上 下
7 / 17

7・恋慕

しおりを挟む
 青磁せいじとの縁談話が持ち上がってから数日、薄紅うすべにの表情は目に見えて明るくなった。蘇芳すおう常磐ときわは縁談によって薄紅うすべにの気持ちが前向きになったと喜んでいたが、薄紅うすべにの真意は別のところにあった。

 縁談話のあった夜、藤棚の下に現れる鬼が薄紅うすべにの名を呼んだ。
 今までずっと一方通行だった言葉がようやく会話になり、鬼と言葉を交わせる喜びに薄紅うすべにの心は弾んでいた。

 今までも夜を何気に待っていた。けれど今は鬼と会える夜を心待ちにしている。
 澄んだ水面を思わせる涼やかな声音が鼓膜を震わせる度に、薄紅うすべにの胸にも淡い思いの花が咲く。満開にも近いその花を何と呼ぶのか、薄紅うすべににはもう分かっていた。

 ――これは、恋だ。

 鬼に名を呼ばれたあの瞬間から、まるで時間を巻き戻すかのように愛しい感情が薄紅うすべにの中をめまぐるしく駆け巡った。
 人とあやかし。決して結ばれることのない思いだと分かっていても、目覚めてしまった感情は必然だったと薄紅うすべには確信していた。


***


「明日、出かけてきますね」

 見上げた夜空にさっきまで輝いていた月は、分厚い雲の向こうに攫われてしまった。月光を失っても、鬼の白髪はくはつと藤の紫は夜の闇によく映える。

東雲しののめ先生のところへ、薬を貰いに行ってきます。青磁せいじさんにも縁談をお断りしなくては……」

 薄紅うすべには芽生えた淡い恋心を鬼に告げたことはない。多くを語らない鬼も、薄紅うすべにをどう思っているのかは口にしたことがなかった。
 言葉にせずとも見つめ合う視線に、絡めた指先に、言葉よりも雄弁に愛を語る熱が篭められている。
 縁談を断りに行く薄紅うすべにを引き止めるわけでもなく、かといって安堵の吐息を漏らすわけでもない。重ね合わせた手。薄紅うすべにの指の形をなぞるように滑る指先に鬼の気持ちが表れているようで、胸の奥がじんわりと温かくなった。

「私はここを離れられない」

「え?」

 あまりに唐突に告げられて薄紅うすべにが顔を上げると、視線の先で鬼が藤の花房をひとつ手折るのが見えた。

「代わりにこれを持って行くといい」

 手折った藤を薄紅うすべにの髪に挿して、鬼が消え入りそうなほどかすかに笑った。

「やはりお前には藤が良く似合う」

 いつか見た夢と同じように藤を髪に挿し、手のひらで頬を包み込まれる。あの夢で見た男女が自分たちであったかのような錯覚さえ感じ、大きく見開かれた薄紅うすべにの瞳に距離を縮めてくる美しい鬼の顔が映り込んだ。


『愛しい薄紅うすべに。私と共に逃げてくれるか?』


 記憶の底から木霊した男の声が誰なのかを考えるよりも先に額に冷たい唇が触れ、薄紅うすべにの思考が強制的に遮断される。
 誰のものかも分からない声音に心を砕くより、今は目の前の愛しい鬼から与えられる口付けに全てを委ねていたかった。唇でなかったことにほんの少しの寂しさと羞恥を覚えつつ、それでも肌に感じる鬼の吐息に薄紅うすべにの体がぞくりと震える。

 熱を持たない鬼の冷たい唇。額に触れた柔らかなその感触を知っているような気がして、体の奥がしっとりとした女の熱を孕んでいく。
 少女ではなく、女として灯る熱。未婚の薄紅うすべにが知るはずのない情欲の熱。

 経験したことのない甘やかな熱を記憶しているのは薄紅うすべにの体の方だった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

【完結】伯爵の愛は狂い咲く

白雨 音
恋愛
十八歳になったアリシアは、兄の友人男爵子息のエリックに告白され、婚約した。 実家の商家を手伝い、友人にも恵まれ、アリシアの人生は充実し、順風満帆だった。 だが、町のカーニバルの夜、それを脅かす出来事が起こった。 仮面の男が「見つけた、エリーズ!」と、アリシアに熱く口付けたのだ! そこから、アリシアの運命の歯車は狂い始めていく。 両親からエリックとの婚約を解消し、年の離れた伯爵に嫁ぐ様に勧められてしまう。 「結婚は愛した人とします!」と抗うアリシアだが、運命は彼女を嘲笑い、 その渦に巻き込んでいくのだった… アリシアを恋人の生まれ変わりと信じる伯爵の執愛。 異世界恋愛、短編:本編(アリシア視点)前日譚(ユーグ視点) 《完結しました》

子ども扱いしないでください! 幼女化しちゃった完璧淑女は、騎士団長に甘やかされる

佐崎咲
恋愛
旧題:完璧すぎる君は一人でも生きていけると婚約破棄されたけど、騎士団長が即日プロポーズに来た上に甘やかしてきます 「君は完璧だ。一人でも生きていける。でも、彼女には私が必要なんだ」 なんだか聞いたことのある台詞だけれど、まさか現実で、しかも貴族社会に生きる人間からそれを聞くことになるとは思ってもいなかった。 彼の言う通り、私ロゼ=リンゼンハイムは『完璧な淑女』などと称されているけれど、それは努力のたまものであって、本質ではない。 私は幼い時に我儘な姉に追い出され、開き直って自然溢れる領地でそれはもうのびのびと、野を駆け山を駆け回っていたのだから。 それが、今度は跡継ぎ教育に嫌気がさした姉が自称病弱設定を作り出し、代わりに私がこの家を継ぐことになったから、王都に移って血反吐を吐くような努力を重ねたのだ。 そして今度は腐れ縁ともいうべき幼馴染みの友人に婚約者を横取りされたわけだけれど、それはまあ別にどうぞ差し上げますよというところなのだが。 ただ。 婚約破棄を告げられたばかりの私をその日訪ねた人が、もう一人いた。 切れ長の紺色の瞳に、長い金髪を一つに束ね、男女問わず目をひく美しい彼は、『微笑みの貴公子』と呼ばれる第二騎士団長のユアン=クラディス様。 彼はいつもとは違う、改まった口調で言った。 「どうか、私と結婚してください」 「お返事は急ぎません。先程リンゼンハイム伯爵には手紙を出させていただきました。許可が得られましたらまた改めさせていただきますが、まずはロゼ嬢に私の気持ちを知っておいていただきたかったのです」 私の戸惑いたるや、婚約破棄を告げられた時の比ではなかった。 彼のことはよく知っている。 彼もまた、私のことをよく知っている。 でも彼は『それ』が私だとは知らない。 まったくの別人に見えているはずなのだから。 なのに、何故私にプロポーズを? しかもやたらと甘やかそうとしてくるんですけど。 どういうこと? ============ 番外編は思いついたら追加していく予定です。 <レジーナ公式サイト番外編> 「番外編 相変わらずな日常」 レジーナ公式サイトにてアンケートに答えていただくと、書き下ろしweb番外編をお読みいただけます。 いつも攻め込まれてばかりのロゼが居眠り中のユアンを見つけ、この機会に……という話です。   ※転載・複写はお断りいたします。

貴妃エレーナ

無味無臭(不定期更新)
恋愛
「君は、私のことを恨んでいるか?」 後宮で暮らして数十年の月日が流れたある日のこと。国王ローレンスから突然そう聞かれた貴妃エレーナは戸惑ったように答えた。 「急に、どうされたのですか?」 「…分かるだろう、はぐらかさないでくれ。」 「恨んでなどいませんよ。あれは遠い昔のことですから。」 そう言われて、私は今まで蓋をしていた記憶を辿った。 どうやら彼は、若かりし頃に私とあの人の仲を引き裂いてしまったことを今も悔やんでいるらしい。 けれど、もう安心してほしい。 私は既に、今世ではあの人と縁がなかったんだと諦めている。 だから… 「陛下…!大変です、内乱が…」 え…? ーーーーーーーーーーーーー ここは、どこ? さっきまで内乱が… 「エレーナ?」 陛下…? でも若いわ。 バッと自分の顔を触る。 するとそこにはハリもあってモチモチとした、まるで若い頃の私の肌があった。 懐かしい空間と若い肌…まさか私、昔の時代に戻ったの?!

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

~巻き込まれ少女は妖怪と暮らす~【天命のまにまに。】

東雲ゆゆいち
ライト文芸
選ばれた七名の一人であるヒロインは、異空間にある偽物の神社で妖怪退治をする事になった。 パートナーとなった狛狐と共に、封印を守る為に戦闘を繰り広げ、敵を仲間にしてゆく。 非日常系日常ラブコメディー。 ※両想いまでの道のり長めですがハッピーエンドで終わりますのでご安心ください。 ※割りとダークなシリアス要素有り! ※ちょっぴり性的な描写がありますのでご注意ください。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

処理中です...