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たかせまこと

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あの時手を離したのは

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 ああ。
 ゆきさんはちらりと元夫に目を走らせてからあたしを見て、納得したようにうなずいた。
 何を納得したんだろ。

「なんだよ、お前。口を出すなよ。俺と裕子の話だろ」

 意を決したようにというか、やけくそというか。
 そんな感じで口を挟んだ元夫に、ゆきさんはきれいに微笑みかけた。
 それはそれは、美しい氷の笑顔で。

「でも、今のあなたのパートナーは裕子さんじゃないよね?」
「色々……あったんだよ、お前の知らないとこで! 結婚していた時に!」
「そういうの、離婚の時にクリアにしてる筈でしょう?」
「だからっそれとは別に……」

 ちょっと驚いた。
 ゆきさんの話の合わせ方、ちょっと尋常じゃなくない?
 知らない筈よね、こっちの事情。

「離婚のときにはなかった別の事情……なら、今、裕子さんといるのは僕だから、僕が口を出すのは当然だと思うけど?」

 怖い。
 怖い怖い怖い。
 笑顔が怖いです、ゆきさん。
 元夫はその笑顔に気圧されて、じりじりとあたしから身体を離す。
 すいっと一歩踏み込んで元夫とあたしの間に距離を取らせて、ゆきさんは元夫の耳元に顔を寄せた。
 それから意外と低いはっきりした声で言った。

「今の奥さんと喧嘩でもした? それとも、二人目妊娠かなんかで構ってもらえなくて、寂しくでもなった?」
「なっ」
「あわよくば裕子さんと楽しく杯交わして、一線越えられでもしたらラッキー、なんて思ってないよね?」
「ち、が……」
「この人、厳しいけど情に厚いから……もしかして、まだ自分は何をしても赦してもらえるとか、思ってるわけ?」
「あ」
「それ、すごい甘えじゃない? 裕子さんの特別扱いは、そんなに心地よかったの?」
「だ…から……」
「自分から手を離しておいて、特別扱いだけは残しておいてほしいなんて、かなりムシのいい話だと思うんだよね。それとも、また、裕子さんに甘やかされたくなったの?」

 ドラマみたいに、ゆきさんは元夫の耳元で囁き続ける。
 声を荒げることもなく、淡々と元夫に問いかけるように。
 高ぶっていた元夫の表情が、だんだんと追いつめられたものに変わっていく。
 ゆきさんのセリフが、ぐさっときた。
 そうだね。
 あたしは「ねえさん」とあだ名されてしまうくらいに、人を甘やかしてしまう。
 だからって誰彼かまわずじゃない。

 あたしが、好きだと思う人だから、甘やかすんだ。

 この人は、もう、あたしの好きだった人じゃない。
 あたしの大事な人じゃない。
 あたしの特別な人じゃない。
 離婚したときの状況が状況だったから、あたしはこの人とほとんど話すこともなく、事務的に作業を進めて別れた。
 だから、この人には伝わってなかったのかもしれない。

「ゆきちゃん」

 あたしが握られたままだった手をひいて合図を送ると、ゆきさんは静かにあたしの横に立った。
 あたしは元夫を見て、口を開く。

「ちゃんと伝わってなかったみたいだから、改めて言っておくわ」

 優しい人。
 自分に甘い、善良な人。
 あたしの決定的な言葉がなかったから、調子に乗ったんだね。

「あんなことされて、恨みつらみを持たずにいられるほど、あたし、親切じゃないのよね」
「裕子……」
「あそこであれ以上ごねなかったのは、あたしに元気がなかったのと、子どもに責任はないと思ったからで、あなたも奥さんも赦してないし赦すつもりもないから」
「……」
「話しかけられたのが職場だったから応えていただけで、あたしはもうあなたの顔も見たくないし、あたしの人生には関わってほしくないの」
「だって裕子、俺たちは」
「夫婦じゃないでしょ。赤の他人よ。あなたは、他の人の旦那さんで子どもの父親でしょ」





あのとき、あたしの手を離したのは、あなたでしょ。



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