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001 親父

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 親父が死んだ。



 親父。
 子供の頃は、本当に怖かった。

 今なら事案間違いなしの躾を、山ほど受けた。
 同世代の人になら、分かるんじゃないかな。
 あの頃の父親ってのは、とにかく怖いものだった。躾と称して子供を殴るなんてこと、当たり前の時代だった。
 僕の親父も、例に漏れずそうだった。いや、どちらかと言えば、その中でも無双してたんじゃないかな。

 とにかく怒鳴られた。殴られた。
 何かするたびに手が飛んできた。食事時でもテレビを観ている時でも、おかまいなしだった。
 だから正直、僕は親父を避けていた。関われば、いつ殴られるか分かったもんじゃない。自分の身を守る為、子供ながらに必死だった。

 嘘をつく。
 殴られる。
 泣く。
 男が泣くなとまた殴られる。
 以下、ループ。

 そんな感じだったから、親父は恐怖の対象でしかなかった。

 この世に親父より怖いものはない。
 そう思っていた僕が、一日も早く家を出たいと思ったのも、当たり前の感情だったと思う。




 親父は無口な人だった。
 子供の頃も、じっくり話した記憶がない。
 遊びには……よく連れて行ってもらった。
 月に一度は遊園地とか、プールとか映画とか。
 今思えば、週に一度しかない休日なのに、頑張ってたなと思う。
 でも、話をした記憶はあまりない。
 男親なんて、そんなものなのかな。そう思っていた。

 就職して家を出てからは、それまで以上に接点がなくなっていった。
 たまに帰っても、「ただいま」「おう」と定型文のような言葉を交わすだけ。
 僕の中の親父の記憶は、そんな感じだった。




 とにかく怖かった親父。
 絡み辛かった親父。

 さすがに中学ぐらいからは、殴られることもなくなったけど、それでもたまに怒鳴られると泣きそうになった。
 泣いたらまた殴られるから、必死で我慢したけど。

 そんな親父が突然倒れた。
 癌の末期だった。

 もう手の施しようがありません。余命3か月です。
 それにしても……かなり辛かった筈ですよ。痛みとかの訴えはなかったですか? 我慢強いなんてレベルじゃないですよ?
 そう主治医から言われた日、弟と二人で「親父らしいな」と泣きながら笑った。




 親父には正直に話した。でないと多分、殴られていた。
 親父は目を瞑り、ふうっと息を吐くと、「そうか」と一言つぶやいた。

 まだ早いだろ。

 今の時代、66歳なんて老人とは言えない。
 隠居生活だって、まだ1年にも満たない。
 これからやっと、穏やかな余生を過ごせる筈だったのに。
 そう思うと、仕事人間だった親父がかわいそうに思えた。




 それから親父は、急速に衰えていった。
 最後の1か月は終末期医療施設、ホスピスに入った。
 僕と弟は、母さんを連れて何度も何度も面会に行った。
 そこで僕も、親父とよく話をした。
 こんなに話したのは、多分初めてじゃないかな。
 でもそれも、長くは続かなかった。

 次第に親父は、声が出なくなっていった。
 口を動かしても、何を言ってるのか日に日に分からなくなっていった。
 僕たちは親父の表情を見て、口元を見て。何を言おうとしているのかを感じようとした。




 親父はよく笑うようになった。
 本当は怖い筈だ。
 もうすぐこの世界から消えるのだから。
 部屋にあるカレンダーには、その日に花丸がしてあった。
 母さんが「こういうの、冗談でもやめて」と泣きながら取り外したけど、あの時の親父の意地悪そうな笑顔は、まだ脳裏に焼き付いている。

 自分が死ぬ日を自覚している存在。

 その立場になった時、僕は親父のように、悠然と構えていられるだろうか。
 きっと無理だ。
 男らしくなってほしい。そう願い、僕を厳しく躾けた親父。
 でもその甲斐もなく、こんな軟弱な男になってしまった。
 親父のように自分の運命を受け入れることなど、とても出来そうにない。

 でも……いや、そんな筈ない。
 親父だって、きっと怖い筈だ。
 ただそれを、僕たちに悟られたくないんだ。

 人に弱さを見せない人。

 今だってそうだ。
 末期癌の苦痛はすさまじいと聞く。それなのに親父は、鎮痛剤を頑なに拒否していた。
 最後まで、自分が生きていることを感じていたい。薬で眠らされて、知らない内に死ぬ。そんな最後は御免被ると言って聞かなかった。

 どこまでも頑固で、気高い精神の持ち主。
 そんな親父にもっと生きていてほしい、疎遠になっていた時間が恨めしい、そう思った。




 病院の帰り。駅前には多くの人が歩いていた。
 僕は心の中で叫んだ。

 お願いです。皆さんの寿命を1日ずつでいい、親父にください。
 そうすれば親父は、まだ何か月か生きていられる。
 もう少し、親父との時間を過ごすことが出来る。

 たった1日。
 若者や健康な人にとっては、何の変哲もない日常のループ。
 でも、これから死にゆく者にとっては、あまりにも貴重な1日。
 そんなことを思い、涙をこらえながら帰路を急いだ。




 ある日面会に行くと、親父は眠っていた。
 看護師によると、昨夜は痛みであまり眠ってないとのことだった。
 本当に頑固な人だな。
 そう思いながら傍らに座り、親父を見つめた。

 こんな顔してたんだな、親父。

 僕は無意識の内に、親父の手を取った。
 掌をじっと見る。

 子供の頃、どれだけこの手で殴られたことか。
 恐怖の代名詞だった、親父の手。
 でもこの手で、何度か撫でられたことがあった。
 その時の感情を思い返す。
 なんて言うか、こう……胸の奥がムズムズするような、不思議な感覚。
 怖いけど、嬉しかったあの時の思い。
 その手に僕は今、触れている。
 親父は目を覚ます様子がない。
 笑ってるようにも見える。何かいい夢でも見ているのかな。
 そう思うとあの時のように、また胸の奥がムズムズとしてきた。



 僕はゆっくりと、その手を自分の頭に乗せた。



 何年ぶりだろう、この感触。
 記憶よりずっと、小さく感じた。
 でも温もりは、あの時と同じだった。

 手を頬に移し、僕は泣いた。
 もう一度、こうして撫でて欲しい。
 もう一度殴って欲しい。
 何となく生きてる僕に、活を入れてほしい。

 何やってるんだお前は。しっかりしろ。

 そう言って叱って欲しい。
 そんなことを思い、僕は泣いた。
 久しぶりに、親父の目の前で。
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