胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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廿弐の抄 和解

其の壱

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「いつまで寝とんねんコイツ──」
 柊介は苦虫を噛みつぶしたようにつぶやいた。

 八郎を背負って刑部家までたどりついたのが午後四時。
 その道中すらもぐっすりとねむっていたというに、現在午後八時になっても八郎が起きてくる気配はない。そのあいだに帰ってきた環奈は、話を聞くなり泣きそうな顔をして八郎のそばから離れようとしない。
「高村先生は知っとるし、なんとかなるとは思うけど──こまめにようす見て、なんかあったら連絡せえ」
「えっ、シュウくん帰っちゃうの!」
「まあ……さすがに」
「やだやだやだ、かんなひとりじゃ心細いもんッ。おねがい、今日ははっちゃん挟んで川の字で寝ようよう。はっちゃんのそば離れるのも不安だもん」
「川の字はねえわ、さすがに……」
 すっかりいつもどおりの調子にもどったらしい環奈に、柊介はうれしいやら切ないやらのため息をひとつ。そして「わかったよ」と首を掻いた。
「じゃあ俺がきょうはハチのとなりで寝るから、お前は自分の部屋で寝てろよ。なんかあったら知らせるから」
「……はっちゃん」
「”はっちゃん”は大丈夫やから。なんならお前が眠っとるときかて四六時中そばにおったわけやないねんで。ほら夕飯食べよ、な」
「ウン」
 すると文次郎がワン、と八郎の足もとでひと声吠えた。
 どうやら「おれがそばにいるから心配するな」と言いたいらしい。それにつづいて、これまで姿を隠していたらしい小町もあらわれた。
「わたくしもおそばで見ておりますゆえ」
「小町ちゃん!」
 それを見て、大丈夫や、と微笑した柊介のことばでようやく納得したらしい。
 環奈はちいさくうなずいた。
「おねがいね、小町ちゃんと文次郎」
「はい」
「ワンッ」
 階下にくだる。
 あらかじめ柊介が用意していた夕飯を食べるために席に着いたふたりは、自然といつも八郎が座る席に視線を向けた。
「…………」
「はっちゃん、……」
 いつものダイニングが、今日はイヤに広く感じる。

 ※
 永い、永い時を経た。
 鬼一の身体が燃え朽ちてから、わたしはひとり和本を御蓋山のふもとへ埋めた。
 神のおわす場所。ぜったいにだれも立ち入ることのない禁忌の場所。ここならばハルカゲをしずかに眠らせてやることが出来るとおもった。

 それからはずっと、夢のなかでともに時をすごしてきた。
 ハルカゲのそばを寸分とも離れることなく、ただただ、彼のそばにいた。長き戦乱の世を迎えても、和本のなかはひどくおだやかのまま。
 なぜならこの歌集は、恋も、自然も、人の世も──すべてが込められたものだから。
 この空間だけは、かつて貴族が栄華をきわめたあのころのまま、自然を愛し、人を愛し、心に尽くした日々のままだったから──。
「…………」
 だけれど和本のなかにいるかぎり、ハルカゲがわたしを見ることはなかった。なぜならここには、あたたかい同志の影や主人の和歌があったから。
 わたしは和本が疎ましかった。
 ……だから、その日をずっと待っていた。

 千年の果て。
 ──鬼一の血がこの世に生まれ出でたことを知った。
 わたしの鼓動が、力が、それを教えてくれた。

 血だ。その血で和本の封を解いてしまえ。
 わたしは、鬼一の血を持つわずか四つの幼子を禁足地内へと呼び寄せた。やはり鬼一とおなじ匂いがする。わたしは待っていた。おまえをずっと待っていた──。

 近くで少女を見つけた。その少女からもなにゆえか鬼一の匂いを感じた。だから少女を幼子のもとに連れてきた。

 思ったとおり。
 和本は封が解かれた。
 ハルカゲは解き放たれ、和歌に宿った言霊ひとりひとりがこの世のどこかへと散らばってゆく。
 わたしはうれしくて、うれしくて──。
 けれどどうやらハルカゲは違ったみたいだった。

(私たちの和本がッ)

 封が解かれた直後に、彼はそういったのだ。
 違う。だめよハルカゲ。いい加減にもうわすれてよ。千年いっしょにいたのはわたしだよ。──ハルカゲ!

 けれどわたしの声など聞きもしないハルカゲは、鬼一の血をもつ幼子の夢路に身を隠した。
 和本が散らばってしまったいま、ハルカゲの帰る場所はやはり鬼一の血をもつ幼子のなかしかないと。
 わたしはもはやそれでもいいと思った。
 どうせ人間は七十年もすれば命も消える。それまでの辛抱だと。
 けれど、わたしは気がついてしまった。

 ──あの少女の夢にたびたびあらわれるひとりの男の影を。 
 
 イヤだ。
 イヤだ。
 せっかく和本がなくなって同志の影を消したというのに、今度はかつての主人が来るなんて。

「…………」
 もはや枯れ果てたと思っていた涙が、ふたたびこみあげる。
 あの日から、ハルカゲを守ると決めたはずのわたしが、ただひたすらにあの男の影からハルカゲを隠すことだけにつとめてた。きっとハルカゲはあの男と出会ってしまったなら、わたしを捨ててしまう。
 きっとわたしに見向きもせぬまま──行ってしまう。
 わたしは術に縛られたまま、ハルカゲのいない世界を永久に生きてゆくのだ。

 だから。
 それでもなんとか隠してきたのに。それなのにあの忌々しい犬が気付いてしまった。

 ──見ててごらん。おれがきっときみの主人をココに呼ぶよ。
 ──さあ胡蝶、いるんだろう。おれは知ってるんだ。きみがこれまでコイツを隠してきたこと。
 ──おれをどうにかしてみろ。きっと篁はここに来る。
 ──どうにもしないというなら、おれはコイツにすべてを話して聞かせてやるからなッ。

 文次郎という犬はひとしきり吠えた。
 わたしは、そのことばの最中にこちらを見つめるハルカゲの瞳がこわくて、こわくて──気がつけば文次郎の口をふさごうと、彼を捕らえてしまっていた。
 ハルカゲがわたしを見つめる。
 みないで。
「見ないで……ハルカゲ」
「ここから出ろ、あいつの夢に行けっ」
 文次郎がさけぶ。
 あいつ、とハルカゲはいった。
「鬼一の血を持つやつだよッ」

 そしてハルカゲは、逃げ出した。
 わたしから──逃げ出したのだ。

「……う、く──うあ」

 わたしはあの日からずっと泣き暮れている。
 ここがどこかもわからぬまま、途方に暮れて泣いている。

 でも、おもえばいつだってわたしは大切な人から見限られてきたような気がする。

 白い娘と罵られた六花。
 村の者からは忌み子とされ、村中から人間のなり損ないと言われてきた。
 そして父も──金と引き換えに娘を供物として差し出した。
 そうだ、いつだってそうだったじゃないか。
 
 この千年ですっかり忘れてしまっていたらしい。
 だって、和歌の世界はやさしかったから。何物をも拒まぬ、やさしい場所だったから。

 ────。

『人もをし 人も恨めし あぢきなく
        世を想うゆゑに もの思ふ身は』

 言霊である。
 しかし泣きつかれて暗闇に横たわる胡蝶は、もはやなんの感情も動きはしない。
 このまま──闇のなかへ消えてしまえたらどんなに。

「だれの情かとおもえば」

 声がする。
 目だけを動かして、そちらを確認した。
 闇のなかからあらわれたその姿に、胡蝶の瞳がゆっくりと見開いていく。

「…………」
「胡蝶、むかえにきたよ」

 いっしょにかえろう。
 といったのは、篁の横を歩く獣の玄影であった。

※ ※ ※
 ──この世はつまらない。
   しかし一番つまらぬものは、
   人をいとしくも、また恨めしくも思う
   わたし自身なのだ。──

 第九十九番 後鳥羽院
  題知らず。
  貴族社会の終焉に立会う
  院の哀愁を詠める。
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