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影双形対を願う 3
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朧がこの小さな集落に来たのは、三年ほど前のことだった。
当時、ここから少し離れた場所にある山道を進んでいた朧は、山に住んでいる人ならざる何かたちが噂話をしているのをたまたま耳にし、この集落を訪れたのだ。
『山の麓に流れる大河の主がな、この道をずっと行ったところにあるあのちんけな集落で、近々嫁取りをするそうだぞ』
『嫁取りとな。いやしかし、あの主の嫁取りと言ったら、生きたまま生皮を剥いだり、身体を端から少しずつ喰ったりというあれだろう? 娶った女と心から一体になるためだのなんだのとのたまっているらしいが、ありゃ主のただの趣味だ。やれやれ、選ばれた娘はたまったものではなかろうなぁ』
『だからと言って、主の強大な力に抗える生き物はそうおるまい。可哀相なことだが、天災とでも思って諦めるしかなかろうよ』
子供のように高く軽やかな声たちがひそひそと言い合っていたそれに、朧はすぐさま行き先を件の集落へと定めた。いつものように、強大な力を持つ主とやらが、自分の根源と何か関わりがないかと期待してのことだった。
だが、ここで朧はひとつ大きなことを見落としていた。
彼らのような人ならざるものの時間感覚と人間の時間感覚は、大きく異なるのだ。
(普段人間の噂話ばかりを頼りに旅をしていたせいで、あのときはどうも感覚が狂ってしまっていたな……)
朧は当時の自分を思い返しながら、ぼんやりとそんなことを思った。
朧が集落に足を踏み入れてから三年余り、件の大河の主とやらは一向に姿を見せず、彼は薬師兼便利屋のようなものとして、この集落に随分と定着してしまった。
(三年もひとつの場所に留まるなんて、何十年、いや、何百年ぶりかな)
基本的に、化け物退治なり病の治療なり呪いの処理なりの用事が済めば、さっさと立ち去るというのが朧の信条だ。それは、朧が持つ力に人々が溺れないための措置であり、朧自身が己の正体と人助け以外に価値を見出していないが故の行動でもある。
そんな朧なので、ひとところに留まることがあったとしても、概ねひと月が精々だった。
それが、この集落ではもう三年だ。
時間を無駄にしたとは思わない。そもそも朧は己に寿命というものがあるのかどうかすら疑う程度には長く生きていているので、そんな無限にも思える時間の僅かばかりを無意味に過ごしたところで、大して困りはしないのだ。
ただ、何の進展もなく時間だけが過ぎ去っていくのは、どうしても心地が良いとは言えなかった。
そう考えてから、朧は深く息を吐いた。
矛盾である。己の正体を知るための歩みが止まっていることを僅かでも憂うのであれば、ここから離れれば良いだけの話なのだ。大河の主が現れるのがいつになるか判らないのであれば、ここに標を残して一度立ち去り、主がやってくる予兆を感じ次第、戻ってくれば良い。朧にとって、遠く離れた場所の変化を感じ取ったり、その場所まで一瞬で移動することなど、造作もないことだ。もっと言えば、広大な大河のどこにいるのか判らない主を探し出すことだって、容易にできるだろう。
だが朧は、そのどれをも実行することなく、ただこの集落に留まり続けている。
(もともと、ひと月程度か、長くても半年あれば済むものと思っていたのだけれど、それがまずかったな……)
そう。半年以内に片付くのであれば、わざわざ理から外れた己の不思議な力を使わずとも良いだろうと、流れに身を任せることにしたのだ。そして、朧が思い込んでいた“近々”と噂話をしていた彼らにとってのそれに大きなズレがあると思い至ったときには、彼はもうこの集落に気持ちの一部を根付かせてしまっていた。
丘の上から、朧は集落を見下ろす。その優し気な眼差しが向けられているのは、集落の中をあちらへこちらへぱたぱたと走り回っている、一人の娘だ。
まだ二十歳を迎えてもいないだろう彼女は、この集落で生まれ育った薬師で、名を鈴と言う。なんでも彼女は、赤子の頃に集落の入り口にいつの間にか捨てられていて、それを憐れんで引き取った薬師の元で、薬について学びながら育ったらしい。
親であり師である薬師というのが、また大層な腕利きで、そんな薬師に師事した彼女もまた、お世辞抜きに優秀な薬師であると朧は思っている。
実際、この集落で起こる怪我や病に関しては、朧が手を出さずとも、彼女と彼女の師の二人だけで十分解決できるほどだった。朧がやることと言えば、薬ではどうしようもない、人ならざるものの些細な悪戯から生じる身体の不調などを解消したりだとか、あとは専ら、屋根の修理をしたり子守をしたりなどの雑用ばかりだ。
だが、それはとても良いことだと朧は思う。いずれは立ち去る朧がいなくては回らないような集落よりも、朧を必要としない集落の方が、ずっと良いのだ。
この集落には、怪我人や病人を毎日尋ねて様子を見たり処置を施したりしてくれる鈴がいて、その師である薬師もいる。少なくとも、ここは薬師の朧を必要とはしていない、とても恵まれた場所だ。
それならば尚のこと、さっさと集落を離れて次の場所に向かえば良いという話なのだが、その合理的な考えを、朧は気持ちで拒絶し続けている。
(……離れたくない、と思ってしまうのは、あまり良くないことなんだけれどね)
内心でそう呟きながら、薬を必要としている人々の元へと走っていく鈴を眺めていると、ふと顔を上げた彼女が、丘にいる朧に気づいて手を振ってきた。
そんな彼女に向かって、柔らかく笑んで手を振り返せば、彼女は笑みを浮かべている顔を一掃嬉しそうに綻ばせて、もう一度だけ大きく手を振り返してくれた。
そんな些細なやり取りで、こんなにも朧は満たされる。伽藍洞のような器が、朧も知らない何かで埋められていく。
それがどうにも手放しがたくて、件の主が現れるまではと、ずるずるとこの集落に留まり続けているのだ。
とくりとくりと音を立てる中身を押さえるように、そっと胸を撫でてから、朧は静かに目を閉じた。
当時、ここから少し離れた場所にある山道を進んでいた朧は、山に住んでいる人ならざる何かたちが噂話をしているのをたまたま耳にし、この集落を訪れたのだ。
『山の麓に流れる大河の主がな、この道をずっと行ったところにあるあのちんけな集落で、近々嫁取りをするそうだぞ』
『嫁取りとな。いやしかし、あの主の嫁取りと言ったら、生きたまま生皮を剥いだり、身体を端から少しずつ喰ったりというあれだろう? 娶った女と心から一体になるためだのなんだのとのたまっているらしいが、ありゃ主のただの趣味だ。やれやれ、選ばれた娘はたまったものではなかろうなぁ』
『だからと言って、主の強大な力に抗える生き物はそうおるまい。可哀相なことだが、天災とでも思って諦めるしかなかろうよ』
子供のように高く軽やかな声たちがひそひそと言い合っていたそれに、朧はすぐさま行き先を件の集落へと定めた。いつものように、強大な力を持つ主とやらが、自分の根源と何か関わりがないかと期待してのことだった。
だが、ここで朧はひとつ大きなことを見落としていた。
彼らのような人ならざるものの時間感覚と人間の時間感覚は、大きく異なるのだ。
(普段人間の噂話ばかりを頼りに旅をしていたせいで、あのときはどうも感覚が狂ってしまっていたな……)
朧は当時の自分を思い返しながら、ぼんやりとそんなことを思った。
朧が集落に足を踏み入れてから三年余り、件の大河の主とやらは一向に姿を見せず、彼は薬師兼便利屋のようなものとして、この集落に随分と定着してしまった。
(三年もひとつの場所に留まるなんて、何十年、いや、何百年ぶりかな)
基本的に、化け物退治なり病の治療なり呪いの処理なりの用事が済めば、さっさと立ち去るというのが朧の信条だ。それは、朧が持つ力に人々が溺れないための措置であり、朧自身が己の正体と人助け以外に価値を見出していないが故の行動でもある。
そんな朧なので、ひとところに留まることがあったとしても、概ねひと月が精々だった。
それが、この集落ではもう三年だ。
時間を無駄にしたとは思わない。そもそも朧は己に寿命というものがあるのかどうかすら疑う程度には長く生きていているので、そんな無限にも思える時間の僅かばかりを無意味に過ごしたところで、大して困りはしないのだ。
ただ、何の進展もなく時間だけが過ぎ去っていくのは、どうしても心地が良いとは言えなかった。
そう考えてから、朧は深く息を吐いた。
矛盾である。己の正体を知るための歩みが止まっていることを僅かでも憂うのであれば、ここから離れれば良いだけの話なのだ。大河の主が現れるのがいつになるか判らないのであれば、ここに標を残して一度立ち去り、主がやってくる予兆を感じ次第、戻ってくれば良い。朧にとって、遠く離れた場所の変化を感じ取ったり、その場所まで一瞬で移動することなど、造作もないことだ。もっと言えば、広大な大河のどこにいるのか判らない主を探し出すことだって、容易にできるだろう。
だが朧は、そのどれをも実行することなく、ただこの集落に留まり続けている。
(もともと、ひと月程度か、長くても半年あれば済むものと思っていたのだけれど、それがまずかったな……)
そう。半年以内に片付くのであれば、わざわざ理から外れた己の不思議な力を使わずとも良いだろうと、流れに身を任せることにしたのだ。そして、朧が思い込んでいた“近々”と噂話をしていた彼らにとってのそれに大きなズレがあると思い至ったときには、彼はもうこの集落に気持ちの一部を根付かせてしまっていた。
丘の上から、朧は集落を見下ろす。その優し気な眼差しが向けられているのは、集落の中をあちらへこちらへぱたぱたと走り回っている、一人の娘だ。
まだ二十歳を迎えてもいないだろう彼女は、この集落で生まれ育った薬師で、名を鈴と言う。なんでも彼女は、赤子の頃に集落の入り口にいつの間にか捨てられていて、それを憐れんで引き取った薬師の元で、薬について学びながら育ったらしい。
親であり師である薬師というのが、また大層な腕利きで、そんな薬師に師事した彼女もまた、お世辞抜きに優秀な薬師であると朧は思っている。
実際、この集落で起こる怪我や病に関しては、朧が手を出さずとも、彼女と彼女の師の二人だけで十分解決できるほどだった。朧がやることと言えば、薬ではどうしようもない、人ならざるものの些細な悪戯から生じる身体の不調などを解消したりだとか、あとは専ら、屋根の修理をしたり子守をしたりなどの雑用ばかりだ。
だが、それはとても良いことだと朧は思う。いずれは立ち去る朧がいなくては回らないような集落よりも、朧を必要としない集落の方が、ずっと良いのだ。
この集落には、怪我人や病人を毎日尋ねて様子を見たり処置を施したりしてくれる鈴がいて、その師である薬師もいる。少なくとも、ここは薬師の朧を必要とはしていない、とても恵まれた場所だ。
それならば尚のこと、さっさと集落を離れて次の場所に向かえば良いという話なのだが、その合理的な考えを、朧は気持ちで拒絶し続けている。
(……離れたくない、と思ってしまうのは、あまり良くないことなんだけれどね)
内心でそう呟きながら、薬を必要としている人々の元へと走っていく鈴を眺めていると、ふと顔を上げた彼女が、丘にいる朧に気づいて手を振ってきた。
そんな彼女に向かって、柔らかく笑んで手を振り返せば、彼女は笑みを浮かべている顔を一掃嬉しそうに綻ばせて、もう一度だけ大きく手を振り返してくれた。
そんな些細なやり取りで、こんなにも朧は満たされる。伽藍洞のような器が、朧も知らない何かで埋められていく。
それがどうにも手放しがたくて、件の主が現れるまではと、ずるずるとこの集落に留まり続けているのだ。
とくりとくりと音を立てる中身を押さえるように、そっと胸を撫でてから、朧は静かに目を閉じた。
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