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105 接近
しおりを挟む11月9日土曜日。
早希が旅に出て、一週間が経とうしていた。
信也はこの日もあやめと二人、勉強会をしていた。
大学受験まであと2か月。学ぶあやめも教える信也も、日に日に熱が入っていた。
「ふうっ……」
「ちょっと休憩する?」
「うん……ごめんなさい、ちょっと頭がパンクしそう」
「じゃあ糖分補給、しないとな」
チョコレートを差し出すと、あやめは意地悪そうな笑みを浮かべた。
「あーん」
「え」
「あーん」
「いやその……それは俺に口に入れろと」
「早く、お兄さん。あーん」
「……分かりました。はい、あーん」
「はむっ」
「こ、こらこら、指まで食べないの。ばっちいから」
「お兄さんの指だから大丈夫。食べてもお腹、壊すことはない」
「お願いします、食べないでください」
「ふふっ。ねえお兄さん。ちょっとだけこっち、来てほしい」
「……指を食べた後で言われると、かなり行きにくいんだけど」
「大丈夫、押し倒したりしないから」
「いやいやいやいや。今言ったよね、押し倒すって」
「早希さんがいないからって、変なことはしない。お兄さんがしてくれるなら受け入れるけど」
「受け入れないで受け入れないで。と言うかあやめちゃん、最近沙月さんに似て来たぞ」
「私はいつもこうだと思う。お兄さんが好きなのは、ずっと言ってる」
「早希のオッケーが出てるとはいえ、奥さん不在の家に女子を入れてる俺、結構やばい立場なんだから」
「私は18歳。条令はクリアしてる」
「それは聞いた。それは知ってる」
「ふふっ。早希さんって、あと一週間ぐらい帰って来ないんだよね」
「そうだな。来週の土曜ぐらいって言ってたから」
「寂しい?」
「そりゃあ、まあ」
「でも……お兄さん、すごい」
「何が?」
「早希さんが事故にあって、幽霊になって戻って来て……みんなはお兄さんのこと、妻を亡くした寂しい夫だと思ってる。でも、お兄さんは幸せを感じてる。早希さんはここにいる、だから問題ないって。
お兄さんは人にどう思われていようと、そんなことを気にしていない。人の評価を、自分の生き方の中心に置いていない」
「そうなのかな。でもそれって、特別なこと?」
「ほとんどの人は、他人の評価を気にしてる」
「あやめちゃんもそうなのかな」
「うん。だから私は最終的に、引きこもるという結論になった。人の評価が怖くなった」
「なるほど、そう言われれば分かりやすいな。俺は誰に何を思われようと関係ないからね。少なくともこれまで、そんな風に生きて来たから」
「どうして?」
「だって、そもそも人の考えてることなんて分からないじゃないか。好意を持ってくれているように見えても、実は俺のことを馬鹿にしてるかもしれない。人間には表と裏があるから」
「それって要するに、人を信用してないってこと?」
「極論すればね。でも早希と出会ってから、少し変わったかも」
「どんな風に?」
「少なくとも、自分にとって大切な人には好かれたい。そう思うようになった」
「大切な人……ね」
「勿論、あやめちゃんにも」
「ふふっ。じゃあ……もっと好きになってあげる」
「……あやめちゃん? いきなり抱き着かれるのはちょっと」
「お兄さんはやっぱり強い」
「そうかな」
「うん、そう……私は今、すごく幸せ。でも、だから今、ちょっと怖いの」
「どういうこと?」
「私はこれからも、お兄さんや早希さんとこうしていたい」
「……人間、生きていく中で環境も変わっていくし、関係も変わっていくと思う。でもね、心の繋がりは、お互いが望めば途切れることはないと思うよ」
「そう、なのかな……私、お兄さんと別れることを考えると、怖くなる」
「あやめちゃんはもう、俺の大切な家族だよ。だから安心してほしいな」
「……ありがとう」
胸に顔をうずめるあやめ。肩が震えていた。
信也は微笑み、あやめの頭を優しく撫でた。
「俺も……こんな日がずっと、続けばいいって思ってるよ」
「はい、どちら様……って」
「こんにちは、信也」
翌日。玄関を開けると秋葉が立っていた。
「突然だな。びっくりしたぞ」
「ごめんね、連絡もしないで急に」
「それはいいんだけど。何かあったのか」
「今日は早番だったの。それでね、この前……信也、コンビニのお弁当買ってたでしょ」
「先週の話か」
「うん。それでその……よかったら夕飯、作ってあげたいなって思って」
「そうなのか。悪いな、気を使わせちまって」
「じゃあ、いいの?」
「ああ。と言うか助かるよ。さ、入って」
「うんっ」
秋葉が笑顔でうなずいた。
「部屋、相変わらず綺麗にしてるね」
「秘密基地だからな」
「そう言えばそんなこと、昔も言ってたね」
「誰にも文句を言われない、俺の居場所」
「ふふっ。じゃあお台所、借りるね」
「ああ、好きに使ってくれ。俺は何をしたらいい?」
「信也は座ってていいよ。私に任せて」
「そうか? 野菜切るぐらいなら手伝うぞ」
「じゃあ、後でお願いするよ」
秋葉のエプロン姿は可愛かった。
手際よく料理を作る姿を見つめながら、信也は昔に戻ったような感覚を覚えていた。
母ちゃんと一緒に、よく家で作ってたよな。そう思いながら、煙草に火をつける。
大切な人がいて、同じ時間を共有する。
そのことを幸せだと感じれるようになったのは、いつからだろう。
今までの俺は、その代償が煩わしくて、その幸せから目を背けていた。
このひと時の幸せを得る為に、どれだけの対価を支払わなくてはいけないのだろう。
そう考えると、幸せをつかむ気にもならなかった。
それにその幸せは、些細なことで壊れてしまう。
自分がどれだけ努力しようと、どれだけ好きになっても。相手の気持ちが変わればそれで終わる。
親父がいい例だ。カイも、裕司さんも。そして……
だから俺は目を背けた。
それ以外で自分を満たすことを考えた。
なのに今。こうして秋葉と、その幸せを共有している。
不思議な感じだった。
でも、嫌じゃなかった。心地よかった。
こんな風に思えたのは、やはり早希のおかげなんだろう。そう思った。
早希が俺の心を溶かしてくれた。
頑なだった俺のことを、諦めずに見守ってくれた。
時には強引に。時には優しく。
早希がいたから今、この幸せを感じることが出来ている。
そう思うと、無性に早希に会いたくなった。
抱き締めて、キスしたかった。
天井を舞う煙を見つめ、信也は微笑んだ。
「信也」
「え」
振り向くと、包丁を手にした秋葉が立っていた。
「あ……秋葉さん?」
「信也……煙草、まだ吸ってる」
「え」
「やめるって……頑張るって言ったのに……私の前で、そんなに堂々と」
「あ」
あまりに自然な空気に、無意識に煙草を吸っていた。
慌てて煙草を揉み消す信也に、秋葉はもう一歩前に進んで言った。
「煙草は体に悪いのに……私、駄目だって言ってるのに」
「あ、秋葉さん? あのですね、これはその……て言うか包丁! この絵面無茶苦茶ホラーだから!」
「信也の健康を考えてご飯、作ってるのに……煙草吸ったら意味ないじゃない」
「はいすいません、消しましたので勘弁してください」
「もぉっ、何度言っても聞かないんだから」
そう言って再び台所へと向かう。信也は大きくため息をつき、
「……今のは本当に、殺されるかと思ったぞ」
そうつぶやいた。
「私が殺さなくても、そのうち肺がんになっちゃうよ」
呆れた様子で息を吐き、秋葉が苦笑した。
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