9 / 32
第一部 一章
07 緑の怪物(挿絵あり)
しおりを挟む
しばらくして人の気配がなくなると、アレクは呆然とした様子でフラフラと小道に出てきた。リーゼロッテがいないことを知り、自分の中で再度受け止めて、目を見開く。
「は、ははっ……負け犬だってさ」
本当にその通りだ。何故止めに行けなかったのだろう。あの大蜘蛛の時だってと唇を噛み締める。自分がかなわない相手だと知ると、いつもこうして隠れて逃げて―――自分は卑怯者だ。二度もあいつを見捨ててしまった。情けないと同時にリーゼロッテに合わせる顔がない。
落ちていた剣鉈や弓を手に取り、アレクは脱力感の見える落胆した肩で立ち尽くす。その様子に、すかさずクリフが青い外套をくわえて引っ張った。
「なんだよ……お前があの時、引き止めたせいで……いや、違うよな」
違う、とアレクはその場でしゃがみ、顔を膝に埋めた。
「……もう、分かったろ。あいつの言うように俺はヘタレの根性無しだ。調子のいい言葉ばかり並べて、いざという時に言い訳して逃げてばかり……親父と一緒で俺は、嘘つきなんだ! 最低なヤツだ……!」
こんな自分が心底嫌になる。彼女は命懸けで自分を救ってくれたのに―――なぜ自分はと呪い、膝を抱えた手を強くさせる。もういっその事、このまま消えてしまいたかった。
どんよりと重々しい空気を漂わせるアレクに、流石のクリフも呆れてしまったのだろう。じっと眺め、前足を少し浮かせると、アレクの背中に向かって強く突き出した。それはもう強く、手加減のない様子で。
「おっ、わ!?」
ドンッ、と勢いよく地面に倒れ、顔を擦った。アレクはぶつけた顔を抑えながら「何しやがるこのクソ馬ぁ!」と喧嘩腰に起き上がる。それに対しクリフは顔を逸らして何事もなかったかのようにブルリと鳴いてみせた。
「あ……? これって……」
ふと、視界の隅に見覚えのあるものが映り、拾い上げた。ツヤツヤに磨かれた、角笛のネックレス―――確か父親からの贈り物だと言ってリーゼロッテが普段から肌身離さず身につけているものだ。先程の交戦で落としてしまったのだろうかと、日に翳して確認する。
『貴方のこと、信じてもいいんだよね?』
途端に飛び出る直前に言われたリーゼロッテの言葉が脳裏に過ぎった。あの時のぎこちない笑顔からしてみて、彼女も怯えていたに違いない。それでもあの時ギルドハンターの前に出たのは、きっと俺を守る為だ。かなわないと分かっていてもリーゼロッテには誰かを守るために立ち向かえる勇気がある。その小さな背中に何度自分は救われているのだろう。
『怖いのは悪い事じゃない。大切なのはそれに立ち向かえるかどうかの行動だ』
大蜘蛛戦の夜、リーゼロッテに言われたことを思い出して苦笑する。ずっとあいつは真っ直ぐだった。情けない自分とは違い、眩しくて、心底あいつがかっこいいと思った。ここで追わなかったら俺は一生後悔する事になるだろう。
「……クリフ、行くぞ。お前の主人を助けに行くんだ」
三度目の正直だと奥歯をかみ締め、その場から立ち上がった。もう、逃げたくない。リーゼロッテがいなくても自分にはできると証明したかった。意志を固め、角笛を首からさげると、アレクは真っ直ぐリーゼロッテが連れ出された方向を見つめる。
「とりあえず、あいつの居場所を探さないと……」
リーゼロッテの武器をクリフの荷物に括りつけながら呟く。幸い匂いは覚えてるし、忘れたとしても角笛に残ってる僅かな匂いでなんとかなる。それにこっちにはクリフもいるしと振り返ってみれば、自分からだいぶ離れた後ろを歩くクリフが見えた。
「お前……まだ警戒してんのかよ。もう結構一緒にいんのに……そろそろ俺の事分かってきただろ? 食わねえよ。お前まずそうだし」
「ブフゥ」
「あ? お前今絶対バカにしただろ。なんだよ? 俺を避けるのは怖いからじゃなくて単に嫌っているだけなのか?」
凝視して投げかけるアレクにクリフはこくこくと首を縦に振り、低くブルブルと鳴いた。リーゼロッテの前では利口にしているくせに。やっぱり気に食わねえ馬だと顔をしかめる。
「とにかく追うぞ」
ここに来る前に忠告されたのを思い出し足底が冷える思いになったが、首を振って弱気を振り払う。鼻に意識を集中させ、こっちだと森の中を移動した。
◆
「はあ……疲れた」
匂いを辿っていく道中で既にアレクはヘトヘトだった。道が悪いし、匂いも見失って無駄な体力をすり減らしている。
「……念の為に聞くけど、お前、俺を乗せる気ないよな?」
クリフは少し後ろを歩きながら「ブフゥ」と顔を逸らした。まるでわかったようなことを聞くなとでも言いたげだ。
「んだよ……洞窟出る時は乗せてくれたくせに」
「ブルッ」
「あー……知ってるよ。お前は全部リーゼロッテの為、だもんな」
本当にいい性格してると、アレクは皮肉げに鼻で笑った。その反応が気に食わなかったのか、直後クリフに突進され、勢いよく地面に倒れる。
「こんのっ……やろう……!」
毛が逆立ち、瞳孔を開かせながら起き上がる。狼だっていうのに完全に舐められているなとこめかみに青筋を立たせた。こんな事をやっていたらそりゃあ体力も無駄に減っていくに決まっている。
「ん?」
微かに聞こえた水音に反応し、立ち上がって音の方へと急ぐ。ようやく抜けた森の先には真っ青な湖が広がっていた。キラキラと光を受けて輝くそれにアレクは顔をしかめる。
「ちっ……水か」
それで匂いが消えたのかと睨みつけるが、リーゼロッテの居場所はなんとなく把握出来た。湖の中心には不気味な石造りの古城が聳え立っている。きっと以前はどこかの伯爵の領地だったに違いない。あそこにリーゼロッテがいる。匂いは分からなくても、アレクはそう確信していた。
「入口はあそこか……」
向こう岸に行くための橋に沿って見ていくと、網目状の城門が降りてきているのがわかった。その前には何やら人影もある。普通に考えて入口から堂々と入るのは利口ではない。
「よし……お前はそこで待ってろ」
入口は使えない。ともなれば泳いであの城壁を登るしかない。全体像を見て、ルートを考える。手前の塔からなら入口の死角にもなっているし、人の目には止まらないだろう。
緊張した頬を両手で叩き、息をついて、距離を取ろうとするクリフの荷物からナイフとフック付きの縄を手に取った。リーゼロッテが急な坂や登山でよく使っている道具だ―――リンモエテ山の洞窟でもお世話になった―――ここまで来て引き返すわけには行かない。多少強引な侵入になるが、やるしかなかった。砦の扉は穴が空いているだけの窓だし、中にはいるのに苦労することはないだろう。
「……なんだよ、その目。不可能だって言いたいのか?」
一定の距離を保ったままじっと見つめるクリフに機嫌を損ねたように目を細めた。まあ、実際それは俺も思うけどと、後からアレクが自信なく小声で付け足す。
「……でもやるよ。俺だって後悔はしたくないからな。それに、あいつに信じてるって言われた。俺、ああいう風に人に言われたの、初めてなんだ」
真っ黒な目にクリフはアレクを映す。引き締まった彼の表情に笑うことはなく、ブルブルとその場で呻いた。
「リーゼロッテは俺が連れ戻す。絶対に。男同志の約束だ」
拳を突きつけるアレクに顔を引いて遠のいた。分かっていたような反応にアレクは少し寂しそうに眉を下げて、目を伏せる。
「……あ?」
緩んだ手に暖かい感触がした。顔を上げると、クリフが自分の手の平に擦りついているのが見える。これは夢かと目を見開いたが、すぐにクリフは顔を離し、一歩後退してからブルッと小さく鳴いた。
「ああ……そうか。そうだよな。一番心配なのはお前だよな」
普段のリーゼロッテとのやり取りを見ていれば分かる。こいつが一番自分の足で助けに行きたいのだと。でも、それはかなわない。託されたクリフの思いを感じ取り、体温と共に手を握りしめた。
「任せろ。お前は俺の事、頼りにしたくないと思うけど……」
顔を傾けクリフが深い鼻息をつく。だよな、と力なく微笑み「お前は見つからないように隠れていろよ」と口角を上げ、ゆっくりと湖の中に入っていった。近くになればなるほど塔の大きさを知らされる。自分に登れるかどうかは考えない。考えているうちに決意も鈍りそうだ。
しばらく泳ぎ、塔下までたどり着いてから、水中で飛び上がるように石壁にフックを引っ掛けた。低所で足元の感覚を確かめてからゆっくりと登り始める。徐々に上がっていくアレクをクリフは遠くから心配そうに眺めた。
「くっ……」
石壁の隙間にフックを突き立て、一歩一歩確実に上っていく。風がヒュウヒュウと音を立て、自分の腹下を突き抜けていった。もうかなりの高さまで来ている。下は怖くて見れなかった。
「……っう」
手のひらが痛い。これまでの人生でここまで握力を酷使する事はなかっただろう。何度か止まり、手を僅かに開閉し動かして、休ませた。
「うおっ……!」
休んで再開した矢先、ずるりと足が滑り、数十センチ程その場から下がった。咄嗟に掴む手を強くし、ふるふると震えながら元に戻る。
「あっ……ぶね……」
心臓と耳が繋がったかのように鼓動が大きくなり、浅く呼吸をした。ちらりと見えた水面の遠さに目が眩む。既に投げ出したい気分だった。ダメだと自分に鞭を打ち、目標を確認しようと見上げてみれば、目指していた窓はすぐそこにある。あと少しだと、気合いで再び登り始めた。
「つい……」
やっと解放されると思った矢先に「なあ、あの件はどうなった?」と声が聞こえ、窓から出そうとした顔を引っこめる。こんな時に最悪のタイミングだ。
「あの件?」
「だからほら……もうすぐナティクス博士が帰ってくる頃だろ?」
窓の下で体勢を保ちながらさっさと終われと心の中で叫ぶ。嫌がらせなのか、声の主たちは立ち止まっているようだ。
「最近連れてきた言葉が話せる悪魔のガキ。研究に使いたいから保留しておけって命令忘れて、菌床室にぶち込んじまったろ? あれ知ったら博士がお怒りになられる……」
言葉が話せる悪魔で、アレクは瞬時にリーゼロッテを思い浮かべた。やはり、ここにいるので間違いない。腕は限界まで来ていたが今が耐え時だと、歯を食いしばる。
「あー……あれな。でも、菌床から既に数時間経ってるんだぜ? 完全に定着する時間を考えてももう遅いだろ。どうせ、俺たちに責任はない。黙ってればバレないし、バレたらバレたらで菌床室にぶち込んだやつになすりつければいい」
「お前……よくそんな呑気なことを言えるな。あの博士だぞ? 使えないとかで連帯責任にされて、俺たちが牢獄にぶち込まれる可能性もあるんだ」
少しは危機感を持て、と呆れたように返される。それはいいから早くどこかにいけと壁にしがみつきながらアレクは苦悶の表情でただ耐えた。力を込めている指先の感覚が、もはやなくなってきている。もうダメだ。赤面で目を瞑ると砦全体に鐘のような音が響き渡った。
「やば……噂をすれば……!」
早く行くぞ! と声がし、後からパタパタと足音が遠のいていった。ようやく静まり返った廊下に窓から顔を出し、アレクは即座に塔の中に這い上がる。
「はあー……死ぬかと思った……」
窓枠から降り、ズルズルと壁を伝って尻をつく。両手は細かく痙攣し、指先を中心に熱く、赤くなっていた。スポンジに包まれているかのようなふわふわした感じが手のひらに残る。拳を作ることさえもままならない。
「本当に登ってこられたんだな……俺」
立ち上がって窓の外を見つめる。どのくらいの高さがあるのだろう。遠くにいるクリフを目に映し、俺はやったぞとばかりに拳をあげた。情けなくても、自分にだってできるじゃないか。
自信がつき、上がった口角のまま窓を背にして体を伸ばす。しばらくものを持つのは無理そうだと、フック付きの縄を脱力した肩にかけた。腕がぶらぶらと宙に揺れる。
「さて……」
ここにリーゼロッテがいるのは間違いなさそうだし、早く見つけて脱出しなければ。あいつらは確かキンショウ室? にいると言っていたはずだ。何とかして探し出さないと。周囲を見回し、五感を集中させながら、アレクは廊下を進んでいった。
◆
同時刻。古城にかかった橋を渡り、本来の入口に一つの荷馬車がたどり着いた。出迎えのマスク人間たちは、緊張感の漂う強ばった顔つきでじっとその馬車を見つめる。
降りてきた人物はボロボロの白衣に身を包んだ、初老の白髪男だった。猫背で三日月のように輪郭を描いた薄い体は骨張り、その弱々しい形と反して眼光だけは異様に鋭い。
「お帰りなさいませ。ヴィクター・ル・ナティクス博士」
ナティクスはカエルのようなぎょろついた目で全体をぐるりと見回した。何か、変わったことはあるか? と嗄れた声が一つ返される。
「はい……実は例の言葉が話せる悪魔……」
「ここひと月で悪魔が新しく十三名ほど、この研究施設に入ってきました。例の一千万は未だ消息不明だそうで……」
言葉を遮ってマスク人間の一人が前に出て説明する。この際嘘を突き通そうとしたようだ。下手なことを言うなとばかりに言い出そうとした一人の足をぐりぐりと踏み潰す。
「そうか。なかなかしつこいやつだ。まあ、変わりないのならいい。今回はちょっとした用心棒を連れてきた」
「はあ。用心棒……?」
マスク人間が首を傾げる。瞬間、荷馬車の上部分に張っていた布が異様に膨らみ、大きな影が外に出てきた。深緑の蜥蜴のような顔とゴツゴツした鱗を持つその生物は、二足歩行で見上げるほどの偉丈夫だ。身長は二メートル程だろうか。首には何やら首輪のようなものが着けられており、身体中にはおびただしい数の傷痕がついていた。
「紹介しよう。リザードマンの傭兵、リカルド君だ。彼は……」
リカルドと呼ばれた金目のリザードマンはナティクスの横に立つと、先程近況報告をしたマスク人間に向かって大口を開け、頭から食らいついた。首の筋肉を糸のように伸ばし、ぶちりと切り離す。頭を失い、残された胴体は膝をつくと、鈍い音を立てて横に倒れた。残された鼓動の速さで血液が首から漏れる。足元に広がる赤と骨を噛み砕く咀嚼音に、見ていたマスク人間達は唖然とした様子で立ちつくした。
「おやおや。つまみ食いとはいけない子だ。彼は、元は闘技場の闘士として生きていてね。この通りつまみ食いに目を瞑れば、圧倒的な戦力になると連れてきた。今後の仲間だ。仲良くしてくれ」
「よろしく」
口周りについた血を長い舌で舐め取り、リカルドは爬虫類独特の瞳孔が開いた目で出迎えたマスク人間達を見下ろした。鋭く、恍惚と、まるで獲物を見るかのような目だ。口を半開きにし、笑いながらナティクスと共に砦に入っていく。それをマスク人間達はただ動けずに見ていた。
◆
「くそ……っ! どこだ……」
大切な時に限って鼻がまるできかない。五感までもが「自分」だと痛感する。しかも、ここの古城は見た目よりもやたらと広い。誰かに聞き出す方が早いのかと、アレクは隠れながら行き交う人々を見つめる。
不気味なものだ。全員揃ってくちばしを持った覆面マスクをしている。なにかの宗教団体だろうかと、物陰を使って移動しながら思った。相手が人間ならまだ勝てる見込みはあるが、だとしてもこれだけの人数を相手にしていたら自分の体力は持たない。ここは平和的に、リーゼロッテを連れ出すのが一番だろう。
「はあ……ナティクス博士は一体何を考えておられるのだ。あんな危険な奴をここに引き込むなんて……傭兵なんて普通のギルドハンターでいいだろう。それに、最悪俺たちだっている」
ふと、人通りの少ない廊下で歩く二人組を見つけた。聞き出す作戦で行ってみるかと、先回りして待つ。俺にはできる、自分はできると、呟きながら頬を軽く三度叩いた。
「さあな。信頼されてないんだろう。博士が考えてる事はよく分からない。俺たちの処刑方法がもう一つ増えたな」
全く笑えないと、マスク人間の二人は会話を続ける。先程の光景が過ぎり、いずれ自分もああなってしまうのではないかという恐怖に目眩がしながらも個室の扉を開けた。今だと、一人が部屋に入るのを見計らい、アレクが背後から喉を抑え、もう一人を物陰に連れ出す。
「なんとしてでも一千万の件は隠さなくては……ん?」
部屋に入った一人が振り返ると、そこには誰の姿もなくなっていた。おい? と探し回るマスク人間に反応して、連れ出したもう一人が声をあげようと動く。
「静かにしろ。このまま喉を潰されたいか……!」
脅すように凄み、アレクは慣れない手つきで持ってきたナイフを首元に当てた。そうしてからマスクを剥ぎ、中の男を睨みつける。
「不気味なマスクつけやがって。おい、リーゼロッテはどこにいる!?」
小声ながらも怒りの秘めた語調だった。男は混乱し「な、なんの事だ!?」と助けを呼ぶかのように大きめの声で返す。その瞬間、喉に当たるほどの距離にナイフを突きつけると、男が閉口しながら両手をあげた。
「赤ずきんの黒髪女だよ! お前らが言う一千万の悪魔だ」
「や、奴なら菌床室に……」
「今すぐ案内しろ……!」
「……っ。わ、分かった」
喉にナイフを突きつけながらも、背中を軽く押して歩く。もし見つかってもこいつを人質にすればいいと甘い考えでいた。
人通りを避け、回り道しながらも一度湖の見えるむき出しの城壁上へと出る。
「あの階段だ。地下へ行けば牢獄へつき、君のいう悪魔がいる。だが……あまりおすすめはしない」
言われるがまま見てみれば、尖り屋根の見張り塔の手前に網状の格子に閉じられた階段が見えた。見るからに怪しいが、この状況で嘘をついているようにも見えない。
「な、なんだよ。言われたところでやめるつもりはねえぞ……」
何かあるのかと少し怯んだ様子で答える。それに対し「冷静になれと言ってるんだ」と小声で男が返した。
「……悪魔を救って何になる? 悪魔狩りは国が認める一大政策だ。君のしていることは国家反逆罪に等しいんだぞ。それに、地下にいったところで君に救える命はもうない。悪魔たちは全員、キノコの苗床だ。ここはそういう施設なんだよ」
「キノコの苗床……だと?」
切迫した声が詰まる。男の胸ぐらを掴み「どういうことだ?」と入口前でアレクが迫る。
「言った通りさ! ここはストナタンB1……所謂、飲む傷薬の製造工場だ。各地から悪魔を集め、薬の原料であるキノコの栽培をしている! そのキノコは動物に寄生するからな……以前は野生の動物を使っていたが、それよりももっと適した命があった。それが……」
「悪魔、なのか」
それを聞いて男は「そうだよ」と嘲笑い返す。
「悪魔みたいな生きてるだけで罪深い命は都合が良かった。その方が世界のためにもなると、ナティクス博士が国に提案した政策だ。実際、回復効果も悪魔が苗床になってから格段と上がったしな……君も一度くらいは飲んだことがあるだろ?」
返す声を失って口を開いたまま唖然とした。震えた口角を何度か上げ下げして「ふざけるな!」と怒鳴る。
「お前ら……自分たちが何をやってるのか分かっているのか!?!? 人の命をなんだと思っている!!」
怒鳴りつけるアレクに「人なんかどこにいるんだよ」と男が返す。
「君もこの世界に生きてるなら常識というものを知っているだろ? この世界は異世界からやってきた人間が滅ぼすと予言を受けている。俺たちはその異世界人を悪魔と呼んだ。あいつらはこの世に存在してはいけない。ただそれだけの理由だ」
「それだけの理由だと……! そんな本当かも分からない予言を信じてこんなことをしているのか!?」
腹立たしくなり、掴んでいた胸ぐらを投げ捨てるように男を突き飛ばした。君は悪魔に魂を売ったんだな、と男が余裕のある笑みを浮かべる。
「哀れなものだ。いずれ知ることになるよ。あいつらの恐ろしさを」
入口の境目に倒れた男の背後に何かが立った。次の瞬間、キラリと輝くそれに縁取られた大口が男の頭を完全に飲み込んだ。ぐしゃぐしゃと不快な咀嚼音を立てながら食いちぎられていく。
「ふぃー……やっぱり人間は頭から食べるに限るな」
腹底から轟く低い声だった。声を失い、その場で立ち尽くすアレクの前に、深緑の体を折り曲げたそいつが背中を伸ばして現れる。
「美味そうな獣の匂いがして来てみれば……ただの人間じゃねえか」
せっかく期待していたのによ、と長い舌をひょろひょろと宙で泳がせる。鱗の体に、爬虫類の目。首元にきらりと光る首輪。実際目にするのは初めてだったが、すぐにリザードマンであることをアレクは理解した。
「なあ、博士。こいつも食っていいか?」
「許可を取らなくても食べているじゃないか。彼は部外者だ。思う存分に食べるがいい」
その言葉に、リザードマンの背後にいたガリガリの白髪男を目に映す。博士……そういえばここに来るまでに何度か耳にしてきた言葉だ。リーゼロッテを研究に使うと。となると彼が寄生キノコの栽培に成功した第一人者なのだろう。
情報を整理している間に「それじゃあ遠慮なく」とリカルドがアレクに飛びかかった。はっとし、素早く避けると、距離を取るように後退する。
「お! お前。人間にしてはなかなか出来そうだな」
こちらでも楽しめそうだと、リカルドが舌なめずりをする。本当に冗談じゃない。人間相手ならまだしも、リザードマンなんて到底かなうはずがなかった。戦う前から本能で力の差を察し、体が動かなくなる。
「ここ最近は戦闘に飢えていたんだ。楽しませてくれよ」
ゾクリ、背筋に悪寒が走る。そう言って奴は背負っていた巨大な斧を手に持った。力だけでもかなわないのに武器持ちだなんて最悪だ。青ざめている間にも、リカルドは斧を大振りで振りかざしてくる。強ばる体を必死に動かし、アレクはよろめきながら避けた。
「動きのキレが悪いなあ、兄ちゃんよ」
それじゃあ首が吹っ飛ぶぜ、とリカルドが煽るように振り下ろした。地面に突き刺さった箇所はヒビが割れ、柄をしっかりと握ったまま巨体を持ち上げて転回する。
「なっ……!」
空中で向きを変え、こちらを踏み潰さんばかりの勢いで地面に着いた。横に避けた瞬間、奴の長いしっぽが足に巻き付き、引きずられるようにして床に転がる。仰向けになり、風を切る音にハッとしすかさず寝返りを打つと、そのすぐ横を斧が突き刺さった。
わざとらしく斧を引きずり、いざ振りかぶる時になって地面から刃を離す。一方的な攻撃だが、軌道はどれも大ぶりで、まるで遊ばれているかのようだ。飛び跳ねるように距離を詰められ、アレクは逃げることしか出来ない。
「ほら……そんなものか、よ!!」
斧を回し、リカルドは避ける方向を先読みして、アレクの腹を蹴りつけた。人間よりも太い足の衝撃は脳天まで響き、一瞬だけ息が止まる感覚になる。数メートルほど吹き飛ばされ、後頭部を強くうち、悶えるアレクを立て続けに蹴り飛ばした。もはや一方的だ。
「がっ……は……」
目の前が霞む。呼吸が大きく聞こえる。痛む体を無理やり動かし、アレクはうつ伏せになって床を這うように進んだ。まだ逃げるなよ、とその足を踏み潰し、リカルドが覆い被さるようにして頭を押える。
「んだよ。つまんねえな。さっきのはまぐれか?」
そろそろ飽きてきたと、アレクの顔のすぐ横に斧を突き刺した。長く前に伸びた口端からボトボトと唾液の雨が降ってくる。終わったな、そう言い残し、眺めていたナティクスが背中を向けて古城の中に戻っていった。
「じゃあ、いただくぜ」
背後で口を開けられる感覚。その生臭い匂いに、アレクは二度目の自分の死を悟った。ここまで来て情けない。結局自分はずっと弱いままだ。少しでも、自分にできると証明したかったのに。こんなところで―――
『リーゼロッテは俺が連れ戻す。絶対に。男同志の約束だ』
かつて自分の口から出た意志。それに対して任せてくれたクリフの姿を思い浮かべた。あいつは扱いが雑だけど、きっと本当に自分を見捨てるようなやつじゃない。例えもう戻ることがなくても、いつまでも離れずにあの湖の向こうで待っているはずだ。リーゼロッテの馬ならそうするに決まっている。
「……そんな寂しい思い、誰がさせるものか……!」
リカルドの手が震えだし、徐々に持ち上がっていく。腕で自身の状態を浮かせ、アレクは地面を睨みつけながら力んだ。
「逃げるな俺! 逃げるな! 立ち向かえ!」
「はあ……? 何だ急に」
自分を鼓舞するその声にリカルドは顔を顰めた。
「諦めが悪いな兄ちゃん。そんなボロボロになってまで何がしたいんだ」
呆れたその声に「うるせえ!!」とアレクが怒鳴りつけるように言い放った。ピリピリと空気が震える。
「俺には諦められない理由があるんだよ……!自分より大きな相手だろうと、自分の体張って他人を守ろうとするあいつを……! 俺を救ってくれたあいつを! 今度は俺が助ける為に……!」
歯を食いしばる。筋肉が強ばり血管が浮き出る。それを見てリカルドの表情が変わった。
「約束したんだ! そばにいるって……強くなるって……なのに俺は何度も自分に言い訳して裏切った! 嘘をついて……逃げて……それでも、あいつは信じようとしてくれた……! だから今度はもう自分から逃げたくない! 俺はこんなところで死ねないんだ!!」
背中がザワつく。電流のような刺激が脳から身体中を駆け回り、地面に着いていた手の下にヒビが入った。膨れ上がるそれと共に上半身を起こしてみれば、背中にいたリカルドはいとも容易く地面に落ちる。
「な、んだ!? 狼……?」
青い外套を身につけた黒狼にリカルドは尻をついたまま目を見開く。黒い毛並みは逆立ち、青い双眸が光を帯びてこちらを捉えると、鋭い爪のついた前足を振り上げてきた。巨大な体はそれを受け吹き飛ばされるが、何とか体勢を整える。
「こいつは驚いた……」
確かに獣の匂いがしていたのは気になっていたが、まさか狼に変身する人間だったなんて。爪で抉られた体から溢れる血を留めようと押え、痛みに顔を歪める。向き合う間もなく、アレクがその巨体から考えられない速さでリカルドの体に突進した。
尻尾を足に絡ませて先程のように足止めを図るが巨体故に全く動かない。アレクは前足で細かく方向を変えながら尻尾を踏みつけ、後ろ足でリカルドを蹴りつけた。
ブチリ、としっぽが切り離され、更に遠くへ飛ばされる。後ろ足が抉られた傷を更に深いものにし、地面はヌルヌルした血に彩られた。
転がるリカルドにアレクは容赦なく飛びかかり、リカルドの上半身に噛みつく。
「がっ……あ」
低く短い悲鳴がした。ギリギリと力を入れてみれば歯がリカルドの上半身に突き刺さり、そこから大量の体液が溢れ出す。湯水のように心地よく、甘い味だ。血の味を認識し、アレクの瞳孔が開く。
『美味い』
本能という名のもう一人の自分が脳内に快楽を訴え掛けた。ツンとした生臭ささえ、ご馳走を前にした時のような興奮を覚える。血管という血管に流れる血が沸騰したように熱くなり、このまま肉に包まれた温かな臓腑を噛みちぎって何もかもぐちゃぐちゃにしたい気持ちになった。リカルドの体を地面に押えつけ、息を荒くしながら、アレクは噛みちぎろうと力を込める。
『アレク』
聞き慣れた声があの時の光景を呼び覚ます。ノイズがかった暗闇の中に映る二人の遺体。食いちぎられ、赤黒い器官が飛び散る凄惨な光景。いやだ! 弾けた声に瞳孔が元に戻り、アレクは怯えたように口を離して後退した。
「はあっ、違う……俺は……」
力なく倒れているリカルドを前に狼狽え、縮こまる。またあの時のように正気を失うところだった。
俯き、荒くなった息を落ち着かせる。大丈夫。俺は化け物なんかじゃない。自分に言い聞かせ、首をブンブンと振る。こんなことをしている場合じゃないと、地下の階段の方へ歩いた。
「おい……待てよ。食わねえのか」
背後から弱々しい低音が聞こえてきた。その場で止まり、少し顔を振り返らせる。
「……俺は、グルメなんだ。お前のは臭くて食いたくない」
「よく言うぜ……明らかに怯えていたくせによ。本能に身を任せるのが怖いのか、半端もん」
力なく笑ってみせるそいつに「黙れ」と睨みつけた。喉に風穴でも空いたかのような苦しい呼吸音が後ろからする。
「ははっ……んだよ……負けて放置とは酷いことするぜ……オレは闘技場の闘士だぞ? 戦って……殺して……人間を喜ばせる。ただそれだけの人生だった。最後くらい……戦いから解放してくれたっていいじゃねえか」
天を仰いだまま、リカルドは目を細めた。生まれた時に攫われ、両親と生き別れになり、それ以来ずっと観客に囲まれた闘技場で戦ってきた。自分が殺されないために。それなのに、ようやく解放されたと思ったらこのザマだ。つくづく、つまらない人生だったと鼻で笑う。
「分かった」
ふと、これまでを振り返るリカルドに大きな影がかぶさった。青い双眸はじっとこちらを見つめ、首に噛みついてくる。解放してくれるのかと、リカルドはされるがまま咥えられ、身を委ねるように目をつぶった。
ガシャン
噛み砕かれたものが地面に落ちた。リカルドが再び目を開けると、そこには闘技場にやってきた時からつけられていた首輪がある。ほら、解放してやった、とアレクがリカルドを見下ろした。
「な、ぜ……」
「別に。拘束される窮屈さを俺も知っているからな。ただの気まぐれだよ。それに……俺の助けたい人ならそうするって思ったから。それだけ」
じゃあな、とアレクは背中を向け、地下の入口に向かう。倒れたままのリカルドはその姿を目に映し、涙をボロボロと流しながら胸が温かくなるのを感じた。
「は、ははっ……負け犬だってさ」
本当にその通りだ。何故止めに行けなかったのだろう。あの大蜘蛛の時だってと唇を噛み締める。自分がかなわない相手だと知ると、いつもこうして隠れて逃げて―――自分は卑怯者だ。二度もあいつを見捨ててしまった。情けないと同時にリーゼロッテに合わせる顔がない。
落ちていた剣鉈や弓を手に取り、アレクは脱力感の見える落胆した肩で立ち尽くす。その様子に、すかさずクリフが青い外套をくわえて引っ張った。
「なんだよ……お前があの時、引き止めたせいで……いや、違うよな」
違う、とアレクはその場でしゃがみ、顔を膝に埋めた。
「……もう、分かったろ。あいつの言うように俺はヘタレの根性無しだ。調子のいい言葉ばかり並べて、いざという時に言い訳して逃げてばかり……親父と一緒で俺は、嘘つきなんだ! 最低なヤツだ……!」
こんな自分が心底嫌になる。彼女は命懸けで自分を救ってくれたのに―――なぜ自分はと呪い、膝を抱えた手を強くさせる。もういっその事、このまま消えてしまいたかった。
どんよりと重々しい空気を漂わせるアレクに、流石のクリフも呆れてしまったのだろう。じっと眺め、前足を少し浮かせると、アレクの背中に向かって強く突き出した。それはもう強く、手加減のない様子で。
「おっ、わ!?」
ドンッ、と勢いよく地面に倒れ、顔を擦った。アレクはぶつけた顔を抑えながら「何しやがるこのクソ馬ぁ!」と喧嘩腰に起き上がる。それに対しクリフは顔を逸らして何事もなかったかのようにブルリと鳴いてみせた。
「あ……? これって……」
ふと、視界の隅に見覚えのあるものが映り、拾い上げた。ツヤツヤに磨かれた、角笛のネックレス―――確か父親からの贈り物だと言ってリーゼロッテが普段から肌身離さず身につけているものだ。先程の交戦で落としてしまったのだろうかと、日に翳して確認する。
『貴方のこと、信じてもいいんだよね?』
途端に飛び出る直前に言われたリーゼロッテの言葉が脳裏に過ぎった。あの時のぎこちない笑顔からしてみて、彼女も怯えていたに違いない。それでもあの時ギルドハンターの前に出たのは、きっと俺を守る為だ。かなわないと分かっていてもリーゼロッテには誰かを守るために立ち向かえる勇気がある。その小さな背中に何度自分は救われているのだろう。
『怖いのは悪い事じゃない。大切なのはそれに立ち向かえるかどうかの行動だ』
大蜘蛛戦の夜、リーゼロッテに言われたことを思い出して苦笑する。ずっとあいつは真っ直ぐだった。情けない自分とは違い、眩しくて、心底あいつがかっこいいと思った。ここで追わなかったら俺は一生後悔する事になるだろう。
「……クリフ、行くぞ。お前の主人を助けに行くんだ」
三度目の正直だと奥歯をかみ締め、その場から立ち上がった。もう、逃げたくない。リーゼロッテがいなくても自分にはできると証明したかった。意志を固め、角笛を首からさげると、アレクは真っ直ぐリーゼロッテが連れ出された方向を見つめる。
「とりあえず、あいつの居場所を探さないと……」
リーゼロッテの武器をクリフの荷物に括りつけながら呟く。幸い匂いは覚えてるし、忘れたとしても角笛に残ってる僅かな匂いでなんとかなる。それにこっちにはクリフもいるしと振り返ってみれば、自分からだいぶ離れた後ろを歩くクリフが見えた。
「お前……まだ警戒してんのかよ。もう結構一緒にいんのに……そろそろ俺の事分かってきただろ? 食わねえよ。お前まずそうだし」
「ブフゥ」
「あ? お前今絶対バカにしただろ。なんだよ? 俺を避けるのは怖いからじゃなくて単に嫌っているだけなのか?」
凝視して投げかけるアレクにクリフはこくこくと首を縦に振り、低くブルブルと鳴いた。リーゼロッテの前では利口にしているくせに。やっぱり気に食わねえ馬だと顔をしかめる。
「とにかく追うぞ」
ここに来る前に忠告されたのを思い出し足底が冷える思いになったが、首を振って弱気を振り払う。鼻に意識を集中させ、こっちだと森の中を移動した。
◆
「はあ……疲れた」
匂いを辿っていく道中で既にアレクはヘトヘトだった。道が悪いし、匂いも見失って無駄な体力をすり減らしている。
「……念の為に聞くけど、お前、俺を乗せる気ないよな?」
クリフは少し後ろを歩きながら「ブフゥ」と顔を逸らした。まるでわかったようなことを聞くなとでも言いたげだ。
「んだよ……洞窟出る時は乗せてくれたくせに」
「ブルッ」
「あー……知ってるよ。お前は全部リーゼロッテの為、だもんな」
本当にいい性格してると、アレクは皮肉げに鼻で笑った。その反応が気に食わなかったのか、直後クリフに突進され、勢いよく地面に倒れる。
「こんのっ……やろう……!」
毛が逆立ち、瞳孔を開かせながら起き上がる。狼だっていうのに完全に舐められているなとこめかみに青筋を立たせた。こんな事をやっていたらそりゃあ体力も無駄に減っていくに決まっている。
「ん?」
微かに聞こえた水音に反応し、立ち上がって音の方へと急ぐ。ようやく抜けた森の先には真っ青な湖が広がっていた。キラキラと光を受けて輝くそれにアレクは顔をしかめる。
「ちっ……水か」
それで匂いが消えたのかと睨みつけるが、リーゼロッテの居場所はなんとなく把握出来た。湖の中心には不気味な石造りの古城が聳え立っている。きっと以前はどこかの伯爵の領地だったに違いない。あそこにリーゼロッテがいる。匂いは分からなくても、アレクはそう確信していた。
「入口はあそこか……」
向こう岸に行くための橋に沿って見ていくと、網目状の城門が降りてきているのがわかった。その前には何やら人影もある。普通に考えて入口から堂々と入るのは利口ではない。
「よし……お前はそこで待ってろ」
入口は使えない。ともなれば泳いであの城壁を登るしかない。全体像を見て、ルートを考える。手前の塔からなら入口の死角にもなっているし、人の目には止まらないだろう。
緊張した頬を両手で叩き、息をついて、距離を取ろうとするクリフの荷物からナイフとフック付きの縄を手に取った。リーゼロッテが急な坂や登山でよく使っている道具だ―――リンモエテ山の洞窟でもお世話になった―――ここまで来て引き返すわけには行かない。多少強引な侵入になるが、やるしかなかった。砦の扉は穴が空いているだけの窓だし、中にはいるのに苦労することはないだろう。
「……なんだよ、その目。不可能だって言いたいのか?」
一定の距離を保ったままじっと見つめるクリフに機嫌を損ねたように目を細めた。まあ、実際それは俺も思うけどと、後からアレクが自信なく小声で付け足す。
「……でもやるよ。俺だって後悔はしたくないからな。それに、あいつに信じてるって言われた。俺、ああいう風に人に言われたの、初めてなんだ」
真っ黒な目にクリフはアレクを映す。引き締まった彼の表情に笑うことはなく、ブルブルとその場で呻いた。
「リーゼロッテは俺が連れ戻す。絶対に。男同志の約束だ」
拳を突きつけるアレクに顔を引いて遠のいた。分かっていたような反応にアレクは少し寂しそうに眉を下げて、目を伏せる。
「……あ?」
緩んだ手に暖かい感触がした。顔を上げると、クリフが自分の手の平に擦りついているのが見える。これは夢かと目を見開いたが、すぐにクリフは顔を離し、一歩後退してからブルッと小さく鳴いた。
「ああ……そうか。そうだよな。一番心配なのはお前だよな」
普段のリーゼロッテとのやり取りを見ていれば分かる。こいつが一番自分の足で助けに行きたいのだと。でも、それはかなわない。託されたクリフの思いを感じ取り、体温と共に手を握りしめた。
「任せろ。お前は俺の事、頼りにしたくないと思うけど……」
顔を傾けクリフが深い鼻息をつく。だよな、と力なく微笑み「お前は見つからないように隠れていろよ」と口角を上げ、ゆっくりと湖の中に入っていった。近くになればなるほど塔の大きさを知らされる。自分に登れるかどうかは考えない。考えているうちに決意も鈍りそうだ。
しばらく泳ぎ、塔下までたどり着いてから、水中で飛び上がるように石壁にフックを引っ掛けた。低所で足元の感覚を確かめてからゆっくりと登り始める。徐々に上がっていくアレクをクリフは遠くから心配そうに眺めた。
「くっ……」
石壁の隙間にフックを突き立て、一歩一歩確実に上っていく。風がヒュウヒュウと音を立て、自分の腹下を突き抜けていった。もうかなりの高さまで来ている。下は怖くて見れなかった。
「……っう」
手のひらが痛い。これまでの人生でここまで握力を酷使する事はなかっただろう。何度か止まり、手を僅かに開閉し動かして、休ませた。
「うおっ……!」
休んで再開した矢先、ずるりと足が滑り、数十センチ程その場から下がった。咄嗟に掴む手を強くし、ふるふると震えながら元に戻る。
「あっ……ぶね……」
心臓と耳が繋がったかのように鼓動が大きくなり、浅く呼吸をした。ちらりと見えた水面の遠さに目が眩む。既に投げ出したい気分だった。ダメだと自分に鞭を打ち、目標を確認しようと見上げてみれば、目指していた窓はすぐそこにある。あと少しだと、気合いで再び登り始めた。
「つい……」
やっと解放されると思った矢先に「なあ、あの件はどうなった?」と声が聞こえ、窓から出そうとした顔を引っこめる。こんな時に最悪のタイミングだ。
「あの件?」
「だからほら……もうすぐナティクス博士が帰ってくる頃だろ?」
窓の下で体勢を保ちながらさっさと終われと心の中で叫ぶ。嫌がらせなのか、声の主たちは立ち止まっているようだ。
「最近連れてきた言葉が話せる悪魔のガキ。研究に使いたいから保留しておけって命令忘れて、菌床室にぶち込んじまったろ? あれ知ったら博士がお怒りになられる……」
言葉が話せる悪魔で、アレクは瞬時にリーゼロッテを思い浮かべた。やはり、ここにいるので間違いない。腕は限界まで来ていたが今が耐え時だと、歯を食いしばる。
「あー……あれな。でも、菌床から既に数時間経ってるんだぜ? 完全に定着する時間を考えてももう遅いだろ。どうせ、俺たちに責任はない。黙ってればバレないし、バレたらバレたらで菌床室にぶち込んだやつになすりつければいい」
「お前……よくそんな呑気なことを言えるな。あの博士だぞ? 使えないとかで連帯責任にされて、俺たちが牢獄にぶち込まれる可能性もあるんだ」
少しは危機感を持て、と呆れたように返される。それはいいから早くどこかにいけと壁にしがみつきながらアレクは苦悶の表情でただ耐えた。力を込めている指先の感覚が、もはやなくなってきている。もうダメだ。赤面で目を瞑ると砦全体に鐘のような音が響き渡った。
「やば……噂をすれば……!」
早く行くぞ! と声がし、後からパタパタと足音が遠のいていった。ようやく静まり返った廊下に窓から顔を出し、アレクは即座に塔の中に這い上がる。
「はあー……死ぬかと思った……」
窓枠から降り、ズルズルと壁を伝って尻をつく。両手は細かく痙攣し、指先を中心に熱く、赤くなっていた。スポンジに包まれているかのようなふわふわした感じが手のひらに残る。拳を作ることさえもままならない。
「本当に登ってこられたんだな……俺」
立ち上がって窓の外を見つめる。どのくらいの高さがあるのだろう。遠くにいるクリフを目に映し、俺はやったぞとばかりに拳をあげた。情けなくても、自分にだってできるじゃないか。
自信がつき、上がった口角のまま窓を背にして体を伸ばす。しばらくものを持つのは無理そうだと、フック付きの縄を脱力した肩にかけた。腕がぶらぶらと宙に揺れる。
「さて……」
ここにリーゼロッテがいるのは間違いなさそうだし、早く見つけて脱出しなければ。あいつらは確かキンショウ室? にいると言っていたはずだ。何とかして探し出さないと。周囲を見回し、五感を集中させながら、アレクは廊下を進んでいった。
◆
同時刻。古城にかかった橋を渡り、本来の入口に一つの荷馬車がたどり着いた。出迎えのマスク人間たちは、緊張感の漂う強ばった顔つきでじっとその馬車を見つめる。
降りてきた人物はボロボロの白衣に身を包んだ、初老の白髪男だった。猫背で三日月のように輪郭を描いた薄い体は骨張り、その弱々しい形と反して眼光だけは異様に鋭い。
「お帰りなさいませ。ヴィクター・ル・ナティクス博士」
ナティクスはカエルのようなぎょろついた目で全体をぐるりと見回した。何か、変わったことはあるか? と嗄れた声が一つ返される。
「はい……実は例の言葉が話せる悪魔……」
「ここひと月で悪魔が新しく十三名ほど、この研究施設に入ってきました。例の一千万は未だ消息不明だそうで……」
言葉を遮ってマスク人間の一人が前に出て説明する。この際嘘を突き通そうとしたようだ。下手なことを言うなとばかりに言い出そうとした一人の足をぐりぐりと踏み潰す。
「そうか。なかなかしつこいやつだ。まあ、変わりないのならいい。今回はちょっとした用心棒を連れてきた」
「はあ。用心棒……?」
マスク人間が首を傾げる。瞬間、荷馬車の上部分に張っていた布が異様に膨らみ、大きな影が外に出てきた。深緑の蜥蜴のような顔とゴツゴツした鱗を持つその生物は、二足歩行で見上げるほどの偉丈夫だ。身長は二メートル程だろうか。首には何やら首輪のようなものが着けられており、身体中にはおびただしい数の傷痕がついていた。
「紹介しよう。リザードマンの傭兵、リカルド君だ。彼は……」
リカルドと呼ばれた金目のリザードマンはナティクスの横に立つと、先程近況報告をしたマスク人間に向かって大口を開け、頭から食らいついた。首の筋肉を糸のように伸ばし、ぶちりと切り離す。頭を失い、残された胴体は膝をつくと、鈍い音を立てて横に倒れた。残された鼓動の速さで血液が首から漏れる。足元に広がる赤と骨を噛み砕く咀嚼音に、見ていたマスク人間達は唖然とした様子で立ちつくした。
「おやおや。つまみ食いとはいけない子だ。彼は、元は闘技場の闘士として生きていてね。この通りつまみ食いに目を瞑れば、圧倒的な戦力になると連れてきた。今後の仲間だ。仲良くしてくれ」
「よろしく」
口周りについた血を長い舌で舐め取り、リカルドは爬虫類独特の瞳孔が開いた目で出迎えたマスク人間達を見下ろした。鋭く、恍惚と、まるで獲物を見るかのような目だ。口を半開きにし、笑いながらナティクスと共に砦に入っていく。それをマスク人間達はただ動けずに見ていた。
◆
「くそ……っ! どこだ……」
大切な時に限って鼻がまるできかない。五感までもが「自分」だと痛感する。しかも、ここの古城は見た目よりもやたらと広い。誰かに聞き出す方が早いのかと、アレクは隠れながら行き交う人々を見つめる。
不気味なものだ。全員揃ってくちばしを持った覆面マスクをしている。なにかの宗教団体だろうかと、物陰を使って移動しながら思った。相手が人間ならまだ勝てる見込みはあるが、だとしてもこれだけの人数を相手にしていたら自分の体力は持たない。ここは平和的に、リーゼロッテを連れ出すのが一番だろう。
「はあ……ナティクス博士は一体何を考えておられるのだ。あんな危険な奴をここに引き込むなんて……傭兵なんて普通のギルドハンターでいいだろう。それに、最悪俺たちだっている」
ふと、人通りの少ない廊下で歩く二人組を見つけた。聞き出す作戦で行ってみるかと、先回りして待つ。俺にはできる、自分はできると、呟きながら頬を軽く三度叩いた。
「さあな。信頼されてないんだろう。博士が考えてる事はよく分からない。俺たちの処刑方法がもう一つ増えたな」
全く笑えないと、マスク人間の二人は会話を続ける。先程の光景が過ぎり、いずれ自分もああなってしまうのではないかという恐怖に目眩がしながらも個室の扉を開けた。今だと、一人が部屋に入るのを見計らい、アレクが背後から喉を抑え、もう一人を物陰に連れ出す。
「なんとしてでも一千万の件は隠さなくては……ん?」
部屋に入った一人が振り返ると、そこには誰の姿もなくなっていた。おい? と探し回るマスク人間に反応して、連れ出したもう一人が声をあげようと動く。
「静かにしろ。このまま喉を潰されたいか……!」
脅すように凄み、アレクは慣れない手つきで持ってきたナイフを首元に当てた。そうしてからマスクを剥ぎ、中の男を睨みつける。
「不気味なマスクつけやがって。おい、リーゼロッテはどこにいる!?」
小声ながらも怒りの秘めた語調だった。男は混乱し「な、なんの事だ!?」と助けを呼ぶかのように大きめの声で返す。その瞬間、喉に当たるほどの距離にナイフを突きつけると、男が閉口しながら両手をあげた。
「赤ずきんの黒髪女だよ! お前らが言う一千万の悪魔だ」
「や、奴なら菌床室に……」
「今すぐ案内しろ……!」
「……っ。わ、分かった」
喉にナイフを突きつけながらも、背中を軽く押して歩く。もし見つかってもこいつを人質にすればいいと甘い考えでいた。
人通りを避け、回り道しながらも一度湖の見えるむき出しの城壁上へと出る。
「あの階段だ。地下へ行けば牢獄へつき、君のいう悪魔がいる。だが……あまりおすすめはしない」
言われるがまま見てみれば、尖り屋根の見張り塔の手前に網状の格子に閉じられた階段が見えた。見るからに怪しいが、この状況で嘘をついているようにも見えない。
「な、なんだよ。言われたところでやめるつもりはねえぞ……」
何かあるのかと少し怯んだ様子で答える。それに対し「冷静になれと言ってるんだ」と小声で男が返した。
「……悪魔を救って何になる? 悪魔狩りは国が認める一大政策だ。君のしていることは国家反逆罪に等しいんだぞ。それに、地下にいったところで君に救える命はもうない。悪魔たちは全員、キノコの苗床だ。ここはそういう施設なんだよ」
「キノコの苗床……だと?」
切迫した声が詰まる。男の胸ぐらを掴み「どういうことだ?」と入口前でアレクが迫る。
「言った通りさ! ここはストナタンB1……所謂、飲む傷薬の製造工場だ。各地から悪魔を集め、薬の原料であるキノコの栽培をしている! そのキノコは動物に寄生するからな……以前は野生の動物を使っていたが、それよりももっと適した命があった。それが……」
「悪魔、なのか」
それを聞いて男は「そうだよ」と嘲笑い返す。
「悪魔みたいな生きてるだけで罪深い命は都合が良かった。その方が世界のためにもなると、ナティクス博士が国に提案した政策だ。実際、回復効果も悪魔が苗床になってから格段と上がったしな……君も一度くらいは飲んだことがあるだろ?」
返す声を失って口を開いたまま唖然とした。震えた口角を何度か上げ下げして「ふざけるな!」と怒鳴る。
「お前ら……自分たちが何をやってるのか分かっているのか!?!? 人の命をなんだと思っている!!」
怒鳴りつけるアレクに「人なんかどこにいるんだよ」と男が返す。
「君もこの世界に生きてるなら常識というものを知っているだろ? この世界は異世界からやってきた人間が滅ぼすと予言を受けている。俺たちはその異世界人を悪魔と呼んだ。あいつらはこの世に存在してはいけない。ただそれだけの理由だ」
「それだけの理由だと……! そんな本当かも分からない予言を信じてこんなことをしているのか!?」
腹立たしくなり、掴んでいた胸ぐらを投げ捨てるように男を突き飛ばした。君は悪魔に魂を売ったんだな、と男が余裕のある笑みを浮かべる。
「哀れなものだ。いずれ知ることになるよ。あいつらの恐ろしさを」
入口の境目に倒れた男の背後に何かが立った。次の瞬間、キラリと輝くそれに縁取られた大口が男の頭を完全に飲み込んだ。ぐしゃぐしゃと不快な咀嚼音を立てながら食いちぎられていく。
「ふぃー……やっぱり人間は頭から食べるに限るな」
腹底から轟く低い声だった。声を失い、その場で立ち尽くすアレクの前に、深緑の体を折り曲げたそいつが背中を伸ばして現れる。
「美味そうな獣の匂いがして来てみれば……ただの人間じゃねえか」
せっかく期待していたのによ、と長い舌をひょろひょろと宙で泳がせる。鱗の体に、爬虫類の目。首元にきらりと光る首輪。実際目にするのは初めてだったが、すぐにリザードマンであることをアレクは理解した。
「なあ、博士。こいつも食っていいか?」
「許可を取らなくても食べているじゃないか。彼は部外者だ。思う存分に食べるがいい」
その言葉に、リザードマンの背後にいたガリガリの白髪男を目に映す。博士……そういえばここに来るまでに何度か耳にしてきた言葉だ。リーゼロッテを研究に使うと。となると彼が寄生キノコの栽培に成功した第一人者なのだろう。
情報を整理している間に「それじゃあ遠慮なく」とリカルドがアレクに飛びかかった。はっとし、素早く避けると、距離を取るように後退する。
「お! お前。人間にしてはなかなか出来そうだな」
こちらでも楽しめそうだと、リカルドが舌なめずりをする。本当に冗談じゃない。人間相手ならまだしも、リザードマンなんて到底かなうはずがなかった。戦う前から本能で力の差を察し、体が動かなくなる。
「ここ最近は戦闘に飢えていたんだ。楽しませてくれよ」
ゾクリ、背筋に悪寒が走る。そう言って奴は背負っていた巨大な斧を手に持った。力だけでもかなわないのに武器持ちだなんて最悪だ。青ざめている間にも、リカルドは斧を大振りで振りかざしてくる。強ばる体を必死に動かし、アレクはよろめきながら避けた。
「動きのキレが悪いなあ、兄ちゃんよ」
それじゃあ首が吹っ飛ぶぜ、とリカルドが煽るように振り下ろした。地面に突き刺さった箇所はヒビが割れ、柄をしっかりと握ったまま巨体を持ち上げて転回する。
「なっ……!」
空中で向きを変え、こちらを踏み潰さんばかりの勢いで地面に着いた。横に避けた瞬間、奴の長いしっぽが足に巻き付き、引きずられるようにして床に転がる。仰向けになり、風を切る音にハッとしすかさず寝返りを打つと、そのすぐ横を斧が突き刺さった。
わざとらしく斧を引きずり、いざ振りかぶる時になって地面から刃を離す。一方的な攻撃だが、軌道はどれも大ぶりで、まるで遊ばれているかのようだ。飛び跳ねるように距離を詰められ、アレクは逃げることしか出来ない。
「ほら……そんなものか、よ!!」
斧を回し、リカルドは避ける方向を先読みして、アレクの腹を蹴りつけた。人間よりも太い足の衝撃は脳天まで響き、一瞬だけ息が止まる感覚になる。数メートルほど吹き飛ばされ、後頭部を強くうち、悶えるアレクを立て続けに蹴り飛ばした。もはや一方的だ。
「がっ……は……」
目の前が霞む。呼吸が大きく聞こえる。痛む体を無理やり動かし、アレクはうつ伏せになって床を這うように進んだ。まだ逃げるなよ、とその足を踏み潰し、リカルドが覆い被さるようにして頭を押える。
「んだよ。つまんねえな。さっきのはまぐれか?」
そろそろ飽きてきたと、アレクの顔のすぐ横に斧を突き刺した。長く前に伸びた口端からボトボトと唾液の雨が降ってくる。終わったな、そう言い残し、眺めていたナティクスが背中を向けて古城の中に戻っていった。
「じゃあ、いただくぜ」
背後で口を開けられる感覚。その生臭い匂いに、アレクは二度目の自分の死を悟った。ここまで来て情けない。結局自分はずっと弱いままだ。少しでも、自分にできると証明したかったのに。こんなところで―――
『リーゼロッテは俺が連れ戻す。絶対に。男同志の約束だ』
かつて自分の口から出た意志。それに対して任せてくれたクリフの姿を思い浮かべた。あいつは扱いが雑だけど、きっと本当に自分を見捨てるようなやつじゃない。例えもう戻ることがなくても、いつまでも離れずにあの湖の向こうで待っているはずだ。リーゼロッテの馬ならそうするに決まっている。
「……そんな寂しい思い、誰がさせるものか……!」
リカルドの手が震えだし、徐々に持ち上がっていく。腕で自身の状態を浮かせ、アレクは地面を睨みつけながら力んだ。
「逃げるな俺! 逃げるな! 立ち向かえ!」
「はあ……? 何だ急に」
自分を鼓舞するその声にリカルドは顔を顰めた。
「諦めが悪いな兄ちゃん。そんなボロボロになってまで何がしたいんだ」
呆れたその声に「うるせえ!!」とアレクが怒鳴りつけるように言い放った。ピリピリと空気が震える。
「俺には諦められない理由があるんだよ……!自分より大きな相手だろうと、自分の体張って他人を守ろうとするあいつを……! 俺を救ってくれたあいつを! 今度は俺が助ける為に……!」
歯を食いしばる。筋肉が強ばり血管が浮き出る。それを見てリカルドの表情が変わった。
「約束したんだ! そばにいるって……強くなるって……なのに俺は何度も自分に言い訳して裏切った! 嘘をついて……逃げて……それでも、あいつは信じようとしてくれた……! だから今度はもう自分から逃げたくない! 俺はこんなところで死ねないんだ!!」
背中がザワつく。電流のような刺激が脳から身体中を駆け回り、地面に着いていた手の下にヒビが入った。膨れ上がるそれと共に上半身を起こしてみれば、背中にいたリカルドはいとも容易く地面に落ちる。
「な、んだ!? 狼……?」
青い外套を身につけた黒狼にリカルドは尻をついたまま目を見開く。黒い毛並みは逆立ち、青い双眸が光を帯びてこちらを捉えると、鋭い爪のついた前足を振り上げてきた。巨大な体はそれを受け吹き飛ばされるが、何とか体勢を整える。
「こいつは驚いた……」
確かに獣の匂いがしていたのは気になっていたが、まさか狼に変身する人間だったなんて。爪で抉られた体から溢れる血を留めようと押え、痛みに顔を歪める。向き合う間もなく、アレクがその巨体から考えられない速さでリカルドの体に突進した。
尻尾を足に絡ませて先程のように足止めを図るが巨体故に全く動かない。アレクは前足で細かく方向を変えながら尻尾を踏みつけ、後ろ足でリカルドを蹴りつけた。
ブチリ、としっぽが切り離され、更に遠くへ飛ばされる。後ろ足が抉られた傷を更に深いものにし、地面はヌルヌルした血に彩られた。
転がるリカルドにアレクは容赦なく飛びかかり、リカルドの上半身に噛みつく。
「がっ……あ」
低く短い悲鳴がした。ギリギリと力を入れてみれば歯がリカルドの上半身に突き刺さり、そこから大量の体液が溢れ出す。湯水のように心地よく、甘い味だ。血の味を認識し、アレクの瞳孔が開く。
『美味い』
本能という名のもう一人の自分が脳内に快楽を訴え掛けた。ツンとした生臭ささえ、ご馳走を前にした時のような興奮を覚える。血管という血管に流れる血が沸騰したように熱くなり、このまま肉に包まれた温かな臓腑を噛みちぎって何もかもぐちゃぐちゃにしたい気持ちになった。リカルドの体を地面に押えつけ、息を荒くしながら、アレクは噛みちぎろうと力を込める。
『アレク』
聞き慣れた声があの時の光景を呼び覚ます。ノイズがかった暗闇の中に映る二人の遺体。食いちぎられ、赤黒い器官が飛び散る凄惨な光景。いやだ! 弾けた声に瞳孔が元に戻り、アレクは怯えたように口を離して後退した。
「はあっ、違う……俺は……」
力なく倒れているリカルドを前に狼狽え、縮こまる。またあの時のように正気を失うところだった。
俯き、荒くなった息を落ち着かせる。大丈夫。俺は化け物なんかじゃない。自分に言い聞かせ、首をブンブンと振る。こんなことをしている場合じゃないと、地下の階段の方へ歩いた。
「おい……待てよ。食わねえのか」
背後から弱々しい低音が聞こえてきた。その場で止まり、少し顔を振り返らせる。
「……俺は、グルメなんだ。お前のは臭くて食いたくない」
「よく言うぜ……明らかに怯えていたくせによ。本能に身を任せるのが怖いのか、半端もん」
力なく笑ってみせるそいつに「黙れ」と睨みつけた。喉に風穴でも空いたかのような苦しい呼吸音が後ろからする。
「ははっ……んだよ……負けて放置とは酷いことするぜ……オレは闘技場の闘士だぞ? 戦って……殺して……人間を喜ばせる。ただそれだけの人生だった。最後くらい……戦いから解放してくれたっていいじゃねえか」
天を仰いだまま、リカルドは目を細めた。生まれた時に攫われ、両親と生き別れになり、それ以来ずっと観客に囲まれた闘技場で戦ってきた。自分が殺されないために。それなのに、ようやく解放されたと思ったらこのザマだ。つくづく、つまらない人生だったと鼻で笑う。
「分かった」
ふと、これまでを振り返るリカルドに大きな影がかぶさった。青い双眸はじっとこちらを見つめ、首に噛みついてくる。解放してくれるのかと、リカルドはされるがまま咥えられ、身を委ねるように目をつぶった。
ガシャン
噛み砕かれたものが地面に落ちた。リカルドが再び目を開けると、そこには闘技場にやってきた時からつけられていた首輪がある。ほら、解放してやった、とアレクがリカルドを見下ろした。
「な、ぜ……」
「別に。拘束される窮屈さを俺も知っているからな。ただの気まぐれだよ。それに……俺の助けたい人ならそうするって思ったから。それだけ」
じゃあな、とアレクは背中を向け、地下の入口に向かう。倒れたままのリカルドはその姿を目に映し、涙をボロボロと流しながら胸が温かくなるのを感じた。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
スキルが【アイテムボックス】だけってどうなのよ?
山ノ内虎之助
ファンタジー
高校生宮原幸也は転生者である。
2度目の人生を目立たぬよう生きてきた幸也だが、ある日クラスメイト15人と一緒に異世界に転移されてしまう。
異世界で与えられたスキルは【アイテムボックス】のみ。
唯一のスキルを創意工夫しながら異世界を生き抜いていく。


三歳で婚約破棄された貧乏伯爵家の三男坊そのショックで現世の記憶が蘇る
マメシバ
ファンタジー
貧乏伯爵家の三男坊のアラン令息
三歳で婚約破棄され
そのショックで前世の記憶が蘇る
前世でも貧乏だったのなんの問題なし
なによりも魔法の世界
ワクワクが止まらない三歳児の
波瀾万丈
処刑された勇者は二度目の人生で復讐を選ぶ
シロタカズキ
ファンタジー
──勇者は、すべてを裏切られ、処刑された。
だが、彼の魂は復讐の炎と共に蘇る──。
かつて魔王を討ち、人類を救った勇者 レオン・アルヴァレス。
だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。
「力が強すぎる」という理由で異端者として断罪され、広場で公開処刑されるレオン。
国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。
そして、勇者は 死んだ。
──はずだった。
十年後。
王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。
しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。
「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」
これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。
彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。

転生しても山あり谷あり!
tukisirokou
ファンタジー
「転生前も山あり谷ありの人生だったのに転生しても山あり谷ありの人生なんて!!」
兎にも角にも今世は
“おばあちゃんになったら縁側で日向ぼっこしながら猫とたわむる!”
を最終目標に主人公が行く先々の困難を負けずに頑張る物語・・・?

せっかくのクラス転移だけども、俺はポテトチップスでも食べながらクラスメイトの冒険を見守りたいと思います
霖空
ファンタジー
クラス転移に巻き込まれてしまった主人公。
得た能力は悪くない……いや、むしろ、チートじみたものだった。
しかしながら、それ以上のデメリットもあり……。
傍観者にならざるをえない彼が傍観者するお話です。
基本的に、勇者や、影井くんを見守りつつ、ほのぼの?生活していきます。
が、そのうち、彼自身の物語も始まる予定です。

プラス的 異世界の過ごし方
seo
ファンタジー
日本で普通に働いていたわたしは、気がつくと異世界のもうすぐ5歳の幼女だった。田舎の山小屋みたいなところに引っ越してきた。そこがおさめる領地らしい。伯爵令嬢らしいのだが、わたしの多少の知識で知る貴族とはかなり違う。あれ、ひょっとして、うちって貧乏なの? まあ、家族が仲良しみたいだし、楽しければいっか。
呑気で細かいことは気にしない、めんどくさがりズボラ女子が、神様から授けられるギフト「+」に助けられながら、楽しんで生活していきます。
乙女ゲーの脇役家族ということには気づかずに……。
#不定期更新 #物語の進み具合のんびり
#カクヨムさんでも掲載しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる