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第93話「ようこそ━━『男の世界へ』」
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「それじゃあ、用意は良いかの? 二人とも。気絶、もしくは降参の意思を示した方が負け。勝者には妾から『強化魔法』を付与する──、これで間違いは無いかのぅ?」
審判役を買って出たナイアから、そんな確認が入る。
こういう時に諫めるでも、囃し立てるでもなく、こちらの意思を真っ直ぐに組んでくれる気遣いが本当に有難い。
第三者からすれば、こんな諍いなんてバカ騒ぎでしかないのだろうが、これで案外、必要なモノなのだから。
俺はそんな感謝を頷きの一つに乗せて返し、視線をこの決闘の相手である黒猫へと移した。
見ればノワールもナイアへの返答を済ませ、こちらへと向き直るところであった。
──視線がぶつかる。
黒猫の視線は雄弁であった。
不退転の意思を乗せて、不俱戴天だと思いを込めて──、黒猫は真っ直ぐにこちらを見つめていた。
そんな相手を見て……なぜだろうか。
嬉しい──、とそう感じた。
自然と口角が持ち上がるのが分かる。
乾いた笑いが静かに漏れた。それは俺の口からでもあったし、黒猫の口からでもあったのだろう。
そう。
コレは必要なことだった。少なくとも──今の俺たちにとっては。
「ノワァル? 最近、ちょぉっと調子に乗っているよなぁ? ご主人としてはそう思うんだが、どーよ?」
「機嫌が良いことは否定できませんね。ここしばらくお気に入りのピエロが絶好調なモノですから」
互いの言葉を聞いて、俺たちは更に強く嗤う。
もう臨界点であった。ここが分水嶺であった。
別に目の前の相手を恨んでいる訳じゃあない。
違う出会い方ならこうはなっていなかった。──でも、あの時出会ってしまった。
だから戻れない。
ただ、上にいきたい。白黒はっきりさせたい。心に区切りをつけたい。
わがままかい? わがままだな。──でも、そう思うだろう? アンタもッ!!
「ふふっ。なんて顔をしているんですか、ご主人。まるで、飢えた獣のようですよ?」
「そう見えるか? それなら安心だ。勝負事なんてのは『飢えなきゃ勝てない』からな。今だけは俺のことをヴォルフとでも呼んでくれ」
「不可視の9番の『死灰を撒く病兵』ですか。……それは手段は選ばないという宣戦布告ですかね?」
「勿論、ルールは守るさ。ただ、まぁ……人のことが言えた義理かよ、ノワール? ひっでぇ瞳だ。『漆黒の意思』だぜ、それは。主人を蹴落としてでも『強化魔法』が欲しいのか?」
「ふふふっ。『強化魔法』は確かに欲しいですが……それだけじゃあ、ない。それだけじゃありませんよ、ご主人」
そこで一度言葉を切るとノワールはにやり、と口元を歪めて俺に向けて手刀を構えた。
「そう思うでしょう? 貴方もッ!!」
そんな黒猫の言葉に、俺はついに我慢ができなくなった。
「俺もお前も資格を得たか。ようこそ━━男の世界へ、ってなぁ!!」
もはや漏れ出る声は抑えがたく、俺は間違いようもなく笑いながら、胸中で言葉を作る。
ああ。畜生。
まったくお前は最高だぜ、ノワール。
そんな言葉を飲み込みながら、俺は片手を握りしめ──、強く、更に強く握りしめ、拳をつくる。
もっとだ。もっと。もっと握りしめろ。拳の中にダイヤを作るイメージだ。
力みなくして開放のカタルシスはありえねぇ。
ははっ。俺は今猛烈に熱血している。やぁってやるぜ!!
そうだ。
『強化魔法』はきっかけに過ぎない。
これからやるのは格付けだ。どちらが上なのかをはっきりさせる為の行為だ。
下らないことかもしれない。意味なんて無いのかもしれない。
──だが、はっきりさせなきゃ進めねぇ。
「では、始めるぞぃ!! ノゾムッ!! ノワールッ!!」
俺たちの会話がひと段落したタイミングを見計らい、ナイアから最後の確認が入る。
俺たちは互いに頷いて、構えを取った。
ノワールは<火球>の狙いを定めるように、右手をこちらへと突き出した。
対する俺の構えは──
爪先に重心を置き……足は前後の自然体……体は必然、半身……相手から見る面積は狭まる……前の肩は顎をカバー……相手にとっても障害物となる……利き手も顎の横……発射に備え握りは緩く……前手は攻守兼備……形は状況に応じる……
──編み出したというより、模倣により身に着けた構え。
実戦で構えるのは初めてだが、思った以上にしっくりくる。
構えただけで強くなれた気さえする。
そうだ……これでいい……今は……これがいい……。
未だに慣れない対人戦。それならなにより必要なモノは自信だ。
この構えであれば、それが湧いてくる。
──だが。
そんな俺の構えを前に、黒猫は眉根を寄せた。
どうやらこの構えの素晴らしさが分からないらしい。
ふっ。所詮は畜生か。
見せてやるよ、ノワール。
象形拳の完成を。地上最強の強さって奴をなぁ!!
「それでは━━始めッ!!」
「<火球>ッ!!」
「うわぁっ、っっっぶねぇぇぇぇえええ!?!?」
開幕ぶっぱ──、という悪辣極まりない黒猫の所業に、俺は恥も外聞もついでに構えもかなぐり捨てて、全力で横っ飛びに体を投げた。
急速に流れる視界の中で、俺は自分を叱咤する。
(アホか、俺は。魔法なんて概念が無い世界の構えが、この試合で通用する訳がないだろうが!!)
そんな反省を肯定するように、灼熱が左肩を掠めていく。
またしても存在そのものを削るような痛みに思わず顔をしかめるが、逆に言えば今回の痛みはその程度のモノでしかない。
「<ステータス>ッ!!」
俺は姿勢を整えながら、そう叫ぶ。
そうして、目の前に現れた白板へと視線を移す。
<成金 望>
HP 210/275 → 205/275
そこには体感が正しかった事を証明するように、僅かな減少が記録されていた。
(<火球>の大きさはさっき腹に食らった時と同じくらいだった。……当たり方、もしくは当たった場所でダメージは大きく変わるっぽいな……)
ひりひり、とした痛みを訴えている左肩を摩りながら、俺は考察を続けていく。
(この感じ。……65が上限でも無いんだろうな。顔とか胸とかで食らえば、多分もっと酷いことになるんじゃあないか……?)
そこまで考えて、思わずしかめっ面になってしまった俺だったが、投げかけられた黒猫からの言葉に表情を引き締める。
「ふむ。……さすがに、かすった程度では大きなダメージにはならない様ですね。ダメージの程はいかがでしたか、ご主人?」
「……試合中に教える訳がないだろう」
黒猫の右手が油断なくこちらを狙い続けていることを理解しながら、俺は念じて<ステータス・ボード>を消す。
そんな俺の仕草を嘲笑いながら、黒猫は言葉を続けていく。
「そうですか。まぁ、喋りたくないのなら、それでも構いませんが……」
「……」
俺は黙秘を続ける。
認めたくはないがこの黒猫は俺以上に頭が回る。
僅かなヒントからでも、こちらが不利になる可能性がある限り、うかつに口は開けない。
「……察するに、重要なのは被弾箇所ということでしょうね。左肩よりは……胴体や頭といった明確な弱点を狙った方が、『魔法』の威力は上がるということですか。それも掠めるような当て方ではなく、直撃が望ましい……。違いますか、ご主人」
「……正解」
俺は苦虫を噛み潰したような顔で、そう返す。
なんて野郎だ。さすがは自称名探偵。
まぁ、良いさ。情報マージンに差が無くなったのなら、無理に黙る必要もない。
俺は拍手すら叩きながら、黒猫へと話しかけた。
「まるで心を読んだ様な名推理じゃあねぇかよ、ノワール。いつのまに<読心術>なんてスキルを覚えたんだ?」
「これぐらい推理とすら呼べませんよ、ワトソン君。……それよりも、ご主人。これで──諦めはついたんじゃあないですか」
「……言ってる意味が分からねぇな。それは」
変わらず右手はこちらに向けたまま視線だけを慈しむようなモノに変えて、ノワールは俺へそう問いかける。
急なその質問の意味が分からずに、俺は思わず警戒を強めるが、黒猫はそんな俺の様子に頓着することもなく、自身の考えを並べていく。
「今、結構な距離がありましたが、ご主人の回避はギリギリでしたね。直撃を取るのは難しいことではないでしょう。そうすると──次は『痛い』じゃすみませんよ?」
ぞわり──、と全身の毛が逆立った。
ノワールの表情は変わらない。
あくまでも優しく、まるで手のかかる赤子に語りかけるように黒猫は言葉を続けていく。
「酷なようですが、私も勝利は譲れない。それなら、次に狙うのはご主人の『顔』もしくは『胴体』の真ん中です。そうすれば、少なくとも貴方の戦意を折るのに十分な威力は出せるでしょう」
右手をピタリ、と俺の顔へ向けながら、そう言うノワール。
確かに、初めに『腹』で受けた<火球>のダメージは、拷問かと疑うような痛みであった。
次にアレと同じだけの威力を食らったのなら、試合の続行は難しいだろう。
「……主人の顔を焼くとか、<スキル>の言葉とは思えないな、ノワール?」
「私だって出来ることなら、そんなことはしたくないですよ」
ですから──、とノワールは口元を歪める。
なんとも良い笑顔で。酷く嫌な嗤い方で。
黒猫は言葉を紡いでいく。
「ご主人はもう十二分にやりましたよ。相性が悪かっただけです」
──勝利を確信した黒猫が嘲笑う。
「だから……ここで諦めて、今回だけは引いて下さい、ご主人。今なら全てを無かったことに出来ます。こんな事で恨みやつらみ、妬みや嫉みを引きずるなんて本意ではないでしょう? 勿論、『強化魔法』だって使えますよ。一応、私の次にですけどね。そんなことは些細な事でしょう?」
そう提案を持ち掛けてくる、ノワール。
こちらの努力を認めた上で、こちらの実力は保証した上で、『相性が悪かった』と『十分頑張った』と『今回だけはしょうがない』と『目的は達成できるのだから」 ──、とそう謳うノワール。
その提案は言葉にし難く、それでも例えを絞り出すのなら。
──それは、酷く『悪魔的』な提案だった。
こちらの意志を絡み取る怠惰の鎖。決意を踏み躙る堕落の楔。
ちっぽけなこちらのプライドすらも慮った黒猫からの救いの手。
誰も傷つけないように配慮された、黒猫からのそんな提案に対して俺は──
「その提案への答えはノゥだ、ノワールッ!!」
──激昂と共にそう返した。
ふざけている、とそう感じた。舐められている、と単純にそう思った。
「ノワール。俺はなぁ。しょうがねぇ、運が悪かった、自分には出来ない、明日やればいい、なんて言う奴らに何かが出来るとは思えねぇんだ。だから、──確かめてやるのさ。俺は違う。絶対、違ってやるってなぁ!! 良いか、ノワールッ!! 明日ってのは、今なんだよ!!」
俺は左足で強く大地を踏みしめる。振動が音となり、大気を大きく揺らす。
そんな俺の行動にノワールは少し驚いたような顔をする。
その揺れる瞳を見つめ返しながら、俺は叫んでいた。
「刻め、ノワールッ!! 今日の俺は反逆者……反逆者ノゾムだッ!! 俺の前に道はなく、俺の後ろにこそ道は出来るのさッ!!」
「道程ですか」
「ど、ど、ど、ど、童貞ちゃうわ!!」
「……まぁ、良いでしょう。それじゃあ見せて下さい、ご主人。諦めない悪足掻きがどれほどの力を持つのか。さぁ、━━惨劇に挑みなさい」
ノワールの台詞が終わると同時──、俺は黒猫へ向けて駆けだした。
俺がこの黒猫へ勝つには魔法を掻い潜り、至近距離の肉弾戦へ持ち込むしかないのだから。
……一応、もう一つ他の勝ち筋もあるにはあるが、今それは気にしなくても良いだろう。
「うぉぉぉぉおおおおおおおおおっ!! いくぞッ、ノワァァルゥゥウウウウ!! いよいよもって──、さようならってなぁっ!!」
「死ぬがよいッ!! ──ですよ、ご主人ッ!!」
叫びながら俺はノワールへと近づいていく。
ノワールも応じるように、吠えながら狙いを定めていく。
ああ、ここからが第二ラウンドだなぁ、ノワールッ!!
──それは激戦であった。
「はぁ……はぁ……なんて……しぶとさですか、ご主人」
「ぜひっ……ぜひっ……こっちの……台詞だぜ、ノワールゥ……」
互いに肩で息をする。
流れた時間は数分か、数十分か。
極限の集中を強いられていた俺たちにはそれすらも分からない。
ただ、結果としての今がある。
それだけが全てであり、ここからが未来である。
「既に……都合三発……顔や胴体とはいきませんでしたが、確実に直撃は取りました」
「ぜひっ……ぜひっ……」
息も絶え絶えにノワールの言葉を聞く。
確かにその言葉は事実であると証明するように、俺の右肘、左腕、背中が焼けるような痛みを訴えてくる。
そのどれもが<火球>の直撃を受けた場所だ。
右手を守る為とはいえ、大きすぎる犠牲であったと言わざるを得ない。
歯を食いしばっていないと意識が飛んでいきそうだ。
今この瞬間、地面に倒れても違和感はない。
それほどの痛みを受けて━━。
それだけの痛みに呻いて━━。
「……なのに、何故……何故笑っているんですか、ご主人ッ!!」
「くはははっ……」
━━確かに俺は笑っていた。
視界と同じくらいに口元を歪めて、足元と同じだけ心をふらつかせて。
強く。ただただ強く、俺は笑っていた。
「決まってんだろ、ノワール。……ぜひっ……ぜひっ。笑うべきだと分かった時は……泣くべきじゃあないのさ」
それは誰の目から見ても明確な━━、勝利を確信した笑みだった。
「強がりを……ッ!! 見るからにぼろぼろなのは、そっちじゃあないですか。次こそ何処に当たったとしても、立ち上がるだけの体力は無い筈です!!」
黒猫が吠える。
この世の不条理を嘆くように、この世の不平等を暴くように。
糾弾の意思を、非難の感情を、抗議の言葉を色濃く乗せて、黒猫が吠えている。
「そもそも……何故まだ立てるんですか、ご主人!! とっくのとうに限界は迎えている筈です」
嗚呼。
それはなんて滑稽な悲鳴なのか。
「くははっ……限界は超えるモノだろう……ノワァァル? 更に向こうへってなぁ……」
「あ……悪魔め……」
漏れ出た俺の嗤いに対して、そんな感想を零すノワール。
随分な評価だとは思うが、今はそれすら心地よい。
「ぜひっ……ぜひっ……俺の事を神にでも悪魔にでも成れるって言ったのは……お前だぜ、ノワール」
だったら、俺はなってやるさ。
下手くそな道化でもなく、感情の無い自動人形でも無く。
そう。お前にとっての、悪魔に!!
決意を込めて、息を吸い、俺は拳を握る。
そうして、ゆっくりと構えを作る俺に対して、黒猫は僅かな怯えすら見せながら、言葉を作る。
「何が……貴方をそこまで……?」
思わず、といった形で後退る黒猫。
ぺたん、と垂れた耳はなんとも庇護欲を掻き立てるモノであり、俺は思わず口を開いていた。
「四発だ」
「……え?」
教えるつもりは無かった、最初は考えからも外していたその勝ち筋を。
「この試合が始まってから、お前が使った<火球>の数だ」
「……」
俺の言葉を受けて、押し黙るノワール。
意味を吟味しているのかもしれないが、構うことはなく続けていく。
「試合前に確認した限り、お前の<火球>の消費MPは15程度。━━そして、この試合が始まった時のお前のMPは75」
それは単純な算数だ。誰にだって理解できる自明の理。
「ご自慢の特製弾丸は後、何発かなぁ、ノワァァルくぅん?」
簡単な話だ。━━後一発なのは、俺だけじゃあ無いのである。
ようやく見えてきた可能性に、笑みが溢れるのもしょうがないだろう。
「ふふふふふふふっ……あっはははははっ!!!」
━━なんて。
俺が考えていたところに、黒猫の爆笑が響き渡った。
そこには先程まで感じられた怖気や怯えなど微塵もない。
晴れ晴れとした清々しさを乗せて、黒猫は高らかに笑い続ける。
「ははははっ!! そんなっ……そんな理由でしたか、ご主人ッ!! ご主人らしいですねぇ!!」
「なっ……何がおかしいっ!?」
俺の戸惑いや憤慨なんて置き去りに、楽しくってしょうがないとでも言うように黒猫が笑う。
「そんな細い糸に……そんな薄い望みに賭けていたなんて……ああ、おかしい。おかしくって堪りません……ッ!!」
ひとしきり笑った後で、黒猫は目尻を拭い、構えをとった。
「ご主人……。お忘れのようですが、私が習得したスキルは<火球>ではなく、<炎魔法(初級)>です」
「……それがどうした」
「ですので、こういった事も出来るんですよ━━<炎の拳>」
━━瞬間。
言葉と共に炎がノワールの拳を包み込んだ。
そのまま猛々しい勢いで燃え続けるが、当のノワールに苦痛の色はない。
火炎を両手に宿しながら、黒猫は言葉を紡いでいく。
「発射するのではなく、体の表面に留め置くこと。通常の魔力循環に乗せることで、その消費量は遥かに少ないモノとなります」
「……マジかよ」
アレほど近くに見えていた可能性。
勝利という名の栄光が、急速に遠ざかっていく。
「<炎の拳>では少し味気ないですね。……『素手に咲く花』とでも名付けましょうか」
火炎を揺らめかせて、黒猫が笑う。
もう、憚るモノも遮るモノも無いと楽しげに。
「さぁ、ご主人。これが最後のチャンスです。これまでの事は水に流しませんか? 今なら全てを無かった事に出来ますよ?」
またしても遠ざかってしまった勝利の目。
唯一の勝機であった接近戦での勝算すら潰された上での最終確認。
そんな救済にも等しい提案を。
「━━ノゥだ、ノワール!」
俺は躊躇うことなく、断った。
「全てを無かった事にする……? その発言は減点だぜ、ノワール!! 俺はお前のやった事を無かった事になんてしない!!」
そんな俺の発言を知っていたかのように、黒猫は困ったように、それでもどこか嬉しそうに言葉を紡いだ。
「その甘さ……嫌いじゃあないですよ。ですが、実際勝ち目は有りませんよご主人。私の魔力切れの可能性も途絶えた今、貴方に出来るのは諦めて全てを許すことだけです。もう良いでしょう? 貴方は頑張りましたよ、許すと言いなさい」
「ノゥ!!」
「イエスと言いなさい!!」
「絶対にノゥッ!! ……忘れたのかノワール。俺は反逆者だぜ? ノーとしか言わない男さ!」
「……お馬鹿なお子様にお難しいお話をしてしまったようですね。それでは貴方の心変わりを誘発しましょう」
言葉と共にノワールはこちらに向けて踏み込んできた。
━━瞬間で零にされた距離が俺に熱を伝えてくる。
「はっ!!」
「っぶねぇぇぇえ!!」
間一髪で拳を交わし距離を取る。
幸い、ノワールは追撃をするでもなく、その場で残心を取っていた。
「分かったでしょう、ご主人?」
とんとん、とつま先で床を叩きながら、強キャラロールをするノワール。
どっかで見たなぁ、と思ったら、魔王の物真似でしたわ、アレ。
「通常であればご主人の方が私よりも早く動けます。……ですが、負傷し疲労したご主人では、もはや満足な接近戦は望めません」
「……」
「どうします?どうするんですか、ご主人?私はここにいますよ。倒すんでしょう?勝機はいくらですか?千に一つか万に一つか。億か兆かそれとも京か」
「ノワール……それがたとえ那由多の彼方でも俺には十分に過ぎる」
吹けもしない口笛を吹く、ノワール。
だから、人間は素晴らしいとでも言いたげな瞳が鼻につく猫である。
「ノワール。……ここまで俺はやられっぱなしなんだ。それは決して納得出来る事じゃあねぇ。納得は全てに優先するぜ。俺はまだマイナスなんだッ!! ゼロに向かっていきたいッ!! 自分のマイナスをゼロに戻したいだけだッ!!」
そう言い切ると、俺は自分から黒猫へ向けて突っ込んだ。
それは余りにも無謀で無策な真っ向勝負。
そんな俺の突撃を受けて、黒猫は歯をむき出しにして笑い、受けて立つように拳を構えた。
「良いでしょう……。所詮この世は弱肉強食! 強ければ生き、弱ければ死ぬ! そして生き残った方こそが正義! 正義こそジャステイス! 行きますよ、ご主人! 絶対正義の名の下に──正義を執行します!!」
互いに相手に踏み込んだ結果、瞬き程の刹那でもって、拳が触れる距離へとなる。
こちらの挙動を完全に読んで放たれた黒猫のカウンター。
俺が今まで庇い続けてきた右手を潰す様に放たれた必殺の左フック。
「ははっ……受け攻めはいくつか予想してたけどよ……。━━そりゃあ悪手だろ、ノワール」
俺はそれを当たり前のように、右手で受けた。
灼熱が伝わってくる。舐るような炎の熱が、嬲るような炎の痛みが、俺の脳内を焼き焦がす。
だがそれは、今の俺のアドレナリンを止める程じゃあない。
「馬鹿な……ッ!! 右手を犠牲に……でも、左手だって、既に死に体の筈……ッ!?」
ノワールが驚愕に目を見張る。
まぁ、それもそうだろうな。
今の俺は……酷く痛む左手を無理やり握りこみ、拳を作っているのだから。
「ノワール。俺にはもう……生きるとか死ぬとか、誰が正義で誰が悪かなんて、もうどうでも良い。もうこれで終わってもいい……だからありったけを…!!」
「なっ!? やめて下さい、ご主人!! この先どれほどの……」
「感謝するぜ……ノワール……お前に出会えた、これまでの全てに……ッ!!」
俺は万感の思いを込めて、ノワールへ拳を叩き込んだ。
その感謝の正拳突きは確かに黒猫を捉えた。
手応えが攻撃の命中を伝えてくる。
──が。
「……これ程……猫である我が身を恨んだ事はありません……」
それは同時に攻撃の軸をズラされた感触をも伝えていた。
拳の先へと視線を移せば……僅かに。
俺の必殺の正拳突きを……ほんの僅かに逸らしながら、黒猫も拳を放っていた。
それは形意拳の基本である五行拳のひとつ。敵の中段突きを片手でねじりつつ、もう片方の手で相手のみぞおちを打つ奥義が一つ。
その名は──
「崩拳……だと……」
執念の為せる技か。
通常であれば届かないはずの距離を、炎を伸ばすことで克服し、ノワールの拳は確かに俺のみぞおちを捉えていた。
魔力によって俺の存在が削られていくのが分かる。
抗いようもなく、今度こそ俺は意識を手放した。
だが、浅いとはいえ俺の一撃を受けたノワールも無事ではいられなかったのだろう。
最後に何かが倒れるようなドサリ、という音が聞こえた気がした。
数分後か、はたまた数時間後か。
意識を戻した勝者が、手刀を作るように指を伸ばし、強く拳の形に握りしめた。
審判役の魔王だけがその勝者の名を高らかに呼んだ。
それは確かな決着の証であった。
この物語は少年と黒猫が歩き出す物語だ。肉体が……という意味ではなく、青春から大人へと。移り変わるということ。それこそがALTERATION。つまりは━━アルターってことさ。
審判役を買って出たナイアから、そんな確認が入る。
こういう時に諫めるでも、囃し立てるでもなく、こちらの意思を真っ直ぐに組んでくれる気遣いが本当に有難い。
第三者からすれば、こんな諍いなんてバカ騒ぎでしかないのだろうが、これで案外、必要なモノなのだから。
俺はそんな感謝を頷きの一つに乗せて返し、視線をこの決闘の相手である黒猫へと移した。
見ればノワールもナイアへの返答を済ませ、こちらへと向き直るところであった。
──視線がぶつかる。
黒猫の視線は雄弁であった。
不退転の意思を乗せて、不俱戴天だと思いを込めて──、黒猫は真っ直ぐにこちらを見つめていた。
そんな相手を見て……なぜだろうか。
嬉しい──、とそう感じた。
自然と口角が持ち上がるのが分かる。
乾いた笑いが静かに漏れた。それは俺の口からでもあったし、黒猫の口からでもあったのだろう。
そう。
コレは必要なことだった。少なくとも──今の俺たちにとっては。
「ノワァル? 最近、ちょぉっと調子に乗っているよなぁ? ご主人としてはそう思うんだが、どーよ?」
「機嫌が良いことは否定できませんね。ここしばらくお気に入りのピエロが絶好調なモノですから」
互いの言葉を聞いて、俺たちは更に強く嗤う。
もう臨界点であった。ここが分水嶺であった。
別に目の前の相手を恨んでいる訳じゃあない。
違う出会い方ならこうはなっていなかった。──でも、あの時出会ってしまった。
だから戻れない。
ただ、上にいきたい。白黒はっきりさせたい。心に区切りをつけたい。
わがままかい? わがままだな。──でも、そう思うだろう? アンタもッ!!
「ふふっ。なんて顔をしているんですか、ご主人。まるで、飢えた獣のようですよ?」
「そう見えるか? それなら安心だ。勝負事なんてのは『飢えなきゃ勝てない』からな。今だけは俺のことをヴォルフとでも呼んでくれ」
「不可視の9番の『死灰を撒く病兵』ですか。……それは手段は選ばないという宣戦布告ですかね?」
「勿論、ルールは守るさ。ただ、まぁ……人のことが言えた義理かよ、ノワール? ひっでぇ瞳だ。『漆黒の意思』だぜ、それは。主人を蹴落としてでも『強化魔法』が欲しいのか?」
「ふふふっ。『強化魔法』は確かに欲しいですが……それだけじゃあ、ない。それだけじゃありませんよ、ご主人」
そこで一度言葉を切るとノワールはにやり、と口元を歪めて俺に向けて手刀を構えた。
「そう思うでしょう? 貴方もッ!!」
そんな黒猫の言葉に、俺はついに我慢ができなくなった。
「俺もお前も資格を得たか。ようこそ━━男の世界へ、ってなぁ!!」
もはや漏れ出る声は抑えがたく、俺は間違いようもなく笑いながら、胸中で言葉を作る。
ああ。畜生。
まったくお前は最高だぜ、ノワール。
そんな言葉を飲み込みながら、俺は片手を握りしめ──、強く、更に強く握りしめ、拳をつくる。
もっとだ。もっと。もっと握りしめろ。拳の中にダイヤを作るイメージだ。
力みなくして開放のカタルシスはありえねぇ。
ははっ。俺は今猛烈に熱血している。やぁってやるぜ!!
そうだ。
『強化魔法』はきっかけに過ぎない。
これからやるのは格付けだ。どちらが上なのかをはっきりさせる為の行為だ。
下らないことかもしれない。意味なんて無いのかもしれない。
──だが、はっきりさせなきゃ進めねぇ。
「では、始めるぞぃ!! ノゾムッ!! ノワールッ!!」
俺たちの会話がひと段落したタイミングを見計らい、ナイアから最後の確認が入る。
俺たちは互いに頷いて、構えを取った。
ノワールは<火球>の狙いを定めるように、右手をこちらへと突き出した。
対する俺の構えは──
爪先に重心を置き……足は前後の自然体……体は必然、半身……相手から見る面積は狭まる……前の肩は顎をカバー……相手にとっても障害物となる……利き手も顎の横……発射に備え握りは緩く……前手は攻守兼備……形は状況に応じる……
──編み出したというより、模倣により身に着けた構え。
実戦で構えるのは初めてだが、思った以上にしっくりくる。
構えただけで強くなれた気さえする。
そうだ……これでいい……今は……これがいい……。
未だに慣れない対人戦。それならなにより必要なモノは自信だ。
この構えであれば、それが湧いてくる。
──だが。
そんな俺の構えを前に、黒猫は眉根を寄せた。
どうやらこの構えの素晴らしさが分からないらしい。
ふっ。所詮は畜生か。
見せてやるよ、ノワール。
象形拳の完成を。地上最強の強さって奴をなぁ!!
「それでは━━始めッ!!」
「<火球>ッ!!」
「うわぁっ、っっっぶねぇぇぇぇえええ!?!?」
開幕ぶっぱ──、という悪辣極まりない黒猫の所業に、俺は恥も外聞もついでに構えもかなぐり捨てて、全力で横っ飛びに体を投げた。
急速に流れる視界の中で、俺は自分を叱咤する。
(アホか、俺は。魔法なんて概念が無い世界の構えが、この試合で通用する訳がないだろうが!!)
そんな反省を肯定するように、灼熱が左肩を掠めていく。
またしても存在そのものを削るような痛みに思わず顔をしかめるが、逆に言えば今回の痛みはその程度のモノでしかない。
「<ステータス>ッ!!」
俺は姿勢を整えながら、そう叫ぶ。
そうして、目の前に現れた白板へと視線を移す。
<成金 望>
HP 210/275 → 205/275
そこには体感が正しかった事を証明するように、僅かな減少が記録されていた。
(<火球>の大きさはさっき腹に食らった時と同じくらいだった。……当たり方、もしくは当たった場所でダメージは大きく変わるっぽいな……)
ひりひり、とした痛みを訴えている左肩を摩りながら、俺は考察を続けていく。
(この感じ。……65が上限でも無いんだろうな。顔とか胸とかで食らえば、多分もっと酷いことになるんじゃあないか……?)
そこまで考えて、思わずしかめっ面になってしまった俺だったが、投げかけられた黒猫からの言葉に表情を引き締める。
「ふむ。……さすがに、かすった程度では大きなダメージにはならない様ですね。ダメージの程はいかがでしたか、ご主人?」
「……試合中に教える訳がないだろう」
黒猫の右手が油断なくこちらを狙い続けていることを理解しながら、俺は念じて<ステータス・ボード>を消す。
そんな俺の仕草を嘲笑いながら、黒猫は言葉を続けていく。
「そうですか。まぁ、喋りたくないのなら、それでも構いませんが……」
「……」
俺は黙秘を続ける。
認めたくはないがこの黒猫は俺以上に頭が回る。
僅かなヒントからでも、こちらが不利になる可能性がある限り、うかつに口は開けない。
「……察するに、重要なのは被弾箇所ということでしょうね。左肩よりは……胴体や頭といった明確な弱点を狙った方が、『魔法』の威力は上がるということですか。それも掠めるような当て方ではなく、直撃が望ましい……。違いますか、ご主人」
「……正解」
俺は苦虫を噛み潰したような顔で、そう返す。
なんて野郎だ。さすがは自称名探偵。
まぁ、良いさ。情報マージンに差が無くなったのなら、無理に黙る必要もない。
俺は拍手すら叩きながら、黒猫へと話しかけた。
「まるで心を読んだ様な名推理じゃあねぇかよ、ノワール。いつのまに<読心術>なんてスキルを覚えたんだ?」
「これぐらい推理とすら呼べませんよ、ワトソン君。……それよりも、ご主人。これで──諦めはついたんじゃあないですか」
「……言ってる意味が分からねぇな。それは」
変わらず右手はこちらに向けたまま視線だけを慈しむようなモノに変えて、ノワールは俺へそう問いかける。
急なその質問の意味が分からずに、俺は思わず警戒を強めるが、黒猫はそんな俺の様子に頓着することもなく、自身の考えを並べていく。
「今、結構な距離がありましたが、ご主人の回避はギリギリでしたね。直撃を取るのは難しいことではないでしょう。そうすると──次は『痛い』じゃすみませんよ?」
ぞわり──、と全身の毛が逆立った。
ノワールの表情は変わらない。
あくまでも優しく、まるで手のかかる赤子に語りかけるように黒猫は言葉を続けていく。
「酷なようですが、私も勝利は譲れない。それなら、次に狙うのはご主人の『顔』もしくは『胴体』の真ん中です。そうすれば、少なくとも貴方の戦意を折るのに十分な威力は出せるでしょう」
右手をピタリ、と俺の顔へ向けながら、そう言うノワール。
確かに、初めに『腹』で受けた<火球>のダメージは、拷問かと疑うような痛みであった。
次にアレと同じだけの威力を食らったのなら、試合の続行は難しいだろう。
「……主人の顔を焼くとか、<スキル>の言葉とは思えないな、ノワール?」
「私だって出来ることなら、そんなことはしたくないですよ」
ですから──、とノワールは口元を歪める。
なんとも良い笑顔で。酷く嫌な嗤い方で。
黒猫は言葉を紡いでいく。
「ご主人はもう十二分にやりましたよ。相性が悪かっただけです」
──勝利を確信した黒猫が嘲笑う。
「だから……ここで諦めて、今回だけは引いて下さい、ご主人。今なら全てを無かったことに出来ます。こんな事で恨みやつらみ、妬みや嫉みを引きずるなんて本意ではないでしょう? 勿論、『強化魔法』だって使えますよ。一応、私の次にですけどね。そんなことは些細な事でしょう?」
そう提案を持ち掛けてくる、ノワール。
こちらの努力を認めた上で、こちらの実力は保証した上で、『相性が悪かった』と『十分頑張った』と『今回だけはしょうがない』と『目的は達成できるのだから」 ──、とそう謳うノワール。
その提案は言葉にし難く、それでも例えを絞り出すのなら。
──それは、酷く『悪魔的』な提案だった。
こちらの意志を絡み取る怠惰の鎖。決意を踏み躙る堕落の楔。
ちっぽけなこちらのプライドすらも慮った黒猫からの救いの手。
誰も傷つけないように配慮された、黒猫からのそんな提案に対して俺は──
「その提案への答えはノゥだ、ノワールッ!!」
──激昂と共にそう返した。
ふざけている、とそう感じた。舐められている、と単純にそう思った。
「ノワール。俺はなぁ。しょうがねぇ、運が悪かった、自分には出来ない、明日やればいい、なんて言う奴らに何かが出来るとは思えねぇんだ。だから、──確かめてやるのさ。俺は違う。絶対、違ってやるってなぁ!! 良いか、ノワールッ!! 明日ってのは、今なんだよ!!」
俺は左足で強く大地を踏みしめる。振動が音となり、大気を大きく揺らす。
そんな俺の行動にノワールは少し驚いたような顔をする。
その揺れる瞳を見つめ返しながら、俺は叫んでいた。
「刻め、ノワールッ!! 今日の俺は反逆者……反逆者ノゾムだッ!! 俺の前に道はなく、俺の後ろにこそ道は出来るのさッ!!」
「道程ですか」
「ど、ど、ど、ど、童貞ちゃうわ!!」
「……まぁ、良いでしょう。それじゃあ見せて下さい、ご主人。諦めない悪足掻きがどれほどの力を持つのか。さぁ、━━惨劇に挑みなさい」
ノワールの台詞が終わると同時──、俺は黒猫へ向けて駆けだした。
俺がこの黒猫へ勝つには魔法を掻い潜り、至近距離の肉弾戦へ持ち込むしかないのだから。
……一応、もう一つ他の勝ち筋もあるにはあるが、今それは気にしなくても良いだろう。
「うぉぉぉぉおおおおおおおおおっ!! いくぞッ、ノワァァルゥゥウウウウ!! いよいよもって──、さようならってなぁっ!!」
「死ぬがよいッ!! ──ですよ、ご主人ッ!!」
叫びながら俺はノワールへと近づいていく。
ノワールも応じるように、吠えながら狙いを定めていく。
ああ、ここからが第二ラウンドだなぁ、ノワールッ!!
──それは激戦であった。
「はぁ……はぁ……なんて……しぶとさですか、ご主人」
「ぜひっ……ぜひっ……こっちの……台詞だぜ、ノワールゥ……」
互いに肩で息をする。
流れた時間は数分か、数十分か。
極限の集中を強いられていた俺たちにはそれすらも分からない。
ただ、結果としての今がある。
それだけが全てであり、ここからが未来である。
「既に……都合三発……顔や胴体とはいきませんでしたが、確実に直撃は取りました」
「ぜひっ……ぜひっ……」
息も絶え絶えにノワールの言葉を聞く。
確かにその言葉は事実であると証明するように、俺の右肘、左腕、背中が焼けるような痛みを訴えてくる。
そのどれもが<火球>の直撃を受けた場所だ。
右手を守る為とはいえ、大きすぎる犠牲であったと言わざるを得ない。
歯を食いしばっていないと意識が飛んでいきそうだ。
今この瞬間、地面に倒れても違和感はない。
それほどの痛みを受けて━━。
それだけの痛みに呻いて━━。
「……なのに、何故……何故笑っているんですか、ご主人ッ!!」
「くはははっ……」
━━確かに俺は笑っていた。
視界と同じくらいに口元を歪めて、足元と同じだけ心をふらつかせて。
強く。ただただ強く、俺は笑っていた。
「決まってんだろ、ノワール。……ぜひっ……ぜひっ。笑うべきだと分かった時は……泣くべきじゃあないのさ」
それは誰の目から見ても明確な━━、勝利を確信した笑みだった。
「強がりを……ッ!! 見るからにぼろぼろなのは、そっちじゃあないですか。次こそ何処に当たったとしても、立ち上がるだけの体力は無い筈です!!」
黒猫が吠える。
この世の不条理を嘆くように、この世の不平等を暴くように。
糾弾の意思を、非難の感情を、抗議の言葉を色濃く乗せて、黒猫が吠えている。
「そもそも……何故まだ立てるんですか、ご主人!! とっくのとうに限界は迎えている筈です」
嗚呼。
それはなんて滑稽な悲鳴なのか。
「くははっ……限界は超えるモノだろう……ノワァァル? 更に向こうへってなぁ……」
「あ……悪魔め……」
漏れ出た俺の嗤いに対して、そんな感想を零すノワール。
随分な評価だとは思うが、今はそれすら心地よい。
「ぜひっ……ぜひっ……俺の事を神にでも悪魔にでも成れるって言ったのは……お前だぜ、ノワール」
だったら、俺はなってやるさ。
下手くそな道化でもなく、感情の無い自動人形でも無く。
そう。お前にとっての、悪魔に!!
決意を込めて、息を吸い、俺は拳を握る。
そうして、ゆっくりと構えを作る俺に対して、黒猫は僅かな怯えすら見せながら、言葉を作る。
「何が……貴方をそこまで……?」
思わず、といった形で後退る黒猫。
ぺたん、と垂れた耳はなんとも庇護欲を掻き立てるモノであり、俺は思わず口を開いていた。
「四発だ」
「……え?」
教えるつもりは無かった、最初は考えからも外していたその勝ち筋を。
「この試合が始まってから、お前が使った<火球>の数だ」
「……」
俺の言葉を受けて、押し黙るノワール。
意味を吟味しているのかもしれないが、構うことはなく続けていく。
「試合前に確認した限り、お前の<火球>の消費MPは15程度。━━そして、この試合が始まった時のお前のMPは75」
それは単純な算数だ。誰にだって理解できる自明の理。
「ご自慢の特製弾丸は後、何発かなぁ、ノワァァルくぅん?」
簡単な話だ。━━後一発なのは、俺だけじゃあ無いのである。
ようやく見えてきた可能性に、笑みが溢れるのもしょうがないだろう。
「ふふふふふふふっ……あっはははははっ!!!」
━━なんて。
俺が考えていたところに、黒猫の爆笑が響き渡った。
そこには先程まで感じられた怖気や怯えなど微塵もない。
晴れ晴れとした清々しさを乗せて、黒猫は高らかに笑い続ける。
「ははははっ!! そんなっ……そんな理由でしたか、ご主人ッ!! ご主人らしいですねぇ!!」
「なっ……何がおかしいっ!?」
俺の戸惑いや憤慨なんて置き去りに、楽しくってしょうがないとでも言うように黒猫が笑う。
「そんな細い糸に……そんな薄い望みに賭けていたなんて……ああ、おかしい。おかしくって堪りません……ッ!!」
ひとしきり笑った後で、黒猫は目尻を拭い、構えをとった。
「ご主人……。お忘れのようですが、私が習得したスキルは<火球>ではなく、<炎魔法(初級)>です」
「……それがどうした」
「ですので、こういった事も出来るんですよ━━<炎の拳>」
━━瞬間。
言葉と共に炎がノワールの拳を包み込んだ。
そのまま猛々しい勢いで燃え続けるが、当のノワールに苦痛の色はない。
火炎を両手に宿しながら、黒猫は言葉を紡いでいく。
「発射するのではなく、体の表面に留め置くこと。通常の魔力循環に乗せることで、その消費量は遥かに少ないモノとなります」
「……マジかよ」
アレほど近くに見えていた可能性。
勝利という名の栄光が、急速に遠ざかっていく。
「<炎の拳>では少し味気ないですね。……『素手に咲く花』とでも名付けましょうか」
火炎を揺らめかせて、黒猫が笑う。
もう、憚るモノも遮るモノも無いと楽しげに。
「さぁ、ご主人。これが最後のチャンスです。これまでの事は水に流しませんか? 今なら全てを無かった事に出来ますよ?」
またしても遠ざかってしまった勝利の目。
唯一の勝機であった接近戦での勝算すら潰された上での最終確認。
そんな救済にも等しい提案を。
「━━ノゥだ、ノワール!」
俺は躊躇うことなく、断った。
「全てを無かった事にする……? その発言は減点だぜ、ノワール!! 俺はお前のやった事を無かった事になんてしない!!」
そんな俺の発言を知っていたかのように、黒猫は困ったように、それでもどこか嬉しそうに言葉を紡いだ。
「その甘さ……嫌いじゃあないですよ。ですが、実際勝ち目は有りませんよご主人。私の魔力切れの可能性も途絶えた今、貴方に出来るのは諦めて全てを許すことだけです。もう良いでしょう? 貴方は頑張りましたよ、許すと言いなさい」
「ノゥ!!」
「イエスと言いなさい!!」
「絶対にノゥッ!! ……忘れたのかノワール。俺は反逆者だぜ? ノーとしか言わない男さ!」
「……お馬鹿なお子様にお難しいお話をしてしまったようですね。それでは貴方の心変わりを誘発しましょう」
言葉と共にノワールはこちらに向けて踏み込んできた。
━━瞬間で零にされた距離が俺に熱を伝えてくる。
「はっ!!」
「っぶねぇぇぇえ!!」
間一髪で拳を交わし距離を取る。
幸い、ノワールは追撃をするでもなく、その場で残心を取っていた。
「分かったでしょう、ご主人?」
とんとん、とつま先で床を叩きながら、強キャラロールをするノワール。
どっかで見たなぁ、と思ったら、魔王の物真似でしたわ、アレ。
「通常であればご主人の方が私よりも早く動けます。……ですが、負傷し疲労したご主人では、もはや満足な接近戦は望めません」
「……」
「どうします?どうするんですか、ご主人?私はここにいますよ。倒すんでしょう?勝機はいくらですか?千に一つか万に一つか。億か兆かそれとも京か」
「ノワール……それがたとえ那由多の彼方でも俺には十分に過ぎる」
吹けもしない口笛を吹く、ノワール。
だから、人間は素晴らしいとでも言いたげな瞳が鼻につく猫である。
「ノワール。……ここまで俺はやられっぱなしなんだ。それは決して納得出来る事じゃあねぇ。納得は全てに優先するぜ。俺はまだマイナスなんだッ!! ゼロに向かっていきたいッ!! 自分のマイナスをゼロに戻したいだけだッ!!」
そう言い切ると、俺は自分から黒猫へ向けて突っ込んだ。
それは余りにも無謀で無策な真っ向勝負。
そんな俺の突撃を受けて、黒猫は歯をむき出しにして笑い、受けて立つように拳を構えた。
「良いでしょう……。所詮この世は弱肉強食! 強ければ生き、弱ければ死ぬ! そして生き残った方こそが正義! 正義こそジャステイス! 行きますよ、ご主人! 絶対正義の名の下に──正義を執行します!!」
互いに相手に踏み込んだ結果、瞬き程の刹那でもって、拳が触れる距離へとなる。
こちらの挙動を完全に読んで放たれた黒猫のカウンター。
俺が今まで庇い続けてきた右手を潰す様に放たれた必殺の左フック。
「ははっ……受け攻めはいくつか予想してたけどよ……。━━そりゃあ悪手だろ、ノワール」
俺はそれを当たり前のように、右手で受けた。
灼熱が伝わってくる。舐るような炎の熱が、嬲るような炎の痛みが、俺の脳内を焼き焦がす。
だがそれは、今の俺のアドレナリンを止める程じゃあない。
「馬鹿な……ッ!! 右手を犠牲に……でも、左手だって、既に死に体の筈……ッ!?」
ノワールが驚愕に目を見張る。
まぁ、それもそうだろうな。
今の俺は……酷く痛む左手を無理やり握りこみ、拳を作っているのだから。
「ノワール。俺にはもう……生きるとか死ぬとか、誰が正義で誰が悪かなんて、もうどうでも良い。もうこれで終わってもいい……だからありったけを…!!」
「なっ!? やめて下さい、ご主人!! この先どれほどの……」
「感謝するぜ……ノワール……お前に出会えた、これまでの全てに……ッ!!」
俺は万感の思いを込めて、ノワールへ拳を叩き込んだ。
その感謝の正拳突きは確かに黒猫を捉えた。
手応えが攻撃の命中を伝えてくる。
──が。
「……これ程……猫である我が身を恨んだ事はありません……」
それは同時に攻撃の軸をズラされた感触をも伝えていた。
拳の先へと視線を移せば……僅かに。
俺の必殺の正拳突きを……ほんの僅かに逸らしながら、黒猫も拳を放っていた。
それは形意拳の基本である五行拳のひとつ。敵の中段突きを片手でねじりつつ、もう片方の手で相手のみぞおちを打つ奥義が一つ。
その名は──
「崩拳……だと……」
執念の為せる技か。
通常であれば届かないはずの距離を、炎を伸ばすことで克服し、ノワールの拳は確かに俺のみぞおちを捉えていた。
魔力によって俺の存在が削られていくのが分かる。
抗いようもなく、今度こそ俺は意識を手放した。
だが、浅いとはいえ俺の一撃を受けたノワールも無事ではいられなかったのだろう。
最後に何かが倒れるようなドサリ、という音が聞こえた気がした。
数分後か、はたまた数時間後か。
意識を戻した勝者が、手刀を作るように指を伸ばし、強く拳の形に握りしめた。
審判役の魔王だけがその勝者の名を高らかに呼んだ。
それは確かな決着の証であった。
この物語は少年と黒猫が歩き出す物語だ。肉体が……という意味ではなく、青春から大人へと。移り変わるということ。それこそがALTERATION。つまりは━━アルターってことさ。
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