SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 三章 ヴェトナの悪夢編

32 ふたりぼっち

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 突如、重量のある物体が叩きつけられたような鈍い音がする。地面を大きく揺るがし、重々しい地鳴りを響かせるそれに、死を覚悟していたミシェルは目を開いた。柔らかい毛質の白髪頭が、破壊されて舞い上がった煙の中から姿を現す。
「ツグ、ナ?」
 思わず発したその言葉に、三メートル近くの熊人間を蹴り飛ばした主は振り返らない。生きてた、という喜びにミシェルの目縁が熱くなった。けれども、標的を再び捉え、ふらふらと横を向いたツグナに違和感を覚える。いつもの無表情な姿とは裏腹に、彼は瞳孔を開いて、三日月のように怪しく口角を上げていた。
 笑っている―――? 普段のツグナとは違った不気味とも思えるその表情に、ミシェルは背筋を震わせる。
「本当に生きて―――それに、何この、力。彼の体重は、三百キロあるのよ? それをやすやすと……」
 尻をついたまま、イザベルはミシェルと同様に白髪の少年を見た。ふらふらと脱力した腕を揺らしながら、ツグナは熊人間に向かって歩き出す。数メートル先まで転がるように吹き飛ばされた熊人間は、体勢を直し、再度ツグナに向かって襲いかかった。巨腕を地面に引きずりながらツグナに振りかざす。
「ツグナ!!」
 ミシェルは腹を抑えながら、攻撃を避けようとしないツグナに向かって大声で叫んだ。ビュンと、劈く音が空気に振動を与えると共に響くが、そこにはツグナの姿がない。忽然と消えたことに熊人間は戸惑い、辺りを見回した。少し間を開けてから、自分に重なる黒い影に気がついて、素早く腕を振り上げる。
 が、空中とは思えない速さでツグナは一回転し、その腕を避けると、振り上げた足を回転した勢いのまま熊人間に振り下ろした。脳天に直撃した蹴りは空気を振動させ、衝撃波にも似た風が波紋のように広がっていく。
「……くっ」
 生み出された風にミシェルは思わず顔前で腕を構えた。一体何が起きたというのだろう。構えていた腕を解き、眼前のツグナを再度確かめるように見つめた。  
 地面に叩きつけた熊人間を絶え間なく蹴り飛ばし、殴りつけ、まるで苦しめるのを楽しんでいるみたいな戦い方だ。飛び跳ねるように身軽で、一方的なその攻撃に、ミシェルはただ呆然と目を見開く。これが、あのツグナだと言うのか? 私の知っているツグナはもっと―――
「うぐっ……」
 視界の端で倒れていたシアンから呻きが聞こえる。まだ生きていると知ってはっとなると、ミシェルは自分の体を引きずるようにして近づいた。シアンを仰向けにしてみると、肩から足の付け根に掛けて深く刻まれた爪痕が姿を現す。酷い怪我だ。でも、それは外部だけで心臓に達するほどのものじゃない。まだ助かるとミシェルは少しだけ安堵した。
 腕を肩に回し、近くの柱の影に逃げ込む。熊人間の敵意が完全にツグナに向いたことで、安全に動きやすくなったのだ。イザベルもツグナと熊人間の戦いに夢中で気がついていないようだし都合がいい。ミシェルは軽く自分の応急処置をし終えた後に、ワンピースの裾やシアンの服を使って手当てをした。
「やめて……お願い……ヴェンに酷いことをしないで……」
 ふるふると首を振り、イザベルは眼前の光景に言葉を漏らす。壁や地面に叩きつけられ、熊人間の巨体は少しずつダメージを溜め込んでいっているようだ。ギュイイと、奇妙で細い声が漏れだし、体が回復するよりも早く傷つけられ、その外傷は深みを増していく。
 熊人間の悲鳴を聞きたくないとでも言いたげに耳を塞いで、イザベルは「やめて、やめて」と繰り返した。ふと、視界の隅に落ちているシアンの拳銃を見つめる。先程熊人間に殴り飛ばされた時に落としたものだろう。膝をついてたどり着くと、震える手で拳銃を構え、立ち上がってからツグナに向けた。慣れない手つきで撃鉄を起こし、素早い標的を捉えようと必死に追いかける。
「ヴェンを……ヴェンをいじめないで!!」



『いいかい、イザベル。人は死を避けられない。ソルネフィアが言っていたでしょう? いつか死ぬことを忘れるなと。けれど、死は決して怖いものじゃない。神の世界に帰るために、私たちの魂を浄化してくれるものとして、必要なことなのよ』
『分からない……! 分からないよ……お話できなくなるのいやぁ……』
『そうよね。そんなに簡単に受け入れられないわよね。分かってるわ……だったらもし、本当に乗り切れない悲しみがあった時に、今から言うことを覚えていなさい。この力はね、届けられなかった言葉を死者にもう一度送ることが出来るの。心の整理をするのにきっと役に立つはずだわ』

 いつの記憶だろう。きっと今より、はるか昔の事だ。当時、敗戦したアルマテアを支配していたのが、ノルワーナからやってきたヴァルテナ人だった。以前、とある村で悪魔を召喚していると勘違いされ、国を追い出された一族もまた同様である。かつては難民だった彼らも、アルマテアに来て順調に権力をつけていた。
「ねえ、テディ? 今日が何の日か知っている?」
『もちろん! 今日はベルの13回目の誕生日だよ!』
「うん! お父様早く帰って来てくれるかなあ。メイドさんがね、大きなケーキを作ってくれるんだって! 赤くて甘いフルーツが沢山乗ったやつ! お父様が帰ってきてからみんなで食べようって言ってた!」
 楽しみだねベルと、テディの手足を動かしながらイザベルは呟いた。まるで本当の友達と話しているかのように「うん」と一人で会話を続ける。仕事上、あまり屋敷にいるような父親ではないが、今日だけは特別。机に向かったまま、イザベルは父親の帰りを今か今かと待ち望んだ。
「おかえりなさいませ、ディラン様」
 数時間後。イザベルがテディを抱きながら本を読んでいると、部屋の外からメイド達の揃った声が聞こえてきた。久しぶりの帰宅にイザベルは顔をめいいっぱい綻ばせると、すぐさま父親の元へ向かった。
「おかえりなさい! お父様! あのね、今日なんの日か分かる? 今日はね……!」
「疲れているんだ。静かにしろ」
 冷たくあしらう父親だったが、イザベルはめげずに話しかけ続けた。
「あ、あのね! ベルね! お父様の似顔絵を描いたの! ベルね、一生懸命……」
「静かにしろと言ったのが聞こえなかったのか!?」
 その怒号と共に乾いた音がエントランスに響き渡った。赤くさせた頬を抑えながらイザベルはその場に座り込むと、涙目になりながら父親を見つめる。
「何故お前はそんなに私の言う事が聞けないんだ! グレイシーはあんなに気品で! 美しく! 完璧であったのに! 何故お前はそんなに不出来なんだ! この失敗作が!」
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ! お父様!」
 黒い髪を鷲掴まれ、イザベルは必死に許しを乞うが、父親の怒りは収まる気配がない。恐怖で父親から離れようとするが、髪を引っ張られ、その場から動くことができなかった。
「こんなものっ……!」
 持っていた似顔絵を取り上げられるなり、父親は似顔絵をビリビリに破り捨てた。ヒラヒラと宙を舞うソレに、イザベルは「あっ」と声を上げる。
「こんなくだらないことをさせている暇があるなら、勉強させろと言っているだろ! どいつもこいつも頭の使えぬ馬鹿ばかりで……くそっ!」
「お父様……あのね」
「いいからお前は部屋に戻ってろ!!」
 父親は苛立ちと共に頭を掻き毟ると、そのまま自室へと向かっていった。使用人達は無言で自分達の仕事へと戻る。イザベルは床に落ちた紙くずを必死にかき集めながら、ぽたぽたと涙をこぼした。
 いつもそう。頑張って父の気を引こうとしても、怒鳴られてばかりで会話さえも続けてくれない。
「お父様、あのね……今日、ベルの誕生日……なんだよ」
 怒号のやんだエントランスに、嗚咽を挟んだイザベルの声が虚しく消えていった。

 イザベルの父、ディラン・ヘルキャットは誰もが認める完璧な男だった。常に完璧を求め、完璧にこなし、ヴァルテナ人という立場も重なって、難民から瞬く間に貴族と並ぶ権力者にまでなった。今では周囲の商人をまとめる豪商として、王都の貴族にも手広く商いをしている。
 だが、彼が完璧を求めていたのは何も自分だけではない。彼の妻、グレイシー・ヘルキャットも彼の完璧に当てられた人間の一人である。
 ディランはグレイシーを自分の理想の女性像に当て続け、まるで人形のように大切に扱った。綺麗な服を着させ、部屋に閉じ込め、発する言葉、その表情さえも完全に自分の支配下においているはずだった。
 だが、ある日。自由を奪われ続けた生活にとうとう耐えきれなくなったグレイシーは、ディランに賞賛されたサファイアの瞳を抉り抜き、自殺した。イザベルがまだ六歳の時の出来事である。それ以来、なにかと母親と比べられ、イザベルはディランの鬱憤の掃き溜めにされていたのだ。
「グレイシー、今日も君は美しい。あの失敗作と違って君はいつだって完璧だった。君こそが私の妻に相応しい。絶対に君を手放さない」
 ガラス玉の目を入れられたグレイシーを見つめ、ディランは口角を歪めた。ガラスケースに入れられたグレイシーは化粧を施され、何を捉えているわけでもないぼんやりとした瞳で遠くを見つめている。部屋の片隅に佇むその姿は、本物の人形のように美しかった。
 ガラスケースにキスをするディランをイザベルは部屋の扉の僅かな隙間から覗きこみ、テディを強く抱きしめる。そうしてから扉に背を向けて寄りかかり、嗚咽の声を押し殺した。美しくないものは、愛されない。その概念は幼いイザベルの体にしっかりと刻みつけられた。
「ねえ、あの子またいるわ」
「ヘルキャット家の娘さんなんでしょ? また顔の痣が酷くなっている」
 街に出ると、大人たちがヒソヒソと自分を見て噂しながら通り過ぎる。その哀れみの言葉になんの感情も籠っていないと、イザベルは何となく理解していた。ドンッと、背後から勢いよく押され、地面に倒れる。
「見ろよこいつ。またテディベア抱き抱えているぜ」
 背後から現れた少年は、手から離れたテディの足を乱暴に掴み、笑い飛ばすように周囲の仲間に見せびらかす。はっとなり「返して!」とイザベルはテディに手を伸ばしたが、引っ込められたことで宙をかいた。
「おい、そいつヘルキャット家の娘なんだろ? いいのか?」
「いいんだよ! どうせこいつは親父から愛されていないんだ。可哀想になあ」
 げらげらと下品な笑い声が頭の上に降り注ぐ。イザベルはゆっくりと起き上がり、地面に手をつきながら「テディを返して!!」と張り詰めた声で睨みつけた。キンと、耳鳴りのような高い怒鳴りに「……なんだよ。せっかく一人ぼっちのお前と遊んでやってんのに」と決まり悪そうに答える。父親に言いつけられることを怖がっているのか、どこか弱々しい言い方だ。 
「一人ぼっちじゃないもん! テディは私の……お友達なの!」
「はあ? こんなおもちゃが友達?」
 おどけたような言い方に続いて、リーダーらしき少年の周囲にいた子供たちは吹き出すように笑い出した。何故こんなに笑われるのかは分からなくても、馬鹿にされていることは理解出来る。
 笑わないで! と強がるようにイザベルは返すが、少年たちは野卑なからかいと嘲笑に満ちた声を止めることはなかった。嘲る声を浴びせられ続けたイザベルは悔しそうに唇をかみしめ、鼻の奥にツンとした痛みを感じながら、目の縁から溢れ出る涙を耐えるように上を向く。
「おい! 向こうから憲兵がくるぞ!」
 背後から聞こえてくる声に少年たちは肩を飛びあがらせる。当時の憲兵はノルワーナの命令でヴァルテナ人を守るよう指示されていた為、子供のいじめであっても厳しく取り締まっていた。そういった優遇が気に食わないからこそ、弱いイザベルに当たっていたのだが、こんなところを見られては全員まとめて捕らえられてしまう。
 リーダーらしき少年は小さく舌打ちをし「今日はこれぐらいにしてやる」とテディベアを投げ捨てて、走り去った。立ち去った少年たちを見送った人物が、地面に落とされたテディベアを拾い上げ「怖いならいじめなきゃいいのに。だせぇな」と土を払う。
「はい、これ。あんた、大丈夫か?」
 灰色の瞳がこちらをじっと見つめている。普段向けられているものとは違って、優しく抱擁されるかのような、心地いい瞳だ。それを見て、イザベルはビリビリと背中から首筋にかけて伝っていくように震え上がる。
「あ……う、あ……」
 なんと返せばいいか分からず奇妙な声が出る。しばらく間を空けた後、差し出されたテディを奪い取ると、この場から逃げるように去った。実の所混乱していたのだ。街に出れば哀れみの目と、蔑み、蛮声。なのに、彼からは何も感じとれなかった。屋敷の近くまで走ってきて、息を切らしながらようやく振り返る。これが、少年ヴェンネとの出会いだった。

「……ヴェンは、私を虐めなかった。守ってくれた……ずっと、ずっと」
 自身の呼吸が大きく聞こえる。極端に短い親指の爪とは違って、長く伸びた人差し指の爪がカタカタと震えて拳銃に当たった。イザベルは熊人間を攻撃し続けるツグナを捉えようと、拳銃を構えたまま腕を動かす。

 幼いころ、虐められる度に助けに来てくれた正義のヒーロー。初めはヴェンを警戒していたイザベルも、時が経つに連れてなんでも話せるようにまで心を開いていった。優しい叔母、父親との関係、母親の死、一番の親友であるテディのこと。長年まともな会話をしてこなかったせいで人との会話に難があったが、どこか繋がらないおかしなイザベルの話を、ヴェンは最後まで笑顔で聞いてくれたのだ。それは、街の片隅に住んでいた叔母の死後も、イザベルが街に向かう理由として残った。
「えっ、ヴェンはお父さんいないの……?」
「まあな。両親の顔は知らない。幼いころからゴミ溜めで生きてきて、色んな奴らから罵声も哀れみも浴びせられてきた。だから、あんたに少し親近感が湧いたっていうか……」
 なんか、放っておけなかった、とヴェンはポリポリ頬を掻いた。なんで? ヴェンは私のヒーローだよ、とイザベルが不思議そうに首を傾げる。繋がらないように聞こえるが、恐らく自分を救ってくれた人間が周囲から嫌悪されている事に疑問を抱いているようだ。
「……よせよ。そんな良い奴じゃねえんだ、俺は。生きるためなら平気で物を盗むし、人を殴る……あの時あんたを助けたのだって本当は―――」
「ヴェンはヒーローだよ」
 信じて疑わないその言葉と純粋な瞳に、ヴェンは目を見開き「……やっぱりあんたって面白いな」と顔を逸らした。
「ヴェンネって誰が名前つけたの?」
 唐突に話が切り替わるイザベルに慣れてきたのか、ヴェンは「ああ、名前?」と気怠そうに返した。深くまで探ろうとしない……いや、彼女にとってはそれが出来ないだけなんだろうけれど。人との会話が不慣れな彼女に助かっている部分は多くあった。
「一時期、教会に足を運んでいたことがあって、その時にシスターから貰ったんだよ。ルミネア五大信者の一人にヴェンネって奴がいてさ。俺みたいに孤児で盗人だったんだと。でも、ルミネアっ奴にあって改心した……だから、俺にもそうなって欲しいって願いでつけたんだろうな」
 全く大きなお世話だ、と長い息を鼻でつきながらヴェンが吐き捨てる。はみ出し者に生まれてきた人間は一生はみ出し者のまま。貴族の元に生まれてくるなんざ、努力してもできることじゃない。自分とは違って裕福なお嬢様にそう皮肉を言ってやりたかったが、イザベルと父親の関係を聞いて、意地悪を言う気になれなかった。
「イザベル! ここで何をしている!?」
 周囲の人間に構わず怒鳴り散らす声が聞こえてくる。その声に反応してイザベルは肩を跳ねると、恐怖に震えながら道の先を見つめた。お父様と、発した言葉が掠れる。困窮した町ではかえって浮いてしまっているディランの服装に、彼がイザベルの父親なのだとヴェンは身構えた。
「最近屋敷を頻繁に抜け出していると聞いてな……まさかこんな下賎人のガキと一緒だったとは……うちの財産でも狙っているのか」
 ゴミクズめと、吐き捨てるディランに、ヴェンは思わず閉口する。拳を握りしめ、睨みつけるヴェンの横で「違うよ、お父様!」とイザベルは前に出た。
「ヴェンは私を守ってくれたの! ヴェンはテディと同じ、ベルの大切なお友達なの!」
「ベル……」
 必死に説得しようとするイザベルにヴェンは眉を下げる。いつになく声を張り上げるイザベルにディランは少し驚いたようだった。ましてや、自分に向かって歯向かうなど、今でありもしなかったのに。そうか、と落胆したように嘆息をついて、ディランは懐から取り出した拳銃をヴェンに向けた。
 ダァン! イザベルを通り過ぎていった鉛玉は、冷たい銃声と共にヴェンの腹部を貫いた。大粒の赤い液体がイザベルの目の前に飛び散り、ヴェンは少し呻いてから腹を抑えてその場に蹲る。周囲の人間は銃声に反応するが、遠くから見ているだけで、何もしようとしなかった。ヴェン! とイザベルが悲叫し、駆け寄ろうとするが、その腕をディランに無理やり掴まれる。
「随分、外の世界に毒されてしまったな、イザベル。外出は大目に見ていたが、もう限界だ。二度とお前を外に出しはしない。産んでもらった親に歯向かうなんて、恩知らずな奴め」
 傍で見ていた憲兵と目を合わせて、ディランは顔だけでヴェンを指した。駆け寄ってきた憲兵は、地面に倒れたヴェンを取り押さえる。
「その馬鹿の始末を頼んだ」
 冷たい目でヴェンを見下ろし、ディランは暴れるイザベルを引きずるようにして歩き出した。始末、という言葉にイザベルは反応し「やだ、いやだ」と強い反抗を示す。イザベルは知っていた。始末しろと言われて、翌日動かなくなった不出来な使用人が土に埋められていくことを。その姿は部屋に飾られ、もう口も聞けなくなった母とよく似ている。死とはそういうものなのだと、イザベルは身を竦めた。
「お父様、ごめんなさい……だから、お願い……ヴェンを殺さないで……もうお外に出ないって約束するから……お願い! お願い、します」
「なっ……!」
 足にしがみつき懇願するイザベルにディランは「分かればいいんだ」と鷲掴んでいた腕を解いた。無理やり強制させているというのは彼の美学に反するようで、イザベルが抵抗しないと分かったディランはそのまま前を歩き出す。
「駄目だ……いくな……!」
 背後からヴェン弱々しい叫びが聞こえてくる。それに一度引き止められたが、イザベルは振り返らずディランの後をついて歩いた。もう、彼に会うことはない。けれど、これで良かったんだ。前を見つめるイザベルの表情に後悔はなかった。

「あのガキに救われたな、お前」
 憲兵はふう、と白い煙を吐いて「ヘルキャットのご令嬢に手を出すとはとんだ命知らずだよ」とヴェンを見下ろした。ヴェンは包帯で巻かれた腹部を抑えながらじろりと憲兵を睨みつけている。
「薄情な奴らだ。一般市民が撃たれても、あんたらは見ているだけなんだな」
 はっ、と顔を歪ませて笑うヴェンに「馬鹿いっちゃいけねえ」と憲兵は肩を下ろした。
「奴はヴァルテナ人で、この街一帯を牛耳るヘルキャット家だぞ。逆らえるやつなんていない。奴らは街中で女子供を殺しても、罪にはならないからな」
「そんなわけあるか! あんたら憲兵が大金貢がれてなかったことにしているだけだろ」
 ヴェンの返しに「口の減らねえガキだな」と白い息を吹きかけた。ゲホゲホと激しく咳き込むヴェンに「お前に忠告してんだよ」と憲兵が空を仰ぐ。
「本来なら、俺はお前を殺さないといけない。だが、流石に俺も子供殺すのは気が引けるんでね。もし、あの子に近づかないと約束するなら、俺はお前を見逃そうと思っている。どうだ?」
 その言葉に返すことはなく、ヴェンは俯いた。ヴァルテナ人に関わらなければ、自分自身の命は保証される。このまま何事もなかったかのようにここを去って、またいつも通り「盗人」として過ごしていけば、それが自分にとっての幸福になるんじゃないのか。
 言い訳をするように考えていると、最後に自分を守ってくれたイザベルの表情が思い浮かんだ―――いや、自分にはもう、関係のない事だ。意を決したヴェンはゆっくりと顔を上げ、憲兵に向かって口を開く。
 一方、イザベルは自身の部屋に戻され、ベッドの上でテディを抱いていた。
「テディ……これで良かったんだよね」
『うん。ヴェンは殺されずに済んだんだ! きっと、幸せに―――』
 手足を動かすが、涙が溢れてきてテディの言葉を続けることが出来なかった。大人しく部屋に戻ったことで、なんとか地下に繋がれることは免れたが、もう二度と屋敷を出られないかもしれないという事実に涙が溢れてくる。
 他人事のように哀れむ声、虐めてくる子供たち。外の世界は嫌なことが沢山あった。けど、ヴェンと出会えて毎日がとても、楽しかったんだ。ぽたぽたとこぼれ落ちた雫がテディに落ちていく。
「ヴェンに会いたいよ……」
 テディに顔を埋め、イザベルが呟いた。自分のせいでヴェンを巻き込んでしまったのは事実。こんなこと、願ってはいけないと、イザベルは必死に思いを押し殺した。窓から入ってきた月光が、ベッドの上のイザベルにまで差し掛かる。ひぐっひぐっ、とひくついた声が静かに響く部屋の中に、窓を叩く音が遮った。はっとなって窓の方を見る。
「ヴェン……?」
 月光を背に映り出す影の輪郭に、イザベルは慌てて窓を開ける。どうやら、屋敷を取り囲むようにして植えられていた木によじ登ってきたようだ。
「良かった! 無事で―――」
 窓から乗り出して歓喜するイザベルの声を遮るようにヴェンは手を前に出した。その表情は逆光も相まって暗然としている。
「あんたに。謝りたいことがある」
 その口は何度か開閉させられ、言い出すのを戸惑っているかのようだった。イザベルはわけも分からずヴェンと一緒になって黙り込む。
「……あんたの父親が言ってたこと、本当なんだ」
 えっ、とイザベルが困惑した表情を浮かべた。胸をちりちりと焦がすような熱を孕んだ苦しみが襲いかかり、それ以上の言葉を続けることが出来ない。
「あんたを助けたのも本当は―――あんたが金持ちのお嬢様で、上手く行けば金を得られる―――そう思ったからだ」
「そんな……」
 じわりと引いていた目縁の熱がまた溢れ出そうになる。震えるイザベルに「でも、全部が嘘じゃない!」とヴェンは泣きそうに顔を歪めた。
「利用しようとしていたのは嘘じゃないけど、放っておけなかったのは本当なんだ! その理由が何故だかずっと分からなかった―――けど、あんたと話していくうちに、分かったんだ。俺がどんなに嘘をついても、あんたは俺を信じてくれた……ずっと色んな人間を騙して、騙されて、そうやって生きてきたのに……初めてだったんだ。孤独だった俺に優しく笑いかけてくれるやつなんて……俺はそんな真っ直ぐなあんたに、心のどこかで救われていた……っ」
 月光を受けてこぼれ落ちた涙が光る。くそっ、と頬を伝った涙を拭いて「イザベル!」と名前を呼んだ。その声に驚いて、イザベルは顔を上げる。
「不自由なく生きていける金も、権力も、もういらない!! だから、もう一度俺を信じてくれ!」
 ヴェンは真っ直ぐとイザベルを捉えて、手を差し出した。
「こんな街にいても、俺たちは幸せになんてなれない! だから、一緒にここから逃げよう! あんたは俺が守る!」
 真っ向から大きな風が吹いてくる。感極まって震えた吐息を漏らし、イザベルは目縁に溜まった熱を溢れ出した。ずっと、誰にも必要とされないのだと思っていたのに。差し伸べてくれる人なんていなかったのに。どこか安心したように笑みを浮かべ、イザベルがその手を取ると、ヴェンは腕を引き寄せ、強く抱きしめた。まるでもう二度と離さないとでも言うかのように。
 その日、二人の男女が街から姿を消した。

 それから、二人は遠く離れた貧民街で身を隠すように幸せな日々を過ごした。生まれてきた女児に「マルガレーテ」と名付け、貧しいながらも幸福に溢れた生活を送っていた、はずだった。そう、ヴェトナ街に流行病がくるまでは。
「はあっ、はあっ、ベ、ル」
 その年、原因不明の流行病がヴェトナ街を襲った。侵食していくように内細胞を破壊して多臓器不全を起こし、やがて死に至る恐ろしい病だ。街の中心ではとある伯爵が治療を施す一方で、街の端にいる住人の殆どがこの病で命を落としていった。
「大丈夫よ! 今中心街に治せる人が来ているって……今すぐ私が街の中心にいって……」
「いいんだ、もう。命の終わりぐらい……自分でよく分かる」
 ゼェゼェと、息を切らし、ヴェンは自分を見下ろすイザベルの頬に手を添える。やせ細って、骨張った醜い腕だ。この貧弱な腕じゃ、もう彼女を守ることは出来ないだろう。
「約束、守れなくて……ごめんな……」
 悔しそうに涙を流し、頬に添えた手を力なく降ろした。イザベルは認めたくないとでも言いたげに首を振って笑いながら「そんな事ないよ! ベルはね……あのね……」と話し続ける。けれど、その声にヴェンが反応する事は二度となかった。
「ママ、パパ寝ちゃったの?」
 背後からまだ幼いグレーテの声が聞こえてくる。けれど、顔を埋めたまま嘆くイザベルにその声は聞こえない。そうしてからふと、叔母が読み聞かせてくれた本のこと思い出した。まま、まま、と服を引っ張るグレーテに構わず立ち上がり、キッチンからナイフを持ってくる。
「大丈夫……大丈夫よ。あなた。眠るのは一瞬だけよ。大丈夫、大丈夫だから」
 ブツブツと虚ろな瞳で呟きながら、グレーテが抱いていた古びたテディベアを奪い取り、その腹を突き刺した。かつての親友を掻っ切り、腹の中から現れた黒い本を手に取って口角を歪める。
 たとえ神でも、彼を渡すわけにはいかない。もう二度と。私には彼が必要なの。だから、お願い―――
「もう……ベルから何もっ、奪わないで!」
 ドゥン! ツグナを捉えられていない銃弾は、関係のない離れた床に撃ち込まれる。撃った衝撃で指の間が擦れて赤くなり、カチャンと手から拳銃が滑り落ちた。床にめり込んだ熊人間を足で踏みつけていたツグナは、その音に反応してイザベルの元に駆け出す。
「あっ……」
 素早く目の前に迫ったツグナにイザベルは涙を流す。だが、その拳がイザベルに当たることはなかった。振りかざされる直前で毛深い巨体が、二人の間に割入る。
 目の前で鈍い音がした。顔に飛んだ血液さえもスローモーションのように遅く見える。ツグナの腕は、庇うようにして目の前に立ちはだかった熊人間の胴体を貫き、大量の肉塊をその拳に掴み取っていた。ぼたぼたと垂れていく赤い体液を認識し、イザベルは上瞼を引き攣らせる。
「ヴェン!!!」
 耳を劈く鋭い叫喚は古城中に響き渡った。
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