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第1部

追憶夢想・Ⅱ

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 レベッカの主な話し相手は、エレンシアの小さな教会を任せられたまだ若い神父だった。嫌なこと、楽しかったこと、誰にも言えない悩みごと。意味のないお喋りや些細な愚痴なども含め、レベッカは今までに多くの悩みを神父に打ち明けてきた。
 神父は謂わばレベッカのよき相談相手であり、彼女の父親も信頼の厚い神父に対して特別警戒することはしない。

 そして今日の愚痴はと言うと、昼間の親子喧嘩に他ならない。見たことも会ったこともない相手と、財産目当ての為に結婚するなんてまっぴらだと、レベッカは強く神父に言い切ってみせる。そんな話を、神父はただ黙って聞いているだけだった。
 そう、いつも微笑みながら聞いてくれるのだった。今夜以外は……。

「あのウィグリード卿と?」

「そうなのよ! 高望みもいいところよね。私まだ結婚なんかしたくないし、するとしても理想にあった人じゃないと」

 かすかに翳った神父の顔に、レベッカが気付くことはなかった。中性的な顔立ちに浮かんだ翳りは一瞬で、それはすぐに柔らかな微笑に塗り替えられる。

「そのウィグリード卿、意外とレベッカの理想にぴったり当てはまる人物なのかもしれませんよ?」

「血塗られた貴公子の末裔なんて嫌よ。大体私の理想の人は……あら?」

 不自然に言葉を切って窓の外へ目を向けたレベッカに、神父は「あぁ」と小さく声を漏らして頷いた。窓の外に今でも揺れる白百合の群れ、その中に佇む漆黒の影がレベッカの瞳に揺れる。

「……誰? あの人」

「さぁ、私にもわからないのですよ。ただ毎晩ああしてあの場所に立っているだけなんです」

 黒衣に身を包んだ長身の影。深く被った黒い帽子がその顔を完全に覆い隠していたが、そこから滑り落ちた銀色の髪が夜風にさみしく揺れている。
 幻想的に咲き乱れる白百合に、不似合いなほど浮かび上がる妖しげな黒。レベッカの胸が、予期せぬ鼓動を打ち鳴らした。

「あの場所に何があるのか気になって、一度確かめた事があるのですが……見つけられないんですよ」

「え?」

「あの白百合の咲く場所は、この教会のどこにも存在しないんですよ。……或いは、私たちには見つけられないのかも知れません。夜の彼だけに許された、懺悔の場所。私はそう感じました」

「彼に許された……懺悔?」

 どくんっ、とレベッカの胸が鳴る。それは、鋭い刃物で心臓を貫かれる痛みにも似ていた。呼吸さえ止まり、体中の血が逆流する。
 遡る血の記憶は、けれど遠くに封印された忌まわしい過去を完全に遮断して、レベッカにその全貌を見せることはなかった。

「レベッカ?」

「私、……ちょっと見に行って来るわ」

 何かに急かされたように飛び出していったレベッカに、神父の手は虚しく空を切るだけだった。



  †     †     †     †



『他の誰が何と言おうと、貴方は決して悪魔なんかじゃない。こんなにもさみしい瞳をした貴方を、どうして悪魔だなんて呼べるというの?』

 ――――リィナ。

『私は間違ってなんかない。胸を張って言えるわ。貴方を愛したこと、誇りに思う』

 ――――リナティシア。

『それとも、貴方は私を嫌いになってしまったの?』

 咽び泣く風が、夢幻の百合と戯れる。冷たい香りは彼の奥にまで染み込んで、内側から悲しみに凍っていく。

(違う。何よりも大切だった)

 涙に囚われ、過去を抜け出せず、永遠の日々をただ死んだように生きてきた。彼女を奪った卑しい闇を狩りながら、それで己の罪を悔いるように足掻いていたのかもしれない。

 解りきっているのに。

 この罪が許される日は来ないという事を。
 汚れた手に幸せは戻らないという事を。



 清い命を摘み取ったのは、悪魔と呼ばれる闇だった。悪魔に魅入られたひとりの男だった。
 悪魔を憎み、同時に己の内に潜むそれを憎んでいた男は、最も忌み嫌っていたその力によって尊い存在を消してしまったのだ。

『怖くなんかないわ。貴方のすべてを受け止めてあげるから』

 白い頬を染めた、濃すぎる赤。病弱だった体のどこに、そんな鮮やかな色が隠れていたというのだろう。小さな唇から零れ落ちたその宝石は柔らかな胸元を煌びやかに飾り立て、輝く金色の髪は闇夜を彩る星屑のように乱れ咲いた。
 目を奪うほど美しい光景が最後に残したのは、赤に汚れたしなやかな肢体だけだった。

(リィナ。私の、光)

 死してなお忌み嫌われる存在ではなかったはずだ。
 彼女は誰よりも純真だった。それを汚したのは――。

「……君に、触れるべきではなかった」

 同調するように揺れた白百合の隙間から、漆黒に煌く黒十字が顔を出す。
 悪魔に愛された汚らわしい女だと蔑まれ、共に葬られることすら拒まれた彼女の墓標。その冷たい肌に、白い指先がそっと触れた。

「リィナ。私を……憎んでくれ」

 指先に、彼の求める答えは返らなかった。



  †     †     †     †



 神父の部屋の窓から見えた位置はちょうどここだったはずだと、レベッカは誰もいない教会の裏庭をぐるりと見回していた。
 教会を出るまで一分もかからなかったというのに、もうそこには誰ひとりとして見当たらない。帰ったにしても、レベッカが今走ってきた道を通って行かなければ教会の外に出ることは出来ないのだ。それなのに、すれ違った人など一人もいない。

「神父様の言ってた通り、本当に百合まで消えてる」

 教会の裏は小さな霊園となっており、レベッカが今いる場所はその更に奥まった所にある何も無い空き地だった。春になると白い花をつける樹が一本立っているだけで、他には雑草が生えているだけだ。

「何だか不気味ね」

 自分の言葉にぞくっと背筋を震わせたレベッカは、くるりと踵を返して逃げるように教会へと戻っていった。
 霊園を通り抜けて教会の入口まで戻った時だった。その翠色の瞳が、かすかに黒い影を捉えたのだ。

「……っ!」

 影はいつのまにか教会を遠く離れ、闇に消え行こうとしていた。どことなく哀愁を帯びた後ろ姿、けれどそれは見惚れてしまうくらい優雅な足取りにも見える。時折垣間見える銀色が完全に闇に飲まれようとした時、レベッカは無意識のうちに彼の後を追おうと足を踏み出していた。

 理由はわからない。ただ体が勝手に動いていた。あの得体の知れない黒い影に、引き寄せられているかのようだった。

『待って。キール』

 体の奥深くで、誰かの声を聞いたような気がする。



「忘れなさい」

 突如、レベッカの耳に大人びた女の声がした。
 はっとして顔を向けたレベッカのすぐ前に立っていたのは、夜に鮮やかな色を咲かせる真紅のワンピースを着た人形のような少女だった。その赤紫の瞳が、容赦なくレベッカを見据えていた。

「……誰?」

「貴女は光だわ。そして、私たちは闇」

 少女とは思えないほど鋭い光を秘めた赤紫の大きな瞳。闇に溶け合う漆黒の巻き毛。その真白い頬は玉のように滑らかで、暗い闇に光を放つほど透き通っている。
 このどこか人間離れした、完全体ともいえる謎の少女を前にして、レベッカは何かを思い出したように短い悲鳴をあげた。
 突然現れた赤いワンピースの少女、彼女は幼い頃のレベッカとよく似ていたのだ。

「貴女、一体」

「私は貴女を知らない。貴女も私を知る必要はない」

 機械的な冷たい言葉は、それだけでレベッカの体を金縛りにする。

「でも、彼は貴女を知っている。……私にはわかる」

「彼?」

「私たちに、関わらないで」

 命令のように強い口調で言い放って、少女がくるりとレベッカに背を向けた。かと思うと、あっという間に走り去り、そのまま闇に溶け込むように消えていく。
 レベッカは何も出来ずに、少女が闇に飲み込まれていくのをただ見つめているだけしか出来なかった。

 いつのまにか、両手が小刻みに震えていた。



  †     †     †     †



「いい加減、尾行の趣味は止めたらどうですか? イヴ」

 屋敷の重い扉を開けて帰ってきたイヴに、玄関先で待ち構えていたキールが悪意の無い声で言った。

「私を尾行してもおもしろいものは見られないでしょう?」

「だって、キールは相手してくれない」

 相変わらず感情のない声で返される言葉に、キールがふっと苦笑する。

「拗ねているんですか?」

「よく、わからない」

 乳白色の小さな珠を好んで食べるようになった頃から、イヴには徐々に不必要だった感情が育ちつつあった。
 人間の魂、その感情の一部を凝縮させた乳白色の珠。自分に無いものを補うかのようにその珠を内に取り込むイヴが、それによって感情を得ることはキールにも解っていたことだった。
 嬉しいような苦しいような、曖昧な気持ちがキールの胸を満たす。

「教会で、誰かに会っていましたね」

「懐かしい匂いのする女だった。でも、とても嫌な感じ。心が騒いでる」

「心が騒ぐ?」

 むっと眉を顰めて考え込むように俯いたキールに、精一杯背伸びをしたイヴが勢いよくしがみ付いた。

「イヴ?」

「キールはここにいて。何も考えなくていい」

 その一言でキールはイヴに新しく芽生えた感情が「嫉妬」だという事を知る。
 自分に強くしがみ付いたイヴを抱え上げその頬にかるく口付けしたキールが、見惚れるくらいの優しげな微笑みを浮かべて甘く静かに囁いた。

「私はここにいますよ。君が望むなら、今夜はずっとそばにいて一緒に眠ってあげましょう」

 抱え上げられたイヴはキールの首にしっかりと腕を回して、その首筋に顔を埋める。その姿は父親に甘える少女のようで、恋人に擦り寄る女のようでもあった。
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