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第十八章
97話 光に憧れた
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浅黒い膚の右手が、つつじヶ池跡地をなぞる。
そのまま右手を、左頬に切り込まれた古傷にすべらせた。玉嵐の口もとはわらっている。
(つい先日のことのようだ)
あの母子を見初めたのも、ダキニと出会ったのも、すべてはこの場所が起点であった。
母子が、迎えの龍とともに山を降りた、そののちのことである。
まもなくひとりの女神が、池のほとりにあらわれた。
大陸にいたころに幾度か見かけた。たしか名をダーキニーといったか。屍肉を喰らい、淫らに人を惑わす魔物だと聞いたが──いつの間に神格をもったか、すっかり見違えた。
おまけに女神は、池の縁に腰かけて、その妖艶な瞳からぽろりと涙をこぼしたのである。
神格を持っているならば、上位だ。無視をするのは失礼にあたる。おまけにダーキニーとは、粗雑な扱いをすればあとが怖いと聞いたこともある。
玉嵐はしかたなく池から顔を出した。
「うるわしの女神どのが──しがない池縁でなにをお嘆きになりますか」
「……お前も見ただろ、さっきの母子をさ。憎らしいったらありゃしない。あーあ憎いねえ」
「あの母子がなにか?」
「大龍の連れ合いさね。憎かろう」
「大龍──とは、あの神格をもった龍のことか」
玉嵐のことばに女神は目を丸くした。
なんだいおまえ、とケタケタ笑い出した。すでに涙は止まっている。もしかしたら嘘泣きだったのかもしれない。
「見ない顔だとおもったけれど、ここいらのことはおろか、龍事情についてもなァんにも知らないんだねェ。なるほど、大陸からの紛れものかい」
「……ここいら一帯は、あの大龍というヤツの加護を受けているそうですね。そのわりに、我が輩が勝手にこの池へ住み着いても、なにも言ってきませんが」
「アイツはそういうヤツなのさ。お前がここいらの草どもにちょっかい出さない限りは、見逃すつもりなんだ。はァー、イヤなヤツ!」
「…………」
私怨を抱えているのは一目瞭然だった。
好都合だとおもった。
存外にお人好しな大龍が、愛しの母子を瀆されたらいったいなんと言うだろう。この女神はひどく大龍を憎んでいる。
使わぬ手はない。
「女神、大龍にひと泡吹かせてやったらいかがです。この玉嵐もお手伝いいたしましょうぞ」
「ひと泡──そうさね、でもなにするってんだい。大龍が参ることなんてそうそう」
「孤独、というのはどの生き物をとっても、ツラいものではありますまいか」
「…………」
女神は考えるそぶりを見せた。
どう出る。玉嵐はその動向を静かに待った。
徐々に、彼女の口元にうっすらと笑みが湛えられる。
「いいじゃないか、孤独。アイツをひとりぽっちにしちまえばいいんだ。嫁も子も、アイツの前から消しちまえばいい!」
「…………。ええ、それもいい」
構いやしない。
死に損ねの母子をこの手で救ってやればいい。あの子どもはすこし厄介だが、うまくいけば、自動的にこの手中へ堕ちてくる。
玉嵐はフッと口角をあげた。
手始めになにをしよう。そう。そうだ。
「彼の居場所、燃やしてしまいましょう」
女神はぎょろりと目玉をこちらに向けて、嬉々とした顔を見せた。
※
大龍が不在のときを狙った。
草々へ邪気をふり撒くと、案外うまくいった。彼らの奥底にあった妬み、嫉み、ふだんならば現れることのない悪感情が呼び覚まされて、神社への敵意をむき出しにしたのである。
魔が差した、のか。
うちのひとりが白昼堂々と、社殿に火をつけて回りだした。
ダキニは手を叩いてよろこんだが、玉嵐の心中はおだやかではない。神や神獣は、きっかけを与えこそすれ、その後の草々の行動まで決めることはできない。
玉嵐は社殿さえ燃えればよかった。
しかし──現実に燃えたのは、多くの神使、近隣住まいの人間、そして。
(光が。…………)
大龍の嫁、千草。
おもわず救いだそうと動いたからだが、動きを止める。にんまりとわらうダキニの視線に縫いとめられた。
「どこへ行く気だい」
「……いえ。どこへも」
「それより見てみなよ。滑稽じゃないか、あわてふためくあの草々ども。これだけ人も社も焼けちゃ再建だってそうすぐにはゆかない。なにせ神社を継ぐのがいないのだから」
「仰せのとおりで」
「大龍──怒るンなら怒っておいで。アタシはいつでも相手になってやる」
「…………」
これまでも、この世において理屈のつかぬ死があった。そのワケの一端をいま、垣間見たような気がしている。
はた迷惑な神々の遊びだ。
(厄介な女に目をつけられたな、大龍よ)
玉嵐は樹上から、社殿が燃え盛り、朽ち落ちてゆくまでの一部始終を見届けた。
白月丸の金切り声がひびく。
その声色で、うつくしい幼子の横顔がこわばった。玉嵐は見た。
炎のなかに揺らめく白銀のたてがみ。
目が光る。社の真上にたちまち黒雲が立ち込める。雷が鳴る。
大龍が急ぎもどってきたのだ。
(しかし、もう遅い。……)
玉嵐は、まばたきひとつせぬまま見つめていた社殿から、ようやく瞳を伏せて視線をはずす。大龍神社の境内に、バケツをひっくり返したような雨がふり落ちて炎は鎮火した。
(あっ)
ふたたび視線が釘付けになる。
社殿のなかからあらわれた人型の大龍が、左手に抱えていたものを見たからだ。黒く煤けた──千草だろうか。
とっさに眷属が子を胸に抱く。
大龍は、白銀の龍となって空に吼えた。
その後まもなく空へ飛び立ち、九州の方角──常世方面へと飛び去っていったのである。
玉嵐はその残影を見つめた。
「大龍はいったいどこへ」
「どうせ黄泉国とかだろう。なにゆえこんなことになったかを知るために」
「黄泉国──追いかけますか」
「いや、大龍は忌々しい白輪王に会いにいったんだ。アタシはいやだ。あんなとこ、頼まれたって戻りたくないね」
真相を聞いたら向こうから来るさ、とダキニは妖しく笑んだ。
「それまでおとなしく待っててやろうじゃない」
「…………」
玉嵐はいまいちど、境内へと視線をおとした。
幼子は虚ろな顔で白ウサギを胸に抱く。
(水守)
無意識に口角があがった。
胸が、ざわりとそそめく。
────。
昨日のことのように思い出している。
(導かれたのだ)
と、おもった。
光の当たらぬ肥溜めで生まれた存在は、光に憧れ、光を求めて彷徨った。挙げ句──自分が身を落としたのは、肥溜めすら勝るほど邪気にまみれた闇のなか。
光を知ってしまったあの日から、自分はもはや引き返せぬところに来ていたのだ。
(闇は闇でしかなかった)
光に満ちた池はもう、ない。
あったところで──住めるわけもない。
そのまま右手を、左頬に切り込まれた古傷にすべらせた。玉嵐の口もとはわらっている。
(つい先日のことのようだ)
あの母子を見初めたのも、ダキニと出会ったのも、すべてはこの場所が起点であった。
母子が、迎えの龍とともに山を降りた、そののちのことである。
まもなくひとりの女神が、池のほとりにあらわれた。
大陸にいたころに幾度か見かけた。たしか名をダーキニーといったか。屍肉を喰らい、淫らに人を惑わす魔物だと聞いたが──いつの間に神格をもったか、すっかり見違えた。
おまけに女神は、池の縁に腰かけて、その妖艶な瞳からぽろりと涙をこぼしたのである。
神格を持っているならば、上位だ。無視をするのは失礼にあたる。おまけにダーキニーとは、粗雑な扱いをすればあとが怖いと聞いたこともある。
玉嵐はしかたなく池から顔を出した。
「うるわしの女神どのが──しがない池縁でなにをお嘆きになりますか」
「……お前も見ただろ、さっきの母子をさ。憎らしいったらありゃしない。あーあ憎いねえ」
「あの母子がなにか?」
「大龍の連れ合いさね。憎かろう」
「大龍──とは、あの神格をもった龍のことか」
玉嵐のことばに女神は目を丸くした。
なんだいおまえ、とケタケタ笑い出した。すでに涙は止まっている。もしかしたら嘘泣きだったのかもしれない。
「見ない顔だとおもったけれど、ここいらのことはおろか、龍事情についてもなァんにも知らないんだねェ。なるほど、大陸からの紛れものかい」
「……ここいら一帯は、あの大龍というヤツの加護を受けているそうですね。そのわりに、我が輩が勝手にこの池へ住み着いても、なにも言ってきませんが」
「アイツはそういうヤツなのさ。お前がここいらの草どもにちょっかい出さない限りは、見逃すつもりなんだ。はァー、イヤなヤツ!」
「…………」
私怨を抱えているのは一目瞭然だった。
好都合だとおもった。
存外にお人好しな大龍が、愛しの母子を瀆されたらいったいなんと言うだろう。この女神はひどく大龍を憎んでいる。
使わぬ手はない。
「女神、大龍にひと泡吹かせてやったらいかがです。この玉嵐もお手伝いいたしましょうぞ」
「ひと泡──そうさね、でもなにするってんだい。大龍が参ることなんてそうそう」
「孤独、というのはどの生き物をとっても、ツラいものではありますまいか」
「…………」
女神は考えるそぶりを見せた。
どう出る。玉嵐はその動向を静かに待った。
徐々に、彼女の口元にうっすらと笑みが湛えられる。
「いいじゃないか、孤独。アイツをひとりぽっちにしちまえばいいんだ。嫁も子も、アイツの前から消しちまえばいい!」
「…………。ええ、それもいい」
構いやしない。
死に損ねの母子をこの手で救ってやればいい。あの子どもはすこし厄介だが、うまくいけば、自動的にこの手中へ堕ちてくる。
玉嵐はフッと口角をあげた。
手始めになにをしよう。そう。そうだ。
「彼の居場所、燃やしてしまいましょう」
女神はぎょろりと目玉をこちらに向けて、嬉々とした顔を見せた。
※
大龍が不在のときを狙った。
草々へ邪気をふり撒くと、案外うまくいった。彼らの奥底にあった妬み、嫉み、ふだんならば現れることのない悪感情が呼び覚まされて、神社への敵意をむき出しにしたのである。
魔が差した、のか。
うちのひとりが白昼堂々と、社殿に火をつけて回りだした。
ダキニは手を叩いてよろこんだが、玉嵐の心中はおだやかではない。神や神獣は、きっかけを与えこそすれ、その後の草々の行動まで決めることはできない。
玉嵐は社殿さえ燃えればよかった。
しかし──現実に燃えたのは、多くの神使、近隣住まいの人間、そして。
(光が。…………)
大龍の嫁、千草。
おもわず救いだそうと動いたからだが、動きを止める。にんまりとわらうダキニの視線に縫いとめられた。
「どこへ行く気だい」
「……いえ。どこへも」
「それより見てみなよ。滑稽じゃないか、あわてふためくあの草々ども。これだけ人も社も焼けちゃ再建だってそうすぐにはゆかない。なにせ神社を継ぐのがいないのだから」
「仰せのとおりで」
「大龍──怒るンなら怒っておいで。アタシはいつでも相手になってやる」
「…………」
これまでも、この世において理屈のつかぬ死があった。そのワケの一端をいま、垣間見たような気がしている。
はた迷惑な神々の遊びだ。
(厄介な女に目をつけられたな、大龍よ)
玉嵐は樹上から、社殿が燃え盛り、朽ち落ちてゆくまでの一部始終を見届けた。
白月丸の金切り声がひびく。
その声色で、うつくしい幼子の横顔がこわばった。玉嵐は見た。
炎のなかに揺らめく白銀のたてがみ。
目が光る。社の真上にたちまち黒雲が立ち込める。雷が鳴る。
大龍が急ぎもどってきたのだ。
(しかし、もう遅い。……)
玉嵐は、まばたきひとつせぬまま見つめていた社殿から、ようやく瞳を伏せて視線をはずす。大龍神社の境内に、バケツをひっくり返したような雨がふり落ちて炎は鎮火した。
(あっ)
ふたたび視線が釘付けになる。
社殿のなかからあらわれた人型の大龍が、左手に抱えていたものを見たからだ。黒く煤けた──千草だろうか。
とっさに眷属が子を胸に抱く。
大龍は、白銀の龍となって空に吼えた。
その後まもなく空へ飛び立ち、九州の方角──常世方面へと飛び去っていったのである。
玉嵐はその残影を見つめた。
「大龍はいったいどこへ」
「どうせ黄泉国とかだろう。なにゆえこんなことになったかを知るために」
「黄泉国──追いかけますか」
「いや、大龍は忌々しい白輪王に会いにいったんだ。アタシはいやだ。あんなとこ、頼まれたって戻りたくないね」
真相を聞いたら向こうから来るさ、とダキニは妖しく笑んだ。
「それまでおとなしく待っててやろうじゃない」
「…………」
玉嵐はいまいちど、境内へと視線をおとした。
幼子は虚ろな顔で白ウサギを胸に抱く。
(水守)
無意識に口角があがった。
胸が、ざわりとそそめく。
────。
昨日のことのように思い出している。
(導かれたのだ)
と、おもった。
光の当たらぬ肥溜めで生まれた存在は、光に憧れ、光を求めて彷徨った。挙げ句──自分が身を落としたのは、肥溜めすら勝るほど邪気にまみれた闇のなか。
光を知ってしまったあの日から、自分はもはや引き返せぬところに来ていたのだ。
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