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第四夜
第25話 風来坊とクソ坊主
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宝泉寺は今日も、パラパラとまばらな参拝客を迎え入れるかたわら、朝から二本の法要と檀家との井戸端会議対応に追われた。諸々事を終え、住職とその妻に平穏が訪れたのは昼飯時を逃した午後二時も越えた頃であった。
博臣が素麺を所望するため、司は庭先に生えた大葉を採りに縁側から裏庭へと下りた。いつぞやに、買った大葉を適当に植えてみたらすっかり自生するようになったのである。
茎の部分をつまんでぷつんと手折ると、しその香りがふわりとただよう。
「あアらまあ。よい香りですこと──」
「うまそうだね。ご一緒してもいいかな」
と。
ふいに背後から声をかけられ、司は笑んだままふり向いた。てっきり夫かとおもったが、いの一番に目に入ったのは、剃り上げた夫とは対称的な、肩まで伸びた豊かな黒髪。宝泉寺にはめずらしいスーツ姿の男がひとり、にっこりと司を見下ろして立っていた。
「ア。ら? アララ?」
「お久しぶり──なんだけれど。覚えてますか」
はにかむ男を前に、司は目を見ひらき、
「あアらまあまあ。まあまあ! お父さん。お父さーんッ」
さけんだ。
驚愕と喜楽が入り交じった声が届いたか、家の奥から沈むような足音とともに博臣が顔を出す。
「どうした。────」
瞬間、彼の表情は固まった。
視線の先に射止められた男──黒須景一は、気まずさとお愛想が複雑に絡み合ったような笑みを浮かべて、
「────よう。久しぶり」
と手を挙げた。
*
「お素麺作るとこなの。檀家さんから美味しいのいただいちゃって。ね、景一さんもどお?」
毒気のかけらもない司の問いかけに、黒須はパッと華やかな笑みを返した。
「なんだかわるいね。でもま、そこまで言うならお言葉に甘えて──」
「無理して誘っているわけじゃないから、遠慮なく辞退してもらっても構わんのだがなぁ」
ピリピリと張り詰めた緊張感を傍から感じる。博臣は景一を視認してからというものすっかり不機嫌な面持ちになった。一度離席後、食器諸々を運んでもどり定位置に鎮座してからは、博臣から見て四角い卓の左隣に座る黒須に対して一瞥もくれようとしない。
おかげで黒須は肩をすくませ、やっぱりお構いなく──と、台所に立つ司の背に声かけることしかできなかった。
もう、と司が包丁片手に台所から顔を出す。
「せっかく久しぶりの再会だっていうのに。景一さんのこといじめちゃいけませんよ、ヒロくん!」
「────」
という妻の諫言を受け、博臣はぎろりと黒須を一瞥。しかしすぐにツンとそっぽを向いた。
「まったくもう。お素麺出来上がるまでには、仲直りしてくださいよふたりとも!」
「────」
「────」
沈黙。
仲直りといったって、これといって喧嘩をしたわけではない。彼らのあいだには仲が良いとかわるいとかの次元ではないものがあって、それが久しぶりの再会ゆえうまくかみ合っていないだけなのである。
意外にも口火を切ったのは博臣だった。これまでの子供じみた反抗はなりを潜めて、熱を帯びた瞳をまっすぐに黒須へ向ける。
「どうしてここへ」
「どうしてって、手紙届いたろう? 日本に帰国したらここ訪ねるって、書かなかったか」
「そのわりに帰国からずいぶん時間が経ったようだ」
「それは──だから、ちょっと拘束されてて。チッ。どうせお前のことだからいろいろ知ってるんだろうが」
「知るものか。名も出さん被疑者がまさかお前とは思うまいよ。将臣から、拘置所にあの子を知る男がいたという話を聞いたときはまさかと思ったが。それで、何があった?」
「さあ」
黒須は胡坐をかいたまま後ろ手を畳につけた。その拍子に、ワイシャツから覗く胸元に走る古傷がちらりと見えた。
「──ここしばらくは、偽装死工作に明け暮れてた。いよいよ向こうさんも騙されてくれたと確信が持てたんでこうしてようやく帰ってきたわけだが、結局バレてた。先回りをされて、挙句の果てに」
「果てに?」
「また、ひとりの少女から両親が奪われた」
「…………」
博臣の眉に皺が寄る。
畳につけた黒須の手がゆっくりと爪を立てた。
「本家から、もういっそそのまま豚箱で存在消しとけって言われたもんだから、もうやけくそになって言いなりに黙っていたんだけど」
「フ。おまえが沈黙者を気取るとは、知った者が聞いたら大笑いだな」
「うるせえ。でも、彼が」
「彼とは──恭太郎のことか」
「ああ。初めて会った。ふるえたよ。噂には聞いていたけど、ありゃすさまじいな。彼の前に沈黙は無意味だと知った。おかげでいろいろ暴かれて──最終的には」
「あの子に会えた」
「…………ああ」
と、つぶやいた黒須の口元に笑みが寄る。
台所から司の鼻歌が聞こえてきた。同時に、のれんを押し上げて山盛りの素麺が食卓へと運ばれてくる。
ありがとう、と黒須がそれを受け取り、卓へ置く。
先ほど博臣が運んできたため、食事の準備は一揃い整っているが、司は跳ねるように立ち上がると、足早に食卓から出ていった。まもなく戻ってきたその手には、分厚い冊子が抱えられている。
「うふふふ。ジャーン」
言いながら表紙を披露した。
──ALBUM。
「むかし撮った写真。ほら、景一さんよく来てくれていたでしょ。お手紙が来たって聞いて、景一さん帰ってきたら三人で見ようとおもって準備してたの。最近じゃ写真もすっかりデジタルになっちゃって、こうやって紙に残っているのも貴重よねエ」
饒舌に語る司にほほえみ、景一がアルバムに手を伸ばす。
が、博臣がその手を止めた。
ハッと顔をあげた黒須と、しばし見つめあう。
「あの子はいま、苦しんでいる」
「────」
「おまえも会ったのならもうわかっていると思うが、あの子は──大人になった。大人になって、現実との違和感に気付き始めている。いい加減、知る時が来たのかもしれない」
黒須の顔がいっしゅん、泣きそうに歪んだ。
しかし博臣はつづけた。
「オレはあの子に言ったぞ。“いまの状況が嫌ならば『たすけて』と言えばいい”と。あの子は、イッカは待っている。不知の守りの先、現実に手を差し伸べてくれる存在を」
「────」
がたり、と黒須が立ち上がった。
そのまま長い髪を括って辺りを見回し、鏡台に置かれていた司のシュシュを手に取ると無造作に結ぶ。司は心配そうな顔でその挙動を見守った。
「景一さん」
「すまない司ちゃん、用ができた。こいつ借りてく。素麺も、またの機会にいただくとしよう」
「それはもちろん構わないけど──」
「いろいろと待たせたな。クソ坊主」
「ひと言余計だ、風来坊。裏を見ろ」
「あ?」
すっくと博臣が立ち上がり、裏庭の奥に覗く竹垣を指さした。つられて首を伸ばした黒須が「あっ」と目を見開く。竹垣の隙間からセダンタイプの黒い車が駐車しているのが見えた。
「おまえ」
「長居されちゃかなわんから、早々に呼んだんだよ」
「ったく。抜け目がねえというかなんというか──」
ぶつぶつ文句をつぶやきながら、部屋の片隅に置いていた自身のスーツケースを手にとる。そのあいだに司が縁石に置いていた黒須の靴を持ってくると、そのまま勝手口の方へと向かう。
「景一さん、こっちから出て。車に近いの」
「何から何までわるいな」
「いいの。どうか──お願いね」
「分かっているとも」
パチッと決めたウインクは、そのハンサムな顔立ちによく映えた。
司の見送りはここまでとしたが博臣はいっしょに車まで出るという。つっかけを履いて黒須のあとにつづいた。竹垣越しに見えるセダンは曇りガラスによって中のようすは見えない。
車のそばに寄ったところで、黒須はいま一度博臣へと向き直った。
「また来る」
「無理せず」
「つれねえこと言うなよ。この髪留めも返さなきゃだし、素麺も食いに来なきゃだし──なによりおまえの息子にも会いたいしな」
「期待せずに待っとくよ」
「ああ。いや、期待してくれていい。いまから俺は役立たずからヒーローに変身するんだからな」
と言って、黒須は後部座席のドアを開けた。
腕組みをした博臣が、にやっとわらって
「手荒な真似はほどほどにな」
「善処しよう」
意味深な言葉を交わし合う。
黒須を後部座席に乗せた車は、ゆっくりと走り出す。
しばしそのうしろ姿を眺めていた博臣だが、ふいに背後から、
「父さん?」
と声を聞いた。
大学から帰宅したところである一人息子、将臣がそこにいた。
博臣が素麺を所望するため、司は庭先に生えた大葉を採りに縁側から裏庭へと下りた。いつぞやに、買った大葉を適当に植えてみたらすっかり自生するようになったのである。
茎の部分をつまんでぷつんと手折ると、しその香りがふわりとただよう。
「あアらまあ。よい香りですこと──」
「うまそうだね。ご一緒してもいいかな」
と。
ふいに背後から声をかけられ、司は笑んだままふり向いた。てっきり夫かとおもったが、いの一番に目に入ったのは、剃り上げた夫とは対称的な、肩まで伸びた豊かな黒髪。宝泉寺にはめずらしいスーツ姿の男がひとり、にっこりと司を見下ろして立っていた。
「ア。ら? アララ?」
「お久しぶり──なんだけれど。覚えてますか」
はにかむ男を前に、司は目を見ひらき、
「あアらまあまあ。まあまあ! お父さん。お父さーんッ」
さけんだ。
驚愕と喜楽が入り交じった声が届いたか、家の奥から沈むような足音とともに博臣が顔を出す。
「どうした。────」
瞬間、彼の表情は固まった。
視線の先に射止められた男──黒須景一は、気まずさとお愛想が複雑に絡み合ったような笑みを浮かべて、
「────よう。久しぶり」
と手を挙げた。
*
「お素麺作るとこなの。檀家さんから美味しいのいただいちゃって。ね、景一さんもどお?」
毒気のかけらもない司の問いかけに、黒須はパッと華やかな笑みを返した。
「なんだかわるいね。でもま、そこまで言うならお言葉に甘えて──」
「無理して誘っているわけじゃないから、遠慮なく辞退してもらっても構わんのだがなぁ」
ピリピリと張り詰めた緊張感を傍から感じる。博臣は景一を視認してからというものすっかり不機嫌な面持ちになった。一度離席後、食器諸々を運んでもどり定位置に鎮座してからは、博臣から見て四角い卓の左隣に座る黒須に対して一瞥もくれようとしない。
おかげで黒須は肩をすくませ、やっぱりお構いなく──と、台所に立つ司の背に声かけることしかできなかった。
もう、と司が包丁片手に台所から顔を出す。
「せっかく久しぶりの再会だっていうのに。景一さんのこといじめちゃいけませんよ、ヒロくん!」
「────」
という妻の諫言を受け、博臣はぎろりと黒須を一瞥。しかしすぐにツンとそっぽを向いた。
「まったくもう。お素麺出来上がるまでには、仲直りしてくださいよふたりとも!」
「────」
「────」
沈黙。
仲直りといったって、これといって喧嘩をしたわけではない。彼らのあいだには仲が良いとかわるいとかの次元ではないものがあって、それが久しぶりの再会ゆえうまくかみ合っていないだけなのである。
意外にも口火を切ったのは博臣だった。これまでの子供じみた反抗はなりを潜めて、熱を帯びた瞳をまっすぐに黒須へ向ける。
「どうしてここへ」
「どうしてって、手紙届いたろう? 日本に帰国したらここ訪ねるって、書かなかったか」
「そのわりに帰国からずいぶん時間が経ったようだ」
「それは──だから、ちょっと拘束されてて。チッ。どうせお前のことだからいろいろ知ってるんだろうが」
「知るものか。名も出さん被疑者がまさかお前とは思うまいよ。将臣から、拘置所にあの子を知る男がいたという話を聞いたときはまさかと思ったが。それで、何があった?」
「さあ」
黒須は胡坐をかいたまま後ろ手を畳につけた。その拍子に、ワイシャツから覗く胸元に走る古傷がちらりと見えた。
「──ここしばらくは、偽装死工作に明け暮れてた。いよいよ向こうさんも騙されてくれたと確信が持てたんでこうしてようやく帰ってきたわけだが、結局バレてた。先回りをされて、挙句の果てに」
「果てに?」
「また、ひとりの少女から両親が奪われた」
「…………」
博臣の眉に皺が寄る。
畳につけた黒須の手がゆっくりと爪を立てた。
「本家から、もういっそそのまま豚箱で存在消しとけって言われたもんだから、もうやけくそになって言いなりに黙っていたんだけど」
「フ。おまえが沈黙者を気取るとは、知った者が聞いたら大笑いだな」
「うるせえ。でも、彼が」
「彼とは──恭太郎のことか」
「ああ。初めて会った。ふるえたよ。噂には聞いていたけど、ありゃすさまじいな。彼の前に沈黙は無意味だと知った。おかげでいろいろ暴かれて──最終的には」
「あの子に会えた」
「…………ああ」
と、つぶやいた黒須の口元に笑みが寄る。
台所から司の鼻歌が聞こえてきた。同時に、のれんを押し上げて山盛りの素麺が食卓へと運ばれてくる。
ありがとう、と黒須がそれを受け取り、卓へ置く。
先ほど博臣が運んできたため、食事の準備は一揃い整っているが、司は跳ねるように立ち上がると、足早に食卓から出ていった。まもなく戻ってきたその手には、分厚い冊子が抱えられている。
「うふふふ。ジャーン」
言いながら表紙を披露した。
──ALBUM。
「むかし撮った写真。ほら、景一さんよく来てくれていたでしょ。お手紙が来たって聞いて、景一さん帰ってきたら三人で見ようとおもって準備してたの。最近じゃ写真もすっかりデジタルになっちゃって、こうやって紙に残っているのも貴重よねエ」
饒舌に語る司にほほえみ、景一がアルバムに手を伸ばす。
が、博臣がその手を止めた。
ハッと顔をあげた黒須と、しばし見つめあう。
「あの子はいま、苦しんでいる」
「────」
「おまえも会ったのならもうわかっていると思うが、あの子は──大人になった。大人になって、現実との違和感に気付き始めている。いい加減、知る時が来たのかもしれない」
黒須の顔がいっしゅん、泣きそうに歪んだ。
しかし博臣はつづけた。
「オレはあの子に言ったぞ。“いまの状況が嫌ならば『たすけて』と言えばいい”と。あの子は、イッカは待っている。不知の守りの先、現実に手を差し伸べてくれる存在を」
「────」
がたり、と黒須が立ち上がった。
そのまま長い髪を括って辺りを見回し、鏡台に置かれていた司のシュシュを手に取ると無造作に結ぶ。司は心配そうな顔でその挙動を見守った。
「景一さん」
「すまない司ちゃん、用ができた。こいつ借りてく。素麺も、またの機会にいただくとしよう」
「それはもちろん構わないけど──」
「いろいろと待たせたな。クソ坊主」
「ひと言余計だ、風来坊。裏を見ろ」
「あ?」
すっくと博臣が立ち上がり、裏庭の奥に覗く竹垣を指さした。つられて首を伸ばした黒須が「あっ」と目を見開く。竹垣の隙間からセダンタイプの黒い車が駐車しているのが見えた。
「おまえ」
「長居されちゃかなわんから、早々に呼んだんだよ」
「ったく。抜け目がねえというかなんというか──」
ぶつぶつ文句をつぶやきながら、部屋の片隅に置いていた自身のスーツケースを手にとる。そのあいだに司が縁石に置いていた黒須の靴を持ってくると、そのまま勝手口の方へと向かう。
「景一さん、こっちから出て。車に近いの」
「何から何までわるいな」
「いいの。どうか──お願いね」
「分かっているとも」
パチッと決めたウインクは、そのハンサムな顔立ちによく映えた。
司の見送りはここまでとしたが博臣はいっしょに車まで出るという。つっかけを履いて黒須のあとにつづいた。竹垣越しに見えるセダンは曇りガラスによって中のようすは見えない。
車のそばに寄ったところで、黒須はいま一度博臣へと向き直った。
「また来る」
「無理せず」
「つれねえこと言うなよ。この髪留めも返さなきゃだし、素麺も食いに来なきゃだし──なによりおまえの息子にも会いたいしな」
「期待せずに待っとくよ」
「ああ。いや、期待してくれていい。いまから俺は役立たずからヒーローに変身するんだからな」
と言って、黒須は後部座席のドアを開けた。
腕組みをした博臣が、にやっとわらって
「手荒な真似はほどほどにな」
「善処しよう」
意味深な言葉を交わし合う。
黒須を後部座席に乗せた車は、ゆっくりと走り出す。
しばしそのうしろ姿を眺めていた博臣だが、ふいに背後から、
「父さん?」
と声を聞いた。
大学から帰宅したところである一人息子、将臣がそこにいた。
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