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1 悪役令嬢ルミカーラ
しおりを挟む「マズいっ、マズいっ、マズいわっ」
わたし、リーシャ・サイゼルは焦りと共にガシガシと親指の爪を噛んだ。
焦ったときの癖が、生まれ変わってもまだ消えない。
そう、わたしリーシャは転生者だ。前世は日本に暮らしていた。そして、今生きているこの世界は、前世で読んでいた、いわゆる『悪役令嬢もの』のライトノベル、『玲瓏たる悪役令嬢は華麗につまびく』の世界で、わたしはそのヒロインポジション。そう、悪役令嬢が主役の小説の、悪役ヒロインポジ。
何を言っているのか自分でも良く分からなくなってきたけれど、王太子にすり寄り、婚約者である文武両道優れた公爵令嬢を無実の罪で陥れようとし、逆に自分が罪を暴かれて『ざまぁ』されるのが、このわたし、リーシャ・サイゼルなのである。
生まれはお約束の平民、そこから子爵家に引き取られ養子となっている。
ピンクブロンドの髪にイチゴのような瞳、可愛らしい容姿もお約束。
そう、自分で言うのもなんだけど、王子様でもコロッといっちゃいそうな可愛い見た目だ。
その上、平民には珍しい強力な治癒魔法もお約束。
庶民の学校で頭一つ飛び抜けた成績なのもお約束。
それが、良くなかった。
出る杭は打たれるどころか、悪質な貴族に引き抜かれてしまったのである。
この『玲瓏たる悪役令嬢~』略して『レイつま』の悪役ヒロイン、リーシャは決して王妃になりたいとか王太子が好きとかいう自分の野心で王子や側近を誘惑しているわけではない。
養父であるサイゼル子爵に、実の母親を人質に取られ、計算され尽くした愛らしい女生徒を演じ、王子たちに取り入り情報を引き出すことを強制されているのである。
サイゼル子爵は他国と通じ、国の中枢の情報を求めている。あわよくば、将来国を背負って立つ王太子とその側近がくだらない恋愛沙汰で評判を落とし、この国がガタガタになれば良いと狙っている。
前世の記憶が戻ったのは、舞台となる学園の入学式。これまたお約束である。
その時には、既に現世でのわたしの母さんは病に倒れ、母さんの親切な友人の紹介で知り合った、薬草に明るい貴族――つまり、サイゼル子爵の元で療養していた。母さんの治療には希少な薬草が必要で、全部で五回の投薬が必要となる。わたしは、その五回の投薬と引き換えに、王太子殿下、側近の宰相子息、騎士団長子息、留学してきている隣国の第二王子、王弟殿下の五人の心をつかまなければならない。
いや、無理じゃね?
特に王弟殿下。四十歳だよ? 接点皆無だよ?
これが乙女ゲームでわたしがゲームを周回していた廃プレイヤーだったとかならまだしも、ここは悪役令嬢ルミカーラが主役のライトノベルなのである。わたしが好きだったのもルミカーラだった。ヒロインがどうやって王太子や側近を攻略していったかなど記憶の彼方である。子爵家で仕込まれた男性攻略法的なものはあるが、そもそも出会えなければ活かしようがない。
まぁとりあえずそれは置いておいて。
お気づきの方もいるかとは思うが、前世の記憶を取り戻したわたしは知っている。『母の親切な友人』というのは優秀で男好きのするわたしを取り込もうとしたサイゼル子爵が母さんに近づけた手下で、『母の病』そのものが『友人』の盛った毒によるものだった。『五回の投薬』というのも『希少な薬草』というのも真っ赤な嘘で、単に飲ませる毒の量の匙加減。毒を少なくすれば母さんは復調するし、多めに飲ませれば死にそうになる。
わたしが子爵の優秀なコマでいる限り、ある意味母さんの命は保証されているっていうことだが……それで安心出来るはずがない。
一番の問題は、母さんがサイゼル子爵の元にいるということだ。
サイゼル子爵の本性や裏事情が分かっていたとしても、治癒魔法に秀でただけのわたしが貴族家の別邸に忍び込んでほとんど動けない母さんを救出することは出来ない。
前世、家族との縁が薄かったわたしにとって、惜しみなく愛情をそそいでくれた現世の母さんは何者にも代えがたい存在だった。
毒を盛られ、次第に手足の自由を失いながらも、わたしのことばかり気遣っていた母さんの姿が目に浮かぶ。陽気でいつも笑っていた元気な母さんに戻って欲しかった。『薬に詳しい貴族』という人を紹介して欲しいと願ったのは、むしろわたしだった。知らなかったとはいえ、わたしは進んで、母さんを悪魔の手に渡してしまったのだ。
母さんは子爵の手の内、子爵に逆らえないわたしは母さんに会うこともできない。母さんを苦しめる子爵の機嫌を伺い、憎い相手の役に立たねばならない。
罪悪感と、贖罪と。
それを救ってくれるのが――悪役令嬢、ルミカーラ・フォルゲンシュタイン公爵令嬢だ。
「それなのに、なんで悪役令嬢がいないのよっ!?」
そう、『レイつま』の悪役令嬢ルミカーラは王太子殿下の婚約者のはず。
それなのに、この世界の王太子殿下には婚約者がいない。
フォルゲンシュタイン公爵家の令嬢は、いるにはいる。けれど……
「なにあのもっさりした公爵令嬢……メイドは何をしてるのよ……」
学食の太い柱にへばりつき、こっそりとフォルゲンシュタイン公爵令嬢をうかがうわたしを、通り過ぎる学生達が奇異の者を見る目で見ているけれど、それどころではない。
計画通り王太子殿下に近づき、それとなく悪役令嬢――婚約者の存在に関して尋ねたわたしは、殿下の返答を聞いて白目をむきそうになった。
ヒロインが白目とか、ダメ、ゼッタイ。
王太子殿下には、婚約者がいない。
フォルゲンシュタイン公爵令嬢とは夜会などで会ったことはあるものの、学園で個人的に話したことも接触したこともない、と。
あべべべべ、としか言いようがなかった。
確かに『レイつま』の悪役ヒロイン、リーシャ・サイゼルは断罪される。
けれど、同時に悪役令嬢ルミカーラの活躍によってリーシャはサイゼル子爵に利用されていた被害者であることもつまびらかにされ、かなり衰弱はしていたものの母さんは救出され、リーシャはルミカーラ嬢の監視下に置かれる――という名目で、ルミカーラ嬢付きの女官となる。
だから、わたしは『レイつま』のストーリーに不満はなかった。現状は泥沼の中を這いずっているかのようだったが、ストーリーさえ進めば必ず母さんは救われる。それはたったひとつの希望だった。
良くも悪くも、『レイつま』の物語では、勇者や聖女が現れたり魔王が人間を滅ぼしたりはしない。人間同士の悲哀こもごも。それが『レイつま』である。『レイつま』通りにストーリーが進まなかったからといって、世界が滅びたりはしない。悪役令嬢が悪役令嬢ではなくもっさり令嬢で、王太子に興味がなく、わたしが王太子に好かれて王太子妃になったとしても――母が薬漬けにされ、わたしも母も救われない、たったそれだけ。大勢に影響はない。
だが、それでは困るのだ。
世界が困らなくても、わたしの心が死ぬ。
「今日も王太子殿下は一番にミューリア様にお声をかけてくださいましたわね!」
「さすがは婚約者候補の一翼ですわ」
「ミューリア様は侯爵家のご令嬢ですもの、殿下も真剣に考えてくださっているに違いありませんわ!」
「本日の王太子殿下もまこと麗しくあらせられて……」
「ミューリア様を置いて、あの秀麗な殿下の隣にいらっしゃられて見劣りしない令嬢など存在しませんわ」
柱にへばりついたままルミカーラ・フォルゲンシュタイン公爵令嬢を観察していると、騒々しい集団が学食へとやって来た。
「あら、ごめんあそばせ」
侯爵令嬢の機嫌を取るのに、前を良く見ていなかった取り巻きに押され、ルミカーラ嬢はよろめいて尻餅をついた。その手からこぼれ落ちた教科書やノートが床に散らばり、風に遊ばれてパラパラとめくれた。
(!)
ミューリア侯爵令嬢達は、倒れたルミカーラ嬢に手を貸すでもなく口先だけで詫びるとそのまま通り過ぎた。公爵令嬢に対してやっていい言動ではないが、この世界でルミカーラ嬢はフォルゲンシュタイン公爵令嬢だとほとんど知られていない。わたしも、王太子殿下から話を聞いて、探しに探してようやくたどり着いたのだ。貴族令嬢の見た目を整えるにはそれなりの財力が必要となる。今のルミカーラ嬢の外見は、服こそ制服でミューリア嬢と同じものの、もっさりとした長い前髪に黒縁眼鏡、後ろに長く垂らしたレンガ色の髪に艶はなく、艶のない爪も短く切りそろえ、指先はどこか黒ずんで、男爵か騎士爵、平民、良くて子爵の妾腹といったところ。公爵家の人間にはとても見えない。ミューリア嬢たちもまた、格下の身分の女生徒だと認識したのだろう。
けれど、そんなことはどうでもいい。
「大丈夫ですかっ!?」
わたしは思わず隠れていた柱の陰から飛び出し、ルミカーラ嬢へと駆け寄った。
打算ではない。本能だ。影ながら観察していたことなど、すっかり遙か彼方へと吹っ飛んでいた。
何故なら。
「……橘 蒼花先生ですよねっ、生まれる前からファンでしたっ」
ルミカーラ・フォルゲンシュタイン公爵令嬢が落としたノート。それは講義のノートなどではなく、美麗な神絵が描かれた、スケッチブックだったのだ。
ガシッとルミカーラ嬢の手を握り、キラキラとした目で見つめるわたしに、ルミカーラ嬢は引いたようだった。
「なんの……ことかしら」
「わたしが先生の神絵を見間違うはずがありませんっ。確かに拝見したことのないキャラ、おそらく先生のオリジナルキャラクターなのでしょう、前世、わたしが死ぬまでには発表されたことのない人外ですが、先生の特徴的で緻密な線使い、体毛の一本一本にまで魂の宿った神々しいまでの幻獣は蒼花先生にしか描き得ない傑作です。幻獣の体を彩る装飾品のデザインも……ああ、私の語彙能力が今試されている……精緻で幻想的でリアルで……私も蒼花先生のイラスト集を参考に学びましたが、蒼花先生の足下にも及ばない……ああ、もちろん保存用のイラスト集は未開封のまま神棚に祀ってます。イベントでは先生がブースを出すと聞く度に毎回徹夜で並んで、先生に一番に名前入りでイラストを描いて頂いていたんですよ……っていうか、あのイラスト集にスケッチブック、わたしのお宝はわたしの死後どうなったんだろう? ひょっとして、価値を理解していない両親に棄てられていたりとか……? ああ、すみませんっ蒼花先生っ、先生の貴重なオーキス様の生絵をなんてことっ」
興奮のあまり、怒濤の勢いでしゃべり倒したわたしに、ルミカーラ嬢は戸惑った顔をしつつも、確かに言った。
「……そのテンション、押しキャラ、まさか『花もぐら』さん?」
「やっぱり蒼花先生だ! 覚えててくださったんですね!」
『花もぐら』はわたしの前世のハンドルネームだ。喜びに思わず握った手をブンブン振るわたしに、ルミカーラ嬢――蒼花先生がためらいがちに口を開く。
「えっと、とにかく、場所を移しませんか……?」
「先生の描かれる人外も素敵ですが、わたしが先生を知ったきっかけは、長✕副ですっ。わたしが産まれるより前からあの作品のあの二人を……っ」
爆上がりしたテンションのまま、蒼花先生の作品の素晴らしさを垂れ流していたわたしは、蒼花先生――ルミカーラ嬢に、バシッと両手で口を塞がれた。
「場所を、移し、ません、か?」
眼鏡越しにも怒りを浮かべるレンガ色の目に押され、わたしはコクコクと頷いた。
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