白蛙

寺尾友希(田崎幻望)

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白蛙

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「ねえ、私、せんだって、珍しい格好、してましたでしょう?」

 出会ってから、一年あまりになるだろうか。不意に、女が、そんなことを言った。

「有島武郎さんて方、ご存知? その方のね、お葬式でしたのよ」

「ああ、確か、首を吊ったのだそうだね。軽井沢の方だったか。新聞に、そう載っていた」

 女は白い蛙のような、ぬめぬめとした肌を持っていた。女はそのナメクジのような白い指でほつれた髪を掻きあげると、赤黒い蛭のような唇で、ぬとっと笑った。

「あなたの好きな文士の方が、これでまた一人、亡くなってしまいましたわね」

 彼は、こういった類の女が決して好きではないし、時にひどく醜く見える三十も間際なこの女ことを、心の端でずっと嫌悪していた。男にすがってしか生きられぬ女なら、まだ可愛げがある。けれど、この女は。

「いいじゃないか。いや、むしろうらやましいよ。僕は。文士というものがね。
 僕もかつては、そういうものに憧れたものだった」

「まあ。そのお終いが、自殺だったとしても?」

 彼は、裕福な商家に生まれた次男坊だった。商才豊かで利発な兄とは一線を隔し、幼いころより、甘やかしてくれる祖父母の下、文学にしか興味を示さない愚鈍な弟だった。やがて帝大へと進学した彼は、当然のように、文士への道を夢想していた。
 貧しいながらも、三畳ほどの下宿に住まい、時折出版社へ送る書き溜めた小説くずによって幾ばくかの収入を得、不釣合いな商売女に入れあげて、悩み苦しみ、若い命を散らしてみる。そんな生き方もあるのだと、当時の彼は、本気で思っていたものだった。

「そんな人生も、そう捨てたものでもないじゃあないか。
 それもまた、文士というものだよ」

 帝大二年の夏。けれど彼は、甘く暗い夢想の沼から、現実の縁へと引きずり出された。将来を嘱望された兄が労咳に倒れ、兄を溺愛していた父も、気落ちの余り床につき、ついには起き上がることもなくこの世を去った。
 それまで、彼以外にとっては全く無価値であった彼の生は、家を守り、家名を支え、多くのものを負わされて生きるものへと形を変えた。そこにあったのは、無駄に費える時を愛しんだ文学青年のひと時ではなく、家のため他人のために時を擦り減らす、商家の主としての一生だった。

「まあ、本当に?
 ……ねえ、本当、それなら」

 黒目がちの濡れた女の瞳が、ぬとりと笑った。

「私たちも、やってみませんこと?」


 彼と女とは、そうして、ただ、文士への憧憬と興味のみから、心中しようと決めてしまった。別れがたさからでもなく、真実愛し合った証でもなく、ただ、何とはなしに、どうでもいい女と死ぬ。それもいいかも知れない、と、ぼんやりと彼は、そう思った。それは彼という人格の終わりですらなく、文人趣味の行き着く所の形としての心中だった。


「首吊りの死体というのは、醜いらしいね」

 女と別れ、家で独り巻き煙草など燻らせていると、悪い冗談だとしか思えない約束事ではあったが、女との逢瀬を重ねる内、次第に彼は、彼の方からその話を持ち出すようになっていた。

「まあ、有島さんは、首吊りでしたのよ。軽井沢で。
 知り合いの記者が見に行ったらしいけれど、あまり気持ちのイイものじゃあないと、嘆いておりましたわ。
 お仕事とはいえ、本当に気の毒」

 女は、彼が忘れてきた若いころの夢想を、そのまま人型に充てたような生き物だった。昔、吉原にいたという女の白い肌は、男を惑わすに十分な甘い腐臭を放っていたし、世に文士と言われる輩とも、奇妙な親交を持っていた。女の唇から零れる最新の文壇の睦言は、長く文学というものから離れていた彼を、甘く暗く魅了した。

「僕たちが死ぬとしたら、水死かな。こう、足首と足首とを、君の帯下で結んで」

「水死も醜うございますわ。それに、確率が低いんですって。生き残ってしまっては、塩梅がよろしゅうありませんわ」

「そうだね、片方だけ死んでしまう、というのは具合が悪いね。両方生き残ってしまったら、笑い話にもならないだろうけれど」

「死に際が汚いのは嫌ですわ。この年になってまで、人の笑いものになるのは、嫌」

 彼が大学を辞めて、一年を待たずに、彼の父は逝った。さらに五年が経ち、いよいよ兄も危なかろう、ということになって、彼は、兄の勧めで、一人の女を娶った。以前、華族の家に奉公に上がっていたというその妻は、中々上品な、線の細い女だったが、彼の好みではなかった。おそらく、兄の勧めでなければ、縁付くことなどなかっただろう。何より、文学というものを、全く解さないのがいけなかった。
 兄が逝き、母が倒れ、妻が母の世話にかかりきりになると、彼が家の外に女を作るのは、ほとんど当然のことのようであった。

「そう、君の言う通りだ。
 そうすると、何かな。もうこの話は、お終いかな」

「あら、でも、せっかくこういうことになったんですもの、何か、もっと格好のよい死に方を見つけて、きっと、きっと実行しましょうよ。
 そのときは、私、きっと真っ白い薔薇の花を用意して、私たちの素敵な最期に手向けますわね。
 最期のとき、目に映るのは、綺麗なもののほうが良いもの」

 人の世の汚泥に染まった女は、なぜか、白く美しいものを好んだ。西洋では、秘密の会合を行うとき、白い薔薇の花を吊るすのですって、と嬉しげに言うと、その次の逢瀬から、度々女の部屋には、白い薔薇の花が生けられるようになった。薔薇の棘に傷つけられた白い指から、つぅっと赤い血の筋が滴り、それは赤い蛭の唇に吸われた。

「でも、無理に摘み取られた命の最期は、きっと醜いだろうと思うよ。墜落死も見られたものじゃあないと聞くし、汽車なぞに飛び込んだら、身元も判別できないようになる。
 いっそ、それも良いかも知れないが」

「そうですわね。きっと、私たちの死に様は汽車を利用する人たちに毒づかれて、回収し忘れた私の指を見つけた若い人たちが、枕木に白いナメクジがいる、と騒ぐんですわ。
 怖いと言うお嬢さんに、退治してやると粋がった書生さんが、私の指に近づいて、きっと悲鳴を上げて逃げ出しますわね。お嬢さんを置いたまま。
 ほほ、そんなストゥリーが生まれるのなら、それも良うございますかしら」

 彼は一瞬、どきりとした。女の指を白いナメクジのようだと、彼は常々思っていた。

「君というひとは、まったく面白いことを考えるものだね。君の白い指を、ナメクジなぞと見間違えるはずもないよ。
 ああ、そうだ。ひとつ、薬というものを忘れていた」

「薬?」

「そう、砒素といったか。
 鼠を殺すときに使うものだが、量が多いと、人さえも殺せると、以前何かで読んだことがある。
 けだるい午後の日差しの中で、エウロパ風の庭園を臨み、白薔薇を浮かべた紅茶を前に、白い大理石の寝椅子にもたれて緩やかに死んでゆくんだ。
 どうだい、君の好みに合うだろう?」

 女は、ゆっくりと目を見張った。

「まあ、まあ、本当に。
 きっとそんな心中の仕方、どんな文士の方だって思いつきもしませんわ。軽井沢の太い梁に縄をかけるより、暗い河に二人で身を投げるより、よっぽど素敵な死に様ですわ。
 ああ、私、あなたに会えて本当に良かった。
 きっと、きっとですわよ。もう、約束してしまいましたからね?」

 女は、頬擦りでもするように、彼の腕に抱きついた。
 それから女は、にっと笑い彼の耳元に口を寄せると、でも、私、砒素よりももっと良い薬を存じてますの、そちらにしましょう、と囁いた。


 彼が最初に女と出会ったのは、一年前の春。春雨のけぶる中、赤い唐傘、臙脂の着物の女が、片方の下駄を片手にぶら下げて、ぼうと四辻に立っていた。車の窓からそれを見かけた彼は、その女がそういう類の女である、とすぐに分かったが、車を止め、女を乗せた。千切れた鼻緒を直してやるでもなく、ただ行く先まで送り届け、そりまま戸を閉め、走り去った。
 背後で女が何か言ったようだったが、二度とは会わぬ女のこと、と、彼は気にも留めなかった。
彼が二度目に女と出会ったのは、五月雨の日、かつての友人宅でのことだった。その昔彼が帝大にいたころ、共に夢を語り、文学に溺れた友だった。彼が退学してからは、その時に至るまで久しく会っていない……未だにどっぷりと文学の沼に浸かりきった男だった。
 同好の士を集めたという会に、似合わぬ女が、ひとりいた。今風の耳隠しとかいう髪型に、頬紅など差した、洋装の三十がらみの女。
 女は、彼を見、微笑んだ。彼の記憶に、その女の顔は既になかった。女の服装は、どこかわざとらしいほどに、その女の白い肌によく似合った。彼は、背筋のどこかで、何か嫌悪に似たものを感じた。
彼が三度目に女と出会ったのは、梅雨の長雨に濡れる、田舎道でのことだった。女は傘も持たず、農家の軒先で、ぼんやりと灰色の空を眺めていた。濡れた喪服に泥のはねた草履が、その女には、ひどく不似合いに思えた。
彼に気づかぬまま空を見上げる女の横顔は、なぜか儚いほどに幼げで、それでいて、どこかぞくりとさせる色気を感じた。
 兄の命日、墓参り帰りの彼は、女と似たり寄ったりの格好をしていて、不意に声をかけた彼に、女はしばらく不可解な表情を見せた。
 知人の葬式のついでに、古い知り合いの命日が今日だったのをふと思い出し、墓に詣でてきたのだと、女はぼんやりと告げた。
 そういえば、兄の墓に、まだ新しい女物の唐傘が差しかけてあったのを、彼は思い出した。
 近くに車を待たせてある、送ろう、と声をかけると、女は、そっと彼の傘の中に入った。
 肩を寄せて歩くうち、女の赤い唇から、独りごとめいて微かな言葉がこぼれた。

「嫌な人でしたの……。こんな私に、一緒になろう、なんて冗談。人を本気にさせておいて、そのうち、ふいっといなくなって。人づてによこした手紙には、すまない、とだけ書いてありましたわ……。
 大きな商家の跡取りでしたから、仕方ない、と思ってましたのよ。それなのに、亡くなってから人づてに聞きましたわ。労咳だったのですって。私にうつしちゃならないと、手紙もよこさず……。
 もう、何年も前のお話」


 何度目かに女と会ったとき、彼と女は、もう、そういう関係になっていた。女は、彼がその兄の弟だということを知らず、そして彼は、女自身にさしたる興味も持っていなかった。
 女が白薔薇の話を持ち出したのは、ちょうどその頃のことだったかも知れない。
 彼と女とが出会って一年以上が経ち、そしてあの約束を交わしてからしばらくしても、彼と女との関係は、当時とそう変わることはなかった。彼は、まだ、血肉の端の到る所で、信じきれてはいなかった。男を糧としか捕らえていない白蛙が、惚れてもいない男と、本当に死ぬつもりでいるのか……。

「いつが、よろしくて?」

 窓の外の五月雨を聞くともなしに聞きながら、新聞に目を落としていた彼は、え? と紅茶を淹れかけていた女に問い返した。

「軽井沢のおうちが、整いましたのよ。お任せしていた方から、連絡があって。
まだ、私も、それからは行っていないのですけれど」

 彼の言った内容を現実のものとするために、軽井沢のほうに別荘を求め、そこを女の好きに任せようと、あの後彼はそう言った。その後、ぴったりの物件が見つかりましたのよ、と一度女が言ったが、それきり話題にも上らないので、彼はすっかり忘れてしまっていた。確かに彼のほうにも一度、別荘の代金が請求されはしたものの、彼にとってそれは、忘れてしまうに足るほどの、ささいな金額に過ぎなかった。
 ひょっとしたら、女が、自分の金を足していたのかもしれない。

「そういえば、そんな話もしていたね。
 君がちっとも何も言わないから、あの話はもう、お終いになってしまったのかと思った」

「あら、まあ、それじゃあ、私と一緒に死ぬのは、やっぱり嫌だと、そうおっしゃるの?」

「そうは言っていないよ。
 ただ、急な話だからね、僕にも都合というものがある」

「旅行に行こう、っていうんじゃありませんのよ。それなのに、都合だなんて。
 私たちがいなくなった後のことなんて、気になさらないでくださいましな」

「確かに君の言う通りだけれど。
 着いてすぐに死ぬ、というのも色気がないじゃあないか。二、三日ゆっくりとせっかくの庭を愛で、薔薇を浮かべたお湯に浸かって、それからだって良いじゃないか。
 せっかく舞台を拵えたんだよ。あまり短い公演じゃあ、役者だって物足りないんじゃあないかい」

 不承不承にも女を納得させると、彼は、彼の今の大きな仕事が終わって、一週間ほどの休みが取れたら、ということにした。六月の薔薇のほうが見事だろう、せっかくなら、舞台が最高に美しいときに死のうじゃないか、と言う彼に、女は今度こそ納得して承知した。

「それなら、僕らが死んだ次の日に、何か用を言って人を呼んだほうがいいね。時間の経った死体は見苦しいから」

「あら、それならきっと大丈夫ですわ。
 知人から、素敵なお薬を分けてもらいましたの。外国のお薬で、人が死んだ後、その人を腐らせない作用のあるものなんですって。
 ねえ、きっと、きっとですわよ。
 六月の、薔薇の一等綺麗なときに。
 約束を破っちゃ、嫌ですわ」


 薔薇の香る六月。軽井沢の別荘は、それは素晴しい出来に仕上がっていた。女の理想に沿うように、専門の職人が設計し、改造したのだという。完成してから訪れるのは初めてだという女も、大理石の像の立ち位置が少しずれていることに文句を言ったが、不満らしい不満と言えば、ただそれだけであったようだった。
 白い薔薇と肌色の薔薇が波のようにうねり、所々に散らされた赤黒い薔薇は大地から流れ出た血のようで、石造に絡みつく黄色の蔓薔薇は、そこから滲んだ膿だった。
 女の、斜陽の趣味が良く現れた庭園……女が、幼い頃見た景色に、どこか似ているとポツリと漏らした。この白蛙のような女も、元は大家の生まれであったのかと、彼は意外に思った。男の生き血を吸うために生まれたような、この女が。

「素晴らしい庭だね。君は一種の、天才だろう」

 女の白いナメクジの指が彼の首筋にぬとりと絡み、二人だけの数日間が始まった。それは死への秒読みではなく、ただ終わりなき濃密な時間の始まりだった。二人にとって死は終焉でなく、単なる途中経過に過ぎない。この毒蜜の中に溺れる、甘い永遠の時への。

「もう、そろそろですわね」

 四日目の夜。白い蛙の腹のような肌をさらしつつ、夜気の中で、女が言った。六月にしては暑い晩、ムカムカとした濃密な熱気の中、その蛙の肌は、ぬめぬめと動いた。ナメクジの指も、血吸い蛭の唇も、真昼の白い陽の下で見れば醜悪なほどであったが、この初夏の暗い熱気を通して見れば、その肌の艶かしさは遠く素人女の追従を許さない。
 こうなった今でさえ、彼は未だに信じきれてはいない。この女が、本当に死のうとしているのか。

「そろそろ……そうだね。もう、そろそろだ」

「もう、四日目が終わりますわ。
 約束、お忘れになったら、きっと許しませんわ。
 私たちの素敵な事件が、いつかきっと新聞に載って、真似なさる方が、何人かおりますかしら」

「きっといるに違いないよ。
 僕みたいな文士かぶれと、君みたいな趣味のいい人が、どこかで出会えば」

 女は、くつくつと無邪気に笑った。けれどそれさえもが計算し尽くされた商売女の振る舞いだと、彼は疾うに承知していた。

「そういえば、ずいぶんと遅くなってしまった。
 僕が本気ではないのかと、君に心配させてしまったね。
 それじゃあ、明日の午後にしようか。
 紅茶に薔薇の花弁を浮かべて、薬と、香料を入れて。そう、ブランデーもたっぷり入れようか。
 月明かりに薔薇を眺め、けだるい緩やかな死を迎えよう」

 抱き寄せた女の体は、まるで巨大な白蛙のようだった。彼は生理的にこの女を嫌悪し、けれど、どこかで愛しく思う気持ちもあるような気がした。彼は、この女も自分も、互いを求め合ってなどいないことを知っていた。彼にとって女は文人趣味の一部であって、女にとって彼は、数多い男の中の一人だった。
 その女と、明日死ぬ。その酔狂が、たまらなく愉快だった。
 彼の腕の中で、不意に女が、くつりと笑った。
 女も、きっと自分と同じことを考えているのだろうと、彼は思った。


「ねえ、何か、ご不満はありまして?」

 女の設えた舞台は、彼にとってみても、文句のつけようがなかった。薔薇園に臨む白い大理石の寝椅子、西洋風の卓、頭上からは、白い薔薇の束が吊るされていた。無論、自分たちの死体が、直接陽に晒されるような無粋はしない。
 彼が、女を近くに置いた理由の一つが、見事に体現されていた。女の割に、実に良く文人趣味というものを理解している。

「いや、完璧だよ。君ほどの才女は、またといない」

「まあ、そんなに褒められたら、照れてしまいますわ。最期の時に、ご不満があったら嫌ですもの、一生懸命設えましたのよ」

 女が紅茶を淹れ、懐から出した小瓶の中身を、二つの器にトロリと入れた。僅かに、ブランデーが香った。二人で寄り添うようにひとつの寝椅子に座ると、彼はためすように言った。

「何か、思い残すようなことはないかい?」

「まあ、今更になって。
 今夜は、全ての終わりじゃあなくて、続きの始まり。素敵ですわね、私たちの時が、永遠になるなんて」

「そうだね」

 不意に、彼は理解した。女が、本気で死のうとしていること。そして、なぜ死のうとしているのか。女にとって、一緒に死ぬのが誰でもかまわなかった。ただ、ひとりで死ぬには寂し過ぎた。そこに、彼がいた。
 けれど、女が何を思い死ぬのであろうと、彼は別に構わなかった。まあ共に死んでやってもいいか、と思った。自分でも、物好きだと思った。

 女は銀のさじを取ると、平生の好みに反して、紅茶に砂糖を何杯も入れた。女に勧められ、彼も自分の器に二回、銀のさじを運んだ。
 うっとりと彼に寄り添う女の顔は、どこか空ろだった。
 女の白い指が動き、卓上に飾られた白薔薇の花弁をちぎると、彼と自分の器に浮かべた。その様はどこかけだるげで、ゆるやかに朽ちゆく、血肉の嘆きを思わせた。
 彼が女の黒い髪にそっと口付けると、女は僅かに身を離し、少し上目がちに、淡く彼を見やった。
 その目に促されるように、彼は微かに笑うと、白磁の器を手に取った。口元で僅かに傾けると、彼の好みとはほど遠い甘味が、口内に広がった。ブランデーの香も本来彼はあまり好きではなかったが、どこか異物の不快を和らげてくれるような錯覚を覚えた。
 女が彼を見上げ、仄かにくつりと笑った。
 彼が甘さにためらう内に、女はゆっくりと自分の器に白い指を絡め、彼に柔らかな視線を投げつつ、口元に運んだ。赤い蛭のような口唇が、白磁の器の縁に付いた。
 こくり、と女の白い喉が動いた。
 ためらうでもなく、戸惑うでもなく、ゆっくりと、けれど確かに毒を飲み干しゆく女の白い喉に、彼の視線が絡んだ。白い、蛇の腹のような。

 女が、微笑んだような気がした。

 女の指が取り落とした白磁の器が、ゆっくりとその足元へこぼれた。緩やかに前へのめり、石の卓へと倒れ伏す女の唇から、つうっと一筋の赤いものが滴った。
 全ては、無音の世界の出来事だった。
 倒れた女の顔は、苦痛に僅かに眉を寄せながらも、まるでひとつの芸術のように、不思議なほどに幼く、生あった瞬間より遥かに美しく見えた。

 女の硝子の瞳に、彼が映ることは、なかった。



 あの時、彼は、逃げ出した。
 死ぬことが、怖かったわけではなかった。
 ただ、ただひたすらに、全ての感情を失った、幼く美しすぎる女の死に顔が、恐ろしかった。
 無我夢中で逃げ出し、途中の川で、水を飲み、飲んでは吐いた。気が付いたとき、彼は近くの医師の家で介抱されていたが、その時には、彼がただ一口だけあおった毒は、彼の体から、半身の自由を奪っていた。

 一週間後、彼は駆けつけた妻と共に家へと戻り、その後、人に命じて、軽井沢の別荘を厳重に封鎖させた。彼が再び、その地を訪れることは決してなかったが、終生その地のことを忘れることはなかった。

 事件の一年後、養生を続ける彼と妻との間に一人の娘が生まれた。取り上げられたその娘を抱いた彼は、軽く首を傾げると、その子に『ひさ』と名を付けた。
 それは、軽井沢のとある屋敷で、今も薔薇園を望み、変わらぬ姿を保ちつづけているだろう、一人の女の名であった。

 




 
(注・この話はフィクションであり、実際の人物、団体、機関、史実等とはいっさい関係ありません)
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みんなの感想(1件)

堅他不願(かたほかふがん)

 文人趣味というよりダダイズムを感じるお話でした。ダダイズムを文学史の仇花とするか先駆者とするかは人によりけりでしょうが、ご作品は純文学の体裁を取りつつも主人公の人生史をクローズアップした点においてはミニマム(?)歴史小説であるとも思います。

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