卑た笑みを隠そうともしない男が、押し倒した薄紅を舐めるように見下ろしている。その口元が卑しく弧を描くのを目の当たりにして、薄紅の背筋が恐怖に凍った。
「急に土砂降りとは、嬢ちゃんもついてねぇな」
獲物を捕らえた獣のようにぎらついた瞳が、薄紅のはだけた着物の裾を見て下劣な色欲の熱に揺れる。慌てて着物を直す仕草さえ欲を煽るのか、薄暗い室内に荒い息遣いが不快に響いた。
思いがけず懐に飛び込んできた上等な獲物。怯えて震える様ですら、男の仄暗い欲望に火を付ける。
「一人で退屈してたところだったんだ。しばらく止みそうにもないし、二人仲良く雨宿りしようじゃないか」
「……やめ……」
恐怖で声すら出せない代わりに、見開いた瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れ出した。
「とき、わ……常磐。常磐っ」
「侍女がいるんだったな。戻る前に終わらせようぜ」
恐ろしい言葉を吐いたかと思うと、薄紅の肩を押さえつけていた手を滑らせて着物の襟元を乱暴にはだけさせた。叫ぶ間もなくあらわになった首元に吸い付かれ、薄紅が喉を引き攣らせて硬直した。
「……やっ……いやっ!!」
出しうる限りの声を上げ、無我夢中で振り上げた手が男の頬を儚い力で引っ掻いた。予想外の抵抗に一瞬生じた隙をついて逃げ出そうとする薄紅を、苛立った男の手が再び畳に強く押しつける。
「やめてっ。放して! ……いやっ」
「大人しくしろ! 男を知らぬ訳でもあるまいし、今更貞操を守ってどうする」
「な、にを……っ」
「唐棣の娘は既に穢れていると、郷では有名な話だ」
そんなはずはないと反論しようとして、喉が詰まった。強引に捲り上げられた着物の裾から割って入った手が、薄紅の膝裏を撫で上げたのだ。その瞬間に肌がぞくりと粟立ち、喉の奥で引き攣った悲鳴が呼吸さえ止めてしまう。
再び耳朶に近付いた荒々しい息から身を捩るように首を捻れば、乱れた髪の間から押し潰された藤の花が零れ落ちた。
涙に歪む視界、潰れた藤の花に自身の姿を重ねて見た薄紅が、喘ぐように唇を震わせた。
「……」
けれど、薄紅は鬼の名を知らない。助けを乞い、名を叫びたくても、薄紅の唇から漏れるのは絶望に満ちた嗚咽だけだ。
零れる涙。悲鳴さえかき消してしまう激しい雨音。のし掛かる男の蒸れた汗の臭いに重なって、怒りに燃えた濃い藤の香がした。
石でも降っているのではないかと思うほど屋根を叩く雨音は強く、視界は靄のように煙って遠くまで見通せない。轟音に近い雨音が一切の音を飲み込んでしまい、世界にたった一人取り残された錯覚に陥ってしまう。
心細さを紛らわせようと受け取った手拭いで髪を拭いた瞬間に、ふっと甘い藤の香りが鼻腔をくすぐった。
『代わりにこれを持って行くといい』
よみがえる昨夜の記憶が、薄紅から不安を一瞬にして取り除いた。鬼の細い指先、儚げな微笑、額に触れた冷たい唇の感触。思い出される鬼のすべてが、薄紅の胸を不安とは違う優しい熱で満たしていく。
『やはりお前には藤が良く似合う』
緩く纏めた髪に挿した藤の花。鬼を思い、鬼に触れるように、そっと自身の頭の後ろへ伸ばした薄紅の手が――湿った無骨な男の手に掴まれていた。
***
じっとりと湿った黴臭い畳の上に投げ出されても、薄紅は自分に何が起こったのか理解できないでいた。薄暗い視界に慣れた瞳が映すのは、腐った床板と破れた襖。荒れ果てた家屋の一部屋に引きずり込まれたことを思い出すと同時に、その原因である骨張った手が再び薄紅の肩を上から強く押さえ込んだ。
下卑た笑みを隠そうともしない男が、押し倒した薄紅を舐めるように見下ろしている。その口元が卑しく弧を描くのを目の当たりにして、薄紅の背筋が恐怖に凍った。
「急に土砂降りとは、嬢ちゃんもついてねぇな」
獲物を捕らえた獣のようにぎらついた瞳が、薄紅のはだけた着物の裾を見て下劣な色欲の熱に揺れる。慌てて着物を直す仕草さえ欲を煽るのか、薄暗い室内に荒い息遣いが不快に響いた。
思いがけず懐に飛び込んできた上等な獲物。怯えて震える様ですら、男の仄暗い欲望に火を付ける。
「一人で退屈してたところだったんだ。しばらく止みそうにもないし、二人仲良く雨宿りしようじゃないか」
「……やめ……」
恐怖で声すら出せない代わりに、見開いた瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れ出した。
「とき、わ……常磐。常磐っ」
「侍女がいるんだったな。戻る前に終わらせようぜ」
恐ろしい言葉を吐いたかと思うと、薄紅の肩を押さえつけていた手を滑らせて着物の襟元を乱暴にはだけさせた。叫ぶ間もなくあらわになった首元に吸い付かれ、薄紅が喉を引き攣らせて硬直した。
「……やっ……いやっ!!」
出しうる限りの声を上げ、無我夢中で振り上げた手が男の頬を儚い力で引っ掻いた。予想外の抵抗に一瞬生じた隙をついて逃げ出そうとする薄紅を、苛立った男の手が再び畳に強く押しつける。
「やめてっ。放して! ……いやっ」
「大人しくしろ! 男を知らぬ訳でもあるまいし、今更貞操を守ってどうする」
「な、にを……っ」
「唐棣の娘は既に穢れていると、郷では有名な話だ」
そんなはずはないと反論しようとして、喉が詰まった。強引に捲り上げられた着物の裾から割って入った手が、薄紅の膝裏を撫で上げたのだ。その瞬間に肌がぞくりと粟立ち、喉の奥で引き攣った悲鳴が呼吸さえ止めてしまう。
再び耳朶に近付いた荒々しい息から身を捩るように首を捻れば、乱れた髪の間から押し潰された藤の花が零れ落ちた。
涙に歪む視界、潰れた藤の花に自身の姿を重ねて見た薄紅が、喘ぐように唇を震わせた。
「……」
けれど、薄紅は鬼の名を知らない。助けを乞い、名を叫びたくても、薄紅の唇から漏れるのは絶望に満ちた嗚咽だけだ。
零れる涙。悲鳴さえかき消してしまう激しい雨音。のし掛かる男の蒸れた汗の臭いに重なって、怒りに燃えた濃い藤の香がした。
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