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朝影の密か 6

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 知らず、椿は唇を噛んだ。そんな彼のもとに、諭すような大樹の声が落ちてくる。
『私のようになる必要など、ないのですよ』
「……いいえ。僕は、貴方のようになりたいのです。貴方がお嬢さんに向ける気持ちは、何よりも尊いものだと思うから」
『それを言うのであれば、貴方があの美しいものに向ける想いも、同様に何よりも尊いものでしょう』
 静かな木の言葉に、しかし椿は首を横に振った。
「いいえ。僕の想いは、貴方のそれには到底敵いません。…………僕は、この気持ちを伝えてしまいました。想いに気づいたからにはそれを伝えないのは不誠実だと、そう思って、伝えてしまったのです。朧さんが困ると判っていて、それでも、言ってしまったのです」
 懺悔するように、椿はぽつぽつと言葉を吐き出す。
「自分で選択したことです。だから、今更なかったことにしたいとは思いません。……けれど、きっと言わない方が良かったんです。言わない方が、朧さんにとっては良かったんです」
 抱える想いを伝えたあの日を思い出して、椿は言った。
 あの日のことは、今でもはっきりと覚えている。貴方をお慕いしていますと、そう伝えたあのとき、朧は困った顔をして、そしてほんの僅かな悲しみが混じった声で、ありがとうとだけ言った。
 たったそれだけの言葉しか貰えなかった椿は、しかしそれだけで、十分すぎるほどに彼の気持ちを悟ってしまった。
 朧は、椿を愛してはくれない。そして、自分を好いてくれた椿を愛せないことを、心から申し訳ないと思ったのだ。
 こうなることくらい、考えなくとも判ったはずだ。何者でもない朧は、何者かであるために、生けるもの死せるものの望みに手を貸す。そんな朧に椿は、叶えることができない願いを告げてしまったのだ。
 愛して欲しいと言った訳ではない。ただ、この想いを黙っている訳にはいかないと思ったから、その気持ちのままに伝えただけだ。けれど、たとえ椿自身でも、そこに欠片ほどの願いもなかったとは言い切れない。ほんの僅かに愛して欲しいという欲が混じっていなかったとは、言い切れない。そしてそれが、きっと朧を苦しめている。
 朧のことだ。こうして言わずとも、遅かれ早かれ椿の想いには気づいただろう。けれど、それでも椿が口に出して言わなければ、これほどまでに彼を苦しめることもなかった。音にするということは、それだけで僅かな呪いになるものなのだ。
 朧との旅路でそれを知っていたはずなのに、些細な自己満足のために、椿はその呪いを吐き出してしまった。そのときの椿にはそこまで思い至っていなかったとは言え、気づかなかったで許されることではない。
 だから、大樹の想いの形を羨ましいと思った。そして、これこそが至高なのだろうと、そう確信した。
 しかし、そんな椿に対して、大樹は静けさの中に強さの籠った不思議な音色で言う。
『想いというのは、そんなに単純なものではないのだと思いますよ』
 言われ、椿は言葉の意味が理解できないという顔をして木を見上げた。
『私が彼女に向けるこの想いは、私の想いです。私自身は紛れもなく至高の想いを捧げているつもりですが、それは私にとってはそうであるというだけのこと。別の誰かからすれば、取るに足らない淡い想いにしかならないこともあるでしょう』
「そ、そんなことはないと、」
『いいえ、あるのですよ』
 椿の言葉をきっぱりと否定した大樹は、やはり強い声で言葉を続けた。
『何よりも強く想っているからこそ、何を棄ててでも手に入れたい。この上なく愛しているからこそ、この想いを受け入れて貰いたい。これほど恋しい相手にはもう出会えないと確信したからこそ、誰よりも傍にいたい。……強い想い故にこう望むこともまた、ひとつの至高なのです』
 大樹の言葉が、ぽたりぽたりと椿の肌に落ちて染み込んでいく。
『想いが強ければ身を引くことなどできないだろうと、そう考える誰かからすれば、私の想いは吹けば飛ぶほどに軽いものでしょう。けれど、私自身にそのようなつもりはありません。私は、これ以上などないほどに彼女を想っているのですから』
「…………でも、貴方は何も望まず、お嬢さんの幸せだけを思い、そのために全てを投げうっていらっしゃいます。……一切の見返りを求めず、ただ好きな人の幸せのためだけに尽力する。それは、何よりの正解なのではないのでしょうか」
 椿が口にした言葉は、問いと呼ぶにはあまりに確信めいた音で空気を震わせた。少なくとも椿自身は、大樹の想いこそが正解であると信じているような、そんな音色だ。しかし大樹は、それをそっと否定した。
『いいえ、貴方のその考えは間違っています』
 一体どこがどう間違っているのか、と椿が問う前に、まるでそれをやんわりと制すように、大樹が言葉を続ける。
『私は見返りを欲していますよ。実際にそれを求め、そのために尽力しているのですから』
「そ、そんなことはないでしょう。だって貴方は、」
『はい、そうです。私は彼女の幸せを願っている。彼女に、彼女の幸せという見返りを求めているのです』
 言われ、椿は呆気に取られた顔をした。その表情が、それを見返りと呼ぶのかと言っている。
 そんな椿に対し、大樹は殊更に優しい声で言葉を紡いだ。
『真に見返りを求めない無償の愛であれば、私が彼女に望むことは何もないのでしょう。私はその極致には到底至れぬ身なので、それがどういうものなのかは想像もできませんが、少なくとも私のこれは、絶対的に違います。私は彼女に幸せであることを強要し、そのために身勝手に彼女を守っているのですから。……だからこれは、ただの独りよがりな愛情ですよ。彼女のためでも何でもなく、ただ自分が彼女にそれを求めているから、その見返りが目的で行動しているだけなのです』
 木が優しく奏でる音色に、椿は何も言葉を返せない。ただ、この大樹が彼女に向ける想いが正解でないのであれば、一体何が正解なのだろうかと思った。
 そんな椿の心の内を見透かしたように、大樹は微笑むような葉音を鳴らした。
『きっと、普遍的な正解などないのです。それを決めるのは、いつだって自分自身なのでしょう。だから私は、私の思う正解を選びました。そして、貴方は何を思い、何を考え、どんな答えを出すのか。きっとそれだけが、貴方にとっての正解なのですよ』
 大樹の言葉に、椿は何も言わない。言えなかっただけかもしれない。
『想いというのは、想いの数だけ種類があり、想いの数だけ正解があるのでしょう。その想いを否定することは誰にもできません。想いの末に何を願おうと、ひとつひとつが尊いものなのです。……だからどうか、私のそれで貴方のそれを損ねないでください』
 そうなってしまっては、私が悲しくなってしまうからと、木はそう言った。その言葉に、椿は迷い、けれど大樹をしっかりと見つめて口を開く。
「……僕の願いで朧さんが悲しむことになっても、それでも、正解であることができるのでしょうか」
 自分にしか見つけることができないと言われた答えを問う、卑怯な言葉だ。そう判っていても、椿は止めることができなかった。
 そんな臆病な子供に対し、大樹はそよりと葉を揺らす。そして、まるで笑うような優しさで、月光に葉を照らした。
『その人が悲しむことになっても、それでも想いを伝えたい、通い合わせたい。そう望む己の想いを、己で肯定することができるのであれば。きっとそのとき、それはひとつの正解なのでしょう』
 その言葉に、椿がほんの僅かに目を開く。
 今の自分では到底それを成すことなどできないと思ったが、けれど同時に、閉ざされた闇が微かに白じんだような、そんな心地がした。
『だから、この先を生きるその道の中で、沢山のものを見て、沢山の音を聞いて、ゆっくりと考えていきなさい。焦ることは何もないのです。答えはいつだって貴方自身の中にあり、そしてきっと、それは不変ではない。ならば、果てに至るそのときまで、どうか自分の心を大切にしてあげてください』
 巣立ちを迎える雛を見守るような温かさで耳を撫でたその声に、椿は大樹を見上げて数度瞬きをしてから、そっと目を伏せた。
「…………はい」
 小さく落ちたその声は、今にも消えそうなほどに静かで、それでいて、確かな強さを持って夜の空気を震わせた。
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