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◆序章【路地裏喫茶】
一人目……(八)【辿りの午前一時】
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暖簾をくぐると、
境界の向こうには何も無かった。
虚無虚空の深い闇。何も無い墨色の世界。
『……来ないで――』
無断で自分の内領に流れ込んでくるもの。
それを否定した。拒絶した……のだったか。
――急に空中へと放られたような浮遊感。
わけもわからないまま。手を伸ばして身体を宙に彷徨わせると、世界が重力というものを思い出したのか『私』は落下を始めてしまう。そうなると逃れる手立てなんてなくて。後はもう、ただ身を任せるだけ。墨色の空間へと落ち込んで行く。
違う。違う。違うのに。
――水面に落ちて、水飛沫を上げた。
このままではいけない。手を伸ばして寄せようと
試みたけれど、一度入った亀裂は忘却を伴い『私』はどんどんと離れていってしまう。そうなると取戻すのは簡単ではなくて。後はもう、ただ己を求めるだけ。深まる墨色を渡り、境に阻まれる。
なんで『こんなこと』になったのか。
もう憶えてない。複雑なことも考えられない。
――境の内。黒い獣が牙を剥き、阻まれた。
黒い獣は怖く恐ろしかった。近寄れない。
どうしたって近寄れない。諦められないのに。
そのうちに限界がやってきて沈黙する。
亀裂は深刻なほどの溝となり、もう保たない。
ねえ……『私』は、なんだっけ……?
いったい『私』は、なんだったの……?
保たない。崩れ落ちる。溶けて行く。
――黒い獣は傍らに来ていて、
牙を納め。舌で舐めて慰めてくれた。
獣なりに何かを察してくれたのだろうか。
保たない。もうダメだ。ごめんなさい。
――雨が、雨音が、夜霧が。
溶け、溢れて、零れて、一層に強まった……。
◆◆◆
――ざあざあ、ざあざあと……。
古いテレビのホワイトノイズに似ている。
激しく降る雨の音、それか本当にブラウン管の砂嵐の音なのか。そういえば記憶にある。ゲーム器の外部出力のケーブルを、自分の不注意で引っこ抜いてしまった時に似ている。ぶつりと直前まで映されていた映像は途切れてしまって。記憶の中で『セーブしてなかった!』と嘆いたけれど、一緒に居た友達は『また繋げれば大丈夫』と笑っていたっけ――。
「――あれぇ……?」
心付くと、イツキは立ち尽くしていて。
足元は雨が降った後の土臭いモザイクタイル、それらを照らす年季のある街灯の下に居た。
自分の正面には路地を挟んで、自販機が2台。
並んで『三瀬川食堂』『葬頭河商店』『スナック涅槃』と電飾の消えた看板達。見たところ店を営んではいたのだろうが、こんな時刻だから店仕舞いをしているのか、もう何年も前に畳んでしまったのかも判断できないボロボロな店先の古民家達。古民家の連なりが途切れた辺り、脇の道路に面した奥まった場所にコインパーキングの入口案内がある。
正面をきょろきょろし、現状確認。
「なんだか、デジャブですよぉ……」
他に誰も居ない場所に一人とは。
知らない景色。でも黒百愛ではよくある景色。
暮らしの痕跡。過去の遺構。営みの残余。イツキの持つ知識によると、30年以上前……この土地は突然の自然災害に見舞われ、少なくはない犠牲が出たらしい。さらに副次的に起きた事故での避難指示、長期の帰還困難。それで多くの人々が去ってしまって。元々将来的な過疎化が問題視されていた不便な土地というのもあり、安全が確認されても様々な理由から戻って来ない人も大勢いたとか。だから権利や法律などのややこしい事情でずっとそのままになっている廃墟だらけの地域。そんな事情の景色。大人達にとってあまり喜ばしくない名物の一つである路地裏迷路のどこかだろうと見当がつく。
「……路地裏迷路。ニガテなんですよね。
いつもどんよりしてて、オバケとか出そうで」
街灯に貼られていた、ラミネートのパッケージなチラシに注目。時間の経過で印刷がほぼ消えているけど【天眷恵比奉例祭】という文字はなんとか読むことができる。それは昔の大きなお祭りのこと。お祭り自体は現在もあるが、正式な伝統としての繋がりは失われてしまったんだと教わった……。
「ヌイナさん達は、どこに?」
頭を振って、気を取り直すイツキ。
「嫌な予感がしますが、後ろも見ないと」
ぐぐぐ後ろに振り返ってみる。
すると、暗く狭い隙間路地があるだけ――。
「……やっぱり一人ぃ」
悪い予感の通り、頼みの綱も何も無い。
ゴミ袋の入ったポリバケツ。飲料メーカーの名前が書いてある積まれたコンテナ。ぶおーんと耳障りな音を絶えず響かせる室外機。枯れ果てた植物が墓標のように立つ、幾つかの植木鉢。長期間放置されたのだろう錆びてしまった鉄板。壁にデカデカとカラフルに『Raizon d'etru!!』きっとスペルを間違っているラクガキ。隙間の行き止まりには、灯籠のようにも見える小さな社と黒い鳥居が見えた。
「――おかしいです! 物理的にっ!
だって、私どこから出て来たんですか?!」
後方確認し、イツキは鞄を落としてしまう。
だってそうだろう。店の暖簾をくぐったら意識が混濁として、ハッとここに居たのに。体感でそれから一分程度しか経ってないのに。振り返った後ろには店の出入口すら存在してなかったのだから。
「ヌイナさーん! それと、あの。
神なみゅ……神まみゅ……神波鳴さーん!」
二人から返事は無い。当然に姿も無い。
鞄を拾い、外ポケットから古和紙を取り出す。街灯に背中を預け、明かりの中で呼吸を整え。二つ折りにした古和紙を胸の前で握った。
これは現実だ。そうそう怖い目には遭わない。
遭ってたまるか。それでも、もし怖いものに襲われるような状況となったなら、
「かけみずちさん。私を守ってくれますか?」
童女の涙で、人を食らうのをやめた蛟。
その蛟の忌譚は、イツキを守ってくれるのか。
その時、ぎいぃぃと古民家の扉が開いた。
「えぇ……なんで開いたんでしょう」
そこが『食堂』か『商店』か『スナック』なのかは乱雑に並んだ看板の位置でわからない。しかし半開きで蝶番を軋ませるノブの錆びた扉は、まるで自分を店内に迎え入れてくれようとしているようで。もう非常に気になってしまって。姿の見えなくなった二人が中に居る気もしてくる。ならこのまま中に入って行った方が良いんだなぁと――。
「温っ。かけみずちさん? 行っちゃダメ?」
――足を向けようとして、止まる。
握っていた古和紙が熱を持ったから。それで強く静止された気がして、イツキは歩みを止めた。
開いた扉の中を覗くくらいなら、もう数歩も寄ればできるだろうけど……やめておう。
「確かに。これホラーだと死ぬやつでした!
私は、バットエンドは回収してませんよぉ!」
騙されるかー! イツキは吠えておく。
牙を覗かせて、鋭い爪を伸ばし、身構える。
風も無いのに、バタンと扉が閉まった。
「ひぃっ! びゅ、びっくりしましたッ」
扉の内側から何かの気配が、獲物の様子を伺っているんじゃないかと怖い想像をしてしまう。
「かくなるうえは、ステルス状態ぃ!」
イツキは頭を抱えて膝を折り、縮まった。
一番最近やったゲームの無敵判定状態だ。
「――そうね。祈追……ちゃん?
変なポーズだけど賢明ね。あんま一人でフラフラしてっと危なかったから。その場で身を守るってあなたの行動は正しいわよ。はぁ、この辺り、今夜はいつもに増して相当ズレてるみたいだし」
「ふわぁッ! かになにゃにゃ……さん?」
バイクのセンタースタンドを降ろし、縮まったイツキの頭をぽんぽんと叩き。安心したみたいな溜め息一つ。リアボックスを開いて「なにそれ笑える。あたしは神波鳴よ」と軽く笑って返す彼女。
ヌイナが紹介してくれた女性。あの店の従業員の一人という【神波鳴 美歌】さんだ。
ほんのさっきまで姿が無かったのに。彼女は奥のコインパーキングの方向から大型バイクを『押してきました』という風に普通に現れてきて、イツキの近くで停止して。髪を結び直し、グローブをはめて、出発の準備をしてくれている様子……。
「あの、ヌイナさんは……?」
「そこに居るでしょ。匂いがするから」
街灯の光が、寸時の消灯。
再び灯ると、周囲の景色が少し変わり、
「――うん。これで互いに認識できるかな。
環境に引っ張られてズレた認知を、互いの縁で同調させてみたよ。それにしても、どうして店の外がこんなことになってたんだろう。とんだ罠だ」
頭を撫でられるイツキ。
「ヌイナさんっ!!」
「祈追さん、無事だね。何もなかったかな?
急に一人にさせてごめん。キミとの間のズレを合わせるのに、まぁなかなか手間を取ってね」
美歌の言った辺りから本当に、街灯の点灯と同時に縞梟を肩に乗せたヌイナが現れる。
それは余所行きの服装なのか。彼女は藍色のバケットハットを被り、室内で巻いていたストールケープの代わりに白いロングコートを着ていた。
手を引かれイツキは立たせてもらう。
「……ヌイナさん、色々と質問したいけど。
ファンタジーな部分に踏み込むと、私の頭が理解しきれなくてパンクするので止しておきます。でもそのフクロウさんは本物だったんですか!?」
「剥製だと誤解していたのかな。だけどプライドが高いから、そんなこと言ったら怒られるよ。つつかれちゃうの注意して。遅れての紹介になるけど、気難しくて、頑固で、でもなんだかんだ言っても優しい僕の親友。副店長の【たくや】くんだ」
縞梟はヌイナの肩を離れ、イツキの頭にふわっと跳び乗って来て。煽るように羽をバサバサ。
「たくやくん。フクロウなのに副店長?
名誉副店長な感じのマスコット枠ですねっ!
――痛い! つつかないでっ、痛いですよ!」
「ははっ。じゃあ祈追さん、忌譚を取り出して。
……いやもう握ってるね。うん。なら忌譚を折って構わないから、折り鶴を作れるかな?」
「え?」
――語り継がれた忌譚をそんな扱い?
すでに二つ折りにしているのに、もっと折っても大丈夫なのかとイツキは疑問を抱くも。そう指示されたなら大丈夫なんだろうと頷く。
小学生以来のおりがみ。街灯の明かりで折り方を確認しつつ、アヒルみたいな不器用に形が崩れた折鶴を完成させてみた。すると「あぅ!」イツキの手から折り鶴を奪い去り、縞梟が足で掴んで夜空へと飛んで行ってしまう。
「たくやくん!? 待ってくださーいっ!」
走り出そうとするイツキにストップが入る。
「いや、あれで良いんだよ。説明が抜けてた。
よし。神波鳴さん、それじゃお願いするね」
「はぁ……はいはい。わかってるわよ。
祈追ちゃんの縁を辿って飛ぶ、縞梟を追ってけばいいんでしょ。ほら乗って。飛ばすから」
イツキに、スポッとヘルメットが被せられる。
バイクに跨がってスタンドを戻し。スロットルを弱く回して、セルモータのスイッチを押す。美歌は急かし「ほらほら行っちゃうわよ」エンジンを鳴らして「早く後ろに乗って」と。しかしバイクに乗せてもらった経験が無くてあたふたするイツキ。
「手伝うよ」
その様子を見たヌイナが、ヘルメットの顎紐をしめてくれて。続けてイツキの身体を持ち上げ、バイクに跨がせてくれる。「ここを掴んでね」タンデムグリップを教えてもらい「足はここに」ステップも教えてもらう。「姿勢はこうかな」最後に身体を傾けられて、何となく乗り方は理解できた。
「じゃあ祈追さん、一旦はお別れだ……。
僕は僕の縁を辿るからね。でもきっと、直ぐに再会できる。同じ所に辿り着くはずだから。今と変わらないキミと必ず再会できるって信じてる」
「ヌイナさん……えっと、また後で」
別れる二人は、その間際に手を繋いだ。
確認した美歌が「行くわよ」と一声。クラッチが少しずつ離され、スロットルが回される。
バイクは深い闇を切って、走り出した――。
境界の向こうには何も無かった。
虚無虚空の深い闇。何も無い墨色の世界。
『……来ないで――』
無断で自分の内領に流れ込んでくるもの。
それを否定した。拒絶した……のだったか。
――急に空中へと放られたような浮遊感。
わけもわからないまま。手を伸ばして身体を宙に彷徨わせると、世界が重力というものを思い出したのか『私』は落下を始めてしまう。そうなると逃れる手立てなんてなくて。後はもう、ただ身を任せるだけ。墨色の空間へと落ち込んで行く。
違う。違う。違うのに。
――水面に落ちて、水飛沫を上げた。
このままではいけない。手を伸ばして寄せようと
試みたけれど、一度入った亀裂は忘却を伴い『私』はどんどんと離れていってしまう。そうなると取戻すのは簡単ではなくて。後はもう、ただ己を求めるだけ。深まる墨色を渡り、境に阻まれる。
なんで『こんなこと』になったのか。
もう憶えてない。複雑なことも考えられない。
――境の内。黒い獣が牙を剥き、阻まれた。
黒い獣は怖く恐ろしかった。近寄れない。
どうしたって近寄れない。諦められないのに。
そのうちに限界がやってきて沈黙する。
亀裂は深刻なほどの溝となり、もう保たない。
ねえ……『私』は、なんだっけ……?
いったい『私』は、なんだったの……?
保たない。崩れ落ちる。溶けて行く。
――黒い獣は傍らに来ていて、
牙を納め。舌で舐めて慰めてくれた。
獣なりに何かを察してくれたのだろうか。
保たない。もうダメだ。ごめんなさい。
――雨が、雨音が、夜霧が。
溶け、溢れて、零れて、一層に強まった……。
◆◆◆
――ざあざあ、ざあざあと……。
古いテレビのホワイトノイズに似ている。
激しく降る雨の音、それか本当にブラウン管の砂嵐の音なのか。そういえば記憶にある。ゲーム器の外部出力のケーブルを、自分の不注意で引っこ抜いてしまった時に似ている。ぶつりと直前まで映されていた映像は途切れてしまって。記憶の中で『セーブしてなかった!』と嘆いたけれど、一緒に居た友達は『また繋げれば大丈夫』と笑っていたっけ――。
「――あれぇ……?」
心付くと、イツキは立ち尽くしていて。
足元は雨が降った後の土臭いモザイクタイル、それらを照らす年季のある街灯の下に居た。
自分の正面には路地を挟んで、自販機が2台。
並んで『三瀬川食堂』『葬頭河商店』『スナック涅槃』と電飾の消えた看板達。見たところ店を営んではいたのだろうが、こんな時刻だから店仕舞いをしているのか、もう何年も前に畳んでしまったのかも判断できないボロボロな店先の古民家達。古民家の連なりが途切れた辺り、脇の道路に面した奥まった場所にコインパーキングの入口案内がある。
正面をきょろきょろし、現状確認。
「なんだか、デジャブですよぉ……」
他に誰も居ない場所に一人とは。
知らない景色。でも黒百愛ではよくある景色。
暮らしの痕跡。過去の遺構。営みの残余。イツキの持つ知識によると、30年以上前……この土地は突然の自然災害に見舞われ、少なくはない犠牲が出たらしい。さらに副次的に起きた事故での避難指示、長期の帰還困難。それで多くの人々が去ってしまって。元々将来的な過疎化が問題視されていた不便な土地というのもあり、安全が確認されても様々な理由から戻って来ない人も大勢いたとか。だから権利や法律などのややこしい事情でずっとそのままになっている廃墟だらけの地域。そんな事情の景色。大人達にとってあまり喜ばしくない名物の一つである路地裏迷路のどこかだろうと見当がつく。
「……路地裏迷路。ニガテなんですよね。
いつもどんよりしてて、オバケとか出そうで」
街灯に貼られていた、ラミネートのパッケージなチラシに注目。時間の経過で印刷がほぼ消えているけど【天眷恵比奉例祭】という文字はなんとか読むことができる。それは昔の大きなお祭りのこと。お祭り自体は現在もあるが、正式な伝統としての繋がりは失われてしまったんだと教わった……。
「ヌイナさん達は、どこに?」
頭を振って、気を取り直すイツキ。
「嫌な予感がしますが、後ろも見ないと」
ぐぐぐ後ろに振り返ってみる。
すると、暗く狭い隙間路地があるだけ――。
「……やっぱり一人ぃ」
悪い予感の通り、頼みの綱も何も無い。
ゴミ袋の入ったポリバケツ。飲料メーカーの名前が書いてある積まれたコンテナ。ぶおーんと耳障りな音を絶えず響かせる室外機。枯れ果てた植物が墓標のように立つ、幾つかの植木鉢。長期間放置されたのだろう錆びてしまった鉄板。壁にデカデカとカラフルに『Raizon d'etru!!』きっとスペルを間違っているラクガキ。隙間の行き止まりには、灯籠のようにも見える小さな社と黒い鳥居が見えた。
「――おかしいです! 物理的にっ!
だって、私どこから出て来たんですか?!」
後方確認し、イツキは鞄を落としてしまう。
だってそうだろう。店の暖簾をくぐったら意識が混濁として、ハッとここに居たのに。体感でそれから一分程度しか経ってないのに。振り返った後ろには店の出入口すら存在してなかったのだから。
「ヌイナさーん! それと、あの。
神なみゅ……神まみゅ……神波鳴さーん!」
二人から返事は無い。当然に姿も無い。
鞄を拾い、外ポケットから古和紙を取り出す。街灯に背中を預け、明かりの中で呼吸を整え。二つ折りにした古和紙を胸の前で握った。
これは現実だ。そうそう怖い目には遭わない。
遭ってたまるか。それでも、もし怖いものに襲われるような状況となったなら、
「かけみずちさん。私を守ってくれますか?」
童女の涙で、人を食らうのをやめた蛟。
その蛟の忌譚は、イツキを守ってくれるのか。
その時、ぎいぃぃと古民家の扉が開いた。
「えぇ……なんで開いたんでしょう」
そこが『食堂』か『商店』か『スナック』なのかは乱雑に並んだ看板の位置でわからない。しかし半開きで蝶番を軋ませるノブの錆びた扉は、まるで自分を店内に迎え入れてくれようとしているようで。もう非常に気になってしまって。姿の見えなくなった二人が中に居る気もしてくる。ならこのまま中に入って行った方が良いんだなぁと――。
「温っ。かけみずちさん? 行っちゃダメ?」
――足を向けようとして、止まる。
握っていた古和紙が熱を持ったから。それで強く静止された気がして、イツキは歩みを止めた。
開いた扉の中を覗くくらいなら、もう数歩も寄ればできるだろうけど……やめておう。
「確かに。これホラーだと死ぬやつでした!
私は、バットエンドは回収してませんよぉ!」
騙されるかー! イツキは吠えておく。
牙を覗かせて、鋭い爪を伸ばし、身構える。
風も無いのに、バタンと扉が閉まった。
「ひぃっ! びゅ、びっくりしましたッ」
扉の内側から何かの気配が、獲物の様子を伺っているんじゃないかと怖い想像をしてしまう。
「かくなるうえは、ステルス状態ぃ!」
イツキは頭を抱えて膝を折り、縮まった。
一番最近やったゲームの無敵判定状態だ。
「――そうね。祈追……ちゃん?
変なポーズだけど賢明ね。あんま一人でフラフラしてっと危なかったから。その場で身を守るってあなたの行動は正しいわよ。はぁ、この辺り、今夜はいつもに増して相当ズレてるみたいだし」
「ふわぁッ! かになにゃにゃ……さん?」
バイクのセンタースタンドを降ろし、縮まったイツキの頭をぽんぽんと叩き。安心したみたいな溜め息一つ。リアボックスを開いて「なにそれ笑える。あたしは神波鳴よ」と軽く笑って返す彼女。
ヌイナが紹介してくれた女性。あの店の従業員の一人という【神波鳴 美歌】さんだ。
ほんのさっきまで姿が無かったのに。彼女は奥のコインパーキングの方向から大型バイクを『押してきました』という風に普通に現れてきて、イツキの近くで停止して。髪を結び直し、グローブをはめて、出発の準備をしてくれている様子……。
「あの、ヌイナさんは……?」
「そこに居るでしょ。匂いがするから」
街灯の光が、寸時の消灯。
再び灯ると、周囲の景色が少し変わり、
「――うん。これで互いに認識できるかな。
環境に引っ張られてズレた認知を、互いの縁で同調させてみたよ。それにしても、どうして店の外がこんなことになってたんだろう。とんだ罠だ」
頭を撫でられるイツキ。
「ヌイナさんっ!!」
「祈追さん、無事だね。何もなかったかな?
急に一人にさせてごめん。キミとの間のズレを合わせるのに、まぁなかなか手間を取ってね」
美歌の言った辺りから本当に、街灯の点灯と同時に縞梟を肩に乗せたヌイナが現れる。
それは余所行きの服装なのか。彼女は藍色のバケットハットを被り、室内で巻いていたストールケープの代わりに白いロングコートを着ていた。
手を引かれイツキは立たせてもらう。
「……ヌイナさん、色々と質問したいけど。
ファンタジーな部分に踏み込むと、私の頭が理解しきれなくてパンクするので止しておきます。でもそのフクロウさんは本物だったんですか!?」
「剥製だと誤解していたのかな。だけどプライドが高いから、そんなこと言ったら怒られるよ。つつかれちゃうの注意して。遅れての紹介になるけど、気難しくて、頑固で、でもなんだかんだ言っても優しい僕の親友。副店長の【たくや】くんだ」
縞梟はヌイナの肩を離れ、イツキの頭にふわっと跳び乗って来て。煽るように羽をバサバサ。
「たくやくん。フクロウなのに副店長?
名誉副店長な感じのマスコット枠ですねっ!
――痛い! つつかないでっ、痛いですよ!」
「ははっ。じゃあ祈追さん、忌譚を取り出して。
……いやもう握ってるね。うん。なら忌譚を折って構わないから、折り鶴を作れるかな?」
「え?」
――語り継がれた忌譚をそんな扱い?
すでに二つ折りにしているのに、もっと折っても大丈夫なのかとイツキは疑問を抱くも。そう指示されたなら大丈夫なんだろうと頷く。
小学生以来のおりがみ。街灯の明かりで折り方を確認しつつ、アヒルみたいな不器用に形が崩れた折鶴を完成させてみた。すると「あぅ!」イツキの手から折り鶴を奪い去り、縞梟が足で掴んで夜空へと飛んで行ってしまう。
「たくやくん!? 待ってくださーいっ!」
走り出そうとするイツキにストップが入る。
「いや、あれで良いんだよ。説明が抜けてた。
よし。神波鳴さん、それじゃお願いするね」
「はぁ……はいはい。わかってるわよ。
祈追ちゃんの縁を辿って飛ぶ、縞梟を追ってけばいいんでしょ。ほら乗って。飛ばすから」
イツキに、スポッとヘルメットが被せられる。
バイクに跨がってスタンドを戻し。スロットルを弱く回して、セルモータのスイッチを押す。美歌は急かし「ほらほら行っちゃうわよ」エンジンを鳴らして「早く後ろに乗って」と。しかしバイクに乗せてもらった経験が無くてあたふたするイツキ。
「手伝うよ」
その様子を見たヌイナが、ヘルメットの顎紐をしめてくれて。続けてイツキの身体を持ち上げ、バイクに跨がせてくれる。「ここを掴んでね」タンデムグリップを教えてもらい「足はここに」ステップも教えてもらう。「姿勢はこうかな」最後に身体を傾けられて、何となく乗り方は理解できた。
「じゃあ祈追さん、一旦はお別れだ……。
僕は僕の縁を辿るからね。でもきっと、直ぐに再会できる。同じ所に辿り着くはずだから。今と変わらないキミと必ず再会できるって信じてる」
「ヌイナさん……えっと、また後で」
別れる二人は、その間際に手を繋いだ。
確認した美歌が「行くわよ」と一声。クラッチが少しずつ離され、スロットルが回される。
バイクは深い闇を切って、走り出した――。
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