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拾の抄 初恋
其の陸
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※
「近ごろは的を外さなくなりました!」
篁は高揚したようすで、父岑守のもとへ駆けた。
ここに越してきて一年。篁は十四歳となっていた。
背丈は五尺七寸とすっかり成長し、元服も間近に控えた彼は、近ごろ馬で駆けながら的を弓で射るという遊びが楽しくて、ひたすらその腕を磨く日常を送っていた。今日はひさびさに多忙の岑守が館へ戻ってくると聞き、弓馬の成果を報告したくて待っていたのである。
「おお、すごい上達ぶりじゃないか。それに篁、──たった七日ぽっち見なかっただけでまた大きくなったのではないか」
「はい。仕えの女たちが着物を縫ってくれますが、追いつかぬほど身体が毎日でかくなって」
「身体が痛いとしきりに言っていたものな。もうそんな時期になったか。これはうかうかしていると私も背丈を抜かされてしまう」
ははは、と朗らかにわらう父は篁の肩をポン、とひとつ叩いて執務室へと向かう。
篁は満足そうにひとり笑む。
この聡明でおだやかな父が、篁にとっては誇りであり憧れでもあった。こんな大人の男になりたいとすら思っていた。
「篁さま!」
と、庭から声をかけられた。
ハッと顔を向けると愛子がにこにこ笑って手招きをしている。
途端に篁の顔は不機嫌そうにむくれた。
──が、身体は素直にそちらに歩いていく。
「…………お前は見るたびいつも庭にいるな。なにしてる」
「桔梗の花を摘んでおりました」
「侍女にやらせないのか」
「自分で摘むのが楽しいんじゃありませんか。己の意志で好きなように収めていく──素敵でしょう。まだおこちゃまの篁様にはわかりますまい」
「なっ!」
「とはいえ、ここにいらした頃よりもすっかり大きくなられて、まもなくご元服もなさると聞きました。おめでとうございます」
「…………」
篁はむくれた顔でうつむいた。
どうなさったの、と愛子がその顔を覗く。
(こいつはいつもそうだ)
うらめしそうに彼女の顔を見つめた。
──どれだけこっちが大きくなったって、男らしく成長したって、こいつはこの厄介な姉貴面をやめようとしない。
無性にイライラして、下唇を噛む。
そして篁は彼女のかわいらしい顎をぐいと掴んで顔を寄せた。
「ひゃっ」
「元服の祝いはなにをくれる?」
こういうことをしたって彼女は意識のひとつもしてくれやしないんだ。
篁は内心でぐちぐちとひとりごちる。
しかし……。
「──あっ、お、お祝い」
と、愛子はカッと頬を染めて視線を左右に揺らした。
(おや)
篁は心のなかでおどろく。
思った以上のよい反応だ、とゆるむ口角に力をいれる篁の一方で、彼女はぐいと篁の胸をおして距離を取ろうとした。
「そ、そうですね。篁様がほしいものを差し上げましょう。あんまり高額なものは手が届きませんけれど」
「じゃあ」
お前がほしい。
──とは言わぬが、言ったらどんな顔をするだろう。
篁はじっくりと愛子の瞳の奥を覗く。すると彼女はたちまち耳まで真っ赤になってしまって、しまいには瞳に涙を浮かべてしまった。
(しまった、泣いた)
篁はパッと顎から手を離し、寄せていた顔も引っ込める。
どうにも気まずくてがしがしと頭を掻いた。彼女は彼女で、肩をふるわせて涙をぬぐっている。
「なにも泣くことないだろ!」
「泣いてませんッ。そうじゃなくて」
「そんなに嫌ならいいよ、別にお祝い品がほしいわけでもない」
「ちがうの、私があげたいの──なあに。じゃあ、のあと。いって」
「もう言いづらいよ」
「聞きたいの!」
「…………」
篁は眉を下げてちらりと彼女を見た。
一年、この館で顔を合わせてきたけれど、彼女がこれほどもろく泣き出す姿を見たのは初めてだった。この愛子という女は、ほかの女に比べればずっと気丈な女だとばかり思っていた。
「なにを──いうか忘れた」
「そんな」
「思い出したらまたいう」
「…………」
篁は館に戻ろうと踵を返したが、愛子はひるがえった彼の着物の裾をがしっと掴んだ。彼女の手から桔梗の花束がぱらぱらと落ちゆく。
なんだよ、といった彼に「あのね」と愛子がつぶやく。
「あげたいものはあるの」
「え?」
「でも、あなたがほしいものかどうか──」
篁はふたたび彼女を見た。
はやる気持ちを押さえつけるあまり掠れた声で、
「お前がくれるならなんでももらう」
といった。
すると彼女はさらに瞳を潤ませる。篁の首に両腕を巻き付けてきた。
とろけそうなほど甘い瞳で篁の目を射すくめる。
「たとえば」
彼女は、女の顔になっていた。
「私、でも……?」
「…………」
「この一年でひとり誓ったの。私の操をあなたに立てること──めいわく?」
篁はムッとした顔になる。
首からぶら下がる彼女の身体を抱きすくめて、
「思い出した」
とちいさくつぶやく。
「え?」
「ほしいもの」
あ、と口を開けた彼女のくちびるを指でなぞる。
「お前だ」
「…………」
──先にいうなよ。
と、いって彼女の唇に噛みつくように激しくキスをした。
若いゆえの荒っぽい口づけだったが、愛子は必死になってそれに応えた。ここが館の庭であることなどお構いなしに、ふたりはそれからしばらくお互いの唇をむさぼり合っていた──。
愛子が女児を出産したのは、篁が十五歳になった年のこと。
玉のような赤子は『比古姫』と名付けられ、たちまち里中の者から愛されるようになった。祖父となった岑守ももちろんのこと、篁もそれはそれはかわいがった。
しかし若年の篁には見えていなかった。
自分がいまどういう立場で、今後どうなってしまうのか──など。
「篁、都にもどることになった」
館の一室にて。
岑守にそう告げられたのは篁が齢十六となったころ。比古姫はまだ一歳になったばかりであった。
「…………」
しかし篁はまっすぐ岑守を見つめる。
「愛子も比古姫も連れて行きます」
「なにを馬鹿なことを」
岑守は静かに、諭すようにいった。
「お前はこれから出仕してもっと広い世界を見ていく。私のように任国へ行かされることもあろう。そんなときに、愛子をゆかりもない都にひとり置き去りにするのはあまりにも痛ましい。ならば彼女の親族がいるここに置いていったほうが彼女のためになろう」
「しかし──」
と言いかけて、しかし篁はくちびるを結んだ。
父が言うことがいままで間違っていたことがあっただろうか。──いや、ない。
とはいえここで諦めてうなずいてしまえば、篁は何もかも失ってしまうような恐怖を感じていた。
「ならばせめて、比古姫を」
「なんだって」
「比古姫は、あれは大きくなればじゅうぶん朝廷でも見劣らぬ女になりましょう。この私が教育もします。母や皆にも頼ることになりましょうが──比古姫はりっぱな子になる確信がある」
「それこそ、まだ一歳でとても長旅は」
「ですから」
私ひとりここに残ります。
と、篁は頭を下げた。
「しかしどうやって」
「父上が整えたこの地をもっと栄えさせます。父上がやってきたことを逐次見て参りました。私にもできます。それに愛子の父上の手伝いだってなんだってやります。あと、二年。比古姫の髪置の儀を終えたらそのときは比古姫とともに都へ戻ります。どうか父上、お許しください──」
「…………」
自尊心の高い篁がこれほど頭を下げるとは。
岑守はほとほと困り果て、挙句の果てに「二年だぞ」と念を押してその暴挙をゆるした。
とはいえ、里の者たちは篁の残留を聞いてたいそうよろこんだ。
岑守には返しつくせぬ恩がある。しかしその本人が都に戻ってしまうならばせめてその長子に恩を返そう、とみな温かく篁の子育てを応援する意思を見せたのだった。
それから宣言通り二年。
比古姫が三歳の髪置の儀を終えて四つも間近、篁が齢十八となった折にふたりは陸奥の血をあとにした。
(…………)
愛子は、泣かなかった。
篁は「かならず戻る」と彼女に言い聞かせたが、彼女はただちいさく微笑んだだけでなにを言うでもなかった。
「おもうさまァ」
「……なんだ、比古姫」
「おたあさまいっしょに行かないの?」
「────また、会いに来よう」
「うん」
ちいさな比古姫を抱え、篁は牛車に乗り込んだ。
ちらと館を見る。愛子は見送りにも出てはこなかった。
(好きだ、愛子)
たまらず篁は比古姫を抱きしめる。
くるしいよ、と舌ったらずにいう彼女のおでこを撫でて、篁はにじむ視界を振り払うように首を振った。
さらば、初恋の人。
また会いに来る。かならず。かならず──。
※
「それから三十年とすこし。隠岐に流された以外でおもうさまが京から出ることはついぞなかった──」
その夜、『花鳥』の女子部屋にて。
小町は身を横たえながらつぶやいた。となりには環奈が寝転がっている。
知る限りの両親のなれ初めを、小町は環奈に説いてやっていた。
「むっちゃんも会いたかったのネ」
「そうね。でも──結局、政略結婚とはいえ正妻をべつに持ってしまったのよ。かならず帰るなんて守れない約束をして……おたあさまをいつまでも縛り続けて。やっぱりひどい人」
「そ、……」
「だけれど、おたあさまが亡くなったことは──生きておられたうちに知っていたみたいなのよね」
「そうなの?」
「この姿になってから、ぽろりとこぼしたことがあったわ。……私には、昔から取り乱すところなんて一度だって見せたことがない人だから……まったく知らなかった」
と小町はさびしそうにつぶやく。
言うことが見つからず、環奈はただじっとその横顔を見つめることしかできなかった。その戸惑いを察したか、小町は苦笑する。
「もう寝ましょう。あしたは早い時間に出発するんですって」
「……ウン」
環奈は鼻頭のところまでかけ布団を引っぱる。
篁も小町も。
どちらも環奈にとって好きな人だから、いまの話を聞いたからといってどちらを非難することもできなかった。
ただ思うのは、どうか、
(愛子ちゃんとむっちゃんがまた逢えますように──)
ということだけ。
──。
────。
小野篁には、みょうな噂がある。
夜な夜な井戸から冥府へ通い、閻魔王の裁判の補佐をしている──という噂。
(そりゃあ嫌でも知ってしまう)
篁は苦笑した。
三途の川の先、十王裁判にはすべての死者がやってくる。
そのなかから愛しい者ひとり見つけられぬほど、薄情でもないつもりだ。
(愛子)
永久にとくべつな人。
私の──初恋。
”篁”は、五輪塔の前に腰を下ろす。
──わるかったよ。
夢路に咲く花を持ってきた。五輪塔の前にそっと添えて、篁は苔むす石塔に頬を寄せる。
(きみの前では、いくつ歳を重ねても思春期の青臭いガキに戻ってしまう)
きみが。
きみがあの世に来てしまったとき。
私がどんな気持ちだったかなんて、知らないだろう。
人の命はいつか消えゆく。
それは誰よりもわかっていたはずの、この私が。
『天津風 雲の通ひ路 吹きとじよ
をとめの姿 しばしとどめん』
無様にも手が震えた。
きみを引き留めてしまえたら。
天につづく路を閉じて、そばにとどめおいてしまえたら──どんなに。
────。
「……できなかったよ」
ぽつりといった。
やがて篁は、しずかに闇のなかへと消える。
夏の夜。
五輪塔の前には、月の光を煌々と浴びて美しく光る桔梗の花が一輪、ひとしれず揺れていた。
※ ※ ※
──天から吹く風よ。
彼女が還ってしまう雲の路を
どうか吹きとじておくれ。
まだその姿をとどめておきたいから。──
第十二番 僧正遍照
宮中行事『五節舞《ごせちのまい》』に
参列の折、
美しき舞姫を見て詠める。
「近ごろは的を外さなくなりました!」
篁は高揚したようすで、父岑守のもとへ駆けた。
ここに越してきて一年。篁は十四歳となっていた。
背丈は五尺七寸とすっかり成長し、元服も間近に控えた彼は、近ごろ馬で駆けながら的を弓で射るという遊びが楽しくて、ひたすらその腕を磨く日常を送っていた。今日はひさびさに多忙の岑守が館へ戻ってくると聞き、弓馬の成果を報告したくて待っていたのである。
「おお、すごい上達ぶりじゃないか。それに篁、──たった七日ぽっち見なかっただけでまた大きくなったのではないか」
「はい。仕えの女たちが着物を縫ってくれますが、追いつかぬほど身体が毎日でかくなって」
「身体が痛いとしきりに言っていたものな。もうそんな時期になったか。これはうかうかしていると私も背丈を抜かされてしまう」
ははは、と朗らかにわらう父は篁の肩をポン、とひとつ叩いて執務室へと向かう。
篁は満足そうにひとり笑む。
この聡明でおだやかな父が、篁にとっては誇りであり憧れでもあった。こんな大人の男になりたいとすら思っていた。
「篁さま!」
と、庭から声をかけられた。
ハッと顔を向けると愛子がにこにこ笑って手招きをしている。
途端に篁の顔は不機嫌そうにむくれた。
──が、身体は素直にそちらに歩いていく。
「…………お前は見るたびいつも庭にいるな。なにしてる」
「桔梗の花を摘んでおりました」
「侍女にやらせないのか」
「自分で摘むのが楽しいんじゃありませんか。己の意志で好きなように収めていく──素敵でしょう。まだおこちゃまの篁様にはわかりますまい」
「なっ!」
「とはいえ、ここにいらした頃よりもすっかり大きくなられて、まもなくご元服もなさると聞きました。おめでとうございます」
「…………」
篁はむくれた顔でうつむいた。
どうなさったの、と愛子がその顔を覗く。
(こいつはいつもそうだ)
うらめしそうに彼女の顔を見つめた。
──どれだけこっちが大きくなったって、男らしく成長したって、こいつはこの厄介な姉貴面をやめようとしない。
無性にイライラして、下唇を噛む。
そして篁は彼女のかわいらしい顎をぐいと掴んで顔を寄せた。
「ひゃっ」
「元服の祝いはなにをくれる?」
こういうことをしたって彼女は意識のひとつもしてくれやしないんだ。
篁は内心でぐちぐちとひとりごちる。
しかし……。
「──あっ、お、お祝い」
と、愛子はカッと頬を染めて視線を左右に揺らした。
(おや)
篁は心のなかでおどろく。
思った以上のよい反応だ、とゆるむ口角に力をいれる篁の一方で、彼女はぐいと篁の胸をおして距離を取ろうとした。
「そ、そうですね。篁様がほしいものを差し上げましょう。あんまり高額なものは手が届きませんけれど」
「じゃあ」
お前がほしい。
──とは言わぬが、言ったらどんな顔をするだろう。
篁はじっくりと愛子の瞳の奥を覗く。すると彼女はたちまち耳まで真っ赤になってしまって、しまいには瞳に涙を浮かべてしまった。
(しまった、泣いた)
篁はパッと顎から手を離し、寄せていた顔も引っ込める。
どうにも気まずくてがしがしと頭を掻いた。彼女は彼女で、肩をふるわせて涙をぬぐっている。
「なにも泣くことないだろ!」
「泣いてませんッ。そうじゃなくて」
「そんなに嫌ならいいよ、別にお祝い品がほしいわけでもない」
「ちがうの、私があげたいの──なあに。じゃあ、のあと。いって」
「もう言いづらいよ」
「聞きたいの!」
「…………」
篁は眉を下げてちらりと彼女を見た。
一年、この館で顔を合わせてきたけれど、彼女がこれほどもろく泣き出す姿を見たのは初めてだった。この愛子という女は、ほかの女に比べればずっと気丈な女だとばかり思っていた。
「なにを──いうか忘れた」
「そんな」
「思い出したらまたいう」
「…………」
篁は館に戻ろうと踵を返したが、愛子はひるがえった彼の着物の裾をがしっと掴んだ。彼女の手から桔梗の花束がぱらぱらと落ちゆく。
なんだよ、といった彼に「あのね」と愛子がつぶやく。
「あげたいものはあるの」
「え?」
「でも、あなたがほしいものかどうか──」
篁はふたたび彼女を見た。
はやる気持ちを押さえつけるあまり掠れた声で、
「お前がくれるならなんでももらう」
といった。
すると彼女はさらに瞳を潤ませる。篁の首に両腕を巻き付けてきた。
とろけそうなほど甘い瞳で篁の目を射すくめる。
「たとえば」
彼女は、女の顔になっていた。
「私、でも……?」
「…………」
「この一年でひとり誓ったの。私の操をあなたに立てること──めいわく?」
篁はムッとした顔になる。
首からぶら下がる彼女の身体を抱きすくめて、
「思い出した」
とちいさくつぶやく。
「え?」
「ほしいもの」
あ、と口を開けた彼女のくちびるを指でなぞる。
「お前だ」
「…………」
──先にいうなよ。
と、いって彼女の唇に噛みつくように激しくキスをした。
若いゆえの荒っぽい口づけだったが、愛子は必死になってそれに応えた。ここが館の庭であることなどお構いなしに、ふたりはそれからしばらくお互いの唇をむさぼり合っていた──。
愛子が女児を出産したのは、篁が十五歳になった年のこと。
玉のような赤子は『比古姫』と名付けられ、たちまち里中の者から愛されるようになった。祖父となった岑守ももちろんのこと、篁もそれはそれはかわいがった。
しかし若年の篁には見えていなかった。
自分がいまどういう立場で、今後どうなってしまうのか──など。
「篁、都にもどることになった」
館の一室にて。
岑守にそう告げられたのは篁が齢十六となったころ。比古姫はまだ一歳になったばかりであった。
「…………」
しかし篁はまっすぐ岑守を見つめる。
「愛子も比古姫も連れて行きます」
「なにを馬鹿なことを」
岑守は静かに、諭すようにいった。
「お前はこれから出仕してもっと広い世界を見ていく。私のように任国へ行かされることもあろう。そんなときに、愛子をゆかりもない都にひとり置き去りにするのはあまりにも痛ましい。ならば彼女の親族がいるここに置いていったほうが彼女のためになろう」
「しかし──」
と言いかけて、しかし篁はくちびるを結んだ。
父が言うことがいままで間違っていたことがあっただろうか。──いや、ない。
とはいえここで諦めてうなずいてしまえば、篁は何もかも失ってしまうような恐怖を感じていた。
「ならばせめて、比古姫を」
「なんだって」
「比古姫は、あれは大きくなればじゅうぶん朝廷でも見劣らぬ女になりましょう。この私が教育もします。母や皆にも頼ることになりましょうが──比古姫はりっぱな子になる確信がある」
「それこそ、まだ一歳でとても長旅は」
「ですから」
私ひとりここに残ります。
と、篁は頭を下げた。
「しかしどうやって」
「父上が整えたこの地をもっと栄えさせます。父上がやってきたことを逐次見て参りました。私にもできます。それに愛子の父上の手伝いだってなんだってやります。あと、二年。比古姫の髪置の儀を終えたらそのときは比古姫とともに都へ戻ります。どうか父上、お許しください──」
「…………」
自尊心の高い篁がこれほど頭を下げるとは。
岑守はほとほと困り果て、挙句の果てに「二年だぞ」と念を押してその暴挙をゆるした。
とはいえ、里の者たちは篁の残留を聞いてたいそうよろこんだ。
岑守には返しつくせぬ恩がある。しかしその本人が都に戻ってしまうならばせめてその長子に恩を返そう、とみな温かく篁の子育てを応援する意思を見せたのだった。
それから宣言通り二年。
比古姫が三歳の髪置の儀を終えて四つも間近、篁が齢十八となった折にふたりは陸奥の血をあとにした。
(…………)
愛子は、泣かなかった。
篁は「かならず戻る」と彼女に言い聞かせたが、彼女はただちいさく微笑んだだけでなにを言うでもなかった。
「おもうさまァ」
「……なんだ、比古姫」
「おたあさまいっしょに行かないの?」
「────また、会いに来よう」
「うん」
ちいさな比古姫を抱え、篁は牛車に乗り込んだ。
ちらと館を見る。愛子は見送りにも出てはこなかった。
(好きだ、愛子)
たまらず篁は比古姫を抱きしめる。
くるしいよ、と舌ったらずにいう彼女のおでこを撫でて、篁はにじむ視界を振り払うように首を振った。
さらば、初恋の人。
また会いに来る。かならず。かならず──。
※
「それから三十年とすこし。隠岐に流された以外でおもうさまが京から出ることはついぞなかった──」
その夜、『花鳥』の女子部屋にて。
小町は身を横たえながらつぶやいた。となりには環奈が寝転がっている。
知る限りの両親のなれ初めを、小町は環奈に説いてやっていた。
「むっちゃんも会いたかったのネ」
「そうね。でも──結局、政略結婚とはいえ正妻をべつに持ってしまったのよ。かならず帰るなんて守れない約束をして……おたあさまをいつまでも縛り続けて。やっぱりひどい人」
「そ、……」
「だけれど、おたあさまが亡くなったことは──生きておられたうちに知っていたみたいなのよね」
「そうなの?」
「この姿になってから、ぽろりとこぼしたことがあったわ。……私には、昔から取り乱すところなんて一度だって見せたことがない人だから……まったく知らなかった」
と小町はさびしそうにつぶやく。
言うことが見つからず、環奈はただじっとその横顔を見つめることしかできなかった。その戸惑いを察したか、小町は苦笑する。
「もう寝ましょう。あしたは早い時間に出発するんですって」
「……ウン」
環奈は鼻頭のところまでかけ布団を引っぱる。
篁も小町も。
どちらも環奈にとって好きな人だから、いまの話を聞いたからといってどちらを非難することもできなかった。
ただ思うのは、どうか、
(愛子ちゃんとむっちゃんがまた逢えますように──)
ということだけ。
──。
────。
小野篁には、みょうな噂がある。
夜な夜な井戸から冥府へ通い、閻魔王の裁判の補佐をしている──という噂。
(そりゃあ嫌でも知ってしまう)
篁は苦笑した。
三途の川の先、十王裁判にはすべての死者がやってくる。
そのなかから愛しい者ひとり見つけられぬほど、薄情でもないつもりだ。
(愛子)
永久にとくべつな人。
私の──初恋。
”篁”は、五輪塔の前に腰を下ろす。
──わるかったよ。
夢路に咲く花を持ってきた。五輪塔の前にそっと添えて、篁は苔むす石塔に頬を寄せる。
(きみの前では、いくつ歳を重ねても思春期の青臭いガキに戻ってしまう)
きみが。
きみがあの世に来てしまったとき。
私がどんな気持ちだったかなんて、知らないだろう。
人の命はいつか消えゆく。
それは誰よりもわかっていたはずの、この私が。
『天津風 雲の通ひ路 吹きとじよ
をとめの姿 しばしとどめん』
無様にも手が震えた。
きみを引き留めてしまえたら。
天につづく路を閉じて、そばにとどめおいてしまえたら──どんなに。
────。
「……できなかったよ」
ぽつりといった。
やがて篁は、しずかに闇のなかへと消える。
夏の夜。
五輪塔の前には、月の光を煌々と浴びて美しく光る桔梗の花が一輪、ひとしれず揺れていた。
※ ※ ※
──天から吹く風よ。
彼女が還ってしまう雲の路を
どうか吹きとじておくれ。
まだその姿をとどめておきたいから。──
第十二番 僧正遍照
宮中行事『五節舞《ごせちのまい》』に
参列の折、
美しき舞姫を見て詠める。
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