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第2章 梓弓
第28話 酔芙蓉
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「行ってまいる」
その日、頼隆が都の城を出たのは午の刻限だった。ひとしきり来客の対応を済ませ、柾木も身体が空いたところで、祖母の見舞いに行ってよい---との直義の赦しが出たのだ。急いで使者を一条近くの祖父の屋敷に走らせ、駕篭に乗って、城外に出た。相変わらず、直義は厳しく、女姿で行け---と指示された。
「危ないから屋敷までは駕篭で行け。子細は大夫どのに文を遣わしてある。」
抗議する頼隆に危険が多いので護身のために---とだけ言った、と直義ははぐらかした。
ーお前が滅法、強いなど、大夫どのは知るまいに。それに---ー
つまりは、今回、直義が伴ってきたのは、側室の『八雲御前』であって、『白勢頼隆』ではない---ということだ。
ーお前が都にいるとなると、違う意味で危ない。ー
拐かしどころか、暗殺---も有り得るというのが、直義の危惧だった。ある意味、先の戦で、頼隆は直義の片腕として、周囲の領主達に認知された。姿は知られていないが名前だけは通っている。
ー用心に越したことはない。ー
というのが、直義の弁だった。
ーまぁ良かろう。ー
頼隆は強く拒むことはせず、駕篭の中の婦人となった。
実際のところ、この選択は思わぬ効を奏した。
頼隆は気恥ずかしい思いで門を潜り、屋敷の入口で来訪を告げた。すると出迎えにきた老齢の女房が目を真ん丸くして驚き、一目散に奥に駆け込むと、翁の袖を引っ張ってやってきた。
『いや、たまげたわ~。ほんまに瓜二つ、別嬪さんやな~。』
小柄な翁は、目を見張って、頼隆を見上げた。そして、思いもよらぬことを言い出した。
『そぅや。せっかくだから、その姿で会うてんか?』
『はいぃ?』
今度は頼隆が目を丸くする番だった。後ろで控えていた柾木も唖然としていた。
『実はな---』
祖母は病んで、床につくようになってから、娘にしきりに逢いたがっているという。
『願いを叶えてやりとうてな---』
『しかし、母は、こんな大女ではありますまいに---』
『座ってしまえば、わからへんよ。ーおたあさまー言うてやってくれへんか?』
翁に促されて、頼隆は奥へ進んだ。女房達の局---ということで、柾木は玄関脇の控えの間に留まった。
『樗よ、待ち人が来たぇ---。真朱がな、見舞いに来てくれはったぇ。』
御簾の外からも、床から身を起こした婦人が、驚いているのが、わかった。婦人は御簾の側まで転ぶようににじり寄ってきた。
『ニノ姫や---!真朱や---! ほんまに、夢やないんやな。』
御簾の下から手を伸ばし、頼隆の膝を撫で、手を握った。
『おたあさま---』
頼隆は言われたとおりの言葉で呼び掛けた。涙の溜まった目で、うん、うんと頷くのが見えた。声が違うのがバレないように、出来るだけ高めに話しかけた。
『お加減が良ぅないと聞いて、お見舞いに参りました。早ぅ良うなって下さりませ--』
見よう見真似の都言葉で話しかけると、また小さな頭が、うん、うんと頷いた。
『あの小さなニノ姫がこんなに大きゅうなって---』
母、真朱と祖母が訣れたのは、母が十二の年だった---と後で祖父に聞いた。母が亡くなったことも知らない、という。
『なんや可哀想でな---言い出せんかったんや。えらい可愛がっておってな---』
祖母とはー病が移るといけないーという理由で御簾越しの対面だったが、この上なく嬉しそうに頼隆を見つめ、去り際には、また目に涙を溜めていた。
『また参りますゆえ、どうぞあんじょう養生なされますよう---』
柾木の口癖を真似て、頭を下げて退出した。見送る背中がひどく小さかった。
後日、この話を直義にしたとき、珍しく直義は笑わなかった。
ー良い孝行が出来たな---。ーとだけ言って、頼隆の頭をぽんぽん---と軽く叩いた。
廊下をもと来たほうに戻ろうとした時、祖父が頼隆を呼び止めた。
「茶を点てるさかい、喫んでおいき。」
ー会わせたいお人がおるんや。ー
扇越しに祖父はひそ---と囁いた。頼隆は黙って頷いた。祖父は、女房のひとりに、柾木から男装束を預かってくるように告げた。
髷にしては長すぎる髪を背中で揺らしながら、茶室ににじり入る。祖父がはんなりとした手つきで、茶を点て、頼隆の前に勧めた。
床の間のしつらえは山水。竹の花入れには可愛らしい赤い実が顔を覗かせていた。
「市中の山居いいましてな---」
祖父は、頼隆が茶を飲む姿をにこにこと眺めながら言った。
「雛びた風情を街中で味わうのが茶の心言うて---そやかて、本当の雛は、こういうもんやあらへん---。」
都から逃れた当初は相当な苦難があった---と、祖父はぽつり---と言った。
「そやさかい、九神はんには、なんぼ感謝しても足りまへん。----もぅお一人----」
祖父が恩を受けた---という人物が、する---と開いた襖の向こうで畏まっていた。
「設楽輝信はんぇ。」
頼隆は軽く会釈をし、茶室に入ってくる男を見た。年の頃は、直義と同じくらいか少し若い---どちらかというと細面に近い顔立ちだが、彫りが深い。目の色が薄い茶色で、髪も赤い。異人の血が入っているという噂は本当のようだ。赤銅色に日焼けした体躯は筋骨隆々として、如何にも『海の男』といった風情だった。先祖は貴族と聞いたが、早々に海賊稼業に鞍替えしたらしい---と話には聞いていた。
ー赤鬼---か。ー
西海の鬼---との二つ名があると聞いた。
「此度は、大夫どののお招きにあずかり---お身内のお方とのご対面叶うて、恐悦至極にて---」
意外に声は涼やかだった。軽く会釈して、祖父が座を外した。しばし、沈黙が流れた。
先に口を開いたのは、輝信だった。
「あん時ゃあ、悪かったな。」
いきなりの砕けた口調に、頼隆は一瞬、耳を疑った。正座も崩し、どっかと胡座をかいて、座り直していた。
「大夫様の前では言えんがな、俺は海賊上がりでな。格式張ったやり取りは性に合わん。」
呆れる頼隆を前に、輝信は言葉を続けた。
「俺も一応、家臣を抱える身でな。俺はいいが、あいつらを不利な賭けに乗せるわけにはいかねぇ。」
ざっくばらん---と言えば聞こえはいいが、随分ぞんざいな男だ---と頼隆は眉をひそめた。
「それで、今回は勝機あり---と見て、我らの戦を利用して、覇権を拡げたわけか。」
頼隆の冷ややかな言葉に輝信は顔色も変えず、大ぶりな口をニヤリと歪ませた。
「そう嫌な顔をしなさんな。---『白勢の鬼神』の腕のほども知らなかったしな---」
そう言って、輝信はずぃ---と身体を乗り
出した。
ー無礼なやつ---ー
ますます眉をひそめる頼隆に、輝信は平然と、その顔を近づけた。
「同じ『鬼』でも、えれぇ違いだ。噂には聞いていたが、とんでもねぇ別嬪さんだ。こりゃあ、吾桑の褌も弛むわな---」
「下品な言い方をするな。それより今日はなんの用向きだ。」
頼隆は、憮然として近寄ってくる顔を睨み付けた。輝信は、やれやれ---といった顔で身体を引いた。
「お前さん達のお陰で内海が楽に手に入った。その礼を言いにきた。それと---」
輝信の目が、頼隆の眼をじ---と見据えた。深い、鋭い眼光が束の間走った---が、すぐに和らいだ。笑うと何とも言えない愛嬌があった。が、その言葉は、尚も頼隆の神経を逆撫でした。
「九神直義の自慢の別嬪さん、そのご尊顔を是非、拝見したくてな---。」
「無礼であろう!」
真剣に怒りを露にした頼隆に、これはマズイ---と気付いたのか、輝信はすっくと座を立った。直義よりもデカい---と頼隆は思った。
「まぁ、そう怒りなさんな。またいずれ会おう。白勢頼隆どの---いや、八雲御前様。」
「おのれ!」
思わず身を浮かす頼隆に振り向きもせず、輝信は、ひらひらと手を振って襖の外に消えた。
「なんぞ、ありましたか?」
「いえ、何も---」
心配そうに顔を覗き込む祖父ににっこりと笑みを返して、頼隆はまた女姿に戻って土御門の屋敷を後にした。
「好かん男だ---。」
「え?」
駕篭に乗り際に小さく呟く頼隆に、柾木が怪訝そうな顔をしたが、頼隆はそれ以上、何も言わなかった。
ー醉芙蓉か---ー
その頃、設楽輝信は領主とは思えない身軽さで、土御門の屋敷からぶらり、淡い薄紅の花が南からのそよ風に揺れるなかを自分の船に帰っていった。
その日、頼隆が都の城を出たのは午の刻限だった。ひとしきり来客の対応を済ませ、柾木も身体が空いたところで、祖母の見舞いに行ってよい---との直義の赦しが出たのだ。急いで使者を一条近くの祖父の屋敷に走らせ、駕篭に乗って、城外に出た。相変わらず、直義は厳しく、女姿で行け---と指示された。
「危ないから屋敷までは駕篭で行け。子細は大夫どのに文を遣わしてある。」
抗議する頼隆に危険が多いので護身のために---とだけ言った、と直義ははぐらかした。
ーお前が滅法、強いなど、大夫どのは知るまいに。それに---ー
つまりは、今回、直義が伴ってきたのは、側室の『八雲御前』であって、『白勢頼隆』ではない---ということだ。
ーお前が都にいるとなると、違う意味で危ない。ー
拐かしどころか、暗殺---も有り得るというのが、直義の危惧だった。ある意味、先の戦で、頼隆は直義の片腕として、周囲の領主達に認知された。姿は知られていないが名前だけは通っている。
ー用心に越したことはない。ー
というのが、直義の弁だった。
ーまぁ良かろう。ー
頼隆は強く拒むことはせず、駕篭の中の婦人となった。
実際のところ、この選択は思わぬ効を奏した。
頼隆は気恥ずかしい思いで門を潜り、屋敷の入口で来訪を告げた。すると出迎えにきた老齢の女房が目を真ん丸くして驚き、一目散に奥に駆け込むと、翁の袖を引っ張ってやってきた。
『いや、たまげたわ~。ほんまに瓜二つ、別嬪さんやな~。』
小柄な翁は、目を見張って、頼隆を見上げた。そして、思いもよらぬことを言い出した。
『そぅや。せっかくだから、その姿で会うてんか?』
『はいぃ?』
今度は頼隆が目を丸くする番だった。後ろで控えていた柾木も唖然としていた。
『実はな---』
祖母は病んで、床につくようになってから、娘にしきりに逢いたがっているという。
『願いを叶えてやりとうてな---』
『しかし、母は、こんな大女ではありますまいに---』
『座ってしまえば、わからへんよ。ーおたあさまー言うてやってくれへんか?』
翁に促されて、頼隆は奥へ進んだ。女房達の局---ということで、柾木は玄関脇の控えの間に留まった。
『樗よ、待ち人が来たぇ---。真朱がな、見舞いに来てくれはったぇ。』
御簾の外からも、床から身を起こした婦人が、驚いているのが、わかった。婦人は御簾の側まで転ぶようににじり寄ってきた。
『ニノ姫や---!真朱や---! ほんまに、夢やないんやな。』
御簾の下から手を伸ばし、頼隆の膝を撫で、手を握った。
『おたあさま---』
頼隆は言われたとおりの言葉で呼び掛けた。涙の溜まった目で、うん、うんと頷くのが見えた。声が違うのがバレないように、出来るだけ高めに話しかけた。
『お加減が良ぅないと聞いて、お見舞いに参りました。早ぅ良うなって下さりませ--』
見よう見真似の都言葉で話しかけると、また小さな頭が、うん、うんと頷いた。
『あの小さなニノ姫がこんなに大きゅうなって---』
母、真朱と祖母が訣れたのは、母が十二の年だった---と後で祖父に聞いた。母が亡くなったことも知らない、という。
『なんや可哀想でな---言い出せんかったんや。えらい可愛がっておってな---』
祖母とはー病が移るといけないーという理由で御簾越しの対面だったが、この上なく嬉しそうに頼隆を見つめ、去り際には、また目に涙を溜めていた。
『また参りますゆえ、どうぞあんじょう養生なされますよう---』
柾木の口癖を真似て、頭を下げて退出した。見送る背中がひどく小さかった。
後日、この話を直義にしたとき、珍しく直義は笑わなかった。
ー良い孝行が出来たな---。ーとだけ言って、頼隆の頭をぽんぽん---と軽く叩いた。
廊下をもと来たほうに戻ろうとした時、祖父が頼隆を呼び止めた。
「茶を点てるさかい、喫んでおいき。」
ー会わせたいお人がおるんや。ー
扇越しに祖父はひそ---と囁いた。頼隆は黙って頷いた。祖父は、女房のひとりに、柾木から男装束を預かってくるように告げた。
髷にしては長すぎる髪を背中で揺らしながら、茶室ににじり入る。祖父がはんなりとした手つきで、茶を点て、頼隆の前に勧めた。
床の間のしつらえは山水。竹の花入れには可愛らしい赤い実が顔を覗かせていた。
「市中の山居いいましてな---」
祖父は、頼隆が茶を飲む姿をにこにこと眺めながら言った。
「雛びた風情を街中で味わうのが茶の心言うて---そやかて、本当の雛は、こういうもんやあらへん---。」
都から逃れた当初は相当な苦難があった---と、祖父はぽつり---と言った。
「そやさかい、九神はんには、なんぼ感謝しても足りまへん。----もぅお一人----」
祖父が恩を受けた---という人物が、する---と開いた襖の向こうで畏まっていた。
「設楽輝信はんぇ。」
頼隆は軽く会釈をし、茶室に入ってくる男を見た。年の頃は、直義と同じくらいか少し若い---どちらかというと細面に近い顔立ちだが、彫りが深い。目の色が薄い茶色で、髪も赤い。異人の血が入っているという噂は本当のようだ。赤銅色に日焼けした体躯は筋骨隆々として、如何にも『海の男』といった風情だった。先祖は貴族と聞いたが、早々に海賊稼業に鞍替えしたらしい---と話には聞いていた。
ー赤鬼---か。ー
西海の鬼---との二つ名があると聞いた。
「此度は、大夫どののお招きにあずかり---お身内のお方とのご対面叶うて、恐悦至極にて---」
意外に声は涼やかだった。軽く会釈して、祖父が座を外した。しばし、沈黙が流れた。
先に口を開いたのは、輝信だった。
「あん時ゃあ、悪かったな。」
いきなりの砕けた口調に、頼隆は一瞬、耳を疑った。正座も崩し、どっかと胡座をかいて、座り直していた。
「大夫様の前では言えんがな、俺は海賊上がりでな。格式張ったやり取りは性に合わん。」
呆れる頼隆を前に、輝信は言葉を続けた。
「俺も一応、家臣を抱える身でな。俺はいいが、あいつらを不利な賭けに乗せるわけにはいかねぇ。」
ざっくばらん---と言えば聞こえはいいが、随分ぞんざいな男だ---と頼隆は眉をひそめた。
「それで、今回は勝機あり---と見て、我らの戦を利用して、覇権を拡げたわけか。」
頼隆の冷ややかな言葉に輝信は顔色も変えず、大ぶりな口をニヤリと歪ませた。
「そう嫌な顔をしなさんな。---『白勢の鬼神』の腕のほども知らなかったしな---」
そう言って、輝信はずぃ---と身体を乗り
出した。
ー無礼なやつ---ー
ますます眉をひそめる頼隆に、輝信は平然と、その顔を近づけた。
「同じ『鬼』でも、えれぇ違いだ。噂には聞いていたが、とんでもねぇ別嬪さんだ。こりゃあ、吾桑の褌も弛むわな---」
「下品な言い方をするな。それより今日はなんの用向きだ。」
頼隆は、憮然として近寄ってくる顔を睨み付けた。輝信は、やれやれ---といった顔で身体を引いた。
「お前さん達のお陰で内海が楽に手に入った。その礼を言いにきた。それと---」
輝信の目が、頼隆の眼をじ---と見据えた。深い、鋭い眼光が束の間走った---が、すぐに和らいだ。笑うと何とも言えない愛嬌があった。が、その言葉は、尚も頼隆の神経を逆撫でした。
「九神直義の自慢の別嬪さん、そのご尊顔を是非、拝見したくてな---。」
「無礼であろう!」
真剣に怒りを露にした頼隆に、これはマズイ---と気付いたのか、輝信はすっくと座を立った。直義よりもデカい---と頼隆は思った。
「まぁ、そう怒りなさんな。またいずれ会おう。白勢頼隆どの---いや、八雲御前様。」
「おのれ!」
思わず身を浮かす頼隆に振り向きもせず、輝信は、ひらひらと手を振って襖の外に消えた。
「なんぞ、ありましたか?」
「いえ、何も---」
心配そうに顔を覗き込む祖父ににっこりと笑みを返して、頼隆はまた女姿に戻って土御門の屋敷を後にした。
「好かん男だ---。」
「え?」
駕篭に乗り際に小さく呟く頼隆に、柾木が怪訝そうな顔をしたが、頼隆はそれ以上、何も言わなかった。
ー醉芙蓉か---ー
その頃、設楽輝信は領主とは思えない身軽さで、土御門の屋敷からぶらり、淡い薄紅の花が南からのそよ風に揺れるなかを自分の船に帰っていった。
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