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第一部 五章 コロッセオの騎士編
56 交わらない二人(挿絵あり)
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『ぐっ……!』
吹き飛ばされ、勢いよく地べたに尻をついた。ガチャンと遠くの方に剣が滑っていき、幼きリオンは痛みに悶える。
『いって~! くそっ、どうなってんだよ……全然勝てねぇ……』
呟きながら尻を抑えるリオンに「これで俺の五百十二勝だな」とレオナルドが鼻で笑ってみせた。
『もう一回だ! こんなん、納得いかねえ!』
『やらない。明日が本番なんだから、それ以上体を痛めつけるな。本当に死ぬぞ』
今日は何回目かになる闘技大会前夜。明日のことを考えれば、体力を少しでも温存していた方が生存率があがる。やめだ、といつまでも首を縦に振らないレオナルドに『オレは死なねえよ!』とリオンが返した。
『……そんな保証なんてどこにある? お前も分かるだろ? あの場はそういう気合いや自信だけじゃ乗り越えられない。いつか、俺たちのどちらかが殺されてもおかしくないんだ』
淡々と言葉にしながらも、レオナルドは一番初めに出場した時のことを思い出して奥歯を噛み締める。
自分は強い。けれどそれはあくまで自分の身を守れるほどのものだ。狂気が他人に向けられれば、自分の力が届かないこともある。あの時、エディやダン、リリーも助けるつもりでいたのに―――間に合わなかった。
いつか、リオンを失って一人になってしまうかもしれない。そのいつかが明日かもしれない。そう思うと、心臓近くの動脈がヒヤリとした。
こんな事、一人でいた時には思いもしなかったのに。いつからこんなに臆病になってしまったのだろう。この恐怖がなんなのか、分からなかった。
『……んな事ぐらい、オレが一番知ってる! だからっ、だからだよ!』
やけに感情的になってリオンが返した。続けるように口を開く。
『明日も、その次もその次もぜってえ、生き残ってやる! 生きてやる! オレは、レオを守れるようになりたい! その為にも強くなりたいんだ!』
リオンの言葉にレオナルドは少し驚きながらも「俺は別にお前より強いし、守ってもらう必要なんてないだろ」と目を細めた。「うっせえ!」リオンは恥ずかしさを誤魔化すように声を張り上げて言い返す。
『オレはお前の兄貴だ! 家族だ! だからオレはっ、弟であるレオを守る! レオを置いて死んだりなんかしねぇ!』
『……兄貴も何も同年だろ。第一、俺たちは本当の家族でもなんでも……』
だから! レオナルドの言葉をリオンが遮った。まるで聞きたくないと言わんばかりの勢いで。
『安心しろ! お前はもうっ、一人にならない!』
真っ直ぐと向けられた言葉に、レオナルドは目を瞠る。自分の心の恐怖を悟られた気がした。その言葉は優しさと心地良さを纏っている。
『お前にはオレが必要だ! だから、オレが導いてやるよ!』
『なんだそれ……お前には俺が必要、の間違いだろ』
嫌味を言ったつもりが、にっと笑みを向けられて口を閉じる。仲間を失ったあの日からおかしくなってしまったかのように思えたが、本質のリオンは変わっていなかった。負けず嫌いの努力家で、家族思い。
だが、それらの本質は本人達の知らぬところで至って普通に、まるで純粋であるかのように拗れていってしまっていたのだということを、この時はまだ分かっていなかった。
◆
「懐かしいな」
ざわめく周囲の声を耳にしながら、リオンがコロッセオの地に踏み入れた。かつての相棒と目を合わせる。
「闘技大会前夜はよく、二人で手合わせしたよな」
「……そうだな」
「体力が尽きるまで戦って……結局、お前に勝てたことなんて数回しかなかった……だが、今日はオレが勝つ。もう、前の俺とは違うんだ」
手に持った片手剣を勢いよく向けられ、レオナルドは顔を強ばらせたまま同じように構えた。リオンの口角が釣り上がる。
「さあ、レオ! あの時の続きをしようぜ! 最もこれは、手合わせでもなく、殺し合いだがなぁ!」
昔とは違った歪んだ声に、剣を持つ手の力を強め「……ああ」と返す。もう引き下がれない。これが本当に最後の大勝負だ。
「驚いたな。まさかこんな事になるなんてよ……」
遠くからその様子を見て、アレックスは呟く。今となってはキルア・スネイクの幹部であり、コロッセオのオーナーであるリオン。そんな男がわざわざこんなコロッセオの舞台に降りてくるなんて、誰が想像しただろう。それだけの因縁が二人にはあるということなのか。
「よし、できた」
ふう、と息をついてツグナが離れる。見ればアレックスの深い刺傷は布で覆われ、止血がしっかりとされていた。これで失血死は免れただろう。コロッセオ内に倒れていた者達も端に寄せ、出血が多い人間は軽く手当もした。ひとまずみんな、命に別状はないはずだ。
「全く、余計なことを……もう少しして動けるようになったら、またあんたを襲うかもしれねぇぞ?」
序盤は卑怯な手でこの少年に手をかけようとした。まさか忘れたわけじゃあるまい、と見つめるアレックスに「僕を襲いたいなら襲えばいい」とツグナが強気に返す。襲ってこないとどこかで知っていた為だ。
「でも、レオナルド達には手を出すな。レオナルドがそう望んでいる」
じっ、と威圧するかのように見つめるツグナに「男同志の決闘に水刺すやつがあるか」とアレックスが頭をかいた。少しほっとしたようにしてツグナが肩を下ろす。
「ちっ、にしても舐められたもんだ……サシ勝負で生かされ、挙句の果てに放置……どれだけ屈辱的なことか、ガキには分かるまい。このまま生きても惨めなだけだ……」
「死ぬなんて許さないぞ」
声のトーンが少しだけ下がった。アレックスが目を向けると、ツグナは不機嫌そうに皺を寄せている。
「お前らは……ここにいる人間は死を軽く見すぎている。いつか皆死ぬ。いつかみんな、死ぬんだ。どんな人生だっていつか終わりが来るから、だから生きている時間が大切なんだ。尊いんだ。それは自分で捨てることも、人が奪うものでもない……死には重みがある。娯楽なんかじゃない。それを忘れているお前らだからこそ、生きなきゃだめだ」
その言葉にアレックスは先程のツグナの怒りが理解出来たような気がした。ふぅ、と鼻で息をつき「純粋なやつだな」と弱々しく笑ってみせる。
「……あんたを見ていると、嬢ちゃんのことを思い出すぜ」
「嬢ちゃん?」
そういえば先程もそんな事を言っていたような、とツグナは思い出す。「ああ。昔ここにいたんだよ……ローゼ族の、女の子が」アレックスが懐かしむようにして目を細めた。
キィン!
金属が激しくぶつかり合い、周囲に冷たい音が響いた。リオンは興奮しているのか、弾き出し、大ぶりの動きでレオナルドに刺しかかる。
(こいつ……こんな動きだったか……?)
レオナルドは少し動揺していた。昔と違う、というのはどうやら本当らしい。正面から堂々と向かってくる前とは違って、今のリオンは裏から回るように攻撃を仕掛けてくる。それどころか―――
「……っ!?」
先程切り裂かれた腹部を蹴り付けられ、思わず吐血した。相手の弱みを容赦なく狙っていくスタイルに、本当に人間性が変わってしまったのだと実感せざるを得ない。
(少し距離を……!)
咄嗟に距離を取ろうとしたレオナルドの足を鉛玉が貫いた。バランスを崩し、その場に片足を着く。
(銃……! そうか、こいつ……! 銃を持って……!)
闘技大会が始まる前、再会した時のことを思い出す。片足が着いた瞬間に剣を振りかざされ、思わず自身の剣で受け止めた。ギリギリと押し付けられる中、リオンと視線を交わす。
「っ、どこまでも舐めやがって……!」
前から来る怒りの声に眉をひそめる。「お前はいつもそうだ」リオンは瞳孔の開いた碧眼に、困惑するレオナルドを映した。
「オレはいつだって真剣なのに……お前はずっと、オレに対して本気でぶつかってきたことなんてなかった……! 数回勝てたのなんてまぐれでもなんでもないっ……! 諦めの悪いオレに呆れて、最後はいつも勝たせてやっていた……! なあ! そうだろ!」
「……っ!」
その言葉にレオナルドは何も返さなかった。「オレが気づかないとでも思っていたのかよ」引き攣るように短く笑い、リオンが続ける。
「闘技大会でもそうだ。オレが連中にトドメを刺しやすいように動いて、最後はオレに花を持たせていた……そうやって、オレより強いからいつも余裕で、そんなお前の態度がずっと気に食わなかった! オレをずっと、下に見てたんだろ!!」
「……違う」
「嘘をつくなクソ野郎! 今だって、オレに対して攻撃を受け流すばかりで、まともにぶつかってきてねぇだろうが!」
感情的になっているリオンに、レオナルドはわざと身を引いた。それによってバランスを崩したリオンの足を払い、その隙に体勢を立て直す。「ほらな」隣から嘲たリオンの声が聞こえた。
「今だってオレを切る事が出来たはずだろ……やっぱりお前は、変わっていないな。レオ」
ガッカリだ、心底落胆する声がした瞬間に銃を向けられ、レオナルドは横へと逃れた。銃弾を外したリオンから短い舌打ちがする。本気で当てにいこうとしていたのは、狙いを見て分かった。
「……お前は、変わってしまったんだな。リオン」
「ああ。地上でのうのうと生きていたお前とは違ってな」
冷たく見下ろしながらリオンが再び剣を構えた。駆け出し、思い切り剣を振りかざすリオンと自身の剣をぶつける。その力に、足が後退してしまったが、負けじと踏ん張り、押し出すように力を入れた。ぼたぼたと腹部から血が垂れていき、地面を赤く染めていく。
あの頃のリオンには決して戻らない。分かってる。分かっているのに―――
「折角だから、本気出せるように教えてやるよ」
流血過多になろうがいつまでも手を出そうとしないレオナルドに、リオンが口を開いた。その笑みは、不気味な三日月のようにつり上がっている。
「お前と一緒に逃げようとした女……確か、ナターシャだったか?」
「……?」
久しぶりに聞いたその名に、あの頃の情景が思い浮かぶ。赤髪を靡かせ、満面の笑みを浮かべる彼女に―――
「あの女を殺したのは、このオレだ」
殺した。その言葉を聞いたレオナルドの緑眼が、徐々に見開いていった。
◆
もう十数年前の事。コロッセオでの働きが上にも伝わり、リオンは二十歳にして闘士からキルア・スネイクの一員になった。
『よお。お前がナターシャか』
自身の記憶にある赤髪女の前で止まる。女は手枷がなされ、檻の中で飼われているような状態だった。両足は太腿から下がなく、こちらから声をかけると肩をビクつくかせ、緑眼を向けた。その傍には何も知らない純粋無垢の、女とよく似た少女がいる。
『ガキは連れて行け。女と話がしたい』
その言葉に、背後にいた一人が無言で少女を檻から連れ出した。「マンマ~」呑気なその声に女は答えようとしない。すれ違うようにしてリオンは檻に入る。
『……男の執着って馬鹿みたいだわ。一度自分の物だと認識したら、ここまでしないと気が済まないなんて』
『はっ、女はあっさりしすぎたな。まっ、レイプされて孕まされたガキに愛情もクソもないか』
こちらに向けていた緑眼がより一層のキツくなった。その目に光はない。レオナルドを連れて行った時の女とは少し印象が違ってみえた。
『貴方たちはいつまで経っても子供よ。玩具は腐るほどある癖に、飽きたら使い捨てにするくせに。いざ離れていったら取り戻そうとしてくる。自分の元から離れていくのが怖くて怖くて仕方がない、子供。だから、何かで縛りつけようとしてくる。恐怖、痛み、それと、偽りの甘い言葉で』
自分の過去の記憶と重なるものがあり、ゆっくり瞬きしてから「オレには分からねえな」と反対言葉を吐く。
『例え他に玩具があれど、お前はボスのお気に入りだったんだろ? 愛されているのに、何が不満だ?』
『歪んでいる。貴方たちは』
被せる勢いで即座に、ゆっくりと圧をかけてナターシャが返した。それは枷をつけられているとは思えない凄みがある。
『可哀想に。歪んだ愛情しか受けたことがないから、まともに人を愛することが出来ないのね。本当に、可哀想な人達』
『……じゃあ、どうすればよかったんだよ』
ボソリと呟くリオンの言葉にナターシャは眉をひそめた。感情の見えない鋭い瞳が、持たない人間を傷つけるただのその言葉が、レオナルドとよく似ていて思わず「本当、レオとよく似ている」と付け足す。レオ、その言葉にナターシャが身を乗り出した。
『貴方、レオく……レオナルドのことを知っているの……?』
『ああ、よくな』
含む言い方にナターシャは少し間を置き「……もしかしてリオンくん、なの?」と問いかける。本当に女ってのは勘が鋭いなんて思いつつも「だったらなんだ」と冷たく見下ろした。
『……あの爆発でてっきり……そう。良かった』
ピクンと、瞼の上が痙攣した。頬が引き攣り「良かった?」と低い唸りのような声を吐く。
『何も良くねぇ。あの日、てめぇが中途半端に檻を開けたことで、脱走を止めようとした連中が爆弾を投げ込み、大勢が死んだ。あの日逃げ出せたのは懲罰房に入れられていたレオナルドだけ。偶然とは思えねぇ……てめぇは、オレたちをハナからだしに使うつもりだったんだろ。連中を撹乱させるために』
ナターシャはそれに対して何も答えようとしなかった。「だんまりかよ、クソッタレ」とリオンが拳を握りしめる。
『爆発で崩れた瓦礫に挟まれて……まだオレは生きていたのに。レオのやつ、まるで自分は被害者みたいな面して、オレを捨てやがって……! 全部てめぇがっ! てめぇがいなかったらオレ達は……!』
感情的に怒鳴り散らしてから、リオンは何とか耐えようと言葉を噛み殺す。興奮した吐息が、歯の隙間から漏れ出た。怒りを秘めたまま落ち着こうと息を吐き、カチリと銃の撃鉄を上げる。
『……お前のガキは使い道があるから貰う。お前はもう用済みだ。さっさとくたばれ、クソ女』
額に銃を突きつけ「最後に言い残すことはあるか?」と言い放った。ナターシャはリオンを見上げ死を悟ると、涙を流しながら「ごめんなさい」と口を開く。
『どうしても、あの子を救いたかったの。でも、私のせいで貴方たちは離れてしまった……許してなんて言わない……あの子の、家族になってくれてありがとう、リオンくん』
もう会えない我が子への言葉じゃなく、自分に向けられた言葉に瞳孔が開く。何が家族だ。愛だ。オレには理解できない―――その瞬間、反射的に引いたトリガーによって、辺りには冷たい銃声が響いた。
『あばよ、クソ女』
◆
「その子の名はアリーチェ。昔、キルア・スネイクで飼われていたローゼ族の奴隷の子らしい。俺がコロッセオに来た時は既に一人だった」
懐かしそうに語るアレックスに「お前、元からコロッセオにいたんじゃないのか」とツグナが問いかける。「元からこんなクソみてぇなところ居てたまるかよ」愚痴のようにアレックスが続けた。
「俺は元々地上の人間だ。地上にいた時は、優秀な軍人だったんだぜ……でも、ちょっとヘマしてな。気がついたらここにいた」
「地上……の人間だったのか」
てっきりレオナルドと同じタイプだと思っていたが。オウム返しするツグナに「もう地上にいた頃の記憶なんて薄れちまってるけどな」とアレックスが弱々しく笑った。
「その子はローゼでありながら、戦いは下手くそでよ。覚えが悪い上相手にトドメをさせず、結果詰めの甘さで何度も死にかけていた。注意力も足りてなければ応用力もない。だから、ここに来てすぐ俺が教育係でつくことになったんだ」
当時を思い出して、アレックスは目を瞑る。覚えの悪いアリーチェに何度も苛立ち、始めは粗末に扱っていた。だが、だんだんその子の覚えが決して悪いわけじゃないことに気がつく。
「始めは単に頭の悪い子だと思っていたが、違った。あの子は誰よりも優しい子だったんだ。他人や動物に優しくて……よく周りの連中やネズミに自分の少ない飯を分けていた。毒で死にかけていたやつも一生懸命看病したりよ……なんでそんなことをするんだって聞いたらその子が言ったんだ。みんな生きているからって」
「……あ」
ふと、ヴェトナの古城で会ったグレーテの事がツグナの頭に過ぎる。ネズミを手のひらに乗せているグレーテの姿を。
『生きていると温かい。けれどいつかみんな冷たくなる。ネズミも、ママも、貴方も。いつかみんな死んじゃうの。ママは私の事が嫌いだったけど、教えてくれた。生きていれば辛いことも苦しいことも沢山ある。だから温かさを見つけた時、それがどんなに小さくても喜びで胸がいっぱいになる。痛みも喜びも生きているうちに感じられるものだから、その短い時間がとても愛おしいって……私、温かいの好き。みんなもきっと同じ。だから、生きたい。皆に生きて、感じてほしい』
アレックスが語るアリーチェの言葉にツグナは目を瞠ったまま、声を失った。確かに重なる面影に鼓動が早くなる。まさか―――
「驚いたよ。自分より遥か子供がそれを語るんだぜ……こんなところにいるとそんな感覚も狂っちまう。自分が生きることばかりに必死になってよ。周りなんか見えない。見ていない。人への優しさや気遣いなんて、あくまで自分に余裕がある時の副産物だ……なのにあの子は俺や他人に優しくなれた。冷たい世界にも人の優しさがあると教えてくれたんだ。だから俺も希望を持てた……あんたは、アリーチェと仲良くなれそうだ」
思い出してどこか優しく笑ってみせるアレックスにツグナは開いた口のまま「……その子は、どこに?」と返した。
「優しい子だったからな。良心の呵責を感じて、地上の奴隷商に引き取ってもらうことにした。この子はコロッセオでは使えないと……ローゼ族なら高額で引き取られるし、コロッセオで稼ぐより全然いいだろってな。もしそれでも足りないなら、この先勝ち続けて俺が稼ぐ……これがオーナーとの約束だ……後悔していないぜ。まだ俺の中にも優しさがあった。その事実があるだけで、救われる」
『ありがとう。アレックスは、私の英雄だよ』
別れ際のアリーチェの言葉にアレックスは傷口をギュッと抑えた。これまで何度も逃げ出したくなることがあった。辛くて、立ち上がることをやめようとしたこともあった。
それでも、今日まで自分が「生きよう」と頑張ってこれたのは、いつまでもあの子の英雄でありたかったからなのかもしれない。軍人の頃のように心から慕ってくれるあの子の。そのためならどんなに卑怯だと言われようが手段は選ばない。それが自分なりの正義だった。
「少なからず地上なら、ここの生活より幾分かマシになるだろう……ここの事なんか忘れて、元気でやってくれているといいんだが……」
遠くを見つめるアレックスにツグナは項垂れたまま「そっか」と呟く。アレックスの言うアリーチェが本当にグレーテだとは限らない。それでも、自分には確信が持ててしまった。グレーテの最期を瞼の裏に映し「……そっか」と繰り返す。
「……あの子、本当はアリーチェって言うんだな」
その呟きにアレックスが反応し「知っているのか?」と聞き返す。本当のことを言おうかと口を開くが、言葉が出てこず「いや、分からない」とツグナはただ首を振った。真実を伝えるには、あまりにも残酷だろう。
(そっか……人は、こういう時にも嘘をつくんだな)
確信がないから、というのもあるけれど。なんとなく、希望を抱くアレックスを悲しませたくない気持ちがあった。でもこの先、真実を知らないまま生きていくのも酷な話な気がする。結局どちらが正解かなんて分からなかった。
「ぐっ……!」
力強く弾き出され、リオンは数歩ほど後退した。剣を握っていた手が赤くなり、小刻みに震える。「やっと本気になっ……」そこまで言った瞬間に、レオナルドから強く足蹴りされ、そのまま押し倒された。剣先を喉元に突き立てられると同時に、レオナルドの額に拳銃を向ける。
「はあっ、はあっ……てめぇ……」
アレックスの戦いよりもあっけなく、そして一瞬だった。実力差を感じ、リオンが奥歯を噛み締める。結局、どんなに頑張ってもこいつには永遠に追いつけないのだと。悔しくてならなかった。
「……やはり、だめか」
しばらく睨み合いが続いた後、レオナルドはそう呟いて剣を投げ捨てた。困惑するリオンの耳に「……悪かった」と消えそうな声が入ってくる。
「あの時、お前を一人にして……後悔しなかった日なんてない。一日だって、お前のことを忘れようとは思わなかった。俺はお前を……殺したくない……殺せない」
「……っ!?」
リオンは衝撃を受けた。初めてだったのだ。あのレオナルドが、自身の感情を優先させるなんて。夢話をすれば現実主義者、物事の判断はいつも決まって論理的で感情が読めないような奴だったのに。
「ざけんなよ!」
瞼を痙攣させ、思わず怒鳴り散らした。レオナルドの肩を強く押し出し、立ち上がる。押し出されたレオナルドは、勢いよく後ろに尻をついた。
「この腑抜けが! そうやって中途半端に優しさを向けられることが、どれだけ惨めか分かっているのかよ! はあっ……本当はっ、心の中で嘲笑ってるくせに、いつまで偽善者ぶるつもりだ! 見下していたから……だからあの時オレの事を見捨てたんだろ! 下に見てたから裏切ったんだ! このまま本気でお前の頭をぶち抜いてやる……っ」
「ずっと、俺は冷たい人生だった」被せるようにしてレオナルドが再び口を開く。いつもとは違って本音を言い慣れていない、言いずらそうな口の開き方だ。項垂れながら更に続ける。
「寒さも、一人でいるのも、苦じゃなかった。自分が生きているのか分からなかった。でも、お前と出会ってから、何故か温かいんだ。居心地がよくて、そこからずっと、寒さに怯えている。人に対する優しさを、一人の時は感じられなかったことを、お前が一番最初に教えてくれた……そんなお前を、下になんてみない」
リオンに会うまで、自分は何もわからなかったのだ。人に嫌われ、時には暴力を振るわれ、嘲笑われ、世の中はそんな冷たいものだと、見限っていた。だから人に対して何をしても興味を持てず、何も感じなかった。
でも、リオンと出会って温かさを得てから、自分の中に何かが芽生えた。芽生えたものはナターシャとの出会いによって育ち、お嬢様によって自覚させられる。そうして、今の腑抜けた自分がいるのだと。
「お前は俺が変わっていないといったな。でも、それは違う。お前と出会って、俺は変わったんだ。お前と出会わなかったら俺はずっと、生きながら死人だったろう……だから、感謝している」
リオンの拳銃を持つ手が震えた。この感覚には覚えがある。ナターシャの最期だ。はっ、と吐いた呼吸に、動揺が現れ「やめろ……!」と思わず言葉で制止させた。
「らしくもねぇこと言うな! 今更聞きたくない……っ! 俺が戦いたかったのはあの日オレを見捨てたレオだ! そのためにここまで上り詰めたんだぞ! これじゃ、これまでのオレが全部無駄になる……! オレの人生を、またお前が否定するな!」
興奮したように荒い息遣いが聞こえてくる。必死に怒りを押し殺しているのか、握りしめた拳が震えていた。レオナルドはそれを見て眉を下げる。
「もう……やめよう。俺の右目が欲しいならくれてやる。気が済むようにしたらいい……これ以上」
「うるせえ」レオナルドの言葉を遮ってリオンが低く声を放った。フラフラと前に一歩踏み出す。
「そうやってまた逃げる気かよ。ちーがーうだろぉ? オレの知ってるレオはそんな腑抜けじゃない……いつもオレの先をいって、オレの欲しいものは全部持ってるくせに、それに気が付かず世の中は残酷だみたいな知った顔して見下してんだ。意味わからねえよな、本当。なのに皆お前ばかり賞賛する。オレはそんなお前に勝ちたくて必死だった……お前に勝たないとオレはずっと苦しいんだ……お前が本気でぶつかってこないと、オレは報われないんだ……そんな優しさなんて今は要らない……っ!」
でもお前には勝てない、ブツブツと付け足された言葉は自嘲気味で、先程の激昂した時とは少し様子が違って聞こえた。再び顔を上げたリオンに、レオナルドは息を飲む。その青い瞳は何処も映さず、涙を垂れ流していたからだ。
「もういい」諦観した声が続けられ、拳銃も剣も捨てたリオンの手には、赤い液体の入ったガラス瓶が握られてある。
「きっと、この先オレはどう足掻いたってお前には勝てない。だったら、もうオレがオレじゃなくなるしかない。ローゼのお前に勝つには、オレも化け物になるしかないんだ」
「……何を言ってる?」
ヒヤリとした感覚が、レオナルドの背筋を襲った。「言ったろ、今日はオレが勝つって」リオンは話を続けながら自身の首元にガラス瓶を持っていく。よく見れば、そのガラス瓶は短い針が先端についた小型の注射器のようだった。
「人間性を失う程の人体強化剤。本当は闘士に使うつもりだったが、気が変わった」
「おい、何をする気だ! やめろ……っ!」
「本気で止めてくれよ、レオ」
嫌な予感のまま止めようとするレオナルドの前で、リオンは自身の首元に注射筒を突き刺した。目がギョロりと裏返り、苦しそうに大口を開けて悶える。
「ごっ、がぁ……はっ」
流れる涙や白目の部分が赤く染まった。筋肉が膨張し、皮膚が破れて血が流れる。体の変異で骨まで軋んでいるのか、ミシミシという音が辺りに響いていた。
「なっ……」
徐々に体が変貌していく様を、レオナルドは青ざめながら目にした。膨れ上がった筋肉は筋が剥き出しになり、鼻や耳などの人体の基本的な器官は肥大した筋肉に巻き込まれて形を失ってしまった。毛髪は抜け落ち、つけていた眼帯がはち切れたことによって潰れた右目が顕になる。辛うじて人の姿を保っているに過ぎないソレはあまりにも醜悪だ。
「ヴオォォオオォォン!!」
体が数倍にも大きくなり、影がレオナルドの体全体を覆い隠すほどのものになると、コロッセオ内には例えがたい奇声が響き渡った。
吹き飛ばされ、勢いよく地べたに尻をついた。ガチャンと遠くの方に剣が滑っていき、幼きリオンは痛みに悶える。
『いって~! くそっ、どうなってんだよ……全然勝てねぇ……』
呟きながら尻を抑えるリオンに「これで俺の五百十二勝だな」とレオナルドが鼻で笑ってみせた。
『もう一回だ! こんなん、納得いかねえ!』
『やらない。明日が本番なんだから、それ以上体を痛めつけるな。本当に死ぬぞ』
今日は何回目かになる闘技大会前夜。明日のことを考えれば、体力を少しでも温存していた方が生存率があがる。やめだ、といつまでも首を縦に振らないレオナルドに『オレは死なねえよ!』とリオンが返した。
『……そんな保証なんてどこにある? お前も分かるだろ? あの場はそういう気合いや自信だけじゃ乗り越えられない。いつか、俺たちのどちらかが殺されてもおかしくないんだ』
淡々と言葉にしながらも、レオナルドは一番初めに出場した時のことを思い出して奥歯を噛み締める。
自分は強い。けれどそれはあくまで自分の身を守れるほどのものだ。狂気が他人に向けられれば、自分の力が届かないこともある。あの時、エディやダン、リリーも助けるつもりでいたのに―――間に合わなかった。
いつか、リオンを失って一人になってしまうかもしれない。そのいつかが明日かもしれない。そう思うと、心臓近くの動脈がヒヤリとした。
こんな事、一人でいた時には思いもしなかったのに。いつからこんなに臆病になってしまったのだろう。この恐怖がなんなのか、分からなかった。
『……んな事ぐらい、オレが一番知ってる! だからっ、だからだよ!』
やけに感情的になってリオンが返した。続けるように口を開く。
『明日も、その次もその次もぜってえ、生き残ってやる! 生きてやる! オレは、レオを守れるようになりたい! その為にも強くなりたいんだ!』
リオンの言葉にレオナルドは少し驚きながらも「俺は別にお前より強いし、守ってもらう必要なんてないだろ」と目を細めた。「うっせえ!」リオンは恥ずかしさを誤魔化すように声を張り上げて言い返す。
『オレはお前の兄貴だ! 家族だ! だからオレはっ、弟であるレオを守る! レオを置いて死んだりなんかしねぇ!』
『……兄貴も何も同年だろ。第一、俺たちは本当の家族でもなんでも……』
だから! レオナルドの言葉をリオンが遮った。まるで聞きたくないと言わんばかりの勢いで。
『安心しろ! お前はもうっ、一人にならない!』
真っ直ぐと向けられた言葉に、レオナルドは目を瞠る。自分の心の恐怖を悟られた気がした。その言葉は優しさと心地良さを纏っている。
『お前にはオレが必要だ! だから、オレが導いてやるよ!』
『なんだそれ……お前には俺が必要、の間違いだろ』
嫌味を言ったつもりが、にっと笑みを向けられて口を閉じる。仲間を失ったあの日からおかしくなってしまったかのように思えたが、本質のリオンは変わっていなかった。負けず嫌いの努力家で、家族思い。
だが、それらの本質は本人達の知らぬところで至って普通に、まるで純粋であるかのように拗れていってしまっていたのだということを、この時はまだ分かっていなかった。
◆
「懐かしいな」
ざわめく周囲の声を耳にしながら、リオンがコロッセオの地に踏み入れた。かつての相棒と目を合わせる。
「闘技大会前夜はよく、二人で手合わせしたよな」
「……そうだな」
「体力が尽きるまで戦って……結局、お前に勝てたことなんて数回しかなかった……だが、今日はオレが勝つ。もう、前の俺とは違うんだ」
手に持った片手剣を勢いよく向けられ、レオナルドは顔を強ばらせたまま同じように構えた。リオンの口角が釣り上がる。
「さあ、レオ! あの時の続きをしようぜ! 最もこれは、手合わせでもなく、殺し合いだがなぁ!」
昔とは違った歪んだ声に、剣を持つ手の力を強め「……ああ」と返す。もう引き下がれない。これが本当に最後の大勝負だ。
「驚いたな。まさかこんな事になるなんてよ……」
遠くからその様子を見て、アレックスは呟く。今となってはキルア・スネイクの幹部であり、コロッセオのオーナーであるリオン。そんな男がわざわざこんなコロッセオの舞台に降りてくるなんて、誰が想像しただろう。それだけの因縁が二人にはあるということなのか。
「よし、できた」
ふう、と息をついてツグナが離れる。見ればアレックスの深い刺傷は布で覆われ、止血がしっかりとされていた。これで失血死は免れただろう。コロッセオ内に倒れていた者達も端に寄せ、出血が多い人間は軽く手当もした。ひとまずみんな、命に別状はないはずだ。
「全く、余計なことを……もう少しして動けるようになったら、またあんたを襲うかもしれねぇぞ?」
序盤は卑怯な手でこの少年に手をかけようとした。まさか忘れたわけじゃあるまい、と見つめるアレックスに「僕を襲いたいなら襲えばいい」とツグナが強気に返す。襲ってこないとどこかで知っていた為だ。
「でも、レオナルド達には手を出すな。レオナルドがそう望んでいる」
じっ、と威圧するかのように見つめるツグナに「男同志の決闘に水刺すやつがあるか」とアレックスが頭をかいた。少しほっとしたようにしてツグナが肩を下ろす。
「ちっ、にしても舐められたもんだ……サシ勝負で生かされ、挙句の果てに放置……どれだけ屈辱的なことか、ガキには分かるまい。このまま生きても惨めなだけだ……」
「死ぬなんて許さないぞ」
声のトーンが少しだけ下がった。アレックスが目を向けると、ツグナは不機嫌そうに皺を寄せている。
「お前らは……ここにいる人間は死を軽く見すぎている。いつか皆死ぬ。いつかみんな、死ぬんだ。どんな人生だっていつか終わりが来るから、だから生きている時間が大切なんだ。尊いんだ。それは自分で捨てることも、人が奪うものでもない……死には重みがある。娯楽なんかじゃない。それを忘れているお前らだからこそ、生きなきゃだめだ」
その言葉にアレックスは先程のツグナの怒りが理解出来たような気がした。ふぅ、と鼻で息をつき「純粋なやつだな」と弱々しく笑ってみせる。
「……あんたを見ていると、嬢ちゃんのことを思い出すぜ」
「嬢ちゃん?」
そういえば先程もそんな事を言っていたような、とツグナは思い出す。「ああ。昔ここにいたんだよ……ローゼ族の、女の子が」アレックスが懐かしむようにして目を細めた。
キィン!
金属が激しくぶつかり合い、周囲に冷たい音が響いた。リオンは興奮しているのか、弾き出し、大ぶりの動きでレオナルドに刺しかかる。
(こいつ……こんな動きだったか……?)
レオナルドは少し動揺していた。昔と違う、というのはどうやら本当らしい。正面から堂々と向かってくる前とは違って、今のリオンは裏から回るように攻撃を仕掛けてくる。それどころか―――
「……っ!?」
先程切り裂かれた腹部を蹴り付けられ、思わず吐血した。相手の弱みを容赦なく狙っていくスタイルに、本当に人間性が変わってしまったのだと実感せざるを得ない。
(少し距離を……!)
咄嗟に距離を取ろうとしたレオナルドの足を鉛玉が貫いた。バランスを崩し、その場に片足を着く。
(銃……! そうか、こいつ……! 銃を持って……!)
闘技大会が始まる前、再会した時のことを思い出す。片足が着いた瞬間に剣を振りかざされ、思わず自身の剣で受け止めた。ギリギリと押し付けられる中、リオンと視線を交わす。
「っ、どこまでも舐めやがって……!」
前から来る怒りの声に眉をひそめる。「お前はいつもそうだ」リオンは瞳孔の開いた碧眼に、困惑するレオナルドを映した。
「オレはいつだって真剣なのに……お前はずっと、オレに対して本気でぶつかってきたことなんてなかった……! 数回勝てたのなんてまぐれでもなんでもないっ……! 諦めの悪いオレに呆れて、最後はいつも勝たせてやっていた……! なあ! そうだろ!」
「……っ!」
その言葉にレオナルドは何も返さなかった。「オレが気づかないとでも思っていたのかよ」引き攣るように短く笑い、リオンが続ける。
「闘技大会でもそうだ。オレが連中にトドメを刺しやすいように動いて、最後はオレに花を持たせていた……そうやって、オレより強いからいつも余裕で、そんなお前の態度がずっと気に食わなかった! オレをずっと、下に見てたんだろ!!」
「……違う」
「嘘をつくなクソ野郎! 今だって、オレに対して攻撃を受け流すばかりで、まともにぶつかってきてねぇだろうが!」
感情的になっているリオンに、レオナルドはわざと身を引いた。それによってバランスを崩したリオンの足を払い、その隙に体勢を立て直す。「ほらな」隣から嘲たリオンの声が聞こえた。
「今だってオレを切る事が出来たはずだろ……やっぱりお前は、変わっていないな。レオ」
ガッカリだ、心底落胆する声がした瞬間に銃を向けられ、レオナルドは横へと逃れた。銃弾を外したリオンから短い舌打ちがする。本気で当てにいこうとしていたのは、狙いを見て分かった。
「……お前は、変わってしまったんだな。リオン」
「ああ。地上でのうのうと生きていたお前とは違ってな」
冷たく見下ろしながらリオンが再び剣を構えた。駆け出し、思い切り剣を振りかざすリオンと自身の剣をぶつける。その力に、足が後退してしまったが、負けじと踏ん張り、押し出すように力を入れた。ぼたぼたと腹部から血が垂れていき、地面を赤く染めていく。
あの頃のリオンには決して戻らない。分かってる。分かっているのに―――
「折角だから、本気出せるように教えてやるよ」
流血過多になろうがいつまでも手を出そうとしないレオナルドに、リオンが口を開いた。その笑みは、不気味な三日月のようにつり上がっている。
「お前と一緒に逃げようとした女……確か、ナターシャだったか?」
「……?」
久しぶりに聞いたその名に、あの頃の情景が思い浮かぶ。赤髪を靡かせ、満面の笑みを浮かべる彼女に―――
「あの女を殺したのは、このオレだ」
殺した。その言葉を聞いたレオナルドの緑眼が、徐々に見開いていった。
◆
もう十数年前の事。コロッセオでの働きが上にも伝わり、リオンは二十歳にして闘士からキルア・スネイクの一員になった。
『よお。お前がナターシャか』
自身の記憶にある赤髪女の前で止まる。女は手枷がなされ、檻の中で飼われているような状態だった。両足は太腿から下がなく、こちらから声をかけると肩をビクつくかせ、緑眼を向けた。その傍には何も知らない純粋無垢の、女とよく似た少女がいる。
『ガキは連れて行け。女と話がしたい』
その言葉に、背後にいた一人が無言で少女を檻から連れ出した。「マンマ~」呑気なその声に女は答えようとしない。すれ違うようにしてリオンは檻に入る。
『……男の執着って馬鹿みたいだわ。一度自分の物だと認識したら、ここまでしないと気が済まないなんて』
『はっ、女はあっさりしすぎたな。まっ、レイプされて孕まされたガキに愛情もクソもないか』
こちらに向けていた緑眼がより一層のキツくなった。その目に光はない。レオナルドを連れて行った時の女とは少し印象が違ってみえた。
『貴方たちはいつまで経っても子供よ。玩具は腐るほどある癖に、飽きたら使い捨てにするくせに。いざ離れていったら取り戻そうとしてくる。自分の元から離れていくのが怖くて怖くて仕方がない、子供。だから、何かで縛りつけようとしてくる。恐怖、痛み、それと、偽りの甘い言葉で』
自分の過去の記憶と重なるものがあり、ゆっくり瞬きしてから「オレには分からねえな」と反対言葉を吐く。
『例え他に玩具があれど、お前はボスのお気に入りだったんだろ? 愛されているのに、何が不満だ?』
『歪んでいる。貴方たちは』
被せる勢いで即座に、ゆっくりと圧をかけてナターシャが返した。それは枷をつけられているとは思えない凄みがある。
『可哀想に。歪んだ愛情しか受けたことがないから、まともに人を愛することが出来ないのね。本当に、可哀想な人達』
『……じゃあ、どうすればよかったんだよ』
ボソリと呟くリオンの言葉にナターシャは眉をひそめた。感情の見えない鋭い瞳が、持たない人間を傷つけるただのその言葉が、レオナルドとよく似ていて思わず「本当、レオとよく似ている」と付け足す。レオ、その言葉にナターシャが身を乗り出した。
『貴方、レオく……レオナルドのことを知っているの……?』
『ああ、よくな』
含む言い方にナターシャは少し間を置き「……もしかしてリオンくん、なの?」と問いかける。本当に女ってのは勘が鋭いなんて思いつつも「だったらなんだ」と冷たく見下ろした。
『……あの爆発でてっきり……そう。良かった』
ピクンと、瞼の上が痙攣した。頬が引き攣り「良かった?」と低い唸りのような声を吐く。
『何も良くねぇ。あの日、てめぇが中途半端に檻を開けたことで、脱走を止めようとした連中が爆弾を投げ込み、大勢が死んだ。あの日逃げ出せたのは懲罰房に入れられていたレオナルドだけ。偶然とは思えねぇ……てめぇは、オレたちをハナからだしに使うつもりだったんだろ。連中を撹乱させるために』
ナターシャはそれに対して何も答えようとしなかった。「だんまりかよ、クソッタレ」とリオンが拳を握りしめる。
『爆発で崩れた瓦礫に挟まれて……まだオレは生きていたのに。レオのやつ、まるで自分は被害者みたいな面して、オレを捨てやがって……! 全部てめぇがっ! てめぇがいなかったらオレ達は……!』
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もう会えない我が子への言葉じゃなく、自分に向けられた言葉に瞳孔が開く。何が家族だ。愛だ。オレには理解できない―――その瞬間、反射的に引いたトリガーによって、辺りには冷たい銃声が響いた。
『あばよ、クソ女』
◆
「その子の名はアリーチェ。昔、キルア・スネイクで飼われていたローゼ族の奴隷の子らしい。俺がコロッセオに来た時は既に一人だった」
懐かしそうに語るアレックスに「お前、元からコロッセオにいたんじゃないのか」とツグナが問いかける。「元からこんなクソみてぇなところ居てたまるかよ」愚痴のようにアレックスが続けた。
「俺は元々地上の人間だ。地上にいた時は、優秀な軍人だったんだぜ……でも、ちょっとヘマしてな。気がついたらここにいた」
「地上……の人間だったのか」
てっきりレオナルドと同じタイプだと思っていたが。オウム返しするツグナに「もう地上にいた頃の記憶なんて薄れちまってるけどな」とアレックスが弱々しく笑った。
「その子はローゼでありながら、戦いは下手くそでよ。覚えが悪い上相手にトドメをさせず、結果詰めの甘さで何度も死にかけていた。注意力も足りてなければ応用力もない。だから、ここに来てすぐ俺が教育係でつくことになったんだ」
当時を思い出して、アレックスは目を瞑る。覚えの悪いアリーチェに何度も苛立ち、始めは粗末に扱っていた。だが、だんだんその子の覚えが決して悪いわけじゃないことに気がつく。
「始めは単に頭の悪い子だと思っていたが、違った。あの子は誰よりも優しい子だったんだ。他人や動物に優しくて……よく周りの連中やネズミに自分の少ない飯を分けていた。毒で死にかけていたやつも一生懸命看病したりよ……なんでそんなことをするんだって聞いたらその子が言ったんだ。みんな生きているからって」
「……あ」
ふと、ヴェトナの古城で会ったグレーテの事がツグナの頭に過ぎる。ネズミを手のひらに乗せているグレーテの姿を。
『生きていると温かい。けれどいつかみんな冷たくなる。ネズミも、ママも、貴方も。いつかみんな死んじゃうの。ママは私の事が嫌いだったけど、教えてくれた。生きていれば辛いことも苦しいことも沢山ある。だから温かさを見つけた時、それがどんなに小さくても喜びで胸がいっぱいになる。痛みも喜びも生きているうちに感じられるものだから、その短い時間がとても愛おしいって……私、温かいの好き。みんなもきっと同じ。だから、生きたい。皆に生きて、感じてほしい』
アレックスが語るアリーチェの言葉にツグナは目を瞠ったまま、声を失った。確かに重なる面影に鼓動が早くなる。まさか―――
「驚いたよ。自分より遥か子供がそれを語るんだぜ……こんなところにいるとそんな感覚も狂っちまう。自分が生きることばかりに必死になってよ。周りなんか見えない。見ていない。人への優しさや気遣いなんて、あくまで自分に余裕がある時の副産物だ……なのにあの子は俺や他人に優しくなれた。冷たい世界にも人の優しさがあると教えてくれたんだ。だから俺も希望を持てた……あんたは、アリーチェと仲良くなれそうだ」
思い出してどこか優しく笑ってみせるアレックスにツグナは開いた口のまま「……その子は、どこに?」と返した。
「優しい子だったからな。良心の呵責を感じて、地上の奴隷商に引き取ってもらうことにした。この子はコロッセオでは使えないと……ローゼ族なら高額で引き取られるし、コロッセオで稼ぐより全然いいだろってな。もしそれでも足りないなら、この先勝ち続けて俺が稼ぐ……これがオーナーとの約束だ……後悔していないぜ。まだ俺の中にも優しさがあった。その事実があるだけで、救われる」
『ありがとう。アレックスは、私の英雄だよ』
別れ際のアリーチェの言葉にアレックスは傷口をギュッと抑えた。これまで何度も逃げ出したくなることがあった。辛くて、立ち上がることをやめようとしたこともあった。
それでも、今日まで自分が「生きよう」と頑張ってこれたのは、いつまでもあの子の英雄でありたかったからなのかもしれない。軍人の頃のように心から慕ってくれるあの子の。そのためならどんなに卑怯だと言われようが手段は選ばない。それが自分なりの正義だった。
「少なからず地上なら、ここの生活より幾分かマシになるだろう……ここの事なんか忘れて、元気でやってくれているといいんだが……」
遠くを見つめるアレックスにツグナは項垂れたまま「そっか」と呟く。アレックスの言うアリーチェが本当にグレーテだとは限らない。それでも、自分には確信が持ててしまった。グレーテの最期を瞼の裏に映し「……そっか」と繰り返す。
「……あの子、本当はアリーチェって言うんだな」
その呟きにアレックスが反応し「知っているのか?」と聞き返す。本当のことを言おうかと口を開くが、言葉が出てこず「いや、分からない」とツグナはただ首を振った。真実を伝えるには、あまりにも残酷だろう。
(そっか……人は、こういう時にも嘘をつくんだな)
確信がないから、というのもあるけれど。なんとなく、希望を抱くアレックスを悲しませたくない気持ちがあった。でもこの先、真実を知らないまま生きていくのも酷な話な気がする。結局どちらが正解かなんて分からなかった。
「ぐっ……!」
力強く弾き出され、リオンは数歩ほど後退した。剣を握っていた手が赤くなり、小刻みに震える。「やっと本気になっ……」そこまで言った瞬間に、レオナルドから強く足蹴りされ、そのまま押し倒された。剣先を喉元に突き立てられると同時に、レオナルドの額に拳銃を向ける。
「はあっ、はあっ……てめぇ……」
アレックスの戦いよりもあっけなく、そして一瞬だった。実力差を感じ、リオンが奥歯を噛み締める。結局、どんなに頑張ってもこいつには永遠に追いつけないのだと。悔しくてならなかった。
「……やはり、だめか」
しばらく睨み合いが続いた後、レオナルドはそう呟いて剣を投げ捨てた。困惑するリオンの耳に「……悪かった」と消えそうな声が入ってくる。
「あの時、お前を一人にして……後悔しなかった日なんてない。一日だって、お前のことを忘れようとは思わなかった。俺はお前を……殺したくない……殺せない」
「……っ!?」
リオンは衝撃を受けた。初めてだったのだ。あのレオナルドが、自身の感情を優先させるなんて。夢話をすれば現実主義者、物事の判断はいつも決まって論理的で感情が読めないような奴だったのに。
「ざけんなよ!」
瞼を痙攣させ、思わず怒鳴り散らした。レオナルドの肩を強く押し出し、立ち上がる。押し出されたレオナルドは、勢いよく後ろに尻をついた。
「この腑抜けが! そうやって中途半端に優しさを向けられることが、どれだけ惨めか分かっているのかよ! はあっ……本当はっ、心の中で嘲笑ってるくせに、いつまで偽善者ぶるつもりだ! 見下していたから……だからあの時オレの事を見捨てたんだろ! 下に見てたから裏切ったんだ! このまま本気でお前の頭をぶち抜いてやる……っ」
「ずっと、俺は冷たい人生だった」被せるようにしてレオナルドが再び口を開く。いつもとは違って本音を言い慣れていない、言いずらそうな口の開き方だ。項垂れながら更に続ける。
「寒さも、一人でいるのも、苦じゃなかった。自分が生きているのか分からなかった。でも、お前と出会ってから、何故か温かいんだ。居心地がよくて、そこからずっと、寒さに怯えている。人に対する優しさを、一人の時は感じられなかったことを、お前が一番最初に教えてくれた……そんなお前を、下になんてみない」
リオンに会うまで、自分は何もわからなかったのだ。人に嫌われ、時には暴力を振るわれ、嘲笑われ、世の中はそんな冷たいものだと、見限っていた。だから人に対して何をしても興味を持てず、何も感じなかった。
でも、リオンと出会って温かさを得てから、自分の中に何かが芽生えた。芽生えたものはナターシャとの出会いによって育ち、お嬢様によって自覚させられる。そうして、今の腑抜けた自分がいるのだと。
「お前は俺が変わっていないといったな。でも、それは違う。お前と出会って、俺は変わったんだ。お前と出会わなかったら俺はずっと、生きながら死人だったろう……だから、感謝している」
リオンの拳銃を持つ手が震えた。この感覚には覚えがある。ナターシャの最期だ。はっ、と吐いた呼吸に、動揺が現れ「やめろ……!」と思わず言葉で制止させた。
「らしくもねぇこと言うな! 今更聞きたくない……っ! 俺が戦いたかったのはあの日オレを見捨てたレオだ! そのためにここまで上り詰めたんだぞ! これじゃ、これまでのオレが全部無駄になる……! オレの人生を、またお前が否定するな!」
興奮したように荒い息遣いが聞こえてくる。必死に怒りを押し殺しているのか、握りしめた拳が震えていた。レオナルドはそれを見て眉を下げる。
「もう……やめよう。俺の右目が欲しいならくれてやる。気が済むようにしたらいい……これ以上」
「うるせえ」レオナルドの言葉を遮ってリオンが低く声を放った。フラフラと前に一歩踏み出す。
「そうやってまた逃げる気かよ。ちーがーうだろぉ? オレの知ってるレオはそんな腑抜けじゃない……いつもオレの先をいって、オレの欲しいものは全部持ってるくせに、それに気が付かず世の中は残酷だみたいな知った顔して見下してんだ。意味わからねえよな、本当。なのに皆お前ばかり賞賛する。オレはそんなお前に勝ちたくて必死だった……お前に勝たないとオレはずっと苦しいんだ……お前が本気でぶつかってこないと、オレは報われないんだ……そんな優しさなんて今は要らない……っ!」
でもお前には勝てない、ブツブツと付け足された言葉は自嘲気味で、先程の激昂した時とは少し様子が違って聞こえた。再び顔を上げたリオンに、レオナルドは息を飲む。その青い瞳は何処も映さず、涙を垂れ流していたからだ。
「もういい」諦観した声が続けられ、拳銃も剣も捨てたリオンの手には、赤い液体の入ったガラス瓶が握られてある。
「きっと、この先オレはどう足掻いたってお前には勝てない。だったら、もうオレがオレじゃなくなるしかない。ローゼのお前に勝つには、オレも化け物になるしかないんだ」
「……何を言ってる?」
ヒヤリとした感覚が、レオナルドの背筋を襲った。「言ったろ、今日はオレが勝つって」リオンは話を続けながら自身の首元にガラス瓶を持っていく。よく見れば、そのガラス瓶は短い針が先端についた小型の注射器のようだった。
「人間性を失う程の人体強化剤。本当は闘士に使うつもりだったが、気が変わった」
「おい、何をする気だ! やめろ……っ!」
「本気で止めてくれよ、レオ」
嫌な予感のまま止めようとするレオナルドの前で、リオンは自身の首元に注射筒を突き刺した。目がギョロりと裏返り、苦しそうに大口を開けて悶える。
「ごっ、がぁ……はっ」
流れる涙や白目の部分が赤く染まった。筋肉が膨張し、皮膚が破れて血が流れる。体の変異で骨まで軋んでいるのか、ミシミシという音が辺りに響いていた。
「なっ……」
徐々に体が変貌していく様を、レオナルドは青ざめながら目にした。膨れ上がった筋肉は筋が剥き出しになり、鼻や耳などの人体の基本的な器官は肥大した筋肉に巻き込まれて形を失ってしまった。毛髪は抜け落ち、つけていた眼帯がはち切れたことによって潰れた右目が顕になる。辛うじて人の姿を保っているに過ぎないソレはあまりにも醜悪だ。
「ヴオォォオオォォン!!」
体が数倍にも大きくなり、影がレオナルドの体全体を覆い隠すほどのものになると、コロッセオ内には例えがたい奇声が響き渡った。
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