胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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拾壱の抄 恋の淵

其の弐

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「えっ、仙石さんって彼女いてるんですか!」

 東大寺を右手に京奈和自動車道方面へ向かう。
 その車中で、助手席に座った松子がおおきな声をあげた。中央列に座る三名はその声量におどろいたか身じろぐ気配がする。
 仙石のうすいくちびるがわずかに弧を描いた。
「そんなに意外?」
「いや、なんか恋愛とか興味なさそ──っていうか、それうちらの知ってる人ですか」
「うん? ん──」
 カーナビを確認しながらの返答は、ひどくあいまいなものだった。松子は焦れたように「つぎの信号を右です」と助言する。
 カッチカッチとウインカーの音が車中にひびくなか、柊介が前席の間に顔を出した。
「いうても俺らが知ってる大学メンツで女子て、黒木さんと田端さんくらいしか知らへん」
「環奈さんもいてるで」
「可能性をかんがえろ」
「年上って可能性も──」
 と、明夫が唐突に会話に参加する。答えのないなかで憶測を飛ばしあう高校生たちに、仙石は「言うよ、いうから」と涼しげにわらった。

「黒木冴子。……これから行くペンションの持ち主のお嬢様や」

「ええっ」
 と声をあげたのは京子である。
 頬を真っ赤に染めて、なぜか柊介をちらちらとうかがいながらうつむく。
 それ、となぜかやけに積極的な明夫も前席の間に顔を寄せた。
「潮江さんとか知ってはるんですか」
「もちろん。学部生のころからやしな」
「だから仙石さん、このキャンプ前乗りしてはったんですか!」
 松子はぽん、と手をたたく。
 しかし仙石はそういうわけでは、と浮かない顔だ。
「この間いってきたフィールドワークのまとめを、環境整ってる冴子のペンションでやったろうってだけや。松子ちゃんが想像するような甘い理由とちゃうくてごめんけど、向こうもいまは研究一本やしな」
「えェ、色気なーい」
 という松子に「ちょっと」と京子が頬を赤らめた。が、仙石は「いやそのとおりやで」とわらう。
「高校生のがよっぽどまぶしい恋愛しよるわ」
「逆になんで付き合うって話に──なったんですか」
 明夫は真剣な顔をしている。
 恋愛モードでない女子に恋をしている者にとって、先駆者のたどってきた道を知ることは非常に大事である。
「なんで──ああ、ちょうどお互い調査に行きたいところが被っててんから、部屋代節約するために同室でええかって話になって。……まあ、そうなると形だけでも付き合うてることに、した方がええんちゃうかって僕が言うて。向こうもじゃあそれで、みたいな」
「ええええええ」
 松子はドン引きである。
 それは無理な戦法やな、とにやにや笑って明夫の背中をたたく柊介に、明夫は「うるさい」と険しい顔で眼鏡をくいとあげた。
「キスとかその先は?」
「松子ちゃん、ツッコむなァ。──」
「好きとかなんとかは、言うたことないんですか!」
「いやいやそらあるで。うん。まあ、ふだんは……いつもおおきにとか」
「それ、もはや熟年夫婦」
「ふっ」
 申し訳なさそうにつぶやいた京子のことばに、柊介がちいさく吹き出した。まさか彼にウケると思わなかった京子は耳まで真っ赤に染めてふたたび身を縮こませる。
 笑いごとちゃうわ、と松子はいった。声色がピリピリしている。
 しかし当の仙石はどこ吹く風で、オーディオをいじって曲をかけた。流れてきたのは九十年代を代表する夏の歌。高校生たちは自然とそちらに耳をかたむけ、あっさりとこの話はおわった。

 車は城陽JCTを過ぎ、第二京阪道路の京都方面を進む。
 四十分ほど走行したころには助手席の松子もすっかり寝入り、中央列からもかすかな寝息が聞こえてきた。
 バックミラーでようすを確認し、仙石がちょいとオーディオの音量をちいさくしたときだった。
「仙石さん」
 明夫だった。
 まだ起きていたのか、と仙石がふたたびバックミラー越しに彼を見る。明夫はどこか不安そうに眉をひそめてバックミラーのなかで仙石と見つめあった。
「どうした、千堂くん」
「あの──いまは?」
「うん?」
「付き合うたときはそれほどでもなかったみたいですけど、いまは……どうですか。ちゃんと、好きと思えてるんですか」
「…………」
 仙石は閉口した。
 オーディオから流れる音楽がポップスからバラードに変わる。すこしくぐもった声質の明夫の声が、やけに鮮明に聞こえてきた。

「そばにいれば、すこしずつ好きになるもんでしょうか」

 すこしずつ。
 塵が積もるように、恋心も──。
 
 それは、と仙石の重い口がひらいた。
「考えたこともなかった」
「…………」
「でも、そうやな──」
 ぼんやりとした笑みでそういうと、それきり仙石はじっくりと考え込んでしまった。
 明夫もそれ以上に詮索はせず口をむすんで車窓に目を向ける。となりの京子はぴくりとも動かぬなかで、その向こうに座る柊介がひとり身じろいだ、ような気がした。

 車はまもなく城南宮南出口を通って京都市街に入る。

 ────。
 一方そのころ。
 尚弥運転の車内では、大盛り上がりの恋バナ大会が繰り広げられていた。

「えェ~、尚弥さんチョー悲恋! マジ泣ける!」
「女の泣けるて八割ウソよな」
「あ?」
「おっ、お前最近ぶりっ子やめたん……?」
 最後部席の春菜と武晴の掛け合いをバックに、助手席の八郎がくいとうしろを見る。
「そのときに小町さんは尚弥さんたちに会うたわけか」
「ファミレスが世界一似合わへん人が来た思たわ」
 と尚弥はケラケラわらう。
 小町さん、と八郎がぐいとうしろに身を乗り出した。
「大活躍やったんスねェ」
 中央列に座る小町は頬を染めて得意げに微笑み、ブイサインを向ける。そのとなりに座る環奈は「でもねあのね」とはしゃいだように言葉をつづけた。
「マユちゃんもすっごい大活躍だったんよ。もうね、ほんとすっごかったの!」
「まあ──今回ばかりは田端にも感謝しとるわ。さすがに」
 という尚弥はすこし照れているのか、鼻頭をぽりぽりと掻く。
「マユちゃんとゴウくんは先にいるの?」
「たぶん電車かなんかで向かうてると思う。俺らより先につくかもな」
「なんだァ。いっしょに車で行けばよかったのに!」
「時間が未確定やってん。帰りはいっしょに帰るやろ」
「あーそっかぁ」
 ぼけっとした顔で返事をする環奈に、小町が「環奈」と小声でささやいた。
 なあに、と顔を向ける。彼女は心なしか瞳を泳がせて頬を染めている。
「廿楽さまも来る──?」
「ウン、タクミくんと潮江センパイとけーこちゃんも来るって言ってた!」
「そう」
「なあに、小町ちゃんタクミくんといっしょがいーの?」
「!」

 ハッ。
 と、車内に緊張が走る。
 小町が「そんな大きい声で」とひとり照れるなか、助手席の八郎がサッと最後部席に視線をうつす。春菜は横目で武晴の表情をうかがい、彼はぎょろりと目を剝いて小町を凝視している。
 しかしなおもエアークラッシャー環奈の口は止まらない。
「フィールドワークでもすっごく仲良しだったもンね! そっか小町ちゃん、タクミくんのことスキなんだァ」
「ちが、ちがうわ環奈!」
「そうやでかんちゃん、そんな憶測でものをいうたらあかん。せや小町さん、うしろの武晴くんなんかどないです? 廿楽先輩ほどやないにしても腕っぷしはたしかやし、女にはやさしいですよ」
「え──」
 と、小町はおそるおそるうしろを向く。
 その顔は思った以上に怪訝である。が、武晴はにっこにこわらって自分の胸をたたいた。
「ハイ! 自分でいうのもなんですけれど、優男ってことで名ァ通ってます。昨日も、この旅行で小町さんと逢えるて聞いたもんですから神社で縁結び守りなんか買うてきて」
「たけ、はる様は……」
 と小町は遠慮がちに口をひらく。
 しかしふたたび唇を結んで沈思熟考に入った。うしろから「気ィ遣わんと、本音いうたってください!」と春菜が満面の笑みでいうのを見て、ようやくおずおずと喋りだす。
「なんだか昔の友人を思い出して、どうにもそういうお気持ちにはなれず──ごめんなさい」
「ぶはっ」
 八郎と尚弥が同時に吹き出す。
 が、バッサリと愛の告白を切り捨てられた武晴を思って八郎は口元をパッと手で覆った。しかし口角はゆるい。
 とはいえ、言われた当人はたまったものではない。
「いやまだオレのことなんも知らんでしょ!」
「え、ええ。ですからべつにどこが似ているというわけではないんですけれど、なんかこう──なんとなく」
「ちゃうよタケちゃん。体よく断られてるってなんで気付かへんの。しつこい男は嫌われるで」
「仲宗根てめぇ」
 わめく武晴に一同はわっと笑い声をあげて、その話はそれきりとなった。

 その後も武晴はめげることなく小町に話しかけてはアタックを続けるが、小町とて、自分の立場を鑑みればその想いに応えられるわけもない。しまいには「武晴さまおしずかになさいませ」とそっぽを向いてしまった。
 さすがに笑うのも哀れだ。
 八郎と尚弥はちらとお互いの目を見合わせて肩をすくめた。
 しかしぶりっ子をやめた春菜に、
「縁結びどこで買うたん、そこの買わへんようにするわ」
 と冷めた声でばっさりと言いきられ、やがて武晴は不貞寝をしてしまう。

 ────。

『憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ
       はげしかれとは 祈らぬものを』

 浅い眠りのなか──。
 遠くでそんな歌を聞く。
 武晴はひとりさめざめと涙に暮れるのであった。

 ※ ※ ※
 ──つれない人が見てくれるよう、と
   初瀬の観音に祈ったはずだが、山颪よ。
   お前の風のように冷たくしろとは
   祈ってないぞ。──

 第七十四番 源俊頼朝臣
  詠み人の邸宅にて、
  恋の十首歌を詠んだ際、
  『祈れども逢はざる恋』の情を詠める。
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