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第1部
哀切懺悔・Ⅰ
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私を蝕む、記憶の屑――――。
間に合わなかった指先に、消え逝く光を切望する。
愚かな私に下されたあまりにも悲痛な運命を、この手では変えることすら出来なかった。
私の手では……。
『切なる望みを叶えてあげましょう』
男はか細い声でそう言った。
『愛しい人を、甦らせてあげましょう』
青白い唇からのぞく不揃いな黄色い歯が、笑うたびにカタカタ鳴った。
異様に伸びた汚れた爪を青白い唇に当てて、男が再び卑しい笑みを浮かべてみせる。
『それには貴方の協力が必要です』
私は妻を願った。
広い屋敷の一室で、誰にも助けられることなく惨殺された、愛しい妻を願った。
血に濡れたその肌が、引き裂かれた四肢が、弾け飛んだその首が、すべて元に戻るのなら。そして、私を激しく責めて……もう一度優しく抱きしめてくれるなら、それ以外に望むものは何もなかった。
† † † †
光を追うことを許されず、地の果てに幽閉された亡者の嘆きが雷鳴となって轟いた。
先ほどから降り続いていた雨は嘘のように止み、町は深夜の濃い闇に包まれている。雨に濡れた体を雲間から恥ずかしそうに覗かせた月だけが、ひっそりと輝くことを許された時間。
雨の匂いと冷たい空気が、肌にじっとりと染み込んでくる。激しく打ち付ける雨がすっかり洗い流してくれた汚れを思い出しながら、深く息を吸い込んだ。
吐き出した白い息の向こうで、赤い影がぼんやりと浮かび上がる。
彼女との初めての出会いだった。
誰もが寝静まった時間にひとり、何をするでもなくただそこに立っている。
闇を溶け込ませたような漆黒の巻き毛と、妖しい美しさを秘めた赤紫の瞳。それとは対照的に、真紅のワンピースがくっきりと夜に浮かび上がっている。
さっきの汚れと同じ色だった。
「こんな時間に何をしているんだい?」
「……」
「家は? 家族の人が心配しているよ」
「……」
見た目よりはるかに落ち着いた雰囲気を醸し出してはいたが、それは誰の目から見てもまだ幼い少女だった。
病的に白い肌。
類を見ない赤紫の瞳。
感情のない美しい顔。
そのどれもが人の目を惹き付けて離さない不思議な魅力を持っていた。
「……君」
「……魂が……」
「え?」
「ここは、彷徨う魂が、多い」
「何を……」
「貴方は、血の匂いがする」
† † † †
昨夜の雨の名残をすっかり奪い去って、太陽はゆっくりと西に傾き始めていた。冬が訪れようとしているこの季節、日が暮れるのは意外と早い。
大きな柱時計が五回目を響かせる頃にやって来た客人は、白い手袋をした手を口元に当てて静かな笑みを零していた。
「あぁ、それはイヴですよ」
左眼の片眼鏡を指先でかけ直しながら答えた彼は、この町を訪れているウィグリード家の当主だ。その若さからは考えられないほど莫大な財産を持つ彼は、ウィグリード家唯一の生き残りとしてその名を知られている。
数年前、ウィグリードの一族は何者かによって皆殺しにされた。事件の真相は、未だ謎のままである。その忌まわしい惨劇を回避した唯一の生き残りである彼はウィグリード家の正当な跡継ぎであったため、特に問題もなく残された遺産をすべて相続した。
この話は貴族のみならず庶民の間でも瞬く間に広がって、今では彼を知らない者はいない。人々の間で幾度も噂の的になる彼は、別名こう呼ばれていた。
『血塗られた貴公子』と。
「イヴ?」
「ええ。私の遠縁にあたる者です。私と同じく身寄りがなかったので、一緒に暮らしているんですよ」
「遠縁、ですか。……そんな話、初めて聞きました」
ウィグリード家の生き残りは彼だけだと言われていた。それが、昨夜出会ったあの少女もその生き残りだったのだ。驚きの表情を向けた私を、彼は意味ありげな笑みでするりとかわす。
「それよりも、私がどうして貴方を訪ねてきたのか、知りたくありませんか?」
「それは……そうですね。第一、今日初めて会う貴方が私に何の用があるのか、まったく検討もつきませんから」
つられてかすかに笑みを零した私をじっと見つめてから、彼は組んでいた足を戻して静かに言った。
「単刀直入に言います。ここに、『黒使の剣』がありますね?」
「な、何のことだか……」
「あぁ、小芝居は不要です。それで? その剣は、どこで手に入れたものですか?」
気を紛らわせようと手に持った紅茶のカップが、震えてカタカタと悲鳴を上げた。そんな私をおもしろそうに見ながら、彼は傍らに置いてあった黒い帽子に手をかける。
「なぜ私が剣のことを知っているのか、何の為にそれを聞き出そうとしているのか、どちらも貴方には計り知れない事です。貴方がなぜあの剣を手に取ったのか、それを私が知り得ないのと同じように」
「……なぜ」
「ひとつだけ貴方に忠告しておきます。黒使の剣はその名の通り、悪魔がもたらした禍いの剣。貴方が悪魔とどんな契約を結んだかは知りませんが、悪魔が素直に約束を守る性格ではない事を覚えておいた方が良いでしょう」
「……そんなはずはない。あの男は」
「貴方がどう思おうと勝手ですよ。ただ貴方が次にあの剣を振るった時、すべては終わります。ええ、貴方の命も契約も、想いも」
はっと顔を上げた時には既に遅く、彼は扉の向こうに消えていた。残された最後の言葉が、私の胸に黒く深く突き刺さる。
「……死んでしまった人は、戻らないのですよ」
間に合わなかった指先に、消え逝く光を切望する。
愚かな私に下されたあまりにも悲痛な運命を、この手では変えることすら出来なかった。
私の手では……。
『切なる望みを叶えてあげましょう』
男はか細い声でそう言った。
『愛しい人を、甦らせてあげましょう』
青白い唇からのぞく不揃いな黄色い歯が、笑うたびにカタカタ鳴った。
異様に伸びた汚れた爪を青白い唇に当てて、男が再び卑しい笑みを浮かべてみせる。
『それには貴方の協力が必要です』
私は妻を願った。
広い屋敷の一室で、誰にも助けられることなく惨殺された、愛しい妻を願った。
血に濡れたその肌が、引き裂かれた四肢が、弾け飛んだその首が、すべて元に戻るのなら。そして、私を激しく責めて……もう一度優しく抱きしめてくれるなら、それ以外に望むものは何もなかった。
† † † †
光を追うことを許されず、地の果てに幽閉された亡者の嘆きが雷鳴となって轟いた。
先ほどから降り続いていた雨は嘘のように止み、町は深夜の濃い闇に包まれている。雨に濡れた体を雲間から恥ずかしそうに覗かせた月だけが、ひっそりと輝くことを許された時間。
雨の匂いと冷たい空気が、肌にじっとりと染み込んでくる。激しく打ち付ける雨がすっかり洗い流してくれた汚れを思い出しながら、深く息を吸い込んだ。
吐き出した白い息の向こうで、赤い影がぼんやりと浮かび上がる。
彼女との初めての出会いだった。
誰もが寝静まった時間にひとり、何をするでもなくただそこに立っている。
闇を溶け込ませたような漆黒の巻き毛と、妖しい美しさを秘めた赤紫の瞳。それとは対照的に、真紅のワンピースがくっきりと夜に浮かび上がっている。
さっきの汚れと同じ色だった。
「こんな時間に何をしているんだい?」
「……」
「家は? 家族の人が心配しているよ」
「……」
見た目よりはるかに落ち着いた雰囲気を醸し出してはいたが、それは誰の目から見てもまだ幼い少女だった。
病的に白い肌。
類を見ない赤紫の瞳。
感情のない美しい顔。
そのどれもが人の目を惹き付けて離さない不思議な魅力を持っていた。
「……君」
「……魂が……」
「え?」
「ここは、彷徨う魂が、多い」
「何を……」
「貴方は、血の匂いがする」
† † † †
昨夜の雨の名残をすっかり奪い去って、太陽はゆっくりと西に傾き始めていた。冬が訪れようとしているこの季節、日が暮れるのは意外と早い。
大きな柱時計が五回目を響かせる頃にやって来た客人は、白い手袋をした手を口元に当てて静かな笑みを零していた。
「あぁ、それはイヴですよ」
左眼の片眼鏡を指先でかけ直しながら答えた彼は、この町を訪れているウィグリード家の当主だ。その若さからは考えられないほど莫大な財産を持つ彼は、ウィグリード家唯一の生き残りとしてその名を知られている。
数年前、ウィグリードの一族は何者かによって皆殺しにされた。事件の真相は、未だ謎のままである。その忌まわしい惨劇を回避した唯一の生き残りである彼はウィグリード家の正当な跡継ぎであったため、特に問題もなく残された遺産をすべて相続した。
この話は貴族のみならず庶民の間でも瞬く間に広がって、今では彼を知らない者はいない。人々の間で幾度も噂の的になる彼は、別名こう呼ばれていた。
『血塗られた貴公子』と。
「イヴ?」
「ええ。私の遠縁にあたる者です。私と同じく身寄りがなかったので、一緒に暮らしているんですよ」
「遠縁、ですか。……そんな話、初めて聞きました」
ウィグリード家の生き残りは彼だけだと言われていた。それが、昨夜出会ったあの少女もその生き残りだったのだ。驚きの表情を向けた私を、彼は意味ありげな笑みでするりとかわす。
「それよりも、私がどうして貴方を訪ねてきたのか、知りたくありませんか?」
「それは……そうですね。第一、今日初めて会う貴方が私に何の用があるのか、まったく検討もつきませんから」
つられてかすかに笑みを零した私をじっと見つめてから、彼は組んでいた足を戻して静かに言った。
「単刀直入に言います。ここに、『黒使の剣』がありますね?」
「な、何のことだか……」
「あぁ、小芝居は不要です。それで? その剣は、どこで手に入れたものですか?」
気を紛らわせようと手に持った紅茶のカップが、震えてカタカタと悲鳴を上げた。そんな私をおもしろそうに見ながら、彼は傍らに置いてあった黒い帽子に手をかける。
「なぜ私が剣のことを知っているのか、何の為にそれを聞き出そうとしているのか、どちらも貴方には計り知れない事です。貴方がなぜあの剣を手に取ったのか、それを私が知り得ないのと同じように」
「……なぜ」
「ひとつだけ貴方に忠告しておきます。黒使の剣はその名の通り、悪魔がもたらした禍いの剣。貴方が悪魔とどんな契約を結んだかは知りませんが、悪魔が素直に約束を守る性格ではない事を覚えておいた方が良いでしょう」
「……そんなはずはない。あの男は」
「貴方がどう思おうと勝手ですよ。ただ貴方が次にあの剣を振るった時、すべては終わります。ええ、貴方の命も契約も、想いも」
はっと顔を上げた時には既に遅く、彼は扉の向こうに消えていた。残された最後の言葉が、私の胸に黒く深く突き刺さる。
「……死んでしまった人は、戻らないのですよ」
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