SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 一章 舞踏会編

06 対面

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 不安を抱えながらも、人波を掻き分けてシアンと共にラヴァル卿の元へ向かう。その足は何処か重々しい。不安が足取りにも出てしまっているのだろうか。
「ああ、間に合わなかったか」
「っい!」
 突然歩みを止めたシアンの背中に、ツグナがぶつかる。急になんなんだ、とその黒い背中から前の様子を覗き込んだ。視界の先では、ダンスホールに流れる音楽と共に男女が踊っている。
 円舞曲────くるくると回転が多く、優雅なのが特徴で、舞踏会の定番の踊りでもある。その為、この三日という少ない時間でステップを徹底的に叩きこまれた。けれど、練習の時より明らかに激しい動きだ。
「はあ……まあ、多少練習より激しいだけだ。問題ないだろ」
 独り言でブツブツと確かめるように呟くと、シアンはツグナの方を振り向き、手を差し伸べる。それはツグナにとって恐怖の始まりを意味するものだった。
「ここから先は踊りの場。練習で説明したとおり、ただ通り抜けるのはマナー違反なんだ。なるべく始まる前に通りたかったけれど、この際仕方がない。ここからは、踊ってラヴァル卿の元へ向かう」
 それを聞いてツグナは分かりやすく青ざめた。無言で出来ないと首を振り続ける。ふと、脳裏に浮かんだのは練習でのこと。
 縺れる足、倒れこむ体、それに対するシアンの罵倒と冷ややかな瞳。今思い出すだけでもゾッとする。
「これ……嫌だ……お前だって怒ってばっかで……」
「つべこべ言うな。俺が一緒なら問題ないだろ」
 謎の持論を持ちかけ、シアンは逃げようとするツグナの手を無理矢理とった。ツグナを見つめるシアンの瞳は「やれ」と沈黙に訴えている。逃げ場もない絶望にツグナは諦観して黙り込んだ。
「踊っていただけませんか、レディ・ツグナ」
「……………………はい」
 死に際に放つ一言のように、か細い声で答える。その一言を聞いたシアンはよくやったと言わんばかりに目を細め、ツグナの腰を抱くとダンスホールへ足を進めた。
 音楽とともに視界がぐるぐると回る。三日間の練習の成果もあってか、ある程度ステップを踏める状態だ。しかし円舞曲の練習と言っても、たった三日そこらで身につけたものである。ステップが次第にぎこちなくなり、次に何処に進めばいいのか分からなくなっていく。後ろ、前、右、いや左だったか。足がもつれ始め、慣れないオープントゥのヒールに踏み外す。
「あっ……」
 転ぶ。そう悟った瞬間に腕を強く引かれ、持ち直した。何度か体勢が崩れそうになるも、それをカバーするようにシアンが支えてくれる。
 景色が徐々に加速しながら回っていき、足元ばかりを見ていたツグナの目が回り始める。速い、帰りたいなどと心の中で嘆いて顔を歪めていたが、シアンは真顔でステップを踏んでゆき、どんどんラヴァル卿の方へと近づいていった。
「大丈夫か? とりあえず、君は俺に合わせてくれればいい。あとは任せろ」
 途中でシアンの気遣いの声が耳元に聞こえてくる。これが大丈夫に見えるかと声にする事が出来ないのでシアンに目線を送りつつ、ひたすらステップに集中した。足裏にかかる圧力が次第に範囲を広げ、小指などの関節に痛みを強く感じる。
「全体的に固いな。もっとリラックスして、あまり深いことは考えるな。全部俺に委ねてみろ」
「そんなっ、こと……っ」
「返事はしなくていいから集中しろ。力を抜け……床下を見ずに、俺を見ろ。ツグナ」
 名を呼ばれるがままシアンを見つめる。これじゃあ、足元がよく分からない。怖い。けれど、不思議と先程より足の動きがスムーズになった気がする。
「その調子だ……!」
 目の前の口角が上がった。踊る人々を次々と避けて進んでいく。あと五メートル、四メートルと距離を詰め、やっとの事でラヴァル卿の元へと続く階段に到着した。
「ふぅ~~~……」
 息を切らして手すりに寄りかかる。一段上ることさえも辛いと感じるほど、足が痛い。踝は擦れて赤くなり、すねの辺りにまで痛みと疲労による気怠さが張りついている。そんなに練習していない円舞曲をヒールで踊ったんだ。こうなるのも当然といえるだろう。
「……練習の時から思っていたけれど、君のリズム感のなさには本当に驚かせられるな」
「……ありがとう?」
「褒めてはいないんだがな。まあ、派手に転ばなかったし。君にしては良かった方か」
 練習の時はそんなこと一言も言ってくれなかったのに。褒められた事を理解して、ツグナは嬉しそうに目を輝かせた。本当に単純なヤツと、顔を逸らしたシアンがほくそ笑む。
「……っ」
 突然、肌を裂くような痛みを感じ、顔を歪める。ツグナは力が抜けてふらつき、手すりへともたれ掛かった。痛む方のヒールをずらしてみると、右足の踵部分が赤く擦り切れていて、そこから大量に出血している。踵にもヒールにも血が広範囲に広がっていた。
「ん? また血が出ているね? 大丈夫か?」
「……痛い……」
 重心をかける度に傷が広がっていくかのようだ。ピリピリと火傷に似た痛みに片眉が痙攣する。実験施設のせいで痛みにはだいぶ慣れた方だが、それでも痛いものは痛いのだ。ヒールを履き直すと、踵辺りからぬちゃぬちゃと張りついた音が聞こえ、そのベタつきを不快に感じる。
「そうか……まあ、生憎包帯を持ち合わせていないから手当はできないけれど。君だったら問題ないだろう。どうせすぐ治る」
「……そう、だな」
 回復力を認知してから、シアンの扱いは以前よりだいぶ雑なものになっていた。ツグナはあまり変化を感じ取れずに、言われるがまま頷く。練習の時から同じような傷ばかりを作っていたから、皮膚が薄くなって傷を作りやすいのだろう。とはいえ、次の日には治っているので、あまり本人は気にしていなかった。
「……まあ、あまり触らない方がいい。その方が助かる」
「……? 助かる?」
「君が気にするような事じゃないよ。さて、そろそろ行くか。今なら人もそんなにいないだろうし。あとは言った通りだ」
 決意を改め、シアンはツグナの怪我に構わずさっさと階段を上っていった。その言葉にツグナは計画の内容を思い出して、不安そうに眉を下げる。それでも今は言われたことをやるしかない。階段を上っていくシアンの背中に続いて、一歩一歩痛みを噛みしめながら進んだ。



 踊り場を抜け、また数段ほど階段を上っていく。その先で、ラヴァル卿と女性二人が果物酒を飲んでいるのが見えた。それら三人の背後には屈強な男が無言で突っ立っている。もしもの時のガードだろう。男嫌いとも聞いていたが、流石にガードは男のようだ。
 邪魔な奴がいると言いたげに短く舌打ちをして、シアンが階段を上りきる。横から見たシアンの表情は、真剣で堂々としていて、それでいて見下しているようにも思えた。
「お久しぶりです、ラヴァル卿。本日は、素敵な舞踏会にお招きいただきありがとうございます」
 胸に手を当て、シアンが慇懃にお辞儀をする。その様子は普段のものとは違って、紳士そのもののようであった。
「……久しいな。三年前の貴族会議ぶりか。以前と様子が違っていて驚いたよ」
 低く落ち着いた声でラヴァル卿がシアンと向き合う。近くでラヴァル卿を見て思ったが、結構若い。歳はアデラさんと同じくらいだろうか。優しそうな切れ長の碧眼に、長髪を後ろで一つにまとめている。こうして見てみると、シアンの言う行方不明事件の犯人とはとても思えなかった。
「それで? 夜会にも顔を出さなかった君が、どういう風の吹き回しだ。不躾な奴だと周りからはいい評判だぞ。裏で国をひっくり返す気ではないのかとな」
 慇懃にお辞儀をした状態でシアンは目を開けた。
 アルマテアには十の伯爵家が存在する。元より彼らは騎士としての功績をあげ、それぞれ国王から土地を授かった辺境伯と呼ばれる権力者達だ。貴族会議などで国政を取り仕切る権限が付与されており、他にも領地ごとに法の成文化、訴訟の裁定などの政治的権力を持つ。言わば一つ一つの領地が、伯爵の国のようなものだ。
 伯爵間の横繋がりはそれらの情報共有。そして、よからぬ事をしでかさないかという監視の為にも、大切なことなのだ。
 つまり夜会や舞踏会の招待は一貴族としての常識を守ることである。ブラッディ家にも毎年送られては来たが、シアンは護身のために長年の間断っていた。周囲の貴族にいいように思われないのも当然である。
「まさか。国の転覆なんて、有権者である伯爵われわれが損をするだけでしょう……少し、厄介な権力者に命を狙われていたんです。護身のためにも、人が集まる場所は避けるのが賢明だと」
「ふん、そうか。それなら何故……」
 そこまで言った時だ。ラヴァル卿の隣にいた女性が気まづそうに「あの」と声をかける。
「彼は隣町の……?」
「ん……ああ。君たちも挨拶をするといい。ブラッディ伯爵だ。先程紹介されただろう?」
 どこかの貴族の娘達だろうか。一人は真っ赤なドレスを身につけ、もう片方は大人しめに黒いドレスと、正反対だった。
「へえ~綺麗な顔。結構タイプかも」
 隣にいた赤ドレスの女は甘えるようにラヴァル卿の腕に抱きついた。それを見たシアンはピクリと眉をひそめる。
 自分を見て、こんな態度をとっていられるとは、不躾なやつだ。大方、ラヴァル卿の愛人の一人と言ったところだろう。ラヴァル卿を傍にいることで自分が強くなったと勘違いする頭の悪い女だ。高級娼婦を堂々と表に出すとは、ラヴァル卿もラヴァル卿でイカれている。
「隣町のブラッディ卿ですね。お会いできて光栄です」
 黒いドレスの女は軽くドレスの端を掴み、深々とお辞儀してみせる。大人びた様子や態度からするに、こちらはきちんと教養のある人間なのだろうとシアンは思った。ああ、とだけ返事をして、前を向く。いちいち腹を立てていても仕方がない。
「こうしてみると、若い頃のメイナードに似てきたな……本当にあいつそっくりだ……そちらのお嬢さんは?」
 ラヴァル卿はすぐさまツグナの方に興味を向ける。目の前の人数に黙り込んでいたツグナは大きく肩を揺らし、少し距離を置いた。
 本当に女好きみたいだと考えながらも熱い視線が送られるので、恐怖で目を下に逸らす。というかこれ、本当に気づかれていないのだろうか。もし気付かれていたらと頭の中でそんな事ばかりがぐるぐると回った。
「そんなに緊張しなくていいんだよ、お嬢さん? その美しい顔を私に見せてくれないか」
 そう言っていつの間にか目の前に来ていたラヴァル卿が、無理矢理ツグナの顔を上げさせる。同時に慣れた手つきで腰を抱いてきた。虫が這い上がってきたかのようなザワザワとした感覚に全身が粟立つ。早くも振り払いたい気持ちがあったが、恐怖と拒否反応で石のように動けなくなった。
「ああ……綺麗だな。まるで雪の上に真っ赤な薔薇を一輪落としたかのようだ……今宵此処で私達が出会えたのはきっと運命に違いない」
「ええ~! ラヴァル様、それ私にも仰ったじゃない~」
「浮気なんて酷いですわ!」
「何言っているんだ。君達は私の特別だからね。他の女性とは比べ物にならないだろ?」
「もぉ~! ラヴァル様ったら~!」
 すぐに機嫌を直し、女性達はラヴァル卿の腕に抱きつく。そんな茶番を目の当たりにして、ツグナとシアンの瞳は完全に冷めきっていた。
「……うっ」
 引き寄せられる力にツグナは現実へと戻る。早く離れてくれと、小刻みに震えながら、拳を何度も握り直した。人との会話の耐性はついてきたが、接触には未だ慣れていない。怖い、脳内はそれだけに埋め尽くされていた。
「それは至極光栄でございます。彼女は私のフィアンセですので。伯爵に称賛いただけますと、自分の事のように誇らしく思います」 
 ツグナの手をシアンが引くと、最早お決まりのように言ってラヴァル卿から距離を置かせた。やっと解放され、安心したかのように肩の力が抜ける。もう少し遅ければ、ラヴァル卿を突き飛ばしていたかもしれない。
 もしかして、怯えていたのが分かったのだろうか。感心に思いながらもシアンを見てみると、その瞳は明らかに苛立ちを表していた。氷のような冷たい眼差しでこちらを睨みつけている。心配というよりは迷惑かけるなと言いたげの目だ。
「へえ、君のフィアンセ……ねえ?」
 そのままツグナを庇うようにして前に出ると、シアンは再びラヴァル卿と向き合った。
「何処の令嬢だい? まだ歳も十代半ばほどに見えるが、どこか儚げで美しい……こんな女性を私が見逃すはずないんだがね」
 最後の方はよく聞き取れなかったが、細められた瞳は狂気さえ感じた。ツグナは身体中の血液が凍るような心地になる。少しでも気を抜けば、意識が全部持っていかれそうだ。
「……今回は彼女の紹介も含めて舞踏会へ足を運んだ次第です。伯爵には父の時からご縁がありますから……それから、彼女が伯爵にどうしても会いたいと……な?」
 話を振るようにして見つめられ、目が合った。目が合った状態で小指を掴まれ、ツグナは何かを思い出す。二人の中にある一つの合図―――確かにこの状態では一向に話が進む気がしない。一息つき、当たって砕ける意を決した。
「じ、実は、ぼ……いや、私! ラヴァル様の小説の大ファンで、ずっとお話がしたかったんです!」
 決意を固めシアンの前に出ると、声を張るようにしてラヴァル卿と向き合う。力みすぎて声を大きくしてしまった事にツグナはまずいと青ざめた。とはいえ、もう後戻りはできそうにない。
 小説、という言葉が予想外だったのか、ラヴァル卿は驚いたかのように目を何度か瞬きさせた。それは一瞬の事で、すぐに「私の本を読んだのかい!?」と興奮気味に声をあげる。
「はい……詩的な文章で……ええっと……洗練された、かんのうてきなびょうしゃが全体的に波及していて、芸術作品としてとても完成度が高く……」
 勿論、ツグナ自身の感想ではない。シアンに言われたことをただ言っているだけだ。言わされた感想ということもあってグダグダだったが、ラヴァル卿は「読まれた」事実に感動しているらしく、気にしていない。
「素晴らしい! こんな美しさを持ち、更には優秀な読書家だったなんて! やはり君と出会ったのは運命だ!」
「こ、光栄です。それで、宜しければ小説についてお話を……」
「構わないさ。むしろ大歓迎だ。こんな所で話すのもなんだし、良かったら私の仕事場でゆっくり紅茶でも飲みながら話さないか?」
 何処か嬉しそうなラヴァル卿の様子を見て、ツグナは安心したかのように一息をつく。まさかこんなに上手くいとは思っていなかった。呆気なさすぎて逆に怖くなる。
 どうやらシアンが言ってた小説(主に自作)の話に目がないのは本当らしい。自作した小説に対してかなり陶酔している部分がある事も。この食いつきようだと、よっぽど誰かに語りたかったんだろうかとツグナは考えた。
 誰もが生きているうちに何らかの自己表現を行おうとする。人よりいい職、いい人生を歩むこと。結果を残すこと。芸術も同様である。目に見えるそれらと芸術が違っている点と言えば、どの自己表現よりも孤独との戦いだということだ。
 自己表現できるからと言って誰もがみんな表現者を賞賛したりはしないだろうし、大して興味があるわけではない。表現物が多ければ多いほど、人の興味や目線は埋もれやすいものだ。そこへかけられる称賛の言葉はどんな蜜よりも甘く、麻薬のような中毒性を持っている。自己表現への賞賛は、自分が認められたという脳の快感なのだ。これが、承認欲求の落とし穴。ラヴァル卿を嵌めるならそこだと、シアンの作戦だ。
「ぜ、是非……お願いします」
 ラヴァル卿の言葉に慇懃とお辞儀する。どんなもんだ、と言いたげにシアンのことが気になって顔を覗いてみると、案の定世界征服でも考える悪人みたいな顔をしていた。
「それでは案内するよ……君達も一緒にどうだい?」
「勿論です! ラヴァル様の仕事場に入れるなんて感激いたしますわ!」
「そう。なら私はブラッディ卿とご一緒させていただきますわ」
 赤ドレスの女性が目を輝かせる一方で、もう一人の女性はシアンの傍に立った。シアンは驚き、女性を横目にするが、避けることも出来ずにその場で固まる。
「何よアンタ、さっきまでラヴァル様に媚び売ってたくせに」
「別にいいでしょう。どうせ一夜限りの舞踏会ですもの。大丈夫よね? フィアンセちゃん」
 そう言って女はシアンにしがみつきながら笑顔で問いかける。ツグナはその笑みに威圧を感じ、返答するのにシアンの方を見つめた。
「困った子だ。まあ、彼にはもっと舞踏会を楽しんでほしいし。たまにはフィアンセ以外と踊ってみるのも悪くないんじゃないか?」
「そう、ラヴァル様も仰っておりますし。よろしければ……って、少し無礼だったでしょうか……」
 伯爵様相手にはしたない真似をと、遠慮がちに女は眉を下げる。なにやら考えていたシアンだったが「構わない」と短く返した。
「せっかくの機会だ。君は伯爵とゆっくり楽しんでくるといい」
「えっ」
「では、決まりだな」
 そう言って二人を引き裂くように二手に分かれると、別々の方向へと歩き出した。計画になかったことなので、ツグナは心中戸惑いしかない。
「ここを頼んだぞ」
 ラヴァル卿の声に見張りの屈強な男が無言で頷いた。目の前にある、捲られたカーテンの向こうには廊下が続いている。薄暗い為、ここからじゃよく見えない。けれど、真正面から感じる異様な空気の冷たさに、もう二度と帰れないような気がして、思わず足が竦んだ。計画はどうするのだろう。
 不安に思い、目で訴えるようにシアンを見つめたが、シアンは振り返らずダンスホールへと行ってしまう。それを見てツグナはますます思考が停止した。
 混乱する中、黒い背中に声をかけようとするが、赤いカーテンが閉ざされたことによって、シアンの姿は完全に見えなくなってしまった。 




 カーテンに閉ざされた廊下は、舞踏会の賑やかな雰囲気とは違って、まるで深海のように底知れぬ暗黒と静寂に包まれていた。
「さあ、行こうか。迷子にならないように気をつけてくれ」
 壁にかけられていた燭台に火を灯し、手に持って、ラヴァル卿がゆっくり廊下の奥へ歩き出す。その度に、蝋燭の光に映し出された三つの影が歪んだり揺れたりして、眼前の光景を更に不気味なものにした。
 廊下の壁には高そうな額縁つきの絵画が飾られている。モチーフがよく分からない絵の中には肖像画もあって、時々暗闇から感じる人の目線が恐ろしかった。
「高そうな絵画ですね……」
「ああ。どれも有名な画家に書かせたものばかりで、祖父がコレクションとして集めていたらしい。私も一時期、絵を嗜んでいた事があった」
「ラヴァル様は多才なのですね」
「まあな。幼少の頃から芸術に触れていたからな。後で私が描いた絵を見せてやろう」
「まあ! 是非! 楽しみですわ!」
 二人は一瞬さえも惜しむかのように、次々と会話を重ねていく。一方ツグナはその背後で苦悶の表情のまま、足を重々しく引き摺り、後を追っていた。度々踵の傷が痛み蹌踉けたが、二人に気づかれないように歯を食いしばって耐える。先程より酷くなっているのは気のせいでありたいものだ。暗闇でよく見えない自分の足元に目線を落として、ため息をつく。
「君はどうだい? なにか気になったものでも」
「え、あっ。ぼ……私は……」
 突然話を振られ、飛び上がるように背筋をピンとさせる。言葉を濁らせつつ、慌てて廊下の絵を見た。
「あの絵……とか」
 目に入った絵を恐る恐る指さした。他の絵よりも大きくてよく目立つ。羽が生えた子供達に女性が囲まれている絵だ。絵なんて上手い、しか特に思う事はないが、その一枚の神秘性になんとなく惹かれるものがあった。
「お目が高いな。【天雨と共に贖罪の炎は立ち消え、空から天使が舞い降りてくる】」
「女神の被昇天!噂には聞いていましたが……実際にお目にかかれるなんて……!」
「ひしょうてん……?」
「ああ。女神ルミネアの……まさか知らないのか?」
 驚く声に鼓動が跳ねる。確かにどこかで聞いたことがある名だったが、舞踏会で必要な知識を入れられる時にシアンからは何も話を聞かされなかった。まずいまずいと大量に汗が吹き出す。
「へえ……神書でも有名なシーンなのに……ヴァルテナ教信者にしても、世間知らず過ぎですわ」
 お猿さんに育てられたのかしら、と赤ドレスの女にくすくすと笑われる。知らない単語ばかりで全く頭に入ってこないため、ツグナは何を言われても首を傾げるばかりだった。
「さあ、着いたよ。此処が仕事場である書斎の入口だ」
 立ち止まったラヴァル卿に、顔を上げる。そこには見上げる程の立派な木の扉があった。磨きあげられた木の艶が暖かなロウソクの朱色を受けて、光を放っているかのように思える。
 ノブに手をかけ、ラヴァル卿が前に押し出すと、扉の軋んだ音が辺りに響いた。部屋の中は暖炉がついていて、室内の暖かさが肌から全身に伝っていく。
「まあ……! 素敵……」
 書斎と言われる場所は正しく名前の通りで、部屋の窓側に大きな机、そしてその机を取り囲むようにして本棚が山のようにそびえ立っている。理想的な書斎と言ったところだ。
「どうだい? こんな立派な書斎は、貴族であってもなかなか目にすることは難しいだろう。文芸、評論、哲学、地理、なんでも揃っている。中には戦前の貴重なものだってあるぞ」
 自慢の部屋の説明をし始めるラヴァル卿を余所に、ツグナは何か証拠はないものかと辺りを見回した。未だにこの状況を理解出来ていないが、とりあえずシアンを信じて証拠探しに専念する。しかし、気になる点は特に見つからなかった。たった一つを除いて。
「……これ……」
 書斎の机上には、真っ赤なマニキュアを塗った女性らしき手が飾ってある。窓から入った月光の青白さと暖炉の朱色の光がコントラストになって芸術的に見えた。が、そのリアルな造形があまりにも不気味で、目を逸らしてもついつい視界に入ってしまう。
「あ、あの……」
「ん? ああ、これかい? リアルでとても存在感のあるインテリアだろ? こうやって鍵かけとして使うんだ。私はよく物をなくしてしまうからね」
 そう言ってラヴァル卿はポケットから出した小さな鍵を、その細い指に指輪のようにしてかけた。
「とてもロマンチックですわ……」
「だろう? まるで婚約指輪をはめるみたいでね。私のお気に入りなんだ」
 恍惚とそれを見つめる女性に微笑みながら説明する。その二人の後ろでツグナは一人、顔を強ばらせていた。
「……はあ」
 二人の楽しそうな背中を見つめる。もし、何も知らないでここに来ていたら彼女のように思えるのだろうか。いや、だとしても不気味すぎる。彼女も大概変な人だとツグナは密かに思った。
「さて、此処でお茶をしようとしたのだが、君達にはもう少し本の物語の誕生について語りたくなった! マニアートと言う本は読んだかい?」    
「あ、はい」
「私は、まだ読んでいませんわ」
 素っ気なく答える二人に、ラヴァル卿は気にも止めずに「そうかそうか」と話を進めていった。見た様子だと彼女が小説を読んでいたというのはどうやら嘘のようだ。見栄でも張っていたのだろうか、なんてそんな呑気なことを考える。
 ちなみにツグナは話合わせ程度にシアンから予習させられているので、それなりにラヴァル卿の素性は理解していた。
 ラヴァル卿は過去に六冊の小説を出していたのだが、どれも内容がマニアックというか……言えるのは、通常の人間には到底理解出来ないような、独自の視点から考えた人の愛し方についてのものばかり。先程の手のインテリアが本物なのではないかと思ってしまったのも、その小説のせいである。あとは察していただきたい。
 特に今出したマニアートという本は、最も人間の狂気を詰め込んだ本(シアン談)と言われるほど内容が濃いもので、彼の一番の自信作なのだと言う。
 マニアートの語源であるマニアとは相手を完全に独占して自分のものにしたいという狂信的な愛の事らしい。
 途中までツグナもこの本に目を通してはいたが、あまりにもな内容だったので、数ページ捲っただけで終わってしまったのだ。最後まで読めたシアンを尊敬する。
「……実はあの話には色々と制作秘話があってね! 良かったらその話をしたいと思うんだ! どいつもこいつも私の美学を分からない愚か者ばかりで、あまり本の話をしてこなかったが、君達には全て話したくなった!」
 妙にやる気を出すラヴァル卿を横目に、ツグナは苦笑を浮かべる。隣にいる彼女さえ反応に困っているようだ。嫌な予感を感じつつ、断る事も出来ずに黙って首を縦に振ることしかできない。
 ただただ不安なツグナの気も知らずにラヴァル卿は微笑みながら、聳え立つ本棚の本のうち一冊を押し出した。するとその本棚が扉のように奥に開き、中から地下への隠し階段が姿を現す。地下から流れてくる冷気がツグナの肌をぞわりと逆撫でた。
 この部屋には何かあると思っていたが、まさか地下があるなんて。もし、こいつが今回の真犯人なら、この先に行くのは良くない気がする。
「隠し扉、ですか?」
「そうだ。驚いたかい? 実際に見てもらった方が話しやすいから、この先の地下に行きながら話すよ。さあ、ついておいで」
 そう言ってラヴァル卿は、炎の灯った燭台を持って地下へと続く階段に足を踏み入れる。下手したらもう二度と地上に戻って来れないかもしれない、ツグナはそんな気がしてならなかった。今ならまだ戻れる。逃げることができると、思わず後退した。
「地下だなんてワクワクしますわ!」
 いつの間にか横にいた彼女はラヴァル卿を追って、なんの警戒もなしに階段へと踏み込む。地上には未だ踏み出せないツグナだけが取り残された。
「ん? どうかしたか?」
 ラヴァル卿は階段を数段下がったところで振り向き、不思議そうにツグナを見つめる。一度は戸惑ったが、怪しまれるといけない。不安を振り払い、焦るようにしてラヴァル卿の後へ続いた。

「三作目のルーダスは快楽を始めとした遊戯的な愛をテーマにしたものだ。世の中は、性的欲求や独占欲など自分自身が満たされることで幸せになるというエロスが大半を占める。しかし、このルーダスというのは少し特殊でね。他と比べて執着心と独占欲は極めて少ない。心を通わせる充足感より、刺激や快楽を優先させた愛なんだよ。そこで私は……」

 地下にたどり着くまでラヴァル卿は本当に一から六までの作品を丁寧に説明し始めた。行方不明者の話を聞いていなかったら、ただ純粋に、熱心に自分の作品を語る小説家にしか思えない。とはいえ殆ど高圧的で偉そうだし、自慢話みたいなものが多い気もするけれど。自分の作品でここまで熱く語れるのは少し感心できた。
「そこまで愛について真剣に考えておられるなんて……ラヴァル様には、そう思わせられるほどの女性がいたのですか? 確か結婚されていたと……」
 ラヴァル卿の話を聞いた女性は世間話程度の軽い口振りで問いかける。珍しく終始口を開いていたラヴァル卿はその問いの答えを出すのに数十秒の間を要した。ツグナはつかの間の静寂にラヴァル卿の背中をじっと見つめる。
「ああ、勿論。今は亡くなってしまったけれど。彼女の事を愛していた。誰よりも、何よりも」
 重々しく、ゆっくりと噛み締めるようにしてラヴァル卿は返した。考える時間に対して短いその答えは色んな感情が秘められているように思える。眉をひそめたツグナはその言葉が頭の中でぐるぐると回った。
「……っ! 牢獄?」
 しばらくして螺旋階段を降りきると、そこには古びた牢獄が広がっていた。湿った空気に包まれ、所々にはヒビや苔が生えている。臭いもカビ臭さとどこか懐かしいが、吐き気を伴う強烈な匂いで思わず目眩を覚えた。毒ガスのように明らかに人体に悪い空気だと思いながら、鼻ごと口を抑える。
「ああ。此処は、初代が裏切り者の粛清で使っていた場所らしい。これは自慢だが、ラヴァル家は元々国王に仕える騎士隊の指揮官でね。死んだ後、その莫大な遺産が私の元に帰したのさ。まあ、時代が変わって今はそんなに使われていない。怖かったかい?」
「い……いえ」
「そんな事ありません! ちょっと個性的な臭いがしますが、地下に隠された牢獄! こんな本でしか見たことがないような場所を間近で拝見できるなんて!」
 ツグナの声を遮って、女性は目を輝かせながら辺りをキョロキョロと見回す。一方で、この先にどんなものが待ち受けているのかと、底知れぬ恐怖にツグナの足が竦んだ。重く黒ずんだ不安が胸の奥でずっと佇んでいるのか、変な胸苦しさがある。そんな心境の中、ラヴァル卿は構わず先に進んでいくので、黙ってそれについて行くしかできなかった。

 三人の足音が聞こえては闇の中に消えていく。夜道を一人で歩く幼い子供のように、ビクビクしながら目だけで辺りを見回した。牢獄でいい思い出なんてない。実験施設に閉じ込められていた事を思い出し、ますます胸が押し潰されそうになった。
 しばらく歩いていると、前方に重厚な鉄の扉が見えてきた。その前でラヴァル卿は歩みを止め、壁にかかった燭台に炎を移す。
「さあ、着いたよ。此処がラヴァル邸の地下室だ。此処も元々は初代が使っていたもので……」
 目の前にある大きな扉がハッキリと見えた。その瞬間、ツグナの心臓がより一層ドッドッドッと速くなる。そして本能的にこの扉の中に入ってはいけないと、全身が粟立った。
「どうした? 早く君も入るといい」
 扉の中に消えていく彼女を見送ってから、ラヴァル卿は中に入ろうとしないツグナの方を振り向く。
「あの。僕やっぱり、用事があるんで……」
 そう言って扉から恐る恐る後退りをする。するとそれを拒むかのようにラヴァル卿に腕を引かれ、それ以上動けなくなってしまった。まるで逃がさないと言いたげに、その爪は腕にめり込み、鷲掴んで離さない。
「なあに、折角ここまで来たんだ。最後までたっぷり楽しもうじゃないか……ねえ? お嬢さん」
 ラヴァル卿が布を持った手でツグナの鼻を抑える。途端にフッ、と全身の力が抜けていき、ツグナは意識が遠のいていった。
(しまった……っ)
 自分の危機を悟った時にはもう遅い。朦朧とした意識の中、ラヴァル卿の高笑いを最後にツグナは意識を手放した。



 ツグナが中に入って数十分たった頃。入口の前で止められていたシアンは黒ドレスの女性と楽しく談笑していた。
「ブラッディ卿は本当にお若いのですね」
「まだ子供だと言いたいのですか?」
「そ、そういうわけでは……」
「ははっ。冗談ですよ。貴方みたいな美しい方はついつい困らせたくなってしまうんです……だから、子供っぽいと言われるんですかね」
「ふふふっ、無邪気なのですね。失礼ですがもっと怖い方かと……」
「それはまだ分かりませんよ。男は狼だと言いますから」
「まあ! ふふっ……」
 時折、懐中時計の秒針を眺めながら果実酒を飲む。その様子に「先程から随分時間を気にされるのですね」と女性が問いかけた。
「……ええ。何せフィアンセが伯爵のような男性と一緒ですからね。一分一秒も長く感じます」
「そう。フィアンセの事を愛しておられるのですね……でも、今は私と一緒なんですよ」
 劣情を誘うように豊満な胸を押し付け、腕に抱きついてくる。先程の上品さとは違って積極的だ。
「ブラッディ卿、今から二人で抜け出しませんか? 私と……」
「申し訳ありません。私にはフィアンセがいますから。不純なことを考えておられてるなら、諦めた方がいいかと」
 すっかりその気でいた女性にピシャリと返してみせる。行けると思っていたのか女性がむっと口を尖らせる。
「お堅い方。男は多少遊び人の方がモテますのよ? それに、あの子。見た目からしてまだ子供じゃない。胸も私よりないし……彼女で夜は満足出来ているのかしら? そんな色気のない女より、私といいことをしている方がもっと楽しいと思うけど」
 鋭い瞳で見つめながら、女性はシアンの首の後ろに腕を回した。香水の強い匂いにシアンの鼻腔が侵される。そのまま慣れた手つきで優しく撫でるように、耳から頬を触り始めた。吐息と鼓動がしっかりと認知できる距離まで顔を近づけた時だ。

ガシャン!!

 数秒立たないうちに、ガラスの割れた音が辺りに響き渡った。人々のざわめきに混じって、甲高い悲鳴が聞こえてくる。
「どうしたんだ急に!?」
「女性が暴れ出しだぞ!」
 騒然とするダンスホールの中央には、白目を剥いた女性が銃を片手に錯乱している。来るな! 来るな! と化物に向かって叫ぶような怯え方だ。
「何事だ!!」
 邸内の入口付近で構えていた屈強な男が慌てて錯乱する女性に駆け寄る。シアンの碧眼がその姿をしっかりと捉えた。
「もう、折角いいところなのに」
 不満を呟きながら離れようとする女性に、シアンは口角を釣り上げて解こうとした腕を掴んだ。
「えっ。な、なんですの?」
「もう終わりですか? 折角純情ぶって大人しくしていたのに。もっと、全力で私を誘惑してくださいよ」
 腰を無理矢理引き寄せ、色気を帯びた瞳を細めるその様は、先程とまるで別人だ。女性は歓喜に背筋を震わせる。
「見た目に反してプレイボーイなのかしら? 娼婦と繋がりがあったなんて噂はデマだと」
「デマかどうか知りたいですか? 言ったでしょう、男は狼だと」
 先程よりも顔の距離が近い。女性は頬を染め、一切シアンから目を離さなかった。いや、離せないでいる。飲み込まれそうな青年の色気に、女性は思わず目を閉じた。
「残念。拍子抜けだな」
 距離がゼロになる直前に、嘲るようなシアンの声が低く聞こえてくる。次の瞬間、全身の力が抜けると同時に意識を失い、シアンに寄りかかった。
「即効性か……随分いいものを使っているな。ハニートラップはこうやるものだろ。自分のエモノが取られていることに気が付かないなんて、馬鹿か」
 先程女性から奪った注射器を見て、シアンは嘲笑う。あのラヴァル卿が護衛を付けずに舞踏会をするなんて有り得ない。奴の対応を見ても、この女が殺し屋だと気づくのに数秒とかからなかった。どうせならもっといい芝居をしろと呆れたように嘆息する。 
「さて、と」
 周囲が見ていないことを確認し、殺し屋の女性を柱の影にもたれかからせた。入口の見張りも今は錯乱している女性で手一杯だろうし、これで問題なく中に入れる。
「全く。この女のせいで予定が狂った……まあ、こんな事も想定できなかった俺もまだまだか」
 不機嫌そうに愚痴を零し、反省する。そのままダンスホールの混乱に乗じ、ラヴァル卿を追いかけて赤いカーテンの奥へと入っていった。
 あの錯乱は意図的にシアンが行ったものだ。先程アデラの会話中に抜け出したあと、果実酒を配っている男の気をそらし、その一つに少量の毒を盛ったのだ。毒とは言っても幻覚と幻聴を引き起こす程度で死に至らない。まあ、ちょっと三途の河がチラつく程度だ。
 効き目が出始めるのは約一時間後。だからその間にラヴァル卿の所まで行く必要があったのだ。ツグナはまだしも、どうせ自分の事は警戒して中に入れてくれないだろうから。少し予定が狂ったけれど、今更どうでもいい。
「さて、あいつを助けに行くかな」
 ここまでは計画通り。あとは思うように事が進めばいいんだけど。シアンはそんな事を呑気に考えながら先の見えない廊下を歩き始めた。
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