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004 新生活

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 翌日から、かえではレストランで働き始めた。
 引っ越し前に一週間、研修として顔を出していたそこは、家から二駅、時間にして30分という近場だった。

 商業施設の多いその場所は、楽園のある街とは違い、いつも人で賑わっていた。
 緊張気味だった楓だが、先輩や同僚たちも親切で、ここでなら何とかやっていけそうな感触を持っていた。

 考えてみたら私、すごく恵まれてないかな。
 ついこの前まで、初めての土地に不安いっぱいだった。
 でも楽園の人たちも、職場の人たちもみんな優しくて親切だ。
 神様なんて信じたこともなかったけど、本当にいるのかもしれないな。
 そんなことを思い、楓は今の生活に感謝するのだった。




「今日も疲れたな」

 仕事を終えた楓が店の裏口から出て、大きくため息をついた。
 仕事を始めて二週間。初めの頃を思えば、かなり業務にも慣れてきた。
 ただウエイトレスの業務は基本立ち仕事なので、足がきつかった。
 昨日家で気付いたのだが、かなりむくんでいた。

「帰ったらあったかいお湯につかって、ちょっとゆっくりしたいな」

 そんなことを思いながら駅に向かおうとした時、背後から自分を呼ぶ声が聞こえた。

「……祥太郎さん?」

「やっぱり楓ちゃんだ。今帰り?」

 声をかけて来たのは同じ楽園の住人、南方祥太郎みなみかた・しょうたろうだった。

 歓迎会で、乾杯の音頭を取ってくれた人。
 住人たちの中で、一番年の近い男の人。
 背が高くて、ちょっと格好いい人。
 それでいて気取ったところのない、優しい人。

 そんな祥太郎に、楓は少なからず好意を寄せていた。
 しかし同じマンションの住人、それだけの関係の人と、そうそう親しくなる機会なんてないと思っていた。

 その祥太郎と、帰宅途中に偶然会った。
 これってひょっとしたら、ラッキーな偶然じゃないのかな。
 そんなことを思いながら、楓が精一杯の笑顔を向けた。

「祥太郎さんも、今帰りなんですか?」

「僕はまあ……うん、そうなるかな。今日は外回りだったんだ。直帰しても構わないって言われてね」

「そうなんですね。じゃあ、本当に偶然なんですね」

「家までご一緒してもいいかな?」

「勿論です。と言うか、これで別々に帰ったら私、かなりひどい女じゃないですか?」

「ははっ、確かに」

 そう言うと、祥太郎は車道側に立って歩き出した。

「車、危ないからね」

 さりげない気配りに、楓の頬が赤く染まった。

「本当、優しいですね、祥太郎さんは」

「そんなことないって。楽園の人たちからも、いつも頼りないって笑われてるし」

「そうなんですか? 律子さんたち、祥太郎さんが話題に上がった時はいつも褒めてますよ」

「……想像しただけで、胃が痛くなるよ」

「ふふっ。心配するようなことはないと思いますよ。むしろいい噂ばかりです」

「この前の挨拶だって、後で親父に駄目出しされたし」

「そんなことないですよ。私、すごく嬉しかったんですから……え? 親父って、祥太郎さん、一人暮らしだって聞いてましたけど、ご家族も楽園に?」

「ああいや、親父ってのは、理事の東野ひがしのさんのことだよ。本当の親父とは、色々あって絶縁状態なんだ」

「……すいません、変なことを聞いてしまって」

「いやいや、気にしないで。昔のことだから」

「祥太郎さん、東野さんのことを親父って呼んでるんですね」

「うん。楽園に越してから、いつの間にかそう呼ぶようになってた。と言うか、うちの住人はみんな、東野さんのことをそう呼んでるよ」

 そう言えば歓迎会の時、みんな親父って言ってたな。でも東野さんに親父って、なんか似合うなと、楓は納得の表情を浮かべた。

「親父はすごい人なんだ。楽園に住んでる人たちは、みんな親父のことを慕ってる。年齢に関係なくね」

「そうなんですね」

「うん。言ってみれば親父ってのは、東野理事への敬意の現れなんだ。いつ、誰がそう言い始めたのか分からない。でもみんな、親父がいれば大丈夫、そう思ってる。僕も親父に出会えたからこそ、今こうして頑張れてるんだ」

「そうなんだ……ほんと、いい所に越してきたんですね、私」

「楽園はいい所だよ。楓ちゃんにとっても、あそこが本当の意味での家になること、僕も願ってる」

「はい、ありがとうございます」




 その日をきっかけに、祥太郎と共に過ごすことが多くなった。
 仕事帰りに待ち合わせて、一緒に食事をしたり、休日に映画を観に行ったり。
 祥太郎はいつも楓に気を配り、楓の話に笑顔で耳を傾けていた。時には職場の相談を聞くこともあったが、嫌な顔一つせず付き合い、楓が求めている言葉を投げかけてくれた。
 そんな祥太郎のことを意識するのに、時間はかからなかった。




 ある時、マンションの業務を振り分ける理事会があり、楓も参加した。
 楽園では全ての住人が、何かしらの業務を担当することになっている。
 ゴミ当番であったり、設備点検であったり。エントランスの掃除や、花壇の世話係などもあった。

 楓が担当することになったのは、月に一度の共用スペースの掃除だった。もう一人の担当は、祥太郎だった。

「若いもん二人、まあ気楽に仲良く、のんびりやってくれ」

 東野がそう言って笑った。

「二人共仕事もあることだし、これでいいと思うわ」

 妻の律子もそう言って、楓に向かって微笑んだ。

 こんな所でも皆が、自分に気を使ってくれている。業務は全員に振り分けられるものなのに、働いているという理由で、ある意味一番楽な仕事を任された。
 そう思うと少し、申し訳ない気持になった。
 そんな楓の様子を察したのか、祥太郎が優しく声をかけた。

「これも立派な仕事だよ。一緒に頑張ろうね」

「相方が祥太郎ってのが、少し不安だけどな」

「親父……そこで僕を落とすの、いい加減やめてくれないかな」

「はっはっは、まああれだ。来た頃に比べたら、祥太郎も少しはマシになったからな。期待してるよ」

「マシって……勘弁してくれよ、親父」

 東野と祥太郎のやり取りに、周りも笑った。




 掃除の日、二人は奇数階と偶数階に分かれて掃除にあたった。
 機材を使って廊下の清掃をしていると、その度に住人たちが顔を出してきた。

「楓ちゃん、大丈夫?」

「お、おはようございます、下川さん。すいません、少しだけうるさいですけど、すぐに終わらせますので」

「いいのいいの、そんなこと気にしないで。折角の休日だってのに、こんなことさせちゃって悪いわね」

「とんでもないです。スペースもそんなにないですし、こんな立派な機材までお借りしてますので。二時間もあれば終わると思います」

「楓ちゃんが掃除してくれるんだもの。私たち、今まで以上に綺麗に使わせてもらうわ。楓ちゃんに感謝しながらね」

「そんな……でも、ありがとうございます」

 ここは本当に温かい。
 本当に新しい家族が出来たみたいだ。
 そんなことを思いながら、楓は笑顔で作業するのだった。
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