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◆序章【路地裏喫茶】

一人目……(五)【御客様にさせて】

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 ◆◆◆



 ――隠されていたものが、あらわになる。

「……んぅ……ん?」

 ぐわんっと世界が揺れ動いたような。
何だか不思議な感覚がして、イツキは小さく喉をくぐもらせた。そのせいか、酔った人がする千鳥足のようにフラついてしまう。それだけですぐに感じた違和は治まったのだけれど……。

 椅子にお尻がぶつかり、その上に置いていた鞄が倒れてしまって。ちゃんと仕舞われていなかった携帯電話が鞄内から落下しそうになっている。

 あっ「壊れちゃう!」咄嗟に腕を伸ばして、

「え――?」

 イツキはきょとんとし、口を開く。

 携帯電話は掴み損ねてしまい、そのまま落下。床の間フローリングに一度ぶつかって跳ねてから、運が悪いことに古時計の下へと滑って行ってしまった。
 けれど紛失した携帯に構いもせずに。いや、構うことさえできずに。ただ呆然とするしかできない。

「これ、なに……?」

「――何てことはない。キミがどこかで必ず対面しなきゃいない『真実』を明らかにしただけさ」

 自身の瞳を指差し、言うヌイナ。

「目覚めた時、キミが動揺しないように。
僕がおまじないを掛けておいたんだ。でも店からお帰りになるなら、必要ないかな。無理に引き留めたりはしない。キミが『帰る』っていうならね」

「ヌイナさん、これ……」

 イツキは助け船を求めるが、

「“それ”については……。ごめん。
僕は回答を持ち合わせてはいないよ」

 目を伏せて、首を横に振るヌイナ。

 ヌイナは笑みを止めてしまい。無表情。
不要な感情を仕舞ってしまったかのよう素っ気なく伝える。けれど彼女の濁りの無い瞳は心配そうに揺れていて、もしもこのまま『御客様』である事を止めてしまうにしても。イツキのことを縁が途切れる最後まで気にかけていると暗に示す。

 そんな態度を取るのには理由があって、

「キミが自分の目で見て、自分で判断するんだ。
店から去って可能な限りの日常に戻るか。この店の『御客様』として、僕達に可能な範囲で『おもてなし』を受けるとするのか。決めるのはキミだ」

 壁に飾られた『掛け軸』を指差すヌイナ。
 先程までえがかれていたものに取って変わって、達筆な字でそこにしたためられた内容を指差した。


 ……それは店のルールなのだろう。
『――御店に訪れて、何かを願い、実際にメニューを頼んでしまうかどうかは御客しだい。
現下で踏み止まるならばそれもよし。求めてしまえば後の祭り。救済も破滅も御客しだい。旨いも不味いも存じ上げませぬ。ただ心すべし、末の後悔悔悟に意味は無く。覆水は盆に返らず。もたらごうは各々の因果応報いんがおうほう短慮愚考たんりょぐこう咎罰必定しょばつひつじょうおきて。いかなる味わい彩り、全て御客に委ねましょ』と――。

 ヌイナは小難しい古語だらけの内容を、丁寧に現代語に訳し読み上げると。掛け軸の側に寄り、同じく壁に飾られていた丸い小鏡を持ち上げる。

「……この店に関わってしまう事で、むしろキミが身を滅ぼす場合もある。願いメニューの対価はキミ自身だからね。僕はそこを危惧しているし。祈追さん、キミにもちゃんと注意しておいて欲しい」

「…………」

「たとえどうなったとしても、その結果に責任は取れない。全て御客様の自己責任で選択してもらう。それがこの店の前提。無責任かも知れないけど、でもこの店は、救いを必要とする誰かの『人助け』の為に存在しているのは確かなんだ」

「…………」

「落ち着いて深呼吸をしてね……。
心を強く持って、逃げずに自覚して欲しい」

「…………」

「その上で、キミにとって後悔の少ない選択を」

 諭すような口調で、一定の距離を保ったままヌイナより言葉をかけられたイツキだったが。けれども「……」まるで耳に響かない。だってイツキにはもういっぱいいっぱいで、余裕が無くて、自分の腕から視線も意識さえも離せなくって。

 ――腕、腕。そう腕だ。自分の腕。

「――なん、ですか? こ、これ……は?」

 伸ばした腕、包帯が巻かれた腕。
包帯が途切れて、皮膚が見える部分が蒼い腕。

 困惑、恐怖。瞳に涙を滲ませるイツキ。

 何かの間違いだと、そうであって欲しいと。
イツキは腕に巻かれた包帯を外そうとして、震える指では結び目をうまくほどけなくて。そうしていると指先で伸びた鋭い爪が包帯を切り裂いた。
 布切れとなった包帯がヒラヒラと舞って、地面に落ちる。イツキは限界まで目を見開いた。

「あ、あ。これ、鱗みたいな……。ちっ違う!
本当に鱗です……。私の腕に鱗が……!」

 信じ難い事だけど、事実。蒼色の正体は鱗だ。
蒼色の鱗。薄い硝子ガラスのような、一枚一枚がぴったり重なり合った爬虫類に似た鱗が、自分イツキの腕にびっしりと張り付いていたのだから。

「――嫌ぁ! 嫌だ! なに、これッ?!」

 生えている鱗の部分を引っ掻こうとした腕は、正面から掴まれて制止されてしまった。

「そんなことしたって、キミが無用な痛みを感じるだけだろう。止めた方がいい。仮に皮膚から全てのそれを取り払えても、その根本的な解決にはならないだろうし、状況を悪化させる場合もある」

「なら、私はどうすればいいんですかぁ!」

 泣き声混じりで叫んでしまう。

「もう一度言うね。それを決めるのがキミだ。
ごめん、だから鏡を向けるよ。逃げないで」

 ヌイナは鏡にイツキの姿を映す。

「――えっ! そんな……。
腕。腕、だけじゃ……ないのっ!?」

 鏡に映し出されたイツキの容姿、
それは少し前から変わり果てたモノであって。

 まず鱗だ。鱗は両腕だけではなくて。衣服の胸元から覗いている鎖骨の辺りから一繋ひとつながりで続き、喉を除いた首の側頸部、頬にまで生えている。
 イツキが恐る恐る着ているワンピースをまくってみると、胸には下着がつけられておらず。そのほどよく大きい乳房の横、脇の下から帯状になって左右の側腹部も鱗によって包まれていた。

 そうして鱗以外にも、

「それに……髪も、目も、とがった爪だって。
こんなの、こんなの、私じゃないですっ!」

 黒髪だった髪色が、ハイライトカラーを入れたかのように蒼色が混ざり染まっている。
 明るいブラウンだった瞳の虹彩が、やはり蒼色に染まっており。瞳孔が縦に割れている。
 元々の丸爪が剥がれ、根元から尖った爪。包帯を切り裂くほどに鋭利な鉤爪が伸びてきていた。

「こんなの――!」

『――バケモノだ』と、言葉を続けようとしたイツキだったが。言葉にはせずハッと口をつぐむ。
 何故なら。鏡の中に居る自分が、顔を歪ませ瞳を潤ませていることに気が付いてしまったから。

 イツキは自分イツキを傷付けるところだった。
 それをした瞬間、本当の意味で人間を止める。

「――私はっ……!」

 ――簡単に自分を否定したくはない。
 どんな姿になっても『自分は自分』だと強く意識するイツキ。大切な事は知っている。『人が人でなくなるのは自分を見失った時だ。自分を失くして、誰かを平気で傷付けるようになってしまった時だ』そう祖母に教えられている。ならばイツキは、自分の事も含めて傷付けてはいけないのだろう。

「私は――」

 口ごもるようにして、自分の否定を否定する。

「私は――いいえ。違い、ました」

「違う?」

「『自分じゃない』って、それこそ違いました。
反省しなきゃダメですね……。なんでこんなことになってるのか……私、まるでわかりませんが。こんな怪人みたいな姿になっちゃっていても私は、溢姫は自分を簡単に見捨てたり、嫌いになったりしちゃいけないんですっ! 危うく自分を傷付けて、どこかに切り捨てちゃうところでした……」

「ほぅ、その心は?」

「こころ……私の? ……はい。
あの……言葉にするの難しいですが。私が私でなくなるのは『これは自分じゃない』って自分から逃げた時なんです! だったら、それはしません。自分自身あるがままから逃げた弱さの先では、純粋に強い人間にはなれないんです。私はせめて心持ちくらい、ちゃんとした『つよつよ』で真っ直ぐな溢姫を目指してますから! だから私は、まだ人間イツキです!」

「うん。強いんだねキミは」

「……ひっく」

 でも本心を見透かされてしまったのだろう。
ワンピースをはしたなくまくった時から顔を背けてくれていたヌイナ、彼女より花の刺繍のハンカチが手渡される。嗚咽を隠せず、イツキはそれで目元と頬を伝う涙を拭ってから、ぐっと堪える表情を浮かべた。

「私は泣きません……泣きませんから。ぐすっ。
自分の弱さでは泣きません。そう決めてます。だって溢姫イツキはもう、心配させちゃう弱い娘は卒業するからねって、安心してねって。お母さんと最期に約束してますから……!」

 視界がぼやけた一瞬のうち、抱擁。

「ひっく……ぐすっ、うぅ」

 ヌイナによって、正面から優しく。
そっと包むように抱きしめられていた。

「……心配してたけど、キミは強いよ。
ちゃんと逃げずに向き合えた。素晴らしい子だ」

 またまた頭を撫でられてしまう。

「もぅ……私ぃ。子供じゃありませんよぉ!
私はこう見えて立派なこうこうせーです!」

 恥ずかしくなり、ヌイナの腕から逃れるイツキ。

「おっと。気を悪くしたならごめん。
キミの年頃は制服で解ってたけど。こうも小動物的に可愛らしいとつい。昔飼ってたペットのチンチラなんかを思い出しちゃって、つい……ね?」

「むぅー! それどういう意味ですかぁ!」

 イツキは頬を膨らませ、彼女と見つめ合う。
数秒後、吹き出して笑い合ってしまった。

「ヌイナさん。ありがとうございました。
それで、色々とお願いします。私を『御客様』にさせてください! 今も何が何だか、ぽけー状態なのは変わりませんが。このお店は、御客様になれば助けてくれるんですよね? なら決めました。そもそもこんな姿じゃ帰れませんし……」

 ヌイナに頭を下げて頼むイツキ。

「僕が本当は悪いモノで。都合の良いことを言ってるだけの全ての元凶だったとしてもかい?」

 眼鏡のズレを直し、やはり物憂げに呟く彼女。

「ヌイナさん、優しい人ですから。絶対に大丈夫だって信じてます。私は『優しい人』を見分けるのは自信がありますから! お願いします!」

「そっか、なら――」
 
 イツキの鱗と鋭い爪の生えた手を取り、

「――勿論だよ。祈追さん。キミに精一杯の『おもてなし』をすると約束しよう!」

 ヌイナは満面の笑みを浮かべてくれた。
 
 
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