SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 三章 ヴェトナの悪夢編

22 片割れのピアス

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 母さんが動かなくなった。まだ微かに体温が残っているけれど、その瞳は開かない。人の死を経験したのはこれで二回目だ。二年前の父さんの時は、黒いシルクハットを被ったおじさんが母さんに伝えにきて、数日後に棺の中に入った父さんと再会した。自分がどんなに泣き叫んでも、何度名前を呼んでも、ピクリとも反応してくれない。今の母さんと全く同じだ。
「坊っちゃん……もう、アリシア様は……」
 突如、背後から伸びてきた腕が凍えるような寒さに震える自分を優しく包み込んだ。抱擁とともにじんわりと伝わってくる生きている人間の温かさ。その体温がやけに恋しくなって、向き直るように抱き返した。シトラスの香りに包まれ、頬を涙で濡らしながら、擦り付けるように首を降って泣きじゃくる。
 ぽっかりと胸に穴が空いたようだった。中から溢れ出してきた不安や悲しみが重力と重なって、下に下にと爛れていく。肺が空気を寄越せと泣き叫び、酸素の足りなくなった頭はぼうっとして、嗚咽のせいで呼吸がうまくできない。呼吸の仕方さえも忘れてしまったようだ。
 尊敬する父を亡くし、愛する母を亡くし、残されたのは自分だけ。一体自分はこれから、どう生きていけばいいのだろう。
「エリナはっ……僕をひとりにしないよね? 置いていかないよね?」
 縋りついたまま、黒いシミを作ったメイド服から顔を上げた。必死なその声に問いかけられた女性は、少し間を開けてからまた無言で少年を抱きしめる。
「勿論ですよ。例え、世界中が坊っちゃんの敵になったとしても、私はあなたの味方です。絶対に一人にしません。だからどうか、私を―――」
 信じてください。そう微笑んだ彼女を少年は今でも忘れはしなかった。一体何を言い出すのだろうと疑問に思っていたが、今思えば彼女はどこかで自分の運命を理解していたに違いない。
 優しかった彼女は母を亡くした翌年に、自分を銃撃から守ってこの世を去った。ああ、一人にしないって言っていたのに。エリナの嘘つき。もう答えるはずのない死人の前で、少年はただ悲しみに嘆いた。
 自分の声を打ち消すように、雨音が強くなる。雨はまだ、止まない。



 ロザンド街の一角にある古びた酒場は、人のいい女店主、バーバラ・ウィルクスが一人で切り盛りし、客と助け合いながら経営している。小さな店だが常連客にも恵まれ、そこそこ繁盛し、酒場としてはこの上ない理想形だ。
 だが、酒というのは人の本性を暴くという。気持ちよくアルコールに酔いしれている間はいいが、全ての客が大人しく家路についてくれるとは限らない。時には小さな揉め事が、酒場の机を破壊させるほどの騒ぎに発展し、殴り合いになることもある。酒場とは、そういった人間の野蛮とも言える本性が渦巻く大人の社交場なのだ。
 そんな場所に似つかわしくない客が一人、足を踏み入れる。周囲の人間より一回り小さな、十代半ばの客だ。前髪を切り揃えられ、刈り上げられた金髪碧眼の少年は、少しぶかぶかの青黒いコートに身を包み、迷いのない足取りで正面のカウンター席に座った。
「おや、珍しいお客も来るもんだねえ。今日はあの美人なお姉さんと一緒じゃないのかい?」
 バーバラは赤茶でうねりのある長い髪をしていた。穏やかなヘーゼルのたれ目が優しく少年を捉えている。けれども、少年はその問いに対して何も答えず、真顔でバーバラを見つめ返し「コーヒー、一つ。ブラックで」とだけ言った。以前見た時の無邪気なものと違って大人びているその瞳に、バーバラは何かを察して立ち上がり「あいよ。ちょっと待っていておくれ」とその場を離れる。
「あー、くせえくせえ」
 ダンッ、と木製のマグカップをカウンターに叩きつけるように置いて、隣から掠れた女の声が聞こえてきた。周囲のアルコールに混じって、女から漂う煙草と香水の臭いが鼻を刺す。
「おい。この店はいつからガキが立ち入るようになったんだぁ? 小便臭くて酒が不味くなるだろ」
 緑眼でじろりと隣を睨みつけ、語尾を急激に低くさせながら、またマグカップに口をつけると、ゴクリゴクリと音を立てながら、酒を飲み干していく。そんなことを言うんじゃないよ、ジェンナと、珈琲を持ってきたバーバラが呆れたように言った。少年は置かれた珈琲にゆっくりと口をつける。
「けっ、酒場に来て珈琲を頼む奴がいるかよ。ガキはガキらしく、早く家に帰ってママのおっぱいでも飲むんだな!」
 ジェンナと呼ばれた女は高らかに笑い声をあげる。胸元までくる色素の薄い茶髪に、胸元を大きく開かせた下着に近い伸びきった肩紐ワンピース。股を大きく開き、片足を椅子にあげているところから見ても育ちが悪いようだと少年は思った。横目でそれを確認しつつも、特に反応せず、コーヒーカップをカウンターに下ろす。
「美味しいな。香りがいい」
「あ、ああ……ありがとう。砂糖いれるかい?」
「甘いものは気分じゃないんだ」
 口角だけ上げて、バーバラの言葉を返す少年に、ジェンナは「無視してんじゃねえよ!」と苛立った声でカウンターに拳を叩きつけた。ゆっくりと少年は青の双眸をジェンナに向け「ジェンナ・ミールだな」と平坦に呟く。
「噂で聞いているよ。ガラの悪い娼婦だとな。君こそ、帰って男の汁でも啜ったらどうだ」
 親指と人差し指を丸めて円を作り、少年は感情の籠っていない声で言った。なっ、とジェンナは思わず言葉をぶつ切りにする。周囲で二人の会話を聞いていた酒飲み達からぎゃはははと蛮声の笑いが溢れ出した。
「いいぞ! 言ってやれ小僧!」
「ガキに負かされているなんてざまあねえな!!」
「どうだ、ジェンナ! ここで俺の汁でも啜るか~?」
 拍手に混じってところどころ聞こえてくる下品な言葉に、ジェンナは「てめえ……クソガキが」と見下ろすように少し顎を上げる。俺に構うな、と目を瞑り、少年は立ち上がった。
「ご馳走様。目覚ましにちょうど良かったよ」
 懐から取り出した代金を置き、周囲の笑いを横耳に出口の方を向いた。待てよ! と背後からジェンナの激しい怒声を浴びせられ、振り返らず立ち止まる。
「一つ、知っておくといいだろう。俺に母さんはもういない。父さんも。馬鹿にしたいなら、次はもっと違う言葉を探しておくといい」
 前を向いていた少年の瞳は鋭く、静かな怒りを映している。それを見たジェンナは何かを返す事もなく、少年が出ていくのをただ眺めた。
 これが、少年とジェンナ・ミールの出会いである。あれから少年は度々酒場に現れては、一杯の珈琲を飲んで立ち去った。その度にジェンナが突っかかっては、少年に言い負かされるというのが恒例となっていった。
「なんなんだよ、あのクソガキ! 舐めやがって」
 追加で注文した酒を煽りながら、ジェンナは机に突っ伏した。グラスを拭きながら「突っかかるなんて、あんたも大人気ないわね」とバーバラが呆れた嘆息を零す。
「つうか、おばさんはなんであのガキと知り合いなわけ?」
「あ゛あ?? 誰がおばさんだい? あたしはまだ三十代だよ」
 どこからか取り出した猟銃を担いで、バーバラが怪しく笑ってみせた。喉からくる乾いた声を上げて「ああ、分かったって。銃は勘弁してくれよ」とジェンナは萎縮する。流石、一人で酒場を切り盛りしているだけあって、どこか野蛮な人だ。
「……あの子は以前、数回ほど美人な女性と一緒に樽で酒を買ってくれたんだ。おかげで店は大助かりしてね」
「え!? じゃあもしかしてあのガキ、かなりいい所の坊っちゃんなのか!?」
 アルコールが回っているせいかやけに気分が上がり、ジェンナは木製のマグカップを持ちながら立ち上がる。確かに身なりや品のある振る舞いには育ちの良さを感じさせられた(口はかなり悪いようだが)となると、あいつに近づき上手く懐に潜り込めば、一攫千金も夢じゃない。それに相手は子供だ。いくら大人びていたとしても、本物の大人には到底かなわないだろう。一人、億万長者になった自分を考え、ジェンナは含ませた笑いを怪しく唇の隙間から漏らした。
「言っておくけど、それは分からないよ。あの子がどこから来たのか、あたしは一切知らないんだ。名乗られたこともないしねえ」
 バーバラの話にますます怪しいとジェンナは思った。高貴な身分だというなら、自分のことを隠したがるはず。あの子供が貴族だという確信はどこにもないが、少しでも可能性があるのなら、行動する理由として十分だった。
 次に少年が酒場に訪れた時、ジェンナは大量の酒を飲み干し、既に出来上がっている状態だった。ふらふらと少年に近づき、無理やり肩に腕を回して「よお、元気か?」と問いかける。少年は慣れてきたのか一切反応を示さず、いつものように珈琲を飲んだ。
「おい、無視すんなよぉ?」
「煙草と酒と香水臭い。寄るな」
「今まで私に言ったことは全部水に流してやるからさあ」
 抱きついてくるジェンナに少年は苛立ちを顔面に張りつけた。表情が険しくなり、額に青筋を立てている。そうして「おい」と腹底から轟かせる低い声で続けた。
「……俺に構うなと言ったろ。あと、胸をあててくるな」
 冷たく言い放った少年は何故か顔を逸らしている。少しだけ耳が赤いことを知って、ジェンナはニヤリと口角を上げた。
「なんだあ? 照れてんの? 結構可愛いところあるじゃん」
「なっ、違う! 第一、女性ならもっと品があるように……」
 振り返ると同時に少年は抱きついていたジェンナの胸に顔を埋める形になった。ふるふると震え「くっつくな!」と赤面になりながらジェンナを突き飛ばす。床に尻をつき、声を出して痛がるジェンナに罪悪感が込み上げてきたのか「あ……ごめん。つい」と少年がカウンター席から降りた。大丈夫か? と手を差し伸べてからはっとし、勢いよく顔だけを後ろに向ける。
 何故だろうと不思議に思い、ジェンナは自分を見下ろしてみると、肩紐が落ちた事でワンピースがずり落ち、片胸が顕になっていた。背後で酒飲みが歓声をあげているが、別に恥ずかしいとは思わない。肩紐を戻して、再び少年を見上げた。
「早く着ろ……馬鹿」
 赤面になりながら見ないように顔を逸らす少年の姿が目に映った。その純情で初々しい反応に、何故だかこちらも恥ずかしくなって、片腕で肩を抱きながら「ありがとう」と少年の手を取った。大丈夫かい? とバーバラがその光景を見つめる。
「あら、ジェンナ。なんだいその顔は」
 指摘されてジェンナは再びはっとする。顔が熱い。一体どうしたというのだろう。頬に触れながら「へーきへーき。ちょっと飲みすぎたわ」と席に座った。
 輝かしい未来計画のために、調子が狂っている場合ではないと首を振る。母親がいないと言っていたが、もしかしてそれで女性に慣れていないのかもしれない。これはチャンスだとジェンナは再び少年に向き直った。君ほど下品な女は初めてだと、少年は頬杖した顔を逸らして呟く。
「あーごめんごめん。私も少し調子に乗った。肩紐は直したからさ、こっち向いてくれる?」
 その言葉に、少年は頬杖したままゆっくりとジェンナを見つめる。誰が見ても分かる不機嫌な表情だ。計画の為にはまずこいつから信頼を得ないとと、ジェンナは無理やり口角を上げて笑みを浮かべた。
「私はジェンナ・ミール。あんたは私のこと知ってるっぽいけど。えっと、ほら、今まで突っかかったりして悪かったよ。これからは仲良くしよう、ね?」
「手のひらを返したようだな。なぜ今更俺に名乗るんだ? 何を企んでる?」
 見下したような冷たい目で凝視する少年の言葉に、ジェンナは一度震えてから固まった。いや、相手はまだガキだ。完全に悟られてはいないだろう。
「嫌だなあ。今までの事を謝って、クソガ……あんたと仲良くなりたいだけだよ」
 何が悲しくてこんなガキに媚び売っているんだと、ジェンナは笑顔を保ち続けながら思う。その歳で妙に達観しているし、大人を疑うなんて可愛くないやつだ。子供なら素直に騙されてろと、無理にあげた口角をひくつかせる。一方、頬杖をついた少年は「俺は思っていない」と断言し、少し冷めた珈琲を口にした。
「ちょっと! 私が名乗ったんだから、あんたも名乗るのが礼儀ってもんだろ!」
「君が礼儀を語るのか?」
「悪いか!? あんたが私を知っていて、私があんたのことを知らないなんておかしなことだろ? ほら、将来立派な紳士になるんなら……」
 紳士、の言葉に少年はその場で固まった。どの道、このまま放っておいてもしつこくされるだけだろう。さすがに本名を名乗るわけにはいかないからなと、目だけをキョロキョロとさせた後に、バーバラが客に注いでいる酒瓶を目にした。
 サイアン(cyan)―――アルコール純度が低い、度数四十前後の酒。癖がなく飲みやすいだけに、大量に飲んで昏睡状態になる人間が多く、一部では飲んだら死ぬと毒のように扱われているようだ(正確には飲まれたらだと思うが)その名の通りサイアンという青い果実から作られている。元はノルワーナ出身だが、地方によって呼び方が異なり、またの名を―――
「シアン」
 ぼそりと呟くその名に、ジェンナは「え?」と聞き返す。分かっていないのかと、少年は呆れて「俺の名前だよ」と珈琲を飲み干した。
「へえ、シアン……変な名前」
「おい……本当に仲良くする気あるのか」
「もちろん! これからは仲良くしよう。ほら、お姉さんが今日の珈琲代奢ってあげるから」
 ニコリと微笑むジェンナに変な奴だと少年は眉をひそめる。
 伯爵の子として生まれ、現在は主という立場にある少年は、屋敷でも外でも常に伯爵や責任の言葉がついて回った。そのため、立場を忘れて誰かと話せる楽しみが、いつの間にか少年の中で大きな癒しとなっていたのだろう。
 以来、口喧嘩こそはするものの、ジェンナと会話を重ねていくうちに、その時間が心地いいと認識していくようになっていった。始めは下品な女だと、自分の奥底に眠る心理から目を背けていた少年だったが、きっとどこかでジェンナに心を許し始めていると自覚していったに違いない。
「父さんは俺が八歳の時に、事故に見せかけて暗殺された。その二年後に母さんを亡くして……翌年に好きだった彼女が……!なんでっ、俺ばかりが奪われる!? どんなに頑張っても、愛する人がいない世界で俺はっ……生きたいと思わない! お願いだから、俺も……みんなのところに連れていってくれよ……」
 そろそろ金を得るために本格的に動いていくかとジェンナが思っていた矢先、初めて少年の嘆きを聞いた。誰にも言えずに抱えていたものを他人に打ち明けるのは、きっと少年も初めてだったのだろう。今まで一人で抱え込んできたものが溢れて、どうしようもない悲しみに打ちひしがれている姿を見たジェンナは、意地悪を言う気になれず、少年を強く抱きしめた。
 品の有無を気にするくせにわざわざ酒場にきていたのは、立場を忘れて、自分が自分でいられる場所に来たためだという。あの生意気で素っ気ないふりでさえ、少年の幼い強がりだったのだ。
 ああ、参ったな。利用してやろうと思っていたのに。近づきすぎたと、ジェンナは後悔した。



 二人が仲良くなって数年が経った。人の成長とは恐ろしいと、ジェンナは思い知らされる。自分より背の低かった少年はいつの間にか自分を遥かに越して、大人の男性へと体つきを変えていった。いい所の坊っちゃんらしい切りそろえられた髪は長くなり、最近はボサボサに乱れている。目元には黒いラインを引いて、窶れているようだ。十八を迎え、酒も解禁された事で、青年となった少年は珈琲の代わりに酒を煽るようになった。 
 当初の目的も忘れ、今となっては酒飲み仲間になったが、最近は青年が荒れているせいで、会話ができずにいる。どうやら「反抗期」を迎えたらしかった。
 その日、金髪碧眼の青年が酒場に訪れると、カウンター席に突っ伏しているジェンナを目にした。いつも自分が座っている席をぶんどっている彼女に近づき「おい」と久しぶりに声をかける。なんだよ、と顔を上げずにジェンナが答えた。面倒そうだと悟った青年は黙って隣に座り、いつものように葡萄酒を頼む。
「……独り言、してもいい?」
 隣から弱々しいガラガラの声が聞こえてくる。泣き疲れたためか、もしくは酒を飲みすぎたせいによるものなのかは判断できなかった。眉を下げて葡萄酒を持ってきたバーバラと一度目を合わせ、嘆息し「独り言なら勝手にすればいいだろ」と木製のマグカップに口をつける。
「最近、客の中で好きになった男がいた。客といえば、自分が気持ちよければいいみたいな独り善がり? いわゆる自慰行為ってやつだよ。人の体を使って一人遊びしているクソ野郎が多いんだけどさ、そいつは毎回愛しているって優しく抱いてくれるんだ。もちろん恋人なわけじゃない。プライベートでそいつと会ったことなんてないし……けど、それが嬉しくて。初めて、この人に愛されたいって思った……それで、今日彼に私の思いを告げたんだ」
 そしたら、気持ち悪いって。ジェンナは鳩尾の痙攣で不自然に途切れるような言葉が出た。カランと、青年の持っていたマグカップに溶けた氷が崩れる。
「もう、会わない。最後にそいつはそう言ってた。あれだけ肌を重ねたのに、最後は手を繋ごうとしただけで私を汚物のように見下ろした。手を強く払って、そういうつもりじゃなかったって。娘と妻がいるから、勘弁してくれって……」
 あれだけ愛してるって言ってくれたのにとジェンナは鼻を啜って、子供のように大きくひくついている。酔っているせいで余計に感情的になっているのだろうと、苦しそうな呼吸音を横耳にし、青年は何も言わず、酒を喉に通した。
 客が娼婦に惚れる例はよく聞くが、勿論逆も多く存在する。特に政府の目が行き届いている娼館ならまだしも、地方の娼婦の扱いは散々だ。過激なものを強制してくる客も少なくはない。もとより性病で命を落とす女性が多いのに、それによって性行為中に死んでしまった、なんて事例もあった。抱くならまだしも抱かれる身としては相当過酷な環境と言っていいだろう。
 そんな過酷な環境下で甘い言葉を囁かれると、周囲の客と差別化され、その客を特別な人間だと錯覚してしまうようだ。まあ、ごく一部には本物の愛になる場合もあるが、大抵の男は本能的な性欲求を解消しようとするためだけのもの。稀に純情だった初々しいあの頃を思い出したくて、家庭を持ちながら娼婦に手を出し「疑似恋愛」を楽しむ者もいるようだが、結果的にそれが彼女たちを苦しめていることに変わりはなかった。この女もこの道で生きているなら、それぐらい分かっているはずなのに。
 なんでこうなっちゃったんだろうと、隣からジェンナの声が聞こえてくる。
「―――私の母さんもね、娼婦だったんだ。その客との間に生まれたのが私。親子揃って同じことをしているなんて笑える。でも、母さんは、私を産んだ後に別の男作って、私と父さんを捨てた……全てはそう。きっと、そこからだ」
 それは自分の疑問を解決するために投げかけているようだった。伸ばしていた腕を縮め、手繰り寄せるように拳を作る。
「それから父さんは酒ばかり飲んで、度々私を犯した。初めては実の父親だった―――汗ばんだ手で無理やり押さえ込んで、酒臭い息を吐きながらジェンナぁジェンナぁって私の名前を呼ぶの。お前はあいつみたいに俺を捨てないよなあ、逃げたら許さないからなって言って。でも、不思議とそこまで嫌悪感はなかった……だって父さんは母さんに捨てられた私を愛してくれたから……」
 ジェンナの過去を聞くのが初めてだった青年は、少しだけ動揺を示した。自分からこんなことを口にするなんて、余程心が参っているのだろうか。腕をついて少し顔を上げたジェンナは息を荒らげ、カウンターの一点だけを虚ろに見つめた。
「十六の時、父さんの子を孕んだ。けれど、父さんは堕ろすように言った。私が子供孕んで酷く動揺したみたい。性処理道具との子供なんて欲しくねえって言ってさ。それ以来、引き目でも感じたのか、私に触ろうとしなくなった。憎かった……憎らしくてっ、憎らしくてっ……この子さえいなければ私はずっと父さんに愛されたのに! 殺してやろうかと思った……! けど、私にはそんなこと、できなかった」
 普通なら父親に犯されたことを憎むはずなのに、彼女が父親しか知らなかったからそんな考えに至ったのだろうかと青年は思った。取り巻く環境が彼女自身を歪めてしまったなんて、なんだか胸糞悪い話だ。
 ジェンナはガタガタと震えながら声を張り上げ、一瞬取り乱したが、すぐに萎むように大人しくなった。両の手で作った拳の指先だけが落ち着きない。
「決断が出来ないまま、その子を産んだ。自分でも何がしたいのか分からない……どうせ顔を見たら、すぐに殺したくなるに決まってるって……けど、違った。こんなクソみたいな世界で、必死に生きたいって泣いてるその子見たら―――できるわけがなかった。かと言って愛せる自信もなくて、最終的にその子を教会の前に置いて逃げた。私は―――母さんと同じことを、したんだ」
 落ち着きのない指先が止まる。項垂れ、何度も瞬きを重ねてから長く深い嘆息をついた。
「その日帰ったら、父さんが猟銃で顎を撃って死んでいた。父さんの首には母さんの置いていったネックレスが下げられていて……それで、分かったんだ。父さんは始めから私の事なんて愛していなかった。子である私の中に母さんを見ていたんだ。母さんからも捨てられ、父さんからも愛されず、そして初めて愛して欲しいと願った人には気持ち悪がられ―――いつもそうだ。私は最後に選ばれない。誰にも、愛されない……私は―――」
 震えた吐息が混じるジェンナに、金髪碧眼の青年は何も言おうとしなかった。これはあくまで彼女の独り言。同情の言葉をかけたところで彼女を苦しめるだけだ。それは惨めな人生だなと嘲笑してやっても良かったが、愛されないと嘆くジェンナの横顔を見て、言う気にはなれない。
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「くそっ……なんで俺がこんなことを……」
 閉店し、青年はジェンナの腕を担いで彼女の家に向かっていた。ある程度自分の限界を知って飲んでいるとはいえ、かなり酔っているのか足がフラフラと千鳥足になっている。気分も最悪で吐きそうだ。
 家につき、投げ捨てるようにジェンナをベッドに放り投げ、青年は壁に寄りかかる。こんな時間までいるつもりはなかったのに、一体自分は何をしているのだろう。普段は領地内の農村に向かう馬車に乗せてもらって帰っているが、この時間では恐らく通っていない。今日はどこかに泊まるかと、最終的に決断し、青年は家から出ようと歩き始めた。その足を引き止めるように後ろから抱きつかれる。背中に密着され、ジェンナの鼓動が大きく聞こえた。
「おい、なんの真似だ」
「せっかく私の家にいるのに、何もしないわけ?」
「よせ。酔っているだろう」
「お願い」
 いつの間にか自分よりか細くなったその体に、ドキリと鼓動が早くなる。前はもっとしっかりしていたのに、なんでこんなに弱くなってしまったのだろう。抱きしめられる力が強くなり「シアン。私……そんなに魅力ないかなあ」と背中からまたひくついた声が聞こえてくる。今日はずっと泣きっぱなしだ。
 青年は鼻につく吐息と共に肩を落とし、腹にまわされたその細い腕を引き剥がすと、帰ることを伝えようとして振り返る。
「ねえ……私をっ、一人にしないで……! 」
 瞼が赤く腫れ、ぐちゃぐちゃに歪められたその泣き顔に青年は目を見開いた。過去の自分と重なり、動揺で喉を震わせながらゆっくりと目を細めていく。孤独が辛いものだという事は知っていた。もっとも、自分は愛情をかけられて育ってきたから、彼女の言う孤独とは少し違うものだろうけど。その孤独の違いを考えるのは、正直どうでもよかった。判断が鈍る。これはきっと酒のせいだ。
「後悔するなよ」
 ジェンナの手首を掴み、青年は引き寄せるようにして唇を繋げた。貪るように激しく舌を絡め、角度を変えながら何度もキスを交わし、互いの唾液を流し込む。酒と煙草の苦い味がした。卑猥な水音が鼓膜をくちゃくちゃと支配する。そのまま上昇する体温に身を任せ、青年はジェンナをベッドに押し倒した。

 翌日、ジェンナが目を覚ますと、青年はどこにもおらず、机の上には見覚えのある額の現金が置いてあった。ふらふらとその現金を手に取り、込み上げてくる怒りと共にジェンナは勢いよく投げ捨てる。
「馬鹿……! 私が欲しいのはっ、こんなんじゃねえよ……!」



 あれ以来、青年は客として度々ジェンナと一夜を過した。初めは客という関係に不満を持っていたジェンナも、青年に抱かれるこの一時が、本当に愛されているような気がして、やめるにやめられなくなっていったのだろう。
 だが、周囲から命を狙われている青年にとって、それは敵に隙を見せるようなことと同じだったのだ。弱みを握られるのは、何がなんでも避けるべきこと。自分だけならまだしも目の届かない範囲にいる彼女まで、巻き込むわけにはいかなかった。自分を庇って死んだエリナのようなことはもう二度と、起こしたくない。
「終わりにしよう」
 酒場に訪れた青年は、席に座って早々口にした。隣に座っていたジェンナは「えっ」と顔を上げる。何が? と震える声で聞き返し、青年はしばらく黙り込んだ後に「もう、酒に頼るのはやめにする」と立ち上がった。
「それってもう、ここには来ないってこと?」
「そうだ」
「それって私との関係も……」
「俺の事はもう忘れろ」
 冷徹に切り捨てるその言葉にジェンナは首を振りながら「なんで? 私の何がいけないの? 私なにか、あんたの気の触れるようなことした?」と言い続ける。本当は離れようとする理由を伝えたい気持ちもあるが、全て言い訳のようになってしまうと、青年は思った。どうせなら、最後に思いっきり嫌われた方がいい。
「勘違いするな。俺はあくまで君の客だ。そこに恋愛感情なんてあるわけがないだろう。そもそも関係なんて始めから無い。君と俺は無関係の赤の他人だ」
 最後の語尾を強く強調させて、酒場全体に聞こえるようにして言った。これで、関わりのないことを示せたかと、周囲を目だけで見回す。
 バチン、その瞬間に勢いよく頬を叩かれた。口を切って流した血を手の甲で拭いながら、眼前の人物を見つめる。こうなることは想定していた。胸ぐらを掴まれ、ジェンナは睨みつけながら今度は拳を振ろうと手を上げる。それに対して、青年は抵抗の意思がないことを示すように目を瞑った。だが、なかなか次の痛みが追い討ちされることはない。
 しばらく間を開けて、ジェンナは投げ捨てるように胸ぐらを離した。早く行って、と小さく呟く。
「二度と私の前に現れるな……!」
 元から女の涙は苦手だが、これ以上に心苦しく感じた涙はなかっただろう。自分を家で引き止めた時とは違って、その瞳は焦点が定まらず、どこを向いているか分からなかった。虚空を映した緑眼から止めどなく涙を流している。人が本当に絶望した時はきっと、こんな表情になるのだろうと、青年は思った。
 早く行けよクソッタレ! と怒号を浴びせられ、青年は「悪かったな」と一言言い残してから酒場を出ていく。後悔はない。こうするしかなかった。これが、正しい選択だ。
「くそ……っ。痛い……」
 屋敷の帰路で壁に寄りかかり、脱力したようにズレ落ちながら、青年は涙を流した。

 ラヴァル卿の事件直後。あれからまた大人びた青年は赤目の少年との衝突を終え、気づかれない程度に地下室の証拠を隠蔽していた。最後に、周囲にある大量の遺体を通り過ぎて、壁に寄りかかっている遺体の前で止まる。見覚えのある色の髪が生えた頭部は既に半分損傷していて、見るに堪えない。
 地面に膝をつき、色素の薄い茶髪を軽く払ってみせると、遺体の右耳に銀のリングピアスがつけられていた。動揺するように肩を震わせ、自身の左耳につけられているリングピアスを微かに揺らす。
『私は右につけるから、シアンは左につけなさいよ』
『何故だ?』
『そう決まっているんだよ。前に客から聞いたんだけど、男は左で女は右につけるんだってさ』
『はあ……そうじゃなくて。何故、誕生日プレゼントで送ってきたピアスの片方を君がつけるんだ。どうせなら両方寄越せ』
『別にいいだろ~。どうせ私の金なんだから。これをつけている間は、あんたのことを忘れない。だからあんたも、私の事、覚えていて』
『忘れたくても、君のような下品な女は忘れない』
 ふと、脳裏に過去の記憶が過ぎる。今まで思い出さないようにしっかりと蓋をしていた記憶だ。ジェンナ・ミール……そうか、君はそういう奴だったな。
「馬鹿……忘れろって言っただろ」
 数秒かかる長い瞬きを二度してから、青年はその場から立ち上がった。仕事と割り切ればどんな知人でも冷酷に、他人として接することができる。それは、自分に大切なものを守れる自信がないからだ。同情などの迷いはいずれ自分の足枷になる。君をつけ離したのもそのせいだって言ったら、君はまた怒るだろう。自分の中に芽生えた思いが熱を帯びるほど、失った時の悲しみが大きくなる。それを知っていたから、だから怖いんだ。
 エリナと違って君は品性がなくて、粗暴だけど、惨めな人生にも負けずに生きようとしたその姿は尊敬している。
「君を愛していた、ジェンナ。どうか安らかに、眠ってくれ」
 そう言葉を残し、キラリとピアスを一瞬光らせて青年は立ち去っていく。その後ろで、もう動かないはずの女の口角が優しくあがった。
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