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第1章 月葬のダークベル

1・君を味見させてもらっても?

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 ルシェラは走っていた。
 夜の闇に包まれ始めた路地裏を。
 降り出した雨に濡れる石畳を蹴って。
 襲い来る恐怖を原動力にして、ただひたすらに走っていた。

 細い背中を追いかけるように響く獣の咆哮が、石畳に打ち付ける雨音の合間を縫って耳に届いた。獰猛な声は思ったよりも間近に迫っていて、減速するのが分かっていても思わず後ろを振り向いてしまう。その真横を、物凄い勢いで黒い影が通り過ぎていった。数秒遅れて、左頬に鋭い痛みが走る。

 足を止めた先に、おぞましい姿の影が立ちはだかっていた。

「……っ!」

 実態のない靄の体。大型犬とも見紛う影は、逆立つ体毛の先から黒い粒子を撒き散らしている。
 腹部に当たる箇所に剥き出しの肋骨。時々動くその様はまるで蜘蛛の足を見ているようだ。
 石畳を穿つほどの分厚い爪。
 赤く煌めく眼球は六つ。その全てが、ルシェラを獲物と見なして狙いを定める。

「い……いや」

 犬に似た黒い影がしなやかに動く。上体を低く屈め、視線はルシェラに合わせたまま喉の奥でくぐもった唸り声を上げている。その声が一段と太く響いた瞬間、無意識に後ずさったルシェラが、水溜まりに足を取られて派手に倒れ込んだ。

「きゃっ!」

 跳ねる水飛沫に重なって獣の咆哮が覆い被さる。振り向く勇気さえ冷たい雨に奪われ、襲い来る絶望と恐怖から逃れようと固く目を閉じたルシェラの体が――突然くるりと反転した。

 一瞬の無重力。次いで再び石畳に転がり落ちる感触に目を開けると、細く鋭い三日月が暗澹あんたんの闇を切り裂いて夜に冷たく輝いていた。

「これはこれは……」

 雨の気配をすっかり消した石畳に、乾いた靴音が響く。
 絹糸のようにさらりと紛れ込んだ声に顔を上げれば、暗い夜空に吊された三日月を背にして銀髪の男が立っていた。

「随分と可愛らしいシャドウが落ちてきましたね」

 柔らかい口調、けれど貼り付く微笑は氷のように熱がない。

「月葬のダークベルへようこそ。今からあなたを狩りますが、心の準備は宜しいですか?」

 細い三日月が大きく弧を描いて風を切る。
 男の後ろに吊られていた三日月――それは黒い大鎌の、緩やかな曲線を描く白い刃の輝きだった。



 思考は何一つ纏まらないのに、現状だけがルシェラを置いて進んでいく。

 がらりと変わった街の雰囲気。
 叩き付けるように降っていた雨の形跡はまるでなく、乾いた石畳の上にずぶ濡れのルシェラだけが倒れ込んでいる。
 見知ったはずの街並みは静謐の闇に包まれ、青白い外灯が照らす通りにはルシェラと銀髪の男以外誰もいない。

 その男が、コツッと靴音を響かせてルシェラに一歩近付いた。

「あぁ、その表情いいですね。煽情的で見惚れそうだ」

 欲を滲ませる言葉を吐きながら、その手に持った大鎌をゆるりと振り上げる。その鋭い刃が自分を狙っていることを嫌と言うほど実感して、ルシェラが尻餅をついたままじりじりと後退した。

「や……やめて」
「君は煽るのが本当に上手い」

 貼り付いた形だけの笑みはそのままに、また一歩ルシェラとの距離を縮める。

「私……変な化け物に襲われてっ」
「襲われた?」

 そこで初めて、男が歩みを止めた。微笑を消し、観察するようにルシェラの体を足先からなぞり上げた視線が、今も血を流し続けている左頬の傷を見てぴたりと止まる。少しだけ細められた菫色の瞳に、かすかな動揺の色が揺れ動いた。

「君は……」

 男の言葉を遮って、聞き覚えのある獣の咆哮が響き渡った。
 はっと見上げた頭上、暗い夜空からどろりとした油のような塊が垂れ落ちている。粘度の高い膜に包まれたそれは地上に近付くにつれて形を明確にし、石畳に降り立つ頃には路地裏で襲いかかってきた異形の犬が再びルシェラと対峙していた。

 六つの赤い目がぎょろりと動いてルシェラを捕捉する。と同時に鋭い牙を剥き出しにした異形の犬が、驚くべき跳躍力でルシェラの頭上に飛びかかった。

「下等種ごときでは話にならない」

 目を瞑る暇もなかった。
 襲いかかってきた異形の犬へ男が振り返った瞬間に、一片の乱れもない真っ直ぐな軌跡が夜の闇を鋭く切り裂いた。悲鳴を上げる間もなく真っ二つに切り裂かれた異形の犬が、その体を覆う闇の粒子のように形を保てず崩れ去る。
 静謐の街が揺れ動いたのはほんの一瞬。気付けば異形の犬がいたことすら幻だったのかと思えるほど、さっきと同じ光景が目の前に広がっていた。

「さて」

 何事もなかったように振り返ると、男が不意にルシェラの前に屈み込んだ。片膝を付き、怯えて動けないルシェラへ無遠慮に手を伸ばす。その指先が頬に触れた瞬間、ルシェラの体がおかしいくらいに震え上がった。

「君が何者かを教えてもらってもいいですか?」

 それはこちらの台詞だと反論したかったが、間近に迫った菫色の瞳に見つめられると、なぜか自分の意思とは裏腹に唇が緩く震え出した。

「ルシェ、ラ……。ルシェラ=メイヴェン」
「ルシェラ。良い名ですね。……ただ私が知りたいのは、君の血の記憶だ」
「血の記憶?」
「そう。闇を惹きつける、甘い血の匂い。もしかして君は……」

 言葉を切り、代わりに頬を包む手のひらがルシェラの輪郭をするりと撫でる。宝石のように魅惑的な菫色の瞳に、危険な色を混ぜた情火の熱が灯るのを見た瞬間、ルシェラは本能的に悟ってしまった。

 ――捕らわれた。

 頬を包み込んだまま、男がルシェラの腰を引く。一気に距離の縮まったルシェラが怯えたように顔を上げたすぐそばで、銀髪の男が情欲に揺れる瞳を細めて美しく笑った。

「君を味見させてもらっても?」

 問いかけに答えなど求めず、男がルシェラの首筋から頬の傷までを一気に舐め上げた。舌先で傷口を軽くつつかれ、チリチリとした痛みと共に体の奥から名前も知らない感情の漣が背筋を震わせ駆け上がっていく。

 ようやく顔を離した男が、血に汚れた自身の唇を名残惜しむようにゆっくりと舐める。その間一時いっときも逸らされることのない菫色の瞳が、視線だけでルシェラを拘束したまま柔らかに弧を描いた。
 恍惚とした表情の奥に隠された、まるで獣のような獰猛さ。自分の餌だと主張するように見下ろしてくるその深い菫色の瞳は、けれどもどんな宝石よりも美しくルシェラの心に刻み込まれてしまった。


 生気のない闇に包まれた、静寂の街。
 漆黒の夜に浮かび上がるのは黒衣に身を包んだ男の長い銀髪と、細い三日月を思わせる大鎌の鋭い輝き。
 頬を包んだ手の親指でゆるゆると唇を撫でられれば、逃げようとしていた体からあっという間に拒絶の意思が抜け落ちる。
 
 まずいと己を叱咤したするも、時既に遅し。
 ルシェラは妖しく揺れる菫色の輝きから逃れる術を失った。

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