上 下
1 / 12

001 引っ越し

しおりを挟む
 今日からここが、私の家なんだ。

 マンションを見上げながら彼女、西條楓さいじょう・かえでは笑みを浮かべた。




 この春大学を卒業した彼女は、全国に展開しているホテルに就職した。
 面接時、「転勤に抵抗はありますか?」そう尋ねられ、即座に「全く問題ありません!」と答えたのがよかったのかもしれない。
 おかげで初めての勤務先は、地元から100キロ以上離れた都会のレストランになった。
 親や友人は心配した。しかしこれは、楓にとって望んでいた展開だった。
 夢にまで見た一人暮らし。
 陰鬱な田舎、息苦しかった家との別離。
 それは正に、人生の再スタートだった。




 旅行鞄を持って正面玄関に立っていると、時間通りに引越センターのトラックが到着した。
 楓は「よろしくお願いします。部屋は313号室です」そう言って、鍵を手にエレベーターへと向かった。

 このマンションを選んだのには理由がある。
 駅から徒歩3分という好立地なこと。
 歓楽街から離れている、治安のいい住宅地であること。
 家賃が安いこと。
 そして決め手となったのは、見学に訪れた際の住人たちの反応だった。
 すれ違う人が皆、笑顔で挨拶してくれた。

「ここはいい所よ。歓迎するわ」
「あなたみたいに若くて綺麗な人が住んでくれたら、私たちも嬉しいわ」

 そう言ってくれた。
 その言葉に、初めての都会で不安になっていた彼女の胸は熱くなった。

 ここでなら、きっとやり直せる。
 頑張れる。

 楓はその場でこのマンション、「楽園」への入居を決めたのだった。




 エレベーターを降りると、廊下に数人の女性が立っていた。
 皆軽装で、首にタオルを巻いている人もいる。
 エレベーターから出て来た楓に、皆の視線が集まった。

「あ、あの……」

 注目されることに慣れていない楓が、顔を赤くして彼女たちの元へと進む。

「わ、私……今日からここでお世話になります、西條楓と言います。どうかその……よろしくお願いします!」

 そう言って大袈裟に頭を下げると、周囲からクスクスと笑い声が聞こえた。
 しかしそれは嘲笑ではなく、温かいものだと感じた。

「はじめまして、西條さん。こちらこそ、今日からよろしくね」

 そう言って一歩前に進み出た女が、楓の手を握った。

「は、はい……あのその、今から荷物が入りますので、その……しばらくうるさくなると思います、すいません」

「うふふふっ、そんなに緊張しないで。あ、楓ちゃんって……呼んでもいいかしら?」

「は、はい、大丈夫です」

「私たちね、みんなこのマンションの住人なの。今日楓ちゃんが引っ越してくるって聞いてたから、みんなで待ってたのよ」

「待ってたって……それってどういうことですか?」

「勿論、引っ越しのお手伝いよ。私たち、これから同じマンションで生活する家族なんだから。当然でしょ?」

 うんうんと、周囲の女たちも笑顔でうなずく。

「でもそんな……悪いです」

「もぉ~、楓ちゃん、ちゃんと聞いてた? 今日から私たちは家族なの。家族の間でそんな遠慮、いらないんだからね」

 そう言って女が楓の頭を撫でた。

「もうすぐ男連中も合流するから。楓ちゃん、こき使っていいからね」

「でも今日は平日ですし、みなさんお仕事だって」

「うふふふっ、大丈夫よ。今日の為に、みんな休みを取ってるから」

「ええっ? そんな、私の為にですか?」

「だから安心して、しっかり働かせてやってね」

 状況がつかめず目をパチパチさせていると、背後から男の声がした。

「無事に着いたみたいだね、西條さん」

 年の頃50代後半、恰幅のいい壮年がそう言って会釈する。

「お父さん、西條さんのことは楓ちゃんでいいわよ。楓ちゃんもそれでいいって、言ってくれたから」

「そうなのかい? ははっ、いやいい、実に結構。もう打ち解けたみたいで何よりだ。楓ちゃん、楽園にようこそ。私はこのマンションの理事をさせてもらってる、東野義嗣ひがしの・よしつぐです。501号室にいるんで、困ったことがあればいつでも来てください」

「は、はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」

「はははっ、元気なお嬢さんだね。随分緊張してるようだけど、まあ、そのうち慣れるだろう。じゃあ引っ越しの方、手伝わせてもらうよ」

 そう言うと、男連中を従えて楓の部屋へと移動する。すれ違う男たちも皆、楓に笑顔を向けた。

 困惑気味に楓が扉を開けると、引越センターの係員たちが荷物を運んでいく。
 とは言え、2DKの部屋が埋まるほどの家具もない。ダンボールも30個ほどだ。マンションの住人が総出で手伝うほどのものではなかった。
 30分も立たないうちに運び終えた係員たちが、「以上になります」と帽子を脱いで頭を下げた。

「あ、あの、ありがとうございました。それでその……これ、少ないですが」

 そう言って祝儀袋を出そうとした楓を、東野が静かに制した。

「引っ越し屋さん。今日は何人で来てくれたのかな?」

「はい、3人ですが」

「3人ね、分かった。じゃあこれ、みんなで分けてくれ」

 東野はそう言うと、財布から1万円札を3枚取り出し、係員に手渡した。

「裸で悪いけど、これで飲み物でも買ってくれ」

 出された金額に係員は動揺したが、すぐに真顔になると、「どうも! ありがとうございました!」と声を張り上げて金を受け取った。

「あ、あの……東野さん」

「大切な家族を手伝ってくれたんだ。あれは私の気持ちだから、気にしないでいいからね。あと……折角用意してたのに止めてしまって、恥をかかせてしまったね、すまない」

 そう言って頭を下げる東野に、楓は慌てて首を振った。

「そんなそんな、頭を上げてください。私の方こそ、こんなに気を配っていただいて……私は一人1000円の寸志しか入れてませんでした。都会の作法や常識も知らず、あのままだと恥をかくところでした。東野さん、どうか今のお金、私に出させてください」

「はっはっは、これぐらい別にいいんだよ。それに金額については、そんなに気にしなくていいさ。むしろ私の方が、渡し過ぎたぐらいだからね」

「お父さんは本当、そういう見栄だけは立派ですからね」

「おいおい酷いな。楓ちゃんの新生活が始まるんだ。関わった人、みんなに笑顔になってほしいじゃないか」

「分かってますよ、ふふっ。そういうことだから楓ちゃん、お金のことは気にしないで。あれは私たち、楽園からのご祝儀だと思って」

 東野の妻、律子がそう言って笑顔を向けると、楓の視界が涙でぼやけてきた。

「どうしたの、楓ちゃん。何か気に障った?」

「いえ、いえ……そうじゃないんです、そうじゃなくて……私、私、嬉しくて……」

 言葉が続かなかった。何を言っても上辺だけのものになりそうで怖かった。

 こんなに温かい場所が、この世界にあっただなんて。
 こんな素晴らしい場所で、私は新しい人生をスタート出来るんだ。
 そう思うと嬉しくて。
 楓は泣いた。
 そんな楓に、住人たちは温かい視線を送るのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

【お願い】この『村』を探して下さい

案内人
ホラー
 全ては、とあるネット掲示板の書き込みから始まりました。『この村を探して下さい』。『村』の真相を求めたどり着く先は……? ◇  貴方は今、欲しいものがありますか?  地位、財産、理想の容姿、人望から、愛まで。縁日では何でも手に入ります。  今回は『縁日』の素晴らしさを広めるため、お客様の体験談や、『村』に関連する資料を集めました。心ゆくまでお楽しみ下さい。  

拷問部屋

荒邦
ホラー
エログロです。どこからか連れてこられた人たちがアレコレされる話です。 拷問器具とか拷問が出てきます。作者の性癖全開です。 名前がしっくり来なくてアルファベットにしてます。

膀胱を虐められる男の子の話

煬帝
BL
常におしがま膀胱プレイ 男に監禁されアブノーマルなプレイにどんどんハマっていってしまうノーマルゲイの男の子の話 膀胱責め.尿道責め.おしっこ我慢.調教.SM.拘束.お仕置き.主従.首輪.軟禁(監禁含む)

きらさぎ町

KZ
ホラー
ふと気がつくと知らないところにいて、近くにあった駅の名前は「きさらぎ駅」。 この駅のある「きさらぎ町」という不思議な場所では、繰り返すたびに何か大事なものが失くなっていく。自分が自分であるために必要なものが失われていく。 これは、そんな場所に迷い込んだ彼の物語だ……。

花の檻

蒼琉璃
ホラー
東京で連続して起きる、通称『連続種死殺人事件』は人々を恐怖のどん底に落としていた。 それが明るみになったのは、桜井鳴海の死が白昼堂々渋谷のスクランブル交差点で公開処刑されたからだ。 唯一の身内を、心身とも殺された高階葵(たかしなあおい)による、異能復讐物語。 刑事鬼頭と犯罪心理学者佐伯との攻防の末にある、葵の未来とは………。 Illustrator がんそん様 Suico様 ※ホラーミステリー大賞作品。 ※グロテスク・スプラッター要素あり。 ※シリアス。 ※ホラーミステリー。 ※犯罪描写などがありますが、それらは悪として書いています。

岬ノ村の因習

めにははを
ホラー
某県某所。 山々に囲われた陸の孤島『岬ノ村』では、五年に一度の豊穣の儀が行われようとしていた。 村人達は全国各地から生贄を集めて『みさかえ様』に捧げる。 それは終わらない惨劇の始まりとなった。

キューピッド様

流風
ホラー
ラジオから流れてくる投稿話。 その中の一つに亡くなった飼い犬に会いたいと願った女子高生の話があった。 俺も先日、飼い猫のコタロウと死別したばかり。気持ちがわかると思いながら聞いていたが……。 死別したペットとの向き合い方、会いたい気持ちが強すぎて起こった恐怖体験。 会いたい気持ちが強すぎた結果……

処理中です...