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第5章 悪魔の花嫁

33・それじゃあ、お元気で

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 花の都リトベル。
 一年中様々な花が咲き乱れる、美しい都。
 時計塔のある街の中央区。噴水を囲んで植えられているのは、ティセルと言う名の赤い花だ。冬に咲くティセルは雪に埋もれた白い街並みに文字通り花を添えて、リトベルの街を鮮やかに彩っている。

 リナス広場の時計塔が昼を告げる。いつもは賑やかな中央区も、吹雪き始めた悪天候に人の姿はほとんどない。冷たい石畳を蹴って足早に歩いていく足音だけが、雪に煙るリナス広場に響いていた。
 その足音が、僅かに乱れる。――どんっと体に走った鈍い衝撃。誰かにぶつかったのだと気付いて振り返ると、真っ白な雪の降る中にくっきりと浮かび上がる黒いコートが目に焼き付いた。

「すみません、大丈夫ですか?」
「えぇ。こちらこそごめんなさい」

 柔らかな女性の声だった。吹雪に煽られて乱れる胡桃色の髪が、女性の顔を覆い隠している。

「これ、落ちましたよ」

 差し出された手には、先程買ったメリダルのハーブティーが入った袋が握られていた。

「すみません。ありがとうございます」
「メリダル、好きなんですね」
「え? あ、あぁ……はい、そうですね。何だか懐かしい味がして……」
「そう。実は私も好きなんです。メリダルのハーブティー」

 口元に手を当てて、くすくすと楽しそうに女性が笑った。流れる髪の隙間から、赤みがかった桃色の瞳がかすかに見える。その視線が交わる前に、女性の瞼は閉じられてしまった。

「今年は寒くなるそうなので、体に気をつけて下さいね。それじゃあ、お元気で」

 セイルが何か言おうとするよりも先に、女性は踵を返して商業区の方へと歩いていく。カツカツと石畳を蹴る足音が遠く離れ、やがて吹雪に紛れて完全に消えてしまった。

「…………ルシェ、ラ……?」

 無意識に、セイルの唇が音を紡ぐ。けれどこぼれたその名を、セイルはどうしても思い出すことができなかった。


 ***


 勢いを増す雪に、石畳の上はうっすらと白く染まり始めていた。
 買い物客の往来が耐えない商業区も、今は降り積もる雪に合わせてしんと静まり返っている。まるで世界から切り離されたかのように、音さえも雪に包まれて落ちていくようだ。

 無音のまま降り積もる白い景色の中、反する漆黒が空き地の前に佇んでいた。様々な店が立ち並ぶ一角に、そこだけが不自然に一軒分だけ空いている。以前どんな店が建っていたのかは知る術もないが、雪に紛れてかすかに古びた本の匂いがした。

「お待たせ」

 空き地の前に佇む黒衣の男に、同じ黒いコートを羽織った女が小走りで駆け寄ってくる。雪に足を取られないか心配して手を差し出せば、女はもう躊躇う素振りもなく男の手を握りしめた。

「もう済んだのですか?」
「うん。我が儘を聞いてくれてありがとう。ちゃんと、お別れしてきた」
「それは何より。体は?」
「もう、レヴィン心配しすぎ。体も大丈夫よ。人でいる時より感覚が鋭くなってるから、時々目眩がするくらい。そのうち慣れてくるわ」
「君を心配するのも、私の特権ですからね」

 さらりと口にすれば、握りしめた手を引き寄せて。レヴィリウスは自身の羽織るコートの中へ、ルシェラの体をすっぽりと包み込む。

「ちょっ……レヴィン! 人の目があるからっ、こういうのは……」
「大丈夫。私たちの姿は彼らには見えませんよ」

 それならいいかとルシェラが身を委ねかけた時、ちょうどすれ違った若者が口笛を吹いてはやしたてる声が聞こえた。

「見えてるじゃないの!!」
「おや、そうでしたか?」

 恥ずかしさに身を捩ってみても、レヴィリウスは素知らぬ顔で微笑んだまま、片腕に抱いたルシェラの体を一向に離そうとはしない。菫色の瞳が楽しげに揺れ、レヴィリウスの唇から小さな笑い声がこぼれ落ちた。

「君はいつになったら私に慣れるのでしょうね」

 空いた手でルシェラの頬を撫で、顎を掬う。口付けされるのかと身構えたルシェラに、またレヴィリウスがおかしそうに笑った。

「まぁ、急ぐ必要もないですか。私たちにはたっぷりと時間がある。ゆっくりと、飽きるほどに君を愛して差し上げましょう」

 唇ではなく、額に落ちたキスは雪のように儚い。
 頬を染めてレヴィリウスを見上げたルシェラの瞳は、赤みがかった桃色に色を変えている。闇に堕ちた証として刻まれた瞳の色は、欲に艶めいているように美しい。
 まるでもっと、と強請るように見つめられれば、銀髪の悪魔がそれを拒否する理由はどこにもない。

「欲に従順な君はとても美しい」
「そんなの……知らない」
「拗ねる君もまた可愛らしい。このまま君を攫って、二人きりでゆっくりと愛を育みたいところですが……どうやらそうもいかないようですね」

 レヴィリウスの視線を追えば、前方の石畳の上に黒い塊が蹲っていた。ふわふわの黒い体には、うっすらと雪が積もっている。

「人が寒いなか待ってんのに、お前ら何イチャついてんだよ。そういうのは人目のないとこでやれよなぁ」
「猫目は関係ないかと思いまして」

 しれっと答えるレヴィリウスを横目に、黒猫のネフィがルシェラの胸元めがけて軽やかに飛び跳ねた。その小さな体を両腕に抱き留めると、すっかり冷えてしまったネフィが暖を取るように頭を埋めてくる。毛に付いた雪を払いのけて胸元に抱き寄せてやると、ネフィの喉を鳴らす音とレヴィリウスの舌打ちが見事に重なった。

「離れなさい、ネフィ。喉を掻っ切りますよ」
「これくらいいいだろ。寒いんだよ!」
「暖を取るならケイヴィスがいるでしょう」
「誰が男の腕の中で喉を鳴らすかよ。アイツの手はゴツゴツしてて気持ちよくねぇし、こないだは指輪に毛が挟まるしで散々だったんだぞ! それに待ちくたびれたって、さっさと一人で行っちまいやがった」
「えっ!? ケイヴィス行っちゃったの!?」

 驚くルシェラに、レヴィリウスの眉があからさま不満げに顰められる。「何か問題でも?」と若干低めの声で問われれば、悪魔の心情などまるで知らないルシェラが逆に不安そうな眼差しをレヴィリウスへと向けた。

「ケイヴィスはあのヴィノクの力を取り込んだんでしょう? 一人にして大丈夫なの?」
「私を心配してくれているのですか? ならば何も問題はありませんよ」

 細い指先を口元に当てて、レヴィリウスが意味深に笑う。

「私が何の策もなく、力を与えるわけがないでしょう。ヴィノクの力の一部に、ちゃんと細工を施してあります」
「え?」
「私に決して逆らわないよう、主従のしるしをね」
「うわぁ……お前やることがえげつないな」

 さすがのネフィもこれには驚いたのか、力なく耳を垂らして一度だけ大きく身震いした。

「今は力が弱くとも、いつ牙を剥くか分かりませんからね。用心に残したことはない。脅威の芽は小さい内に摘み取っただけのことですよ」
「ケイヴィスが知ったら荒れるだろうなぁ」
「彼の自由までは奪っていませんし、それに彼にとっても悪い話ではありませんよ。この私の配下に就くのですからね。そこらの悪魔よりもよっぽど箔が付くというものです」

 そう楽しげに話すレヴィリウスにネフィはもう何も言うまいと、ルシェラの腕の中さらに奥へと顔を埋めた。その小さな耳が柔らかな胸元にすり寄るのを見て、レヴィリウスの眉間に皺が寄る。けれどルシェラが優しくネフィの頭を撫で始めると、レヴィリウスは獲物を掴み損ねた手を引き戻すしかなかった。

「毛玉は役得でいいですね」
「え? 何か言った?」
「いいえ、何でも。――そろそろ行きましょうか、ルシェラ」

 肩を抱いたまま、レヴィリウスがカツンっと石畳を蹴って歩き出した。風に舞う雪片を纏い、レヴィリウスの銀髪がきらきらと濡れたように光る。

「行くって、どこへ?」
「どこへでも。世界中を旅して回りましょう。活気溢れる港町でも、牧歌的な田舎の村でも構いません。気に入った街があれば、そこに家を建ててもいい。君が望むなら、悪魔の国にだって連れていってあげますよ」

 体を包むコートがなくても、ルシェラの体は温かかった。体も心も、レヴィリウスの深い愛情に包まれている。
 そっとレヴィリウスの胸に頬をすり寄せれば、柔らかな吐息と共に肩を抱く腕に力が篭もった。

「レヴィンが一緒なら、どこでもいいわ」
「それは奇遇ですね」

 弾むように、言葉が踊る。響く足音はどこまでも軽やかだ。
 赤い花に導かれた石畳の向こうへ、寄り添う漆黒の影が消えていく。



 柔らかな綿雪舞う、花の都リトベル。
 いにしえの戦いにおいて、聖女が悪魔を封印した場所に建てられた街。ここで人知れず転生を繰り返していた贖罪の聖女は、もうこの街にはいない。




 ―――――――― fin.

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