金色プライド

乃南羽緒

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第三章 関東大会観戦

76話 余談:高宮兄弟の受難⑤

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 翌日。
 桜爛大附高校には、プチ練習試合のためやってきた白泉大附高校の選手がそろった。
 足の甲をトラックのタイヤに踏まれた雅久も、前日に大神より教わった手当によってすっかり快調のようす。とはいえ、大神の運転でここまでやってくるあいだはつねに敵意を剥きだしていたのだが。
 その車中で、後部座席に座る双子のあいだにこんな会話があった。
「母さん、ホントに観に来るかな──」
「どっちにしろ俺らのやることは変わんねえだろ。気にすんなよ」
「でも母さんはオレがテニスするの、たぶん賛成じゃないんだぞ。今日の試合で勝てなかったらまた『続ける意味ない』とか言って怒られるかも」
 なおも身体を縮める弟に、兄は大きく息を吐く。
「つかもうよくね? だれも幸せじゃねーぜこんなの」
「か、母さんも?」
「あれが幸せそうに見えんのかよ」
「いや、」
 そういうことなんだよ、と雅久は車窓を見た。
「あの人は自分が不幸でいてえんだ。はなから自分で幸せになる気なんざさらさらねえ。だったらもう、俺らは俺らの道すすむしかねえだろ」
「……うん」
「俺は達成するつもりだけど。おまえといっしょに都大会優勝するって目標」
「オレだって諦めたくねーよ。強くなってもっとその先、関東だって行ってやる。こればっかりは母さんにダメだと言われたって、やめたくない」
 十数年生きてきたなかで、初めての母への反抗。
 雅久は「当然だろ」と吐き捨てたが、運転席と助手席の大人ふたりはバックミラー越しに見た。兄の表情があんまりうれしそうに綻んでいたことを。

 ────。
 つぎのダブルス試合で最後になる。
 桜爛側からは高宮兄弟、白泉からは安藤と大崎というオーダー。番手順を考えれば、二番、三番手に対して一、五番手の組み合わせである桜爛の方がいささか不利ではあるが、番手順はあくまでもシングルスでの順位。ダブルスをやらせたときの凛久はこれまでも実力以上の動きを見せてきた。
 伊織はそのオーダーを発表後、試合準備に取りかかる生徒を横目にまわりを見わたす。
 観客として来ているのは大神と、呼んでもないのにラケットを手にたずさえてやってきた姫川くらいのもので、高宮母のすがたは見えない。
 やっぱり来ないか──と伊織はコート内のパイプ椅子に腰かける。
 これまでも雅久や凛久は目覚ましい試合を見せてきた。そのようすは頼んでもないのに姫川が携帯で撮影しているから、最悪の場合はその映像データでも送り付けてやろうとぼんやり考えていたときである。
 フェンスの外からツン、と肩をつつかれた。
「?」
 ふり返るとサングラスをかけた大神。
 彼は長い人さし指で左側を示している。つられて視線を向けると、おそろしいほど遠く離れた石段に立ちながら、双眼鏡からコートを覗く女性がひとり。
「遠ッ」
「遠慮してんじゃねえのか。試合は俺が見ててやる、行ってこいよ」
「……う、うん」
 伊織はコートから出た。

 あのう、と声をかける。
 すると女性はピャッと肩をびくつかせ、あわてて双眼鏡を下ろした。
「高宮さん──いらしてくれはったんですね」
「…………」
「でももったいないなあ。さっきもえらいおもろい試合してくれたんですよ、凛久と雅久。あー、専属カメラマンがいてるんで今度データお送りしますわ」
「見てました」
「えっ」
「見てました、ずっと。その、あっちの高台から──」
「…………いや遠ッ」
 高宮母が指さしたのは、目を細めればかろうじて試合が見えるだろうかというくらいの場所にある高台だった。あれでは人物を判別するのもひと苦労だったろうに、とわらうと高宮母は首から提げていたビデオカメラを持ちあげた。
 最近発売された、最新式の高画素数カメラだ。
「こうやってズームすると遜色なく見られますの」
「考えましたね……で、どうでした? 息子さんたちの試合は」
「やっぱり見なければよかった」
「え」
 どうして、と尋ねる前に、高宮母は沈痛な面持ちでビデオカメラに視線を落とす。
「私の前ではふたりとも、あんなにたのしそうな顔を見せたことなんかなかったから」
「そうなんですか」
「いままで、あの子たちの為を思って言ってきたのに。親として、親だから、子どもが将来苦労しないようにって」
「凛久にも?」
「当然です。あの子だって、私の子どもですから。あの子は私に似てるんです。なにをやっても愚鈍で中途半端で……冴えなくて。そういう子どもっていうのはたいてい、大人になっても変わりません。仕事では使えない、みんなから疎まれて恥ずかしい思いをして──精一杯だれかの役に立てるようなクセさえ付けられたら、それが一番だとおもって。さいわいに雅久はいろんな面で優秀でしたから、いまからクセ付けさせればいいとおもってました。私なりに、凛久の将来の為をおもって」
 ずいぶんとか細い声である。
 愛嬌もなく、やつれ落ちくぼんだ瞳は美人の面影を台無しにさせる。伊織はコートへ視線をもどした。すこし遠いがここからなら裸眼でも見える距離だ。雅久と凛久という、ふだんはめったに組ますことのないペアだが、息の合った試合運びによってゲームカウントは先制している。
 そうかなあ、と伊織はぼんやりつぶやいた。
「優劣ってなにをもってつけてるんですか。うちの部員たちはみんなそれぞれ、優秀なところありますけど。個人的には凛久の、あのだれからも愛されるキャラは──だれにも劣らん才能やとおもいますけどね」
「愛されて、るんですか。凛久が」
「お母さん、凛久くんの学校での生活知らんでしょ。彼って愛嬌あるし人当たりもええし、嫌味もないからみんなから人気者らしいですよ。私はコーチとして凛久くんと接してますが、あれほど気持ちのええ子ォはそういてへん思います」
「…………」
「だって、私なんかもそうですけど、テニスがうまいからって将来が前途洋々ってわけやないし。テストでいい点とれるから仕事で使えるかって言われたらそうでもない。でも逆に、なにをやっても突出しなくたってその分、まわりに愛されてサポート受けて、助けられる人生もある」
 子どもかて苦労せんと、と伊織は快活に言った。
「親が子に敷いてやるべきはレールやのうて、子が蹴躓いたときにひと休みできるお布団なんちゃいますか」
「……ふとん」
「蝶よ花よで守りすぎたら、いざってときにそれこそなんも出来ひん大人になるから。そんな大人の方が、よっぽど恥ずかしい思いするおもいません?」
「簡単にいうのねあなた」
 と言うや、高宮母はがっくりと崩れ落ちた。
「私の苦労もなにも知らないで正論ばっかり言って。あなたにはテニスの才能があったんでしょ、才能のあるあなたに、なにもない私の気持ちがわかるわけない。私にはなにもなかった。親の頭もよくないし、才能なんて言えるところはなにもない。なにもないところから必死にがんばって、主人と結婚できたんです。でもそれだって──いまじゃ主人は能のある女にかまけて、私のことなんか見向きもしない。結局こんな惨めったらしい人生を生きてるの。なにも取り柄がなくちゃ、まっとうに生きていたって報われないのよ。だから、子どもができたら絶対に教えてあげたかったの! なんにもなくちゃなにも残らないって! こんな粗末な人生なんか送るもんじゃないって!」
 絶叫だった。
 彼女のなかに抱えていた劣等感がかたちを見せた瞬間。一方的に怒鳴りつけられた伊織からしたら彼女の言い分の半分も納得することはできなかったけれど、理解はできた。とにかくツラい人生だったということが言いたいのだろう──という程度には。
 伊織は「才能ねえ」と鼻でわらった。
「お母さま、もしかして才能があれば無条件でしあわせになれるとか思ってんちゃいますやろな。ちがいますよ。才能なんてだれにでもある。それを生かそうとがんばる人間か否かの違いです」
「なっ」
「とりあえず、お母さまは行動原理を『人の為』から『自分の為』に変えたらよろしい」
「え?」
「人間なんて、自分の為でもないことせこせこ頑張れへんがな。人の為に一生懸命がんばれる人っていてるでしょ。そういう人はね、人のためにがんばる自分が好きなんですよ。満たされるんです。せやからがんばれるんやと──おもいますよ」
「…………」
「それにあんなかわいい息子がふたりもおって、粗末な人生なんて言うもんやないですよ。あなたはあの双子に母親としてえらばれた。それだけで私から見たら十分すぎるほど価値ある人生やとおもいますけど」
 と、言った瞬間。
 凛久のスマッシュが開いてコートに深く刺さり、ゲームカウントを順調に稼いだ。おもわず口笛を吹いて拍手する伊織。そのとなりで高宮母が嗚咽を漏らした。それから試合が終わるまで、母親は泣きつづけた。
 その涙が枯れるまで、伊織はとなりに立ちつづけた。

「……子どもが親を、えらんでくるのでしょうか」
 帰り際、母親は伊織に問いかけた。
 伊織ははて、と首をかしげて空を見る。
「そうなんちゃいます? 知らんけど……」
「…………」
 怪訝そうに眉をしかめる母親を見て、伊織はあわてて「そうです」と訂正した。
「せやってな、親子の関係って親から子に教えるばかりとおもうでしょ。ちゃうんですよ。子ォから親が教わることもいっぱいあるんですって。お互い教え合うために親子の縁を結ぶんやて。そういう意味でいうと、凛久なんかホンマにお母さんへ教えるために生まれてきた感じやないですか。ねっ」
「私に……なにを?」
「せやから」
 と言いかけたとき、背後から試合を終えた双子が駆けてきた。
 彼らは昨日とはうって変わってまばゆい笑みを浮かべている。どうやら快勝だったようで、とくに雅久は気分上々らしい。
「コーチ、勝った! 見てた?」
「うん。見てた見てた。さっきのスマッシュ良かったやん、肩からしっかり伸びて面で捉えられてたで」
「そう、もうチョー気持ちよくあたって、──」
 そこまで言って凛久ははたと口をつぐんだ。
 母親がいることに初めて気がついたようだった。雅久はそれほど気にしていないようすで、伊織に「ほんとにちゃんと試合見たのかよ?」としつこく絡んでいる。
 一気に竦んでしまった凛久を見た母親は、泣き腫らした目を伏せた。これまで凛久を見るたび自分がみじめであることを思いだして憂鬱になっていた。だから雅久よりはきつく当たってしまっていた──とあれから伊織にこぼした。
 伊織はおどけたように母親を肘でついた。
 母親はパッと顔をあげて、凛久を見た。
「……勝ってたね」
「え。────あ、う、うん。雅久がいたからッ」
「でも、スマッシュ? 見たよ」
「あ、うん。……」
「凛久もテニス、うまいのねえ」
「…………あ、はは。いっぱい練習したから……」
 凛久はうつむいた。
 これ以上は野暮か、と伊織は母親に対して会釈をし、双子を置いてひと足先にその場を立ち去る。コートではクールダウン代わりにショートラリーをおこなう選手たちがいる。なぜか姫川も混ざっているのがおかしくて、伊織はフフッとわらった。
 どうだった、と。
 コートの外で待っていたらしい大神が声をかけてきた。
「うん。まあそうすぐには無理やろうけど」
「それでも、一歩にはなったんじゃねーか」
「そうやとええね」
 伊織はすこし照れくさそうにわらった。
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