Bloody Rose

紫月音湖(旧HN/月音)

文字の大きさ
上 下
48 / 69
第6章 交差する思いの果て

冬の訪れ

しおりを挟む
 その夜、月は出ていなかった。
 しんしんと降り続く雪が、暗い闇を淡く照らしている。

「行っちゃうの?」

 声だけで、少女がどんな顔をしているのかが分かる。振り返って確かめなくても、ユリシスの背後からかすかに鼻を啜る音が聞こえた。

「……これを、預けていく」

 なぜ、そうしたのかは分からない。けれど、このまま離れてしまうのが嫌だった事は、よく覚えている。

 幼さゆえの、愚行。
 けれど幼さゆえに、真っ直ぐな情熱。

「約束の印だ」

「約束? 何の?」

 指輪を乗せた手のひらを、自分の手で上から握り締めて、ユリシスが深く息を吸い込んだ。

「――また、戻ってくる。それまで、これを大事に持っておいてほしい」

 雪の中に咲くエリティアの花が、束の間の別れを惜しむように、風に切なく揺れていた。





 懐かしい匂いに包まれて、レフィスはゆっくりと目を覚ました。
 見覚えのある部屋だったが、意識がそれに付いていくには数分かかった。
 開け放たれた窓の向こうは穏やかな日差しが降り注ぎ、草花を揺らした風が部屋の中に少し冷たい空気を運んでくる。冬の始まりを告げる、木枯らしの匂いがした。

「あら? やっと起きたのね」

 声がした方を振り向くと、部屋の入り口に一人の女が立っている。女を見た瞬間、レフィスは一瞬だけ彼女を懐かしいと感じたが、なぜそう思ったのかは分からなかった。

「……お母さん……」

「何? まだ寝ぼけてるの? もうすぐお昼になるんだから、さっさと起きなさい」

「……うん」

 寝すぎたせいなのか、頭の中は靄がかかったようにはっきりとしない。
 ここはイスフィル。部屋で目覚めた自分。おかしい所は何もないのに、何かが欠けているような気がして気持ち悪い。冷たい水で顔でも洗えばすっきりするかと思ったが、身支度をして食卓に付いた後も、訳の分からない気持ち悪さはずっと付きまとったままだった。

「お母さん。……私、何してた?」

「寝てたわよ」

「違う! そうじゃなくて……」

 テーブルの上に置かれた紅茶のカップを覗きながら、レフィスは頭の隅にある「何か」に触れようとする。けれどそれを遮る霧は深く、指先すら掠めない。

「昨日夜更かしでもしたんじゃないの? 少し散歩にでも行ってきなさい。ついでに泉の水を汲んできて頂戴ね」

 そう言った母リシアの表情はどことなく切なげで、けれど下を向いたままのレフィスがそれに気付く事はなかった。



 泉のある森の奥は、村に比べて少しだけ温度が低い。
 透き通った水面を覗き込んだまま、水の沸く音に耳を傾ける。揺れ続ける水面に歪む姿は、今のあやふやな自分のようだと思った。
 ぶんっと頭を振って、泉の水を両手に掬うと、レフィスはその冷たい水を一気に飲み干した。体の中を流れていく冷たい水に、澱んだ気持ちを洗い流して欲しかった。

「……私……どうしたんだろ」

 ぽつりと声を零して、再び水面に目を落す。歪んだ自分の背後に、いつの間にか真紅の人影が立っていた。

「……っ!」

 驚いて振り返ったレフィスとは反対に、真紅の男は何も言わず、ただ黙ってレフィスを見下ろしている。
 赤い髪。赤い瞳。目を奪う鮮やかな色彩を纏う男を、レフィスはどこかで見たような気がしていた。

「……誰?」

 レフィスを見つめる男の表情は変わらない。けれど瞳がかすかに動き、そこに映るレフィスを探るように細められる。
 時間は一瞬だったか、或いはもっと長かったかもしれない。強く吹いた風が合図となり、黙ったままの男の唇が静かに動く。

「封じられたか」

 男の声音に、レフィスの胸がざわりと鳴った。
 聞いた事がある。耳の奥に、まだ残っている。けれど、知らない。
 男を見たような気がする。けれど、知らない。
 知っているのに、知らない。その相反する意識に体が震え、レフィスは無意識に両手を強く握り合わせた。その指に触れた硬い感触に目をやると、右手の薬指に赤い石の指輪が嵌めてあるのが見えた。
 一瞬、今までで一番強い胸の鼓動が鳴った。


『約束を守れなくてすまない』


 誰のものかも分からない声音が切ない色で響き、それはレフィスの視界を歪ませて熱い涙の雫を引き寄せる。
 涙の意味を、レフィスは知らない。
 溢れたいのに溢れられない思いが凝縮して、ただ一粒だけがレフィスの頬を流れて落ちていく。

 レフィスには、もう何も分からなかった。
 胸に澱む霧も、目の前の男も、指に嵌った指輪も、涙も。
 記憶はしっかりと閉じられ、レフィスはそれをこじ開ける術を持たない。
 ただ自分の中に響く、切ない声音に胸が締め付けられるだけだった。


 低い音を響かせて吹き抜ける風は、かすかに冬の匂いがした。
 深い雪に埋もれる大地のように、レフィスの記憶も、静かにゆっくりと埋もれていこうとしていた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

異世界隠密冒険記

リュース
ファンタジー
ごく普通の人間だと自認している高校生の少年、御影黒斗。 人と違うところといえばほんの少し影が薄いことと、頭の回転が少し速いことくらい。 ある日、唐突に真っ白な空間に飛ばされる。そこにいた老人の管理者が言うには、この空間は世界の狭間であり、元の世界に戻るための路は、すでに閉じているとのこと。 黒斗は老人から色々説明を受けた後、現在開いている路から続いている世界へ旅立つことを決める。 その世界はステータスというものが存在しており、黒斗は自らのステータスを確認するのだが、そこには、とんでもない隠密系の才能が表示されており・・・。 冷静沈着で中性的な容姿を持つ主人公の、バトルあり、恋愛ありの、気ままな異世界隠密生活が、今、始まる。 現在、1日に2回は投稿します。それ以外の投稿は適当に。 改稿を始めました。 以前より読みやすくなっているはずです。 第一部完結しました。第二部完結しました。

ドグラマ3

小松菜
ファンタジー
悪の秘密結社『ヤゴス』の三幹部は改造人間である。とある目的の為、冷凍睡眠により荒廃した未来の日本で目覚める事となる。 異世界と化した魔境日本で組織再興の為に活動を再開した三人は、今日もモンスターや勇者様一行と悲願達成の為に戦いを繰り広げるのだった。 *前作ドグラマ2の続編です。 毎日更新を目指しています。 ご指摘やご質問があればお気軽にどうぞ。

王が気づいたのはあれから十年後

基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。 妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。 仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。 側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。 王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。 王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。 新たな国王の誕生だった。

半分異世界

月野槐樹
ファンタジー
関東圏で学生が行方不明になる事件が次々にしていた。それは異世界召還によるものだった。 ネットでも「神隠しか」「異世界召還か」と噂が飛び交うのを見て、異世界に思いを馳せる少年、圭。 いつか異世界に行った時の為にとせっせと準備をして「異世界ガイドノート」なるものまで作成していた圭。従兄弟の瑛太はそんな圭の様子をちょっと心配しながらも充実した学生生活を送っていた。 そんなある日、ついに異世界の扉が彼らの前に開かれた。 「異世界ガイドノート」と一緒に旅する異世界

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

👨一人用声劇台本「告白」

樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
彼氏が3年付き合っている彼女を喫茶店へ呼び出す。 所要時間:5分以内 男一人 ◆こちらは声劇用台本になります。 ⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠ ・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します) ・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。 その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。

旦那の真実の愛の相手がやってきた。今まで邪魔をしてしまっていた妻はお祝いにリボンもおつけします

暖夢 由
恋愛
「キュリール様、私カダール様と心から愛し合っておりますの。 いつ子を身ごもってもおかしくはありません。いえ、お腹には既に育っているかもしれません。 子を身ごもってからでは遅いのです。 あんな素晴らしい男性、キュリール様が手放せないのも頷けますが、カダール様のことを想うならどうか潔く身を引いてカダール様の幸せを願ってあげてください」 伯爵家にいきなりやってきた女(ナリッタ)はそういった。 女は小説を読むかのように旦那とのなれそめから今までの話を話した。 妻であるキュリールは彼女の存在を今日まで知らなかった。 だから恥じた。 「こんなにもあの人のことを愛してくださる方がいるのにそれを阻んでいたなんて私はなんて野暮なのかしら。 本当に恥ずかしい… 私は潔く身を引くことにしますわ………」 そう言って女がサインした書類を神殿にもっていくことにする。 「私もあなたたちの真実の愛の前には敵いそうもないもの。 私は急ぎ神殿にこの書類を持っていくわ。 手続きが終わり次第、あの人にあなたの元へ向かうように伝えるわ。 そうだわ、私からお祝いとしていくつか宝石をプレゼントさせて頂きたいの。リボンもお付けしていいかしら。可愛らしいあなたととてもよく合うと思うの」 こうして一つの夫婦の姿が形を変えていく。 --------------------------------------------- ※架空のお話です。 ※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。 ※現実世界とは異なりますのでご理解ください。

処理中です...