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拾玖の抄 暗雲の兆し
其の弐
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二十六聖人殉教地。
この場所では、かつて豊臣秀吉の命により二十六名のカトリック信者が磔刑に処されたという歴史がある。思想の自由が当たり前になった現代、当時の処刑場跡には、二十六名の人物彫刻が施されたレリーフが立つ。
「…………」
高村は手鏡を覗く。
本来のつかいかたではないけれど、いまだけ、真実を映し出すというこの『浄玻璃鏡』に頼らざるにはいられなかった。
天に向かってまっすぐに伸びる十字架。張り付けられた人びと。泣き崩れる親にむかって『泣かないで』と微笑む子ども──。
「泣かないで、か」
鏡からレリーフに視線をうつした高村のくちびるから、ぽつりと漏れた。
レリーフに彫刻された二十六人のうち、少年が三人いることに気づく。彼らは最期まで、その信仰心が一瞬もブレることなく神に召されていったという。
(皮肉なものだ)
と、手鏡を懐にしまったときである。
皮肉やなァ──というつぶやきが真後ろから聞こえてきた。ぎょっとしてうしろを振り向くと、なぜか高村を盾にして八郎およびいつものメンバーがレリーフを見上げている。
「やっほ、センセ」
「なんやおまえら。びっくりしたやないか」
「だって先生がえらいぼうっと突っ立ってるからさあ。声をかけるにかけられんくて」
「……あっそう。いま皮肉やて言うたんだれや」
と高村が汗をぬぐうと、武晴が「ハイハーイ」と元気よく手をあげた。
だってさあ、と彼はふたたびレリーフを見上げる。
「救いを求めて神を信じたのに、そのせいで身をほろぼしたんやで。皮肉のほかのなにもんでもないやん」
「えっタケ、すげえ深いこと言うやん」
「やろ」
八郎の感嘆に胸を張る武晴。しかしそのとなりでレリーフをじっくりと見つめていた明夫は首を振った。
「でも気持ちは救われたんちゃうんか。なにも信じてへん人が迎える最期より、ずっと希望に満ちた最期やったかもしれん。……信仰ってそういうもんちゃうか」
「こ、このメガネ。たまに核心をつきよる」
一同はぎょっとして明夫を見据える。
その視線が恥ずかしかったのか、明夫はすっかり閉口してしまった。
「明夫のいうとおりやなァ」
高村がいった。
「『信仰をやめろ』と言われて『ハイ』とうなずき、このときに命が助かっていたとしたら──今わの際、きっと後悔に押しつぶされて何倍も苦しむ羽目になったかもしれんな」
「やっぱ宗教って怖ェ」
「ちゃうで、武晴。こうして彼らの勇姿を後世に残してでも伝えたいのはそこやない。明夫はわかるか?」
「えっ──」
とつぜん振られ、明夫は口ごもる。
ふたたび視線をレリーフに向け、
「強さ……?」
と自信なさげにつぶやいた。
ほかの三人が高村の顔色をうかがう。正解の是非を問うている目だ。
「うん。うん──せやな。強さ。心の支えともいえるかな。彼らは絶対的な存在である神を信じたことで、おのれの行動、思考すべてに確信をもつことができた。自分に確信が持てると人はつよくなる。失敗をおそれなくなって行動的になる──とかね」
「でも、宗教が戦争を引き起こしてるんは事実やで」
「そのとおりや武晴。でもそれは、人びとが外に神さまを見出すからやねん」
「外?」
ペットボトルのお茶を傾けた柊介の手がとまる。
「そう。神さまっちゅうのはな、ホンマはいつでも自分の内にいるものやねん。いっつも自分の内から自分のことを見守ってるもんや」
「その神さまってだれ?」
と袖をつかむ八郎に、「だれ──」と高村は苦笑した。
「誰かのう。だれでもあり、だれでもない。けれどその神さまを信じることができなきゃ、人はいつまで経っても自分の思うままに歩かれへん。だからといって……それはとてもむずかしいことやねんけどな。なんでやとおもう、柊介」
「え、……そら、人は弱いからなんちゃうん」
「そのとおりやな。人は弱い。心はすぐに折れるし疲れたらなにもかも嫌んなる。ひどいこと言われたら嫌いになるし、人を愛せば欲が出る。まったくどうしようもないアホタレや。それでもこの世の地獄の果てに、死後はどうか極楽へと願って正しい生き方を望むもんやから、外に神さま見っけて自分を正してくれる存在に縋るんや」
つまり、と高村はレリーフに背を向けて街中へと歩き出す。生徒たちもつられてそのあとに続いた。
「自分を律する人になれっちゅうことや。人類がみなそうしたらきっと自分は自分と割り切って、宗教戦争も起こらんようになる。……まあ、でもそうなったらなったでつまらん世の中になりそうな気もするけどな」
「なんやそれ」
「人の世っちゅうのは、いつでも混沌として理不尽で、呆れるくらいしょうもないもんやねん。せやから、いろいろ言うてもたが──お前たちはお前たちのままであれ。きっと変わってくれるなよ」
念押しするように八郎と柊介、武晴、明夫の頭を順番に撫でていく。
まるでお別れのあいさつかのようで、八郎はおもわず「先生」と呼びかけた。
「ん?」
「せ、先生──先生、来年もおれらの担任になってや。変わらへんところちゃんと見たってくれよ」
「なんやねん唐突に」
あまりにもとつぜんの話題転換に、高村だけではなく武晴や明夫までもが肩を揺らして笑いだす。ただひとり、柊介だけは表情が固かった。
「せやってもう十月も終わりやん。二年生ってあと五ヵ月もないねんで、おれクラス替えいややもん。この高村学級で三年も持ち越したい」
「アホ。むりに決まっとるやろ」
「いややァ」
「おまえ、ハチ。駄々こねんなよいきなり!」
えも言われぬ焦燥。
八郎の胸のなかによどむ不安が、気を逸らせた。
「だいじょうぶ」
しかし高村はそういって微笑した。
え、と顔をあげた八郎は息を呑む。これまでに見たことのないほど、慈愛に満ちた笑みだった。
「ちゃんと見てるから」
「…………」
どこから、とは聞けなかった。聞けぬまま高村はほかの場所も見て回るといってさっさと離れてしまった。
その背中が遠くて、とおくて──八郎は心細さのあまりに奥歯をぎゅっと噛みしめ、涙をこらえるほどだった。
この場所では、かつて豊臣秀吉の命により二十六名のカトリック信者が磔刑に処されたという歴史がある。思想の自由が当たり前になった現代、当時の処刑場跡には、二十六名の人物彫刻が施されたレリーフが立つ。
「…………」
高村は手鏡を覗く。
本来のつかいかたではないけれど、いまだけ、真実を映し出すというこの『浄玻璃鏡』に頼らざるにはいられなかった。
天に向かってまっすぐに伸びる十字架。張り付けられた人びと。泣き崩れる親にむかって『泣かないで』と微笑む子ども──。
「泣かないで、か」
鏡からレリーフに視線をうつした高村のくちびるから、ぽつりと漏れた。
レリーフに彫刻された二十六人のうち、少年が三人いることに気づく。彼らは最期まで、その信仰心が一瞬もブレることなく神に召されていったという。
(皮肉なものだ)
と、手鏡を懐にしまったときである。
皮肉やなァ──というつぶやきが真後ろから聞こえてきた。ぎょっとしてうしろを振り向くと、なぜか高村を盾にして八郎およびいつものメンバーがレリーフを見上げている。
「やっほ、センセ」
「なんやおまえら。びっくりしたやないか」
「だって先生がえらいぼうっと突っ立ってるからさあ。声をかけるにかけられんくて」
「……あっそう。いま皮肉やて言うたんだれや」
と高村が汗をぬぐうと、武晴が「ハイハーイ」と元気よく手をあげた。
だってさあ、と彼はふたたびレリーフを見上げる。
「救いを求めて神を信じたのに、そのせいで身をほろぼしたんやで。皮肉のほかのなにもんでもないやん」
「えっタケ、すげえ深いこと言うやん」
「やろ」
八郎の感嘆に胸を張る武晴。しかしそのとなりでレリーフをじっくりと見つめていた明夫は首を振った。
「でも気持ちは救われたんちゃうんか。なにも信じてへん人が迎える最期より、ずっと希望に満ちた最期やったかもしれん。……信仰ってそういうもんちゃうか」
「こ、このメガネ。たまに核心をつきよる」
一同はぎょっとして明夫を見据える。
その視線が恥ずかしかったのか、明夫はすっかり閉口してしまった。
「明夫のいうとおりやなァ」
高村がいった。
「『信仰をやめろ』と言われて『ハイ』とうなずき、このときに命が助かっていたとしたら──今わの際、きっと後悔に押しつぶされて何倍も苦しむ羽目になったかもしれんな」
「やっぱ宗教って怖ェ」
「ちゃうで、武晴。こうして彼らの勇姿を後世に残してでも伝えたいのはそこやない。明夫はわかるか?」
「えっ──」
とつぜん振られ、明夫は口ごもる。
ふたたび視線をレリーフに向け、
「強さ……?」
と自信なさげにつぶやいた。
ほかの三人が高村の顔色をうかがう。正解の是非を問うている目だ。
「うん。うん──せやな。強さ。心の支えともいえるかな。彼らは絶対的な存在である神を信じたことで、おのれの行動、思考すべてに確信をもつことができた。自分に確信が持てると人はつよくなる。失敗をおそれなくなって行動的になる──とかね」
「でも、宗教が戦争を引き起こしてるんは事実やで」
「そのとおりや武晴。でもそれは、人びとが外に神さまを見出すからやねん」
「外?」
ペットボトルのお茶を傾けた柊介の手がとまる。
「そう。神さまっちゅうのはな、ホンマはいつでも自分の内にいるものやねん。いっつも自分の内から自分のことを見守ってるもんや」
「その神さまってだれ?」
と袖をつかむ八郎に、「だれ──」と高村は苦笑した。
「誰かのう。だれでもあり、だれでもない。けれどその神さまを信じることができなきゃ、人はいつまで経っても自分の思うままに歩かれへん。だからといって……それはとてもむずかしいことやねんけどな。なんでやとおもう、柊介」
「え、……そら、人は弱いからなんちゃうん」
「そのとおりやな。人は弱い。心はすぐに折れるし疲れたらなにもかも嫌んなる。ひどいこと言われたら嫌いになるし、人を愛せば欲が出る。まったくどうしようもないアホタレや。それでもこの世の地獄の果てに、死後はどうか極楽へと願って正しい生き方を望むもんやから、外に神さま見っけて自分を正してくれる存在に縋るんや」
つまり、と高村はレリーフに背を向けて街中へと歩き出す。生徒たちもつられてそのあとに続いた。
「自分を律する人になれっちゅうことや。人類がみなそうしたらきっと自分は自分と割り切って、宗教戦争も起こらんようになる。……まあ、でもそうなったらなったでつまらん世の中になりそうな気もするけどな」
「なんやそれ」
「人の世っちゅうのは、いつでも混沌として理不尽で、呆れるくらいしょうもないもんやねん。せやから、いろいろ言うてもたが──お前たちはお前たちのままであれ。きっと変わってくれるなよ」
念押しするように八郎と柊介、武晴、明夫の頭を順番に撫でていく。
まるでお別れのあいさつかのようで、八郎はおもわず「先生」と呼びかけた。
「ん?」
「せ、先生──先生、来年もおれらの担任になってや。変わらへんところちゃんと見たってくれよ」
「なんやねん唐突に」
あまりにもとつぜんの話題転換に、高村だけではなく武晴や明夫までもが肩を揺らして笑いだす。ただひとり、柊介だけは表情が固かった。
「せやってもう十月も終わりやん。二年生ってあと五ヵ月もないねんで、おれクラス替えいややもん。この高村学級で三年も持ち越したい」
「アホ。むりに決まっとるやろ」
「いややァ」
「おまえ、ハチ。駄々こねんなよいきなり!」
えも言われぬ焦燥。
八郎の胸のなかによどむ不安が、気を逸らせた。
「だいじょうぶ」
しかし高村はそういって微笑した。
え、と顔をあげた八郎は息を呑む。これまでに見たことのないほど、慈愛に満ちた笑みだった。
「ちゃんと見てるから」
「…………」
どこから、とは聞けなかった。聞けぬまま高村はほかの場所も見て回るといってさっさと離れてしまった。
その背中が遠くて、とおくて──八郎は心細さのあまりに奥歯をぎゅっと噛みしめ、涙をこらえるほどだった。
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