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第1部
暗色讃美・Ⅱ
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どろりとした不快な闇が幾重にも重なった声で、彼の脳裏を侵食する。それは時折「彼」の存在そのものを奪い、欲望のままに夜の闇を徘徊していった。
若い女の体温を求め、その熱い血潮を欲し、美しい色をした臓物に心を奪われた。断末魔の叫びは耳に心地良く、吹き上がる鮮血は「彼」の肌を通して確かな熱を伝えてくる。
甘美な夢。終わることのない、永遠の享楽。「それ」は「彼」が自分を手放さない事を知っていた。人というものの心に潜む、醜い感情を知り尽くしていた。
そしてそれは、神の名のもとに汚れを捨てたはずの聖職者でも同じであるという事を。
(何を迷う必要がある。お前はあの娘が欲しいのだろう? あの娘を抱きたいのだろう?)
己の中に木霊する不快な声を否定するように、彼は頭を強く抱え込んだまま左右に首を振った。指の間から零れる柔らかな金髪が、黒い闇に淡い光を落としている。その光はまるで、彼の存在そのもののようだった。
闇に取り巻かれ同化するしか手立てのない、取り残された金の光。
(我に身を任せよ。今まで通り、その体にお前が望む快楽を刻み付けてやろう)
「違うっ! そんな事は望んでいない!」
(何をどう言おうと無駄だ。お前は我を呼んだ。あの娘を手に入れたいが為にな)
「彼女を、汚すことなど出来ない。それだけは絶対にさせない!」
悲痛な声音は誰の救いも受けられず、静かに闇に捕われていった。禁じられた快楽を覚えてしまった体は、もうそれから逃れることは出来なかった。
死ぬまで捕われ、死んでからも魂を奪われる。その代わりに「それ」は「彼」の望むものを与え、夢にまで見た最高の時間を与えてやるのだ。
しかし、「それ」にも「彼」にも、決して汚すことの出来ない存在があった。それは「彼」が何よりも欲していたものであり、同時に何者にも汚されて欲しくない存在でもあった。
「彼」の光。そして、「彼」を邪悪な闇に突き堕としたもの。
(あの娘は汚れる。お前の手によってではなく、あの男によってな)
ぎくんと、心が震えた。
動揺し始めた「彼」の心の中に、それまでぎりぎりのところで押えていた衝動の箍を外してしまった彼女の言葉が木霊する。
『ウィグリード卿と見合いしろってうるさいのよ』
光は誰からも汚されてはならない。
誰にも知られることなく、ずっと秘めてきたこの思いを簡単に遮って、権力と財産だけでその男は「彼」の光を奪おうとしていた。
許されることではない。彼女を汚す男を許してはならない。
見つめ続けてきた存在がこうも簡単に奪われてしまうのなら、いっそ今まで引き摺ってきた枷を外してしまっても罪はない。
そう……汚される前に、己が光を奪うのだ。
(そうだ、それでいい。お前は感情と欲望の波に身を委ねるがいい)
「……うぅ……あっ」
頭を強く押えていたその指先が、かたかたと異常なほどに震え出す。内から這い上がろうとする闇を必死で抑えようと何度も何度も頭を振り、血が滲み出すほど強く歯を食いしばっても「それ」は彼を手放そうとはしなかった。
(奪われる前に、奪え。お前にはそれができる力がある。あの娘を貪るのだ)
「……っ。やめ……ろ。やめてくれっ!」
(あの娘もそれを望んでいるはずだ)
「やめろおぉぉぉぉぉっ!!」
金の髪を振り乱し、絶叫するように吠えた「彼」の中で、辛うじて引き止めていた理性の糸が音をたてて引き千切られた。
――――レベッカ……。
† † † †
足元すら見えない漆黒の闇。
そこに浮かび上がる、見慣れた柔らかい金髪。
いつものように穏やかに微笑んで、レベッカを優しく見つめてくれた大切な存在。
足を闇に捕われてしまったレベッカの前で、彼は胸を締め付けるほど儚い笑みを浮かべながら、静かにレベッカを見つめていた。彼のそばに近寄ろうとしても足がまったく動かず、逆に彼の姿はどんどんレベッカから遠ざかっていく。
名前を呼んで腕を伸ばしたレベッカの耳に、やけに生々しい彼の声が木霊した。
『……さよなら、レベッカ』
† † † †
暗く深い、夜よりも濃い黒が、闇に紛れて流れるように歩いていた。その後ろを跳ねるようにしてついてくる、血色の小さな影。
「キール。ねぇ、キール。次はどこへ行くの?」
「教会ですよ」
「教会? そんな場所に、いるの?」
小さく首を傾げた少女を見やり、漆黒の影がふっと感情のない笑みを浮かべる。
「神に仕えど、人は人なのですよ」
嘲笑を含んだ声音でそう言って歩く速さを弱めたキールに、後ろから追いついたイヴがすかさず腕を伸ばしてしがみ付く。左腕に絡み付いて隣を歩く少女に目を向けたキールは、脳裏に浮かんだ遠い過去を振り払うように頭を左右に振った。
「……まぁ、神も悪魔も同じ存在でしょうけれど」
「イヴはキールがいい。だから悪魔の方が好きだ」
彼をどこにもやらないと言うように、左腕に絡み付いた手の力が増した。
若い女の体温を求め、その熱い血潮を欲し、美しい色をした臓物に心を奪われた。断末魔の叫びは耳に心地良く、吹き上がる鮮血は「彼」の肌を通して確かな熱を伝えてくる。
甘美な夢。終わることのない、永遠の享楽。「それ」は「彼」が自分を手放さない事を知っていた。人というものの心に潜む、醜い感情を知り尽くしていた。
そしてそれは、神の名のもとに汚れを捨てたはずの聖職者でも同じであるという事を。
(何を迷う必要がある。お前はあの娘が欲しいのだろう? あの娘を抱きたいのだろう?)
己の中に木霊する不快な声を否定するように、彼は頭を強く抱え込んだまま左右に首を振った。指の間から零れる柔らかな金髪が、黒い闇に淡い光を落としている。その光はまるで、彼の存在そのもののようだった。
闇に取り巻かれ同化するしか手立てのない、取り残された金の光。
(我に身を任せよ。今まで通り、その体にお前が望む快楽を刻み付けてやろう)
「違うっ! そんな事は望んでいない!」
(何をどう言おうと無駄だ。お前は我を呼んだ。あの娘を手に入れたいが為にな)
「彼女を、汚すことなど出来ない。それだけは絶対にさせない!」
悲痛な声音は誰の救いも受けられず、静かに闇に捕われていった。禁じられた快楽を覚えてしまった体は、もうそれから逃れることは出来なかった。
死ぬまで捕われ、死んでからも魂を奪われる。その代わりに「それ」は「彼」の望むものを与え、夢にまで見た最高の時間を与えてやるのだ。
しかし、「それ」にも「彼」にも、決して汚すことの出来ない存在があった。それは「彼」が何よりも欲していたものであり、同時に何者にも汚されて欲しくない存在でもあった。
「彼」の光。そして、「彼」を邪悪な闇に突き堕としたもの。
(あの娘は汚れる。お前の手によってではなく、あの男によってな)
ぎくんと、心が震えた。
動揺し始めた「彼」の心の中に、それまでぎりぎりのところで押えていた衝動の箍を外してしまった彼女の言葉が木霊する。
『ウィグリード卿と見合いしろってうるさいのよ』
光は誰からも汚されてはならない。
誰にも知られることなく、ずっと秘めてきたこの思いを簡単に遮って、権力と財産だけでその男は「彼」の光を奪おうとしていた。
許されることではない。彼女を汚す男を許してはならない。
見つめ続けてきた存在がこうも簡単に奪われてしまうのなら、いっそ今まで引き摺ってきた枷を外してしまっても罪はない。
そう……汚される前に、己が光を奪うのだ。
(そうだ、それでいい。お前は感情と欲望の波に身を委ねるがいい)
「……うぅ……あっ」
頭を強く押えていたその指先が、かたかたと異常なほどに震え出す。内から這い上がろうとする闇を必死で抑えようと何度も何度も頭を振り、血が滲み出すほど強く歯を食いしばっても「それ」は彼を手放そうとはしなかった。
(奪われる前に、奪え。お前にはそれができる力がある。あの娘を貪るのだ)
「……っ。やめ……ろ。やめてくれっ!」
(あの娘もそれを望んでいるはずだ)
「やめろおぉぉぉぉぉっ!!」
金の髪を振り乱し、絶叫するように吠えた「彼」の中で、辛うじて引き止めていた理性の糸が音をたてて引き千切られた。
――――レベッカ……。
† † † †
足元すら見えない漆黒の闇。
そこに浮かび上がる、見慣れた柔らかい金髪。
いつものように穏やかに微笑んで、レベッカを優しく見つめてくれた大切な存在。
足を闇に捕われてしまったレベッカの前で、彼は胸を締め付けるほど儚い笑みを浮かべながら、静かにレベッカを見つめていた。彼のそばに近寄ろうとしても足がまったく動かず、逆に彼の姿はどんどんレベッカから遠ざかっていく。
名前を呼んで腕を伸ばしたレベッカの耳に、やけに生々しい彼の声が木霊した。
『……さよなら、レベッカ』
† † † †
暗く深い、夜よりも濃い黒が、闇に紛れて流れるように歩いていた。その後ろを跳ねるようにしてついてくる、血色の小さな影。
「キール。ねぇ、キール。次はどこへ行くの?」
「教会ですよ」
「教会? そんな場所に、いるの?」
小さく首を傾げた少女を見やり、漆黒の影がふっと感情のない笑みを浮かべる。
「神に仕えど、人は人なのですよ」
嘲笑を含んだ声音でそう言って歩く速さを弱めたキールに、後ろから追いついたイヴがすかさず腕を伸ばしてしがみ付く。左腕に絡み付いて隣を歩く少女に目を向けたキールは、脳裏に浮かんだ遠い過去を振り払うように頭を左右に振った。
「……まぁ、神も悪魔も同じ存在でしょうけれど」
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