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123 初めての喧嘩
しおりを挟む家に戻った早希は、信也の顔を見て息が止まりそうになった。
目を合わせるのはいつぶりだろう、そう思った。
「おかえり、早希」
信也がそう言って、コーヒーを一口飲んだ。
「ただいま……」
コタツの上には、早希のコーヒーも用意されていた。
「コーヒー冷めちまったな。入れ直すよ」
「大丈夫、これでいいよ」
「……」
部屋がいつもより広く感じる。それなのに息苦しかった。
早希は小さく息を吐くと、信也の向かいに座った。
「なんか……久しぶりだな、こうして話すのも」
「……そんなことないじゃない。一緒に住んでるんだし」
「一緒に、か……」
「え……」
「確かに俺たち、一緒に住んでるよな。毎日顔を合わせて、飯食って、夜も一緒に寝てる。でもそれ、ほんとに一緒だったのかな」
「……信也くん?」
「目を合わせないようにして、会話も最小限にして。地雷を踏まないようビクビクしながら」
「……それって私のせい?」
「いや、どっちのせいとか、そんなんじゃないと思う。ただ、そんなのは一緒に生活してるって言わないって思っただけだ」
「でも信也くん、話があるから呼んだんだよね。私のせいだって思ってるから、そう言ってるんじゃないの」
自分の口から、次々と言葉が溢れて来る。止まらなかった。
「信也くんってば、いっつもそう。何かあったらすぐ私を子供扱いして、適当にはぐらかして屁理屈ばっか言って。そして丸め込まれていっつも私が謝って」
「待て待て待て待て、どうしてそうなる。俺がいつ子供扱いしたんだよ」
「いっつもそうじゃない! 何よ、ちょっと自分が大学出てるからって」
「大学は関係ないだろ! そんなことで早希のこと、馬鹿にしたことなんか一度もないだろ!」
「何よ! 都合が悪くなったらそうやって大声出して! そう言ったら私が泣きながら謝るって思ってるんでしょ!」
「ちょっと待てって……俺は早希と話がしたいだけなんだ。そりゃあ、あやめちゃんが言ってたみたいに、こうして言いたいことを言いあうのも必要だとは思う。でも喧嘩せずにそれが出来るなら、それに越したことはないだろ」
「ほーら。またそうやって、あやめちゃんの名前が出て来るんだ。何? 信也くん、私と変な空気になったからって相談したの? 夫婦の問題なのに」
「向こうから言ってきたんだよ! 俺たちのことを心配してくれて! 何なんだよさっきから、訳の分からないことで突っかかってきやがって」
「突っかかりもするわよ! いっつもいっつも、他の女の子の話ばっかして! 私のことなんかほったらかしじゃないの!」
「俺がいつほったらかしにしたんだよ!」
「いっつもじゃない!」
言葉と同時にカップをつかみ、コーヒーを信也の顔にかけた。
「あ……」
勢いとはいえ、とんでもないことをしてしまった。早希の中に、強烈に後悔の気持ちが生まれた。
信也は無言で目をつむっていたが、やがてタオルで顔を拭き、大きく息を吐いた。
「……ちょっと落ち着けって」
その冷静な態度が、また早希を苛立たせた。
「なんで……なんで怒らないのよ! なんでそうやって冷静なのよ! そんなんだから、そんなんだから……私が馬鹿みたいじゃない!」
「早希……」
「今回のことだってそう。一人で怒って、一人ですねて……分かってる、分かってるんだけど……でも私、信也くんにも怒ってほしかったのに」
「いや、だから……俺だって怒る時は怒るよ。でも怒るのと、感情をそのままぶつけるのは違うだろ。俺はただ、早希がどうして俺を避けるようになったのか、話し合いたいだけなんだ」
「分かってるくせに」
「まあ、何となくはな。秋葉とのキス、見てたんだろ」
「……」
「ごめん、悪かった。弁解はしないよ」
「どうして」
「したってしょうがないだろ。しちまったのは本当なんだし」
「言い訳ぐらい、してよ……他の人とキス、したんだから……」
「……」
「……秋葉さんのこと、好きなんでしょ」
「なんでだよ。もしそうなら、それこそ隠してるだろ」
「じゃあ、なんで言い訳しないのよ」
「見苦しいだろ、そんなの。しかも現場見られてるのに、どんな言い訳が通るんだよ」
「……やっぱり秋葉さんのこと、好きなんだ」
「あのなぁ……」
「いいよ」
「え」
「秋葉さんの所、行っていいよ」
「……お前、何言ってるんだ」
「今ので分かった。信也くん、秋葉さんのことかばってる」
「かばってないだろ。弁解しないって言ってるだけで」
「それがかばってるんだって!」
「……どうしろってんだよ」
「だから信也くんの気持ちは分かったってこと。そして私も、そうなればいいって思ってた」
「早希、いい加減にしないと本当に怒るぞ」
「怒っても無駄だよ。信也くんが怒った所で、屁理屈並べるだけなんだから」
「……」
信也がうつむき、何度か息を吐いた。握っている手は少し震えていた。
早希がその手に、優しく触れる。
「ごめんなさい、変なこと、いっぱい言っちゃって……それから……コーヒーかけちゃって、ごめんなさい……
口に出した後で言うのって、言い訳みたいになっちゃうんだけど……私が言ったこと、本心じゃない。なんでか分からないけど、止まらなかったの……」
「……」
「信也くんは私の為に、ずっと頑張ってくれた。私、そのことに甘えて、それが当たり前みたいに思ってた。でも違うんだよ。
信也くんは生きている。幽霊の私に縛られて、これからの人生を生きていく必要なんてないの。信也くんも幸せにならないといけないんだよ。信也くんの世界で」
「なんだよ、俺の世界って」
「信也くんは、私に負い目があるんだと思う。私が信也くんの為に戻ってきたから。私を裏切っちゃいけない、私に応えなくちゃいけない、そんな思いに縛られている」
「俺がいつ、早希に縛られてるって言ったんだよ。いつ不幸だって言ったんだよ」
「ごめんなさい、別の言い方にするね。信也くん、このまま私といると、いつか不幸になる。いつか、今私が言ったことを感じるようになる。だからその前に……お別れしよ?」
その言葉に凍り付いた。
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