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思ひ寝の共 2

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 そうして、窓の外の景色が四季の巡りを幾度も経て、何度目かの葉が赤く色づく季節が庭園を彩ったとき。いつものように襖を開けて入ってきた男の姿に、椿は小さく首を傾げた。
(あれ……?)
 すっかり見慣れたはず男が、初めて見る表情を浮かべている。どこか張り詰めたような、それでいて何も映していないような、うろのような顔だ。その目がいつものように小鳥へと向けられたときにだけ、微かな笑みを浮かべたものの、成り損ないというのが相応しいような代物で、それもすぐに消え失せてしまった。
 今までにない男の姿に、椿は俄かに不安になった。ざわざわと落ち着かない心地が背筋を舐める。そんな椿の前で、男は常の通り小鳥の元へと真っ直ぐに向かい、鳥籠の目の前まで来たところで動きを止めた。そのまま、いつものように世話を始めるでもなく、ただじっと小鳥を見下ろす。
 そんな男の異様さに小鳥も気づいているのか、小鳥は小さく控えめな声でひとつ鳴いた。それを聞いた男は微かに目を細め、それから、そっと鳥籠の扉に手をかけた。そして、そのまま扉をゆっくりと開けると、籠の中に手を差し入れて小鳥を呼び、彼の声に応えて指にとまった小鳥を、籠の外へと出してしまった。
 それを見た椿の目が、驚きに見開かれる。椿が断片的に見てきた数年の日々の中で、男が小鳥を籠の外に連れ出したことなど、ただの一度もなかったのだ。
 餌箱や水の入れ替えをするとき、男は小鳥が外に出ないように注意を払いながら、慎重に籠の扉を開けていた。鳥籠の掃除をするとき、男は別の小さな籠を用意して、それの口と普段の籠の口とを合わせて小鳥を移動させていた。この数年の中で、男は小鳥を籠の外に出すような気配など、欠片さえ見せたことがなかったのだ。
 そんな男によって外に連れ出された小鳥は、しかし何処かへ飛び立つようなこともなく、大人しく彼の手にとまっている。まるでいつにない男の雰囲気を心配するかのように、こてりこてりと首を傾げながら、小鳥は窺うように男を見上げた。
 そんな小鳥に、男の表情が一瞬歪んだように見えた。本当にただの一瞬で過ぎ去ったため、ともすれば気のせいかと思ってしまうほどだったが、それにしてはやけに悲痛で苦しみを帯びた表情が、椿の目に焼き付いた。
「――」
 男が小鳥の名を呼ぶ。美しく囀って応える小鳥に彼が言ったのは、いつもとは違う言葉たちだった。
「いつも、ありがとう。お前は俺の救いだ。お前だけが俺の光だ。俺の愛しき花よ、俺は――」
 男がはくりと口を閉じて、言葉は最後まで紡がれずに途切れてしまった。その代わりとでも言うかのように、男は小鳥をとめた手をそっと自身の口元へと引くと、小さな赤い頭に唇を寄せた。そこにどれだけのものが込められているのか、椿では計り知ることもできない。ただ、男のうろの中に、その瞬間だけは、かすかな光が宿ったように見えた。
 口づけはほんの数瞬で終わりを告げ、男はゆっくりと顔を離すと、鳥を手に部屋を出て行った。
 廊下へと姿を消した男によって閉められた襖をしばし呆然と見つめていた椿は、そこではっと気づく。男がいなくなったにも拘らず、場面が切り替わらないのだ。男の消え方も、今までは一瞬で姿を消していたのが、今回は普通に歩いて部屋を出て行った。
(明らかに今までと違う、けど、……追いかけた方が良いんだろうか)
 少なくとも、男と小鳥に何かしらの変化があったのは事実だろう。代り映えなく過ぎていく日々が崩れたのなら、そこにこの状況を打開する何かが転がっているかもしれない。
 部屋から出るのは少し不安だが、変化のある今が好機に違いないと、椿は拳を握って自分を奮い立たせ、外へ出るために襖に手を伸ばした。が、
「――ぅわっ!」
 椿の手が襖に触れる前に、突然襖が開いた。驚いた椿は思わず声を上げてから、慌てて数歩後ろへ下がる。
 襖を開けて姿を見せたのは、先程出て行ったはずのあの男だった。一瞬また場面が切り替わり時が巡ったのかと思った椿だったが、男の髪型や服装を見るに、どうやら彼は、先程出て行った彼と地続きの存在であるようだった。
(び、びっくりした……)
 まさか戻って来るとは思わず、ばくばくと煩い胸に手を当てながらも男の観察を続けた椿は、ふと気づいた。
 男の手に、あの美しい小鳥の姿がない。手どころか、彼の肩にも頭にも、どこにも小鳥はいなかった。
 それをはっきりと認識した途端、異様なほどの不安と疑念と混乱が椿を襲った。
「っ、ぅ」
 確かに今、小鳥はどうしたのだろうと疑問に思った。戸惑いもしたし、現状に不安も感じている。だが、それにしたって、こんなにも大きく心が揺れるのはおかしい。男と小鳥を見守っていたときに感じた多幸感もそうだが、こんなにも感情を揺さぶられるとなると、彼らに対して相当な思い入れが必要な筈だ。
(なんだろう、まるで、誰かの心がそのまま僕の心になったみたいな……)
 強烈な感情の波に、椿は片手で頭を押さえながら蹲った。もう片方の手では掻き毟るようにきつく胸元を握り、自分の心が波に浚われてしまわないよう、必死に耐える。
 そんな椿の視界の端に、鳥籠へと向かう男の足が映った。ぐらぐらとふらつきそうな頭を抱えながら、椿がどうにか男を見上げると、彼は鳥籠にそっと手を伸ばしているところだった。
 もう何もいない空の籠に、それでも殊更優しい手つきで、男が触れる。
 位置と角度の問題で椿からは男の表情を窺うことができなかったが、ただ、
「――」
 泣いていなければ嘘だろうと思うような濡れた声がひとつ名を紡いで、そして、男の姿はそこでふつりと消えた。
 静まり返る部屋の中、椿はゆっくりと立ち上がる。先程まで椿を襲っていた不安と疑念と混乱の奔流は、男が消えると同時に椿の中から消えた。代わりに今は、胃の腑の底まで埋めるような、空虚な寂寥がひたひたと湧きあがっていた。
 窓の外に目を向けると、色づいていた木々の葉はとうに落ちて、しんしんと音もなく雪が降りしきっている。どうやらまた、時間が進んだらしい。しかしどれほど待ってみても、男が姿を見せることはなく、これ以上時が巡ることもなかった。
 庭に降り積もる雪を暫く眺めてから、椿は先程の男のように、鳥籠に歩み寄った。そっと中を覗けば、水入れの中は枯れ、餌箱の中には変色した穀物だけが残り、それらの上にも籠の底にも、うっすらと埃が積もっていた。
 それを見て椿は悟る。あの男は、もう二度と戻らないのだ。
 残されたのはただ、この鳥籠だけ。
(……ああ、そうか)
 そこでようやく、椿は思い至った。
(これは、僕が見てきたものは、きっと、この鳥籠の記憶なんだ)
 根拠はない。だが、恐らくそれは間違っていないと感じた。この部屋で男と小鳥を見守ってきたもの。彼らの幸いを喜び、その喪失を悲しむもの。
 男に何があったのか。小鳥は一体どうなったのか。椿には判らない。そして今の椿に判らないということは、鳥籠にも判らないということなのだろう。ただ、鳥籠にとっての喜びであった彼らは、もう二度と帰ってはこない。
 悲しい。寂しい。恋しい。きっと、息苦しさを覚えそうなこれらの想いは、鳥籠が抱いたそれだ。あのとき感じた多幸感も、酷い不安も、どれも鳥籠の想いを椿が感じ取ったものなのだ。
(……可哀想、だな)
 椿は内心でそう呟いた。寂しく、悲しく、満たされぬままに、鳥籠が泣いている。それを哀れむこの心は、確かに椿のものだった。
 だから椿はごく自然に、この鳥籠が満たされれば良いのに、と思った。椿自身として、このうろをどうにかして埋めてやれればいいのに、と、そう思った。
「……あ、」
 そのとき、触れてもいない鳥籠の扉が、かたっとひとりでに開いた。まるで椿の思考を読んだかのようにぽかりと開いたうろの口は、どこか椿を誘っているように見える。
 
――入ってやれば、鳥籠の空虚は満たされ、嘆きは収まるのだろうか。

 そんなことを考えた椿は、少しの逡巡のあと、鳥籠へ手を伸ばした。
 かたり。
「……ごめんなさい」
 軽い音と共に、小さな扉は椿の手によって閉ざされる。
「僕には、お傍にいたいお方がいるのです。寄り添って、その心を少しでも満たすことができたならと、そう思うお方が。だから……」
 僕は、貴方の中には居られません。
 そう口にした途端、わん、と頭の中に何かが反響した。それが泣き声だと遅れて理解した椿は、物悲しさと僅かな申し訳なさを思いつつ、それでも籠から手を離して、数歩後ろに下がった。
 声は暫く椿の中で泣きしきっていたものの、椿が沈黙を保つうちに段々とか細くなっていき、同時に椿の中に混ざっていた鳥籠の思いも、波が引くように薄らいでいった。
 そうして、やがてその欠片すらも感じなくなったところで、椿は細く息を吐き出した。多分、今ので“何か”が終わったのだろう。
 窓の外を見れば、庭園に降る雪が中空で動きを止めており、この世界が完全に停止したことが窺えた。
(……これから、どうしよう)
 椿の視線が、不安げに足元に落ちる。世界が止まっても、椿の置かれた状況は終わらない。依然としてひとり部屋に残されている椿は、どうすればこの空間から出られるのだろうと途方に暮れた。
 何かが終わり、世界が止まった以上、ここにいてもこれ以上の変化は訪れないだろう。ならば、今度こそ部屋の外へ出てみるべきなのだろうか。
(出たところで、どうすれば良いのかなんて判らないけど……、……でも、何も行動を起こさないよりは、ましかもしれない)
 椿がそんなことを考えた、その時だった。
――ピィ。
 小さな音が耳を掠めた気がして、椿ははっと顔を上げた。そのまま音が聞こえた方へと目を向けると、窓の外、その先の景色に、先ほどまではなかったものが見える。
 それを目にした椿は、弾かれたように走り出した。襖を開けて部屋を飛び出て、何の変哲もない廊下を駆け抜け、縁側から庭へと出た彼は、そのまま不思議と冷たくない雪を踏み締めて、先程見えたものの元へとひた走った。
 そうして辿り着いた場所にあったのは、一本の若木だった。どこもかしこもが雪化粧をしている中、唯一白を纏わぬそれは、青々と茂った葉の中にひとつの蕾を膨らませていた。
 蕾は椿の前であっという間に開き、深い赤の花弁を晒して咲き誇ったかと思えば、次の瞬間、その姿を一羽の小鳥へと変えた。
 驚いた椿が見つめるなか、深い赤色の小鳥は木から飛び立ったかと思うと、すぐそこの開いた窓から、あの部屋の中へと飛び込んでいく。
――ピィ。
 澄んだ鳴き声が耳を打った。それを認識するかしないかの内に、椿の意識はふっと遠くなっていった。
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