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第4章 花蕾の聖女

22・必ずあなたに会いに行くわ

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 天に住まう神々と、混沌の闇から生まれる悪魔との戦いは数十年にも及んでいた。
 人間にも悪影響を及ぼす悪魔を完全に打ち払おうと死力を尽くす神々の軍勢。対して闇の軍勢率いる悪魔たちは戦いに意味を持たず、命のやりとりをただの娯楽としか考えていなかった。

 指揮官のひとりでもある月葬の死神レヴィリウス。彼が神々の目を盗んで地上の聖域へ足を踏み入れたのも、単に戦いに飽きたからだ。強いて理由を付けるならば、風の噂に聞いた「聖女」がどんな人間なのか、地上へ足を運ぶくらいには興味があった。

 ただそれだけだ。
 レヴィリウスにとってはただの暇潰し。
 それがいつの間にか回を重ねるごとに、彼の興味は聖女である人間の娘フォルセリアへと移っていった。

『戦いがただの暇潰しというのなら、あなたから暇を奪えば良いと思うの』
『この世のすべてを楽しみ尽くした私に、まだ何か興味をそそられるものがあるとでも?』
『ないとは言い切れないわ。だって世界はこんなにも変化に富んでいて、そこに暮らす私たちも誰ひとりとして同じではないのよ。あなたが見てきた世界と今は違う。だったら過去に楽しんだ何かも、今の世界では違うように感じるかもしれない』
『本質は変わらない』
『そうね。……だからこそあなたには、違った角度で多くの楽しみを得て欲しいわ』

 長くを生きる悪魔レヴィリウスを憂い、持て余した時間を悪い方へ使って欲しくないと暗に告げる。ひとしずくの力を得ただけの、ただの人間が。
 激しく憤る心の奥で、なぜか心地の良い熱が生まれていた。自分でも分からない感情の産声に戸惑いながら、けれどレヴィリウスはその熱の正体を知りたいと思った。

『では傲慢な聖女は、私に何をしてくれるのですか?』
『えっ?』
『私の楽しませることができたのなら、つまらない戦いからは手を引きましょう』

 それは恋のはじまり。
 聖女と悪魔。交わらない光と闇が、いたずらに絡み合った瞬間だった。


 ***


 レヴィリウスと恋に落ちてしまったフォルセリアは、聖女である自身へのけじめとしてひとつのルールを課した。

 それは戦いが終わるまで、『純潔』を守ること。

 神々から授かった力を、己の欲で穢してはならない。禁断の恋に落ちてしまったフォルセリアだったが、自分の使命を忘れたわけではなかった。
 聖女として使命を全うしようするフォルセリアの意思を尊重し、レヴィリウスもまた戦いから手を引こうと悪魔たちの説得を試みていた。指揮官の中でも特に力の強いレヴィリウスに正面から反論するものはおらず、長きに渡って繰り広げられていた戦いの終幕はもうそこまで来ていた。


 ***


 激しい爆音に聖域の砦が一瞬で目を覚ました。
 覚醒する意識を待たずに、常駐している騎士たちの悲鳴が分厚い扉を抜けて響いてくる。窓の外は夜陰に沈んでおり、すべてを覆い尽くす色は室内にも及んでいた。
 ベッドから慌てて飛び起きたフォルセリアが部屋を出ると、再び砦が大きく揺れ、階下で何かが崩れる音がした。
 風を切る音。
 剣を交える金属音。
 飛び交う怒号の中に漏れ聞こえる、フォルセリアの名前。
 あらゆる音に導かれ階段を下りた先には、血まみれの光景が広がっていた。

「……っ!」

 砦の入り口は外からの攻撃によって跡形もなく崩れ落ち、吹き飛んだ瓦礫の一部が奥の壁に大きな穴を開けていた。
 そこかしこに剣が落ちている。持ち主たちは既に事切れており、バラバラになった肉体は剣と同様床のあちこちに吹き飛んでいた。

 絨毯など敷いてもいないのに、床一面が真紅に染まっている。

 ぽたり、と。
 大鎌の鋭い先端を濡らして滴り落ちる鮮血に、床の血溜まりがフォルセリアの動揺を表していびつに揺れた。

「レヴィ……」

 名を呼ぶ前に、フォルセリアめがけて漆黒の大鎌が振り下ろされる。間近に重なった瞳は、美しかった菫色を汚泥のように濁らせていた。

 フォルセリアを庇い、幾つもの白い光が降下する。大鎌に弾かれた光の中から天使が現れ、彼らは剣を振るい、呪文を唱えながら一斉にレヴィリウスめがけて反撃を仕掛けていった。
 砦の異常を察知し、天界から加勢に来てくれたのだろう。けれども神秘の力を扱う彼らですら、月葬の死神レヴィリウスの大鎌からは逃れることができなかった。

「……リア……」

 舞い散る鮮血と白い羽根を浴びながら、レヴィリウスがフォルセリアへ縋るように手を伸ばす。濁った菫色の瞳はそのままに、澄んだ涙が白い頬を伝っていく。

「フォ……セ……。私をっ……止めてくれ!」

 懇願しながら、命を奪う大鎌を振るう。瞬時に張った結界は脆く、フォルセリアの柔肌に細い鮮血の糸が尾を引いた。

「レヴィン! 一体何があったの!? どうしてこんな……」
「お前のせいだ。聖女フォルセリア」

 腹の底に響く、低く冷たい声がした。
 レヴィリウスの横に音もなく現れた黒い靄の中から、血を吸ったような真紅の双眸をした悪魔がひとり現れる。身を屈めたままのレヴィリウスが視線だけを男に向け、憎々しげに「ヴィノク」と呟く音が辛うじてフォルセリアの耳に届いた。

「気高き月葬の死神を、お前が腑抜けに変えたのだ」

 フォルセリアを睨むヴィノクの双眸は、怒りと嫉妬に燃えている。

「誰よりも強く気高いレヴィリウスが、あろうことか戦いをやめると言い出した。勝敗が必要ならば負けでも良いと言ったのだぞ! あの誇り高き月葬の死神が!」
「……っ」
「腑抜けのレヴィリウスに用はない。俺たちに必要なのは強く美しい死神だけだ。――だから、俺が操ってやった。愛などという愚かな幻想に囚われているから、俺の術にすら簡単にかかってしまうのだ」

 隣に佇むレヴィリウスの銀髪を一房手に取り、ヴィノクがこれ見よがしに口付けた。その行為に顔を顰めるも、言葉通り術にかかったレヴィリウスは大鎌を振るうどころかヴィノクの手を払いのけることすらできない。

「レヴィンを……元に戻して。彼は戦いを終わらせようとしてくれたわ。話し合いで解決しようとしてくれた。その思いを踏みにじらないで!」
「何が話し合いだ。笑わせるな! お前がレヴィリウスを籠絡したのではないか!」
「違う! 私たちはっ」
「本気で愛し合っていたと? だったら尚更問題だ」

 ヴィノクがパチンッと指を鳴らした。床に達するほどに長い彼の黒髪が妖しく揺らめき、その中から肋骨を剥き出しにした黒犬が現れる。鋭い牙の間から絶え間なく涎を垂らし、赤い六つ目はフォルセリアを獲物として認識したのか少しも視線を逸らさない。

「俺たち悪魔は戦いをやめることはしない」

 ヴィノクの言葉に合わせたように、二匹の黒犬が虚空に向かって遠吠えした。不気味な韻を孕む鳴き声は夜を身震いさせるように響き、やがてそれは遠くの空からおびただしい数の悪魔の群れを連れてくる。
 声は聞こえないのに大気が震え、その数に、その剥き出しの殺意にフォルセリアの体から冷や汗が溢れ出した。

「聖女フォルセリア。お前の罪はお前の命で贖って貰おう」

 ヴィノクが赤い目を細めて、ひどく卑しい笑みを浮かべた。

「せめて愛する者の手で殺してやろう」

 その言葉を合図に、レヴィリウスの大鎌が再び空を切り裂いた。衝撃波は刃となり、脆弱な結界を切り裂いてフォルセリアの肌を容赦なく傷付けていく。
 レヴィリウスも意識下で必死に抵抗しているのだろう。繰り出す攻撃のすべては普段の半分以下の力だ。それでも実戦を経験していないフォルセリアの体力を削るには充分だった。
 
「フォ……セリア」

 薙ぎ払う大鎌の音に紛れて、レヴィリウスの声が届いた。はっとしたフォルセリアの瞳に、少しだけ色を戻したレヴィリウスの菫色が映り込む。かと思うと、レヴィリウスの声が頭の中に直接流れ込んできた。

『私を封印しなさい』

 続いて振り下ろされる大鎌を避けた瞬間に、声はより強くフォルセリアの中に響いた。

『もうすぐ他の悪魔たちがここへ集結する。私が深淵アビスへの扉を開きます。君はその機を狙い、すべてを』

 深淵アビス
 悪魔たちが恐れる虚無の空間をそう呼ぶのだと、フォルセリアは知識として知っていた。悪魔を生み出す混沌と繋がっており、深淵アビスの闇は堕ちた悪魔の力も体もすべてを残らず喰らい尽くす。
 一度は神々もその入り口を開き悪魔を封じようと試みたものの、肝心の扉を見つけることができなかったと聞いている。
 そんな場所へ自ら堕ちようとしているレヴィリウスに、フォルセリアが緩く首を横に振りながら拒絶の意を示した。

「でも、それじゃレヴィンも……」
『君が他の悪魔に殺されるよりはマシだ。大丈夫。私は月葬の死神。封印されたくらいでは死にません。再び舞い戻り、必ず君を見つけ出す』

 フォルセリアの心が固まる前に、砦を囲む悪魔たちの気配が強くなる。
 時間はない。手立てもない。けれどヴィノクが戦いをやめないのなら、『聖女』としてフォルセリアはまだ死ぬわけにはいかないのだ。

 滲む涙に視界が歪む。そこに映るレヴィリウスを見て、フォルセリアが儚げに微笑んだまま自身の指を絡めて呪文を結んだ。

 愛しい人の記憶に残る最後の姿は、せめて笑顔でありたかった。

「レヴィン。必ずあなたに会いに行くわ。だからそれまで、私を待っていてくれる?」

 振り上げた大鎌を勢いよく床に突き刺したレヴィリウスが、フォルセリアの愛した笑みを浮かべて小さく頷いたような気がした。


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