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第7章 仲間という絆
見えない不安
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音もなく降り続く雪が、漆黒の闇に僅かな明かりを灯していた。
青白い月光。儚く溶ける淡い粉雪。開かれたままの魔道書には、焔を纏う龍の姿が描かれていた。
『お前は、ここに残るか?』
どこか懐かしくて、なぜか切ない声音は、初めて聞くものではないような気がした。引き寄せられた腕に痛いほど強く抱かれ、驚きと同時に、心地良い温もりに安心した。
『力はいらない。ただ俺の側にいろ』
体を抱く、強い力が消えていく。深淵の闇に溶けて消える粉雪のように、彼の姿が瞳にすら映らないまま掻き消されていく。
何も掴めない手のひら。降り続く雪すら通り過ぎて、落ちていく。
『約束を守れなくてすまない』
頭に強く響いた言葉に、言いようのない焦燥感を覚えて、引き戻しかけた手を再度闇へと伸ばした。掴めないと分かっていても、そうしなくてはならないと思った。
「……――――っ!」
言葉にならない声を上げて、急かされる様に飛び起きた。無意識に伸ばしていた手が、ベッドの横に佇む真紅の男の服をしっかりと掴んでいる。
「……ブラッド」
「心が壊れる」
服を掴んで強張ったままの手を静かに解しながら、ブラッドが無表情のままレフィスを見つめ返した。
「今のお前は脆い。暫く心は閉じておけ」
「でも……」
見えない不安と曖昧な焦燥にすっきりとしない表情を浮かべたレフィスが、何かしら言葉を紡ごうとして唇を動かした。けれど音を発する事はなく、思いは形にならないまま、またレフィスの中に澱んでいく。
「……ブラッドは、あの二人を知ってるの?」
「……」
「無言は肯定と取られるわよ」
返事をしないブラッドの代わりに、イーヴィの声が返って来た。部屋に入り、ベッドに横になったレフィスへ歩を進めながら、その傍らに佇むブラッドを意味ありげに一瞥する。
「見守るのなら、それに徹しなさい。じゃなきゃ、レフィスが混乱するだけだわ」
「お前たちが来なければ事は動かなかった」
「あら、意外。あなた、皮肉も言えるのね」
「あ、あの……」
予想外の展開にどう対処していいか分からず、レフィスが怯えた猫のように身を竦めて遠慮がちに声をかけた。
「ああ、そうそう。遊んでいる場合じゃなかったわ」
そう言ってから、レフィスへ視線を移したかと思うと、イーヴィが優しい手付きでレフィスの頭を撫で下ろした。
「ごめんなさいね、レフィス。やっと会えたのが嬉しくて、ちょっと急ぎすぎたわ。体はもう大丈夫なの?」
「あ……はい。もう大丈夫です。私こそ、急に席を立っちゃってすみません」
「気にしないで頂戴。悪いのはこっちなんだから」
頭を撫でた手を戻して腕を組んだかと思うと、優しい笑みを浮かべたままイーヴィが暫く無言でレフィスをじっと見つめる。その視線に母のような温かさと恋人のような恥じらいを感じて、レフィスが困惑した顔で視線を逸らした。
「今日はもう帰るわ。騎士たちの野営地にいるから、何かあったらいらっしゃい」
「え……」
冒険者の二人が騎士と一緒にいる事にも疑問を感じたが、それよりも見知らぬ二人なのに置いていかれたかのような不安が胸の奥に揺らめいた。けれどその不安は言葉になるにはまだ小さく、レフィスの唇は小さな声だけを零して閉じられた。
「悔しいけど、ブラッドの言うように無理はしない方がいいのかもしれないわね。……納得は出来ないけれど」
それはレフィスに語りかけたのではなく、むしろ自分自身に言い聞かせるかのように低く零れ落ちていった。
雪は緩やかに降り続いていた。曇った空の色合いから、レフィスは今がもう夕方近くだという事を知った。そんなに寝ていたのかと考えていた視線の先で、来た時と同じようにぼろぼろの黒いマントを羽織った二人が対照的な表情を浮かべてレフィスを見つめ返していた。
微笑むイーヴィと、不機嫌なライリ。訊ねて来た時は怒り狂う獣のように荒々しく恐ろしかったが、なぜだか今はこの雰囲気さえ懐かしいと感じてしまう。けれどやっぱりレフィスはその思いを言葉に代える事が出来ず、緩やかな坂を下っていく二人の後姿をただ静かに見送るだけしか出来なかった。
視界に映る雪に消えていく二人の姿が、遠く閉ざされた記憶と重なって胸を少しだけ締め付けた。
坂を下り、少し歩いた所で後ろを振り返る。完全にレフィスの家が視界から消え、イーヴィが重い溜息を吐いた。その溜息に重なるようにして、終始眉間に皺を寄せていたライリが静かに呟く。
「封じられてるね。……狡猾過ぎて、反吐が出る」
誰かに聞かれるのを恐れたのか、声は無意識に潜められる。
「そうしなくてはならない現状がユリシスにあった。やっぱり王様の言うように、ユリシスは単身でルナティルスへ向かったのね」
「馬鹿じゃないの? あのルナティルスへ一人で向かうなんて……死にに行くようなものだ」
「ユリシスは秘宝の継承者だからと大丈夫だと、王様は言っていたけれど……」
そこで言葉を切って、イーヴィが再び背後を振り返る。もう見えないレフィスの家。レフィスと共に在った真紅の男を思い出し、僅かな疑問が核心に変わろうとしていた。
「……ブラッド」
――もしかしたら、彼は……。
考えて、思考を遮るように頭を振る。
違うはずだ。そうであってはならない。
もしそうなら、ユリシスは……――。
最悪の事態を想像して身震いしたイーヴィが、脳裏に焼きついてしまったそれを振り払うように強く頭を振った。その横では同じように暗い表情をしたライリが、思いを声に出さぬよう唇をきつく噛み締めていた。
村の入り口には、古いがしっかりとした木の柵が張り巡らされており、柵には等間隔に小さな水晶球が結び付けられていた。風に揺れる水晶は太陽や月の光を浴びて輝き、内に込められた呪文の魔力を増幅させる。時にはその大きさからは考えられないほど強く光を反射し、遠く離れた村外れにまで魔力の波が届くと言う。
柵のある入り口から村人が生活する居住区までは少し離れており、その間にジルクヴァインの騎士たちの野営地が設置されていた。普段は月光を浴びて揺れる水晶も、ここ暫くは焚き火の明るい炎に色を変えている。一日の勤めを終え、食事をしたり体を休めたりと各々が疲れを癒していた最中、野営地の端の方でかすかな悲鳴が上がった。くつろいでいた騎士たちが瞬時に身構え、悲鳴のした闇へと目を向ける。静かに忍び寄る闇の吐息と、それに合わせて二人分の足音が響き渡った。
「そんなに殺気立たないで頂戴。今晩泊めて欲しいだけなんだけど……駄目かしら?」
ぼろぼろのマントを羽織った美女に、騎士たちの間に走っていた緊張が一瞬だけ緩んだ。何人かは剣を下ろし、目の前に現われた美女に見惚れていたが、その横に立っていたもう一人がフードを下ろすや否や、小さな悲鳴を上げて再び剣を構え直した。
「……っ、お前は!」
「何だ。もう元に戻っちゃったの? 予定だともう少し長いはずだったんだけど」
儚げな顔に恐ろしいほどの黒い笑みを浮かべて、ライリがゆったりとした動作で右腕を上げた。ただそれだけなのに、騎士たちは怯えた子供のように無意識に後ずさる。
「不用意に近付くな! また術にかかるぞ!」
そう声を上げた騎士の一人を一瞥して、ライリが顎をかすかに動かした。
「退くのはいいけど、足元には気をつけた方がいいよ。さっき蛙にしたからね」
先程聞こえた悲鳴はそう言う事かと、騎士たちが一斉に硬直する。
今朝、いきなり現われた二人組み……その片方のエルフに騎士の半分近くが蛙や猫、烏などの動物に姿を変えられた記憶が甦る。幸い夕刻になるにつれ元の姿に戻りはしたが、安心したのも束の間、再びそのエルフが目の前に現われるとは……。
「おのれっ……! 目的は何だ!」
「だから言ったじゃないか。今晩泊めて欲しいんだけど?」
「ふざけるな!」
怒りに任せて踏み込んだ騎士の体に、黒い靄が纏わりついた。じわじわと騎士の体を侵食した靄は、完全にすべてを覆い隠すと、効力を失ったかのように僅かな風の揺らめきではらはらと崩れ落ちていく。後に残ったのは、地面の上で小さく丸まったリス一匹だけだった。
「ちょっとライリ。挑発してどうするの。私たちはお願いに来てるのよ」
「だからお願いしてるじゃないか」
「あなたのそれはただの脅し」
「大して変わらないよ。それにもう、僕たちの事泊めてくれなさそうだし」
呆れて溜息を吐いたイーヴィの背後で、似たような溜息がもうひとつ落ちた。
「それは貴方が自分で蒔いた種でしょう?」
不意に現われた気配と声に、ライリとイーヴィのみならず、そこにいた騎士すべてが声の主に視線を巡らせた。
薄闇に包まれた森を背にして、美しい亜麻色の髪をした若い女が立っていた。女の足元には高度な転送魔法陣の名残が、淡い光の粉となって漂い舞っている。その粉が完全に消える前に、再び地面に青白い光の線が走り、二つ目の魔法陣が女の傍らに召喚された。
「姫様っ? 姫様っ! ああ、良かった……ご無事ですね。一人で行っては駄目だと、何度言ったら分かるんですか!」
二つ目の魔法陣から現われたのは、黒縁の眼鏡に無精髭を生やした、見るからに野暮ったいひょろりとした痩せ型の男だった。伸びっぱなしの不揃いな髪は深緑の絹のリボンで結わえられており、そこだけが上品な空気を纏ってしまい、何だか不似合いである。
ずれた眼鏡をかけなおし、何もない所で躓きながら近寄ってきた男に、姫と呼ばれた女が呆れたような表情を浮かべた。
「あら、カロン。私、これでも十分待ったつもりですわ? それなのに貴方ときたら兄様の許可を取ったり、マントに防御魔法を施したり、干乾びた薬草を煎じだしたりするんですもの。これじゃあ、いつまで経っても出発できないでしょう?」
「そうは言っても、貴女は一国の姫なんですよ? もう少し慎重になさって下さい! だいたいあの薬草は十年に一度しか咲かない貴重な代物で、最大効力を発揮する為には弱火でじっくり煮る必要が……」
「はいはい、干乾びた薬草の説明はもういいから」
延々と続くであろう薬草の説明をばっさりと切って、女がライリとイーヴィに向き直る。怪訝そうな視線を向けてくるライリにすら怯まず、軽やかに、そしてどことなく不敵にも思える笑みを浮かべて見せた。
「はじめまして。私はルウェインの第一王女、ルージェス=ジルクヴァインですわ」
名乗りをあげ、ドレスの裾を軽くつまんで優雅に挨拶をする。にこやかに笑顔のまま、けれど何かを探るように深い眼差しでライリとイーヴィを交互に見つめた。
「レフィスの仲間と言うのは、貴方たちの事ね? 突然城に乗り込んで来るなんて、どんな怖いもの知らずかと思ったけれど……ふふ、流石二人の仲間だわ」
口元に手を当てて笑う仕草も優雅で、そこに敵意のかけらもない事を感じ取ったライリは、自然と体に入っていた力を抜く。毒気を抜かれるとは、こう言う事かもしれない。
「ユリシスったら、こんなに素敵な仲間がいるのに、一言も言ってくれないんだもの。人を頼るのは相変わらず苦手なのかしらね」
何の警戒もなくライリたちに近寄ろうとしたルージェスを、カロンが慌てて後ろから引き止める。
「姫様! 姫様はもう少し疑う事を勉強なさって下さい! 彼らがユリシス殿の仲間だと言う保障はどこにも……」
「大丈夫よ。だってノーウィでレフィスを保護した時にいた騎士に聞いたもの。一緒にとびきりの美女とエルフがいたって」
そう言って二人を指差すルージェスに、カロンが右手を額に当てて溜息を吐く。俯いていた顔を上げ、まだ何か言おうとしたカロンを遮って、ルージェスが屈託のない笑みを浮かべて背の高いカロンの顔を見上げた。
「それに、仮に敵だとしても、貴方がいるんだし……大丈夫よ」
「……っ! わっ、私は……武術は苦手です。魔法なら何とか……そうか、魔法か」
どこから取り出したのか、分厚いメモを手にしたカロンが、ぱらぱらとページをめくりながら何やらぶつぶつと呟き始めた。完全に自分の世界に入ってしまったカロンを置いて、ルージェスが再度ライリとイーヴィに向き直る。
「さて、と」
一旦そこで言葉を切って唇を噛んだルージェスだったが、やがて意を決したように俯きかけていた顔を上げた。先程の柔らかな笑顔はなく、何か緊迫した思いが、二人を真っ直ぐに見つめた瞳の奥に揺らめいていた。
「レフィスが記憶を封じられている事は、ユリシスから直接聞いています。貴方たちに聞きたい事はそれではなくて……レフィスの側に、赤い髪の男はいませんでしたか?」
その言葉を聞いた瞬間、ライリとイーヴィの体が無意識に震えた。これから起こりうる得体の知れない何かに心臓が早鐘を打ち、喉が干上がっていく感じがした。
あえて言葉にしなかった不安が、現実のものになろうとしていた。
青白い月光。儚く溶ける淡い粉雪。開かれたままの魔道書には、焔を纏う龍の姿が描かれていた。
『お前は、ここに残るか?』
どこか懐かしくて、なぜか切ない声音は、初めて聞くものではないような気がした。引き寄せられた腕に痛いほど強く抱かれ、驚きと同時に、心地良い温もりに安心した。
『力はいらない。ただ俺の側にいろ』
体を抱く、強い力が消えていく。深淵の闇に溶けて消える粉雪のように、彼の姿が瞳にすら映らないまま掻き消されていく。
何も掴めない手のひら。降り続く雪すら通り過ぎて、落ちていく。
『約束を守れなくてすまない』
頭に強く響いた言葉に、言いようのない焦燥感を覚えて、引き戻しかけた手を再度闇へと伸ばした。掴めないと分かっていても、そうしなくてはならないと思った。
「……――――っ!」
言葉にならない声を上げて、急かされる様に飛び起きた。無意識に伸ばしていた手が、ベッドの横に佇む真紅の男の服をしっかりと掴んでいる。
「……ブラッド」
「心が壊れる」
服を掴んで強張ったままの手を静かに解しながら、ブラッドが無表情のままレフィスを見つめ返した。
「今のお前は脆い。暫く心は閉じておけ」
「でも……」
見えない不安と曖昧な焦燥にすっきりとしない表情を浮かべたレフィスが、何かしら言葉を紡ごうとして唇を動かした。けれど音を発する事はなく、思いは形にならないまま、またレフィスの中に澱んでいく。
「……ブラッドは、あの二人を知ってるの?」
「……」
「無言は肯定と取られるわよ」
返事をしないブラッドの代わりに、イーヴィの声が返って来た。部屋に入り、ベッドに横になったレフィスへ歩を進めながら、その傍らに佇むブラッドを意味ありげに一瞥する。
「見守るのなら、それに徹しなさい。じゃなきゃ、レフィスが混乱するだけだわ」
「お前たちが来なければ事は動かなかった」
「あら、意外。あなた、皮肉も言えるのね」
「あ、あの……」
予想外の展開にどう対処していいか分からず、レフィスが怯えた猫のように身を竦めて遠慮がちに声をかけた。
「ああ、そうそう。遊んでいる場合じゃなかったわ」
そう言ってから、レフィスへ視線を移したかと思うと、イーヴィが優しい手付きでレフィスの頭を撫で下ろした。
「ごめんなさいね、レフィス。やっと会えたのが嬉しくて、ちょっと急ぎすぎたわ。体はもう大丈夫なの?」
「あ……はい。もう大丈夫です。私こそ、急に席を立っちゃってすみません」
「気にしないで頂戴。悪いのはこっちなんだから」
頭を撫でた手を戻して腕を組んだかと思うと、優しい笑みを浮かべたままイーヴィが暫く無言でレフィスをじっと見つめる。その視線に母のような温かさと恋人のような恥じらいを感じて、レフィスが困惑した顔で視線を逸らした。
「今日はもう帰るわ。騎士たちの野営地にいるから、何かあったらいらっしゃい」
「え……」
冒険者の二人が騎士と一緒にいる事にも疑問を感じたが、それよりも見知らぬ二人なのに置いていかれたかのような不安が胸の奥に揺らめいた。けれどその不安は言葉になるにはまだ小さく、レフィスの唇は小さな声だけを零して閉じられた。
「悔しいけど、ブラッドの言うように無理はしない方がいいのかもしれないわね。……納得は出来ないけれど」
それはレフィスに語りかけたのではなく、むしろ自分自身に言い聞かせるかのように低く零れ落ちていった。
雪は緩やかに降り続いていた。曇った空の色合いから、レフィスは今がもう夕方近くだという事を知った。そんなに寝ていたのかと考えていた視線の先で、来た時と同じようにぼろぼろの黒いマントを羽織った二人が対照的な表情を浮かべてレフィスを見つめ返していた。
微笑むイーヴィと、不機嫌なライリ。訊ねて来た時は怒り狂う獣のように荒々しく恐ろしかったが、なぜだか今はこの雰囲気さえ懐かしいと感じてしまう。けれどやっぱりレフィスはその思いを言葉に代える事が出来ず、緩やかな坂を下っていく二人の後姿をただ静かに見送るだけしか出来なかった。
視界に映る雪に消えていく二人の姿が、遠く閉ざされた記憶と重なって胸を少しだけ締め付けた。
坂を下り、少し歩いた所で後ろを振り返る。完全にレフィスの家が視界から消え、イーヴィが重い溜息を吐いた。その溜息に重なるようにして、終始眉間に皺を寄せていたライリが静かに呟く。
「封じられてるね。……狡猾過ぎて、反吐が出る」
誰かに聞かれるのを恐れたのか、声は無意識に潜められる。
「そうしなくてはならない現状がユリシスにあった。やっぱり王様の言うように、ユリシスは単身でルナティルスへ向かったのね」
「馬鹿じゃないの? あのルナティルスへ一人で向かうなんて……死にに行くようなものだ」
「ユリシスは秘宝の継承者だからと大丈夫だと、王様は言っていたけれど……」
そこで言葉を切って、イーヴィが再び背後を振り返る。もう見えないレフィスの家。レフィスと共に在った真紅の男を思い出し、僅かな疑問が核心に変わろうとしていた。
「……ブラッド」
――もしかしたら、彼は……。
考えて、思考を遮るように頭を振る。
違うはずだ。そうであってはならない。
もしそうなら、ユリシスは……――。
最悪の事態を想像して身震いしたイーヴィが、脳裏に焼きついてしまったそれを振り払うように強く頭を振った。その横では同じように暗い表情をしたライリが、思いを声に出さぬよう唇をきつく噛み締めていた。
村の入り口には、古いがしっかりとした木の柵が張り巡らされており、柵には等間隔に小さな水晶球が結び付けられていた。風に揺れる水晶は太陽や月の光を浴びて輝き、内に込められた呪文の魔力を増幅させる。時にはその大きさからは考えられないほど強く光を反射し、遠く離れた村外れにまで魔力の波が届くと言う。
柵のある入り口から村人が生活する居住区までは少し離れており、その間にジルクヴァインの騎士たちの野営地が設置されていた。普段は月光を浴びて揺れる水晶も、ここ暫くは焚き火の明るい炎に色を変えている。一日の勤めを終え、食事をしたり体を休めたりと各々が疲れを癒していた最中、野営地の端の方でかすかな悲鳴が上がった。くつろいでいた騎士たちが瞬時に身構え、悲鳴のした闇へと目を向ける。静かに忍び寄る闇の吐息と、それに合わせて二人分の足音が響き渡った。
「そんなに殺気立たないで頂戴。今晩泊めて欲しいだけなんだけど……駄目かしら?」
ぼろぼろのマントを羽織った美女に、騎士たちの間に走っていた緊張が一瞬だけ緩んだ。何人かは剣を下ろし、目の前に現われた美女に見惚れていたが、その横に立っていたもう一人がフードを下ろすや否や、小さな悲鳴を上げて再び剣を構え直した。
「……っ、お前は!」
「何だ。もう元に戻っちゃったの? 予定だともう少し長いはずだったんだけど」
儚げな顔に恐ろしいほどの黒い笑みを浮かべて、ライリがゆったりとした動作で右腕を上げた。ただそれだけなのに、騎士たちは怯えた子供のように無意識に後ずさる。
「不用意に近付くな! また術にかかるぞ!」
そう声を上げた騎士の一人を一瞥して、ライリが顎をかすかに動かした。
「退くのはいいけど、足元には気をつけた方がいいよ。さっき蛙にしたからね」
先程聞こえた悲鳴はそう言う事かと、騎士たちが一斉に硬直する。
今朝、いきなり現われた二人組み……その片方のエルフに騎士の半分近くが蛙や猫、烏などの動物に姿を変えられた記憶が甦る。幸い夕刻になるにつれ元の姿に戻りはしたが、安心したのも束の間、再びそのエルフが目の前に現われるとは……。
「おのれっ……! 目的は何だ!」
「だから言ったじゃないか。今晩泊めて欲しいんだけど?」
「ふざけるな!」
怒りに任せて踏み込んだ騎士の体に、黒い靄が纏わりついた。じわじわと騎士の体を侵食した靄は、完全にすべてを覆い隠すと、効力を失ったかのように僅かな風の揺らめきではらはらと崩れ落ちていく。後に残ったのは、地面の上で小さく丸まったリス一匹だけだった。
「ちょっとライリ。挑発してどうするの。私たちはお願いに来てるのよ」
「だからお願いしてるじゃないか」
「あなたのそれはただの脅し」
「大して変わらないよ。それにもう、僕たちの事泊めてくれなさそうだし」
呆れて溜息を吐いたイーヴィの背後で、似たような溜息がもうひとつ落ちた。
「それは貴方が自分で蒔いた種でしょう?」
不意に現われた気配と声に、ライリとイーヴィのみならず、そこにいた騎士すべてが声の主に視線を巡らせた。
薄闇に包まれた森を背にして、美しい亜麻色の髪をした若い女が立っていた。女の足元には高度な転送魔法陣の名残が、淡い光の粉となって漂い舞っている。その粉が完全に消える前に、再び地面に青白い光の線が走り、二つ目の魔法陣が女の傍らに召喚された。
「姫様っ? 姫様っ! ああ、良かった……ご無事ですね。一人で行っては駄目だと、何度言ったら分かるんですか!」
二つ目の魔法陣から現われたのは、黒縁の眼鏡に無精髭を生やした、見るからに野暮ったいひょろりとした痩せ型の男だった。伸びっぱなしの不揃いな髪は深緑の絹のリボンで結わえられており、そこだけが上品な空気を纏ってしまい、何だか不似合いである。
ずれた眼鏡をかけなおし、何もない所で躓きながら近寄ってきた男に、姫と呼ばれた女が呆れたような表情を浮かべた。
「あら、カロン。私、これでも十分待ったつもりですわ? それなのに貴方ときたら兄様の許可を取ったり、マントに防御魔法を施したり、干乾びた薬草を煎じだしたりするんですもの。これじゃあ、いつまで経っても出発できないでしょう?」
「そうは言っても、貴女は一国の姫なんですよ? もう少し慎重になさって下さい! だいたいあの薬草は十年に一度しか咲かない貴重な代物で、最大効力を発揮する為には弱火でじっくり煮る必要が……」
「はいはい、干乾びた薬草の説明はもういいから」
延々と続くであろう薬草の説明をばっさりと切って、女がライリとイーヴィに向き直る。怪訝そうな視線を向けてくるライリにすら怯まず、軽やかに、そしてどことなく不敵にも思える笑みを浮かべて見せた。
「はじめまして。私はルウェインの第一王女、ルージェス=ジルクヴァインですわ」
名乗りをあげ、ドレスの裾を軽くつまんで優雅に挨拶をする。にこやかに笑顔のまま、けれど何かを探るように深い眼差しでライリとイーヴィを交互に見つめた。
「レフィスの仲間と言うのは、貴方たちの事ね? 突然城に乗り込んで来るなんて、どんな怖いもの知らずかと思ったけれど……ふふ、流石二人の仲間だわ」
口元に手を当てて笑う仕草も優雅で、そこに敵意のかけらもない事を感じ取ったライリは、自然と体に入っていた力を抜く。毒気を抜かれるとは、こう言う事かもしれない。
「ユリシスったら、こんなに素敵な仲間がいるのに、一言も言ってくれないんだもの。人を頼るのは相変わらず苦手なのかしらね」
何の警戒もなくライリたちに近寄ろうとしたルージェスを、カロンが慌てて後ろから引き止める。
「姫様! 姫様はもう少し疑う事を勉強なさって下さい! 彼らがユリシス殿の仲間だと言う保障はどこにも……」
「大丈夫よ。だってノーウィでレフィスを保護した時にいた騎士に聞いたもの。一緒にとびきりの美女とエルフがいたって」
そう言って二人を指差すルージェスに、カロンが右手を額に当てて溜息を吐く。俯いていた顔を上げ、まだ何か言おうとしたカロンを遮って、ルージェスが屈託のない笑みを浮かべて背の高いカロンの顔を見上げた。
「それに、仮に敵だとしても、貴方がいるんだし……大丈夫よ」
「……っ! わっ、私は……武術は苦手です。魔法なら何とか……そうか、魔法か」
どこから取り出したのか、分厚いメモを手にしたカロンが、ぱらぱらとページをめくりながら何やらぶつぶつと呟き始めた。完全に自分の世界に入ってしまったカロンを置いて、ルージェスが再度ライリとイーヴィに向き直る。
「さて、と」
一旦そこで言葉を切って唇を噛んだルージェスだったが、やがて意を決したように俯きかけていた顔を上げた。先程の柔らかな笑顔はなく、何か緊迫した思いが、二人を真っ直ぐに見つめた瞳の奥に揺らめいていた。
「レフィスが記憶を封じられている事は、ユリシスから直接聞いています。貴方たちに聞きたい事はそれではなくて……レフィスの側に、赤い髪の男はいませんでしたか?」
その言葉を聞いた瞬間、ライリとイーヴィの体が無意識に震えた。これから起こりうる得体の知れない何かに心臓が早鐘を打ち、喉が干上がっていく感じがした。
あえて言葉にしなかった不安が、現実のものになろうとしていた。
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