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第1部

残花薄命

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 白百合が、揺れていた。
 囁き合うように、揺れていた。

 触れられぬ幻の中にあってもなお、女の白百合は男を許す腕を持たなかった。女を求め泣き叫ぶ男の体を、抱き締める事が出来なかった。

 夢の中ですら、触れ合う事を許されない。
 ――その、指先が。
 熱を持つ、確かな現実に触れた。

 止まっていた時が再び動き出した瞬間に、白百合の花弁が夜空を彩るように舞い上がる。
 夢の終わりを告げる、最後の乱舞であるかのように。



  †     †     †     †



 まだ、夢を見ているようだった。終わらない白百合の夢に捕われて、歪んだ過去の虚像に触れているような気がしていた。

 風に揺れて囁き合う白百合の漣。
 夢現の世界へ誘う優しい波に溺れそうな意識の中で、レベッカはぼんやりとした瞳の奥に求めていた漆黒を見つけて立ち止まる。

 なぜ彼を探していたのかは分からない。ただ、彼のそばにいたいと思った。
 目を覚ましたあの一瞬に重なり合った赤紫の瞳が、胸に焼き付いて離れない。あの瞳を、その奥に隠された孤独を、レベッカはずっと昔から知っているような気がした。

「眠れませんか?」

 声をかけるのを躊躇っていたレベッカを見透かしていたかのように、キールがゆっくりと口を開いた。優しい声でそう言いながら、白百合に落とした視線を背後のレベッカへと向ける。
 赤紫の瞳が、不安定に揺れていた。

「……ここは」

 溜息と共に声を漏らし、レベッカは周りを囲む白百合の漣を見回した。どこまでも続く白い草原にも似た光景。夜の暗闇に、幻のように浮き上がる。
 白百合の海に佇む影は、レベッカとキール以外に誰もいなかった。

「夢の中、とでも言っておきましょうか? そうした方が、後々都合が良いでしょう」

「都合?」

 繰り返し尋ねたレベッカに、キールは儚い笑みを浮かべて返すだけだった。

「貴方……ぁ、ウィグリード様は」

「キールと」

「え?」

「キールと呼んで下さい」

 真っ直ぐに見つめられ、レベッカの胸がとくんと鳴った。逸らすことも出来ない瞳は赤紫の視線に捕われ、レベッカは早くなる鼓動を感じながら心の中で何度も彼の名前を繰り返す。
 心に響くその名は、不思議と懐かしい韻を含んでいた。

「……キー、ル」

 躊躇いがちに動いた唇から、彼女の声で彼の名前が紡がれる。ずっと長い間、夢の中でしか聞くことの出来なかった彼女の声音。熱を持つそれは触れても消えない確かな現実で、キールは目を閉じたまま余韻が消えるまでレベッカの声に酔いしれていた。

「白百合の似合う人がいました」

 囁いたキールの声に同調して、白百合の海が嘆くように揺れる。

「純粋で汚れのない魂の持ち主。彼女は誰をも分け隔てなく愛し、誰からも愛されていた。……そう、まさに光でした」

 レベッカの脳裏に見たこともない光景がよみがえった。
 赤く輝く三日月が闇に紛れそうな夜。光を拒み、完全なる漆黒を愛する者たちが徘徊する「夜」という世界の片隅で、決して交わることのない光と闇が、運命の悪戯によって引き合うかのように出会ってしまった。
 忘れかけていた人としての自分を、彼女はいとも簡単に彼の中に呼び戻す。憎しみと孤独、それ以外に何もなかった彼の心を、優しさと愛で包み満たしていく。

 彼は彼女を愛した。そして、彼女もまた彼を深い愛で包み込んだ。
 許されない愛だと、知っていても。


「彼女を汚したのは、悪魔でした」

 一度閉じた瞳をゆっくりと開いて、キールは視線を白百合へと投げ落とす。白い花弁が己の闇で黒く変色していく様を思い浮かべながら、僅かに目を細めて首を緩く左右に振った。

「卑しい悪魔によって、彼女の純潔は魂と共に奪われ――――彼女は、帰らぬ人となりました。彼は彼女を汚し堕としめた罪を背負い、生きていく孤独を罰とした。そう……永久に救いなど訪れるはずがなかった。それなのに」

 白百合から視線を移し、再びレベッカを見つめたキールの瞳はひどく弱々しく、今にも泣きそうなほど悲しげに揺らめいていた。

「運命はいつも残酷に人を弄ぶ」

 己の罪を背負い、許されない懺悔を繰り返しながら、ひとり孤独に生きていくつもりだった。人と関わらず、闇だけに潜み、もう二度と光を求めてはならないと、強く心に誓ったと言うのに。

 運命はレベッカの姿で彼の前に舞い戻った。
 狂おしいほどに求め焦がれた光を前に、どうしてそれを拒絶する事ができようか。
 ――――できるわけがない。

 その残り香を罪と知りながら、溺れる事を望む愚かな男。
 闇に生き、すべてを棄てて来た彼でさえ、光の前ではただの男にすぎなかった。

「レベッカ」

 切ない声で名を呼ばれ、レベッカがはっと顔を上げた。翠色の瞳の中で、キールがゆっくりと手を伸ばす。白い手袋を嵌めた指先が、かすかに頬に触れた瞬間。
 白百合が、さぁっと音を立てて残香を夜空へ舞い上がらせた。

 指先と頬を隔てる白い手袋の戒め。
 触れ合えないもどかしさ。
 間近で重なる瞳の奥に、忘れていた思いを垣間見る。

「これは、夢です。白百合の花が散る頃には消える、泡沫の夢。……だから、レベッカ。もう少しだけ……こうさせて下さい」

 囁いて、レベッカの頬を優しく儚く包みこむ。

「君の熱に……触れていたい」

 白い手袋越しに感じるかすかな熱に、レベッカはそっと目を閉じる。心の、意識のはるか向こうで、それを願う自分の声を確かに聞いた。
 レベッカも同じように触れ合っていたいと。できることなら、このままずっとこうしていたいと。



 漆黒の闇。
 浮かぶ白百合。
 流れる残香に惑わされ、レベッカは白百合の海に溺れていった。
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