十六夜国遊行録

葛城 惶

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二 奥さまの頼みごと

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 その名の通り紫けぶる山塊と大河に抱かれた領地を治める山河家は、十六夜国の貴族のなかでも一番の大家、名家だ。
 反面、分家や子家も多く、数多の屋敷が建ち並び、人の出入りもおそろしく煩雑で、まるで都の中に今ひとつの都が存在するような有り様だった。

 Γ俺、苦手なんだよな。こういうの……」

 東雲トンウンはポリポリと頭を掻きながら、壮麗かつ巨大な門をくぐった。

 ふと頭を上げると高楼から臈長けた美しい婦人がこちらを見下ろしている。
 東雲トンウンは、にっこりと笑顔を作り、高楼に向かって軽く礼をし、小さく手を振った。

 見下ろしていたのは、この家の女主人、智娃チイ太々おくさまだ。
 

 家付き娘で文武両道、選りすぐりの婿を取ったとはいえ、おおよそ皇帝の宮城並みの屋敷とそこに出入りする人々を饗し、山河家の公私に渡る采配を振るうのは並大抵ではない。

 しかしながら、ふんわりおっとりと芙蓉の如き微笑みを絶やさず難しい諍いをも難なく収める手腕は只者ではない。
 そればかりではなく、一旦事が起きれば夫婦ともども剣戟を携え、戰場にて容赦なく敵を斬り伏せる武勇は近隣にも広く轟いている。
 やはり先代の女主人、凜鈴の薫陶を受けただけのことはある、と誰もが称賛を惜しまない。が、その苦労が並大抵でないことは、不肖の弟の東雲トンウンとて知らぬわけではない。

ーーもちっと姐夫にいさんがしみじみしてくれりゃあなぁ……ーー

 姉婿の単福タンフォアの顔を思い浮かべて、東雲トンウンは、はあぁ~と大きな息をついた。

 仕事が出来ないわけではない。むしろ出来るほうだと宮中では一目置かれている。武勇に関しても、さすがは山河家の婿よと、讃えられるほどでもある。

 だがしかし、しかしである。
 この姉婿には困った性癖がある。


『なぁ、智娃チイ、わいの髪、ふさふさやろ?ふさふさだよな~?』

 鏡の前でしげしげと確かめたにも関わらず、誰かれとなく屋敷の人間を捕まえては髪の塩梅を確かめるのだ。
 東雲トンウンも廊下や庭で顔を合わせるたびに問われて随分と辟易したものだ。

 今日も今日とて娘の玉婉ギョクエンやその側付きの嘉鈴カリンを捕まえて問いかけては、思いきり嫌な顔をされているというのに懲りる素振りも無い。



Γ相変わらずですな~」

 卓を前に浅緑も鮮やかな茶を啜りながら、東雲トンウンが投げかけた言葉に、智娃チイ太々おくさまがふるふると玉の簪を揺らして首を振った。

Γ屋敷の中でだけならいいのだけれど、最近のあの人ときたら……」

Γふらっと街に出ては誰かれ構わず声を掛けて回るんだよな~」

 うんうん、と太々おくさまの脇の椅子に軽く腰を預けて頷くのがくだんの公子、琉論ルーロンである。
 この公子、母君とは至極仲が良いが、父に対してはかなり冷ややかだ。まぁ往々にして息子というのはそういうものだと東雲トンウンは思っているが、妖猫のウェイインに言わせると『マザコン』とか言うものらしい。

Γ年を取れば髪が薄くなってくるなんてのは当たり前なんだけどな~」

 呆れた口調で言う琉論ルーロン公子を太々おくさまこれ、が優しく窘める。が、公子は少し不貞腐れながら、懲りずに侍郎や侍女たちに構い立てする父の背中にふぅ……と息をついて吐き捨てた。

Γ母上が甘やかすから……だから、『ふさふさの書』を探して来い、なんて無茶なことを言い出すんですよ」

Γ『ふさふさの書』?」

 何だそりゃ……と、口の中で呟く東雲トンウンに少しだけ申し訳無さそうに微笑んで、智娃チイ太々おくさまが扇をそよがせる。

Γ『ふさふさの書』ってのはつまり、世の男性の悩みを解決する有り難い書物なんだとさ……」

 あぁ……と何かを察したように呟く東雲トンウンの耳許に口を寄せて琉論ルーロン公子がひそと囁く。

Γ本当はさ、父上は髪が薄くなったら母上に捨てられるんじゃないかって恐怖なんだよ。何せ母上は老若男女問わず、この国の皆んなから慕われてるだろ?……誰かに取られるんじゃないかと気が気で無いらしい」

Γそんなことは無いのにねぇ……」

 息子の言葉にクスクスと笑う智娃チイ太々おくさまは、たしかにこの国では知らない人のいない美人だ。寿命が長く老いの極めて遅いこの国には美姫が多いが、その中でも智娃チイ太々おくさまは、ゆったりとした上品な風情に笑うと童女のようなあどけなさがあって、姉弟ながら芙蓉の花のようだとついつい見惚れてしまうこともある。

Γで、『もふもふの書』があるんだから、『ふさふさの書』もあるはずだ、って言い出したわけさ」

Γまぁ、それはねぇ……」

 『もふもふの書』は、山河家に伝わる家宝で、『癒やし』の仙術の指南書だ、と言われている。門外不出で東雲トンウンも表紙をチラリとしか見たことが無いのだが、ウェイインに言わせると、あにまる・せらぴーとやらの教本らしい。

Γだからと言ってあるとは限らないじゃん。……それに何で俺なのさ」

 子どものようにぷっと頬を膨らませる琉論ルーロンに、隣の卓ではぐはぐと焼き菓子を頬張っていたウェイインがニヤリと笑った。

Γ山河家の若君として少し鍛えてこい……とか言うことじゃろ」

Γ鍛えるって……俺、十分強いし、格好いいんだけど?」

 少しばかりムッとする琉論ルーロンに、しれっとした顔でウェイインがにゃあと鳴いた。

Γ嫁御のほうがまだ強かろう?」

Γそうだけど……」

Γお前さんは、あ・かる過ぎるからな。旅で鍛えて、山河家の太子としてシャキッとして欲しいのではないか?……あぁランジャン、口許に粉がついてるぞ。どれわれが拭ってやろう」

Γ過保護……」

Γ良いのじゃ。若子は大事にするのが、猫というものよ」

 齢三千年を生きているらしい妖猫は赤い舌をチラリと出して、ニカリと笑った。

Γま、道中はわれらと東雲トンウンが同行してやるゆえ、案ぜずとも良い」

Γ勝手に決めるなよ~」

 軽く反論はしてみたものの、東雲トンウンに、智娃チイ太々おくさまの頼みが断われるわけもなく……そうそうに良き日を選んで、得体の知れない書物探しの旅に出ることになったのだった。
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