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(番外編)空飛ぶ鷹に影は落ちるか
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翌日、エミール様は中々お目覚めにならなかった。
いや、たぶん起きてはいる。そういう気配がする。でも寝台から出て来られない。
朝食はクラウス様おひとりで召し上がられた。そろそろ刻限だ。クラウス様をお見送りするならば、いい加減起きなければ間に合わない。
私がひとり気を揉んでいると、エミール様がようやく起きてこられた。しりきに瞼を気にされている。たしかにふだんに比べるとすこし腫れぼったいが、そんなことで彼のうつくしさが損なわれるわけもなく、そんなに気にしなくてもいいのにと私は思った。
エミール様は気丈に振る舞われ、クラウス様との別れの挨拶を終えられた。
抱き合うお二人は、やはり一対の生き物のように私には見えた。
本当に離れ離れになってしまうのか。
なぜ。こんなにも互いのことを愛しているのに、なぜ別れの道を選ばなければならないのだろうか。
なぜ、なぜ、と、そんな問いが頭の中でぐるぐると渦を巻く。
騎士団の制服に身を包んだクラウス様を送り出し、ひとり荷造りを始めたエミール様の背中があまりに頼りなく見えて、思わず引き留めそうになった。
出て行くのをやめて、このままクラウス様の元で暮らしましょう、と、言いたくなった。
けれど私ごときの言葉で翻意されるのであれば、その程度の覚悟であれば、ファルケンが昨日の時点で説得できただろう。
私はやさしくもかなしいオメガへと、引き留める言葉の代わりに、私も同行することを申し出た。
エミール様は飴色の瞳を真ん丸に見開いて、それからボロボロと泣き出した。
いいの? と尋ねてくる声はいじらしかった。
このひとが私の主だ。強くそう思った。
あの夜……『狼』の山でまもりきれなかった、エミール様とお腹の子……同じ失態は繰り返さない。こんどは絶対にまもりきる。たとえ相手が……クラウス様であっても。
覚悟を新たにしながら、手早く荷物を準備する。エミール様は繊細そうなお顔とは裏腹に、手先が意外と不器用だ。なぜこんな詰め方になるのだろう? そしてなぜこんなたたみ方になるのか。首を傾げつつエミール様がご自分で詰めた荷物を一度すべて出してから、よりコンパクトになるように収納していった。
シーツも持って行きたいと主が言うので、それも詰めた。
アルファとオメガの間では、匂いというものは殊更重要なもののようだった。正直邪魔になるだけだと思ったけれど、ベータの私にはわからない類のものなので、異論は差しはさまなかった。
荷造りが終わったタイミングで、バルコニーにファルケンが現われた。彼がここに来たということは、屋敷の周囲に他の『狼』は居ないということだ。
今回の逃亡で一番のネックは、そこだった。
あの事件以来、エミール様はずっと屋敷に籠っておられた。クラウス様もエミール様から離れることはなかった。だから護衛役の『狼』も現在は任を解かれ、里へと戻っている。
今日、クラウス様が騎士団へ赴かれることとなり、『狼』が再び招聘される可能性があった。
いくらファルケンと私が居るからと言って、『狼』の目を掻い潜ってエミール様を逃がすことは難しい。そうなれば当然、力ずくで押し通ることとなる。しかしエミール様の前でまさか仲間同士が争う様を見せるわけにもいかない。
そこでファルケンが先に露払いを済ませておく手筈になっていた。
一対一であれば、いかに相手が『狼』といえどもこの男が負けるはずがなかった。
チラと見たファルケンの服装に汚れや乱れはない。つまりは戦闘することなくここへ来れたということだ。エミール様に『狼』の護衛はついてないと見て間違いないだろう。
ファルケンと視線を交わし、互いに頷き合う。
エミール様がポカンとしたように我々を見比べていた。私が同行することをファルケンが知っているとは思っていなかったのだ。私の説明不足ではあったが、いまはゆっくり話している時間が惜しい。すぐに出立しなければ。
それはエミール様もよくわかっておられるようで、薄い唇を引き結んで窓越しにご自身の過ごした部屋を数秒見つめたのち、こくりと一度頷いた。
ファルケンがエミール様を抱き上げようと手を伸ばす。
そのときだった。
すさまじい質量の殺気が、突如として我々に向けられた。
私は咄嗟に飛び退り、胸の隠しに手を入れて短剣の柄を掴んだ。ファルケンも即座に戦闘態勢に入ったのがわかった。
意思とは無関係に、目のふちが痙攣する。本能が警戒せよと叫んでいた。
膝が、折れそうになった。戦う前から体が屈したがっていた。こんなことは初めてだ。ひたいに脂汗がじわりと滲んだ。
いったい、誰だ……。
唾液すら飲み込めない緊張感の中、私の視界でゆらりと揺れた人影があった。
石造りのバルコニーの、風下になっている一画。
そこに現れたのは、クラウス様だった。
「聞いてないぞ、クラウス様が隠行できるなんて」
「私も初めて知りました」
口早に、ファルケンと囁き合う。そんな我々をクラウス様が冷めた目で一瞥した。
「私と『狼』が何年の付き合いだと思っている。おまえがそれなりにできるぐらいだ。私もできて当然だとは考えなかったのか」
言葉の後半はファルケンに向けられていた。
おのれのオメガを奪おうとするアルファへと、クラウス様が剥き出しの怒りを見せている。
こんな威圧を浴びて、エミール様は大丈夫なのだろうか。
私は俄かに私の主が心配になり、エミール様へと目をやったが……エミール様は突然現れたクラウス様に驚愕しながらも、きちんとご自身の足で立っていた。
このひとはわかっているのだ。クラウス様が絶対に自分を傷つけることはないと、心底から理解しているのだ。魂のつがいと呼ばれる関係だからだろうか。クラウス様を怖がる素振りは微塵も見せずに、エミール様はただただクラウス様を見つめていた。
その後、クラウス様が熱烈にエミール様を口説き落として、お二人は元の鞘に収まった。
ファルケンが、
「俺と影……スヴェンの二人がかりでもクラウス様には勝てない。そのひとから逃げるのは無理だ。俺もいのちが惜しいから、計画は白紙だ」
と冗談交じりの口調で言っていたが、声音に悔しさが滲んでいるような気がした。
クラウス様には勝てない。それはまさしく、この男の敗北宣言に聞こえた。
ひとりのオメガを挟んで、アルファ同士、私にはわからない複雑な感情があるのだろう。
ファルケンは今夜も、発散できない昂ぶりを抱えて娼婦と寝台をともにするのかもしれない。
早々に場を離脱したファルケンに続いて、私も室内へと戻り、まったく出番のなかった旅支度を荷ほどきしていった。
バルコニーではエミール様とクラウス様が抱き合っている。しあわせそうな主の笑顔にほっとした。
片付けをしていると、革の財布が出てきた。逃げる際の路銀としてファルケンから預かっていたものだった。
エミール様はクラウス様の元へ残ることを選ばれたのだから、これはファルケンに返さなければならない。
私はひとつ吐息して、革の財布をポケットへと突っ込んだ。
いや、たぶん起きてはいる。そういう気配がする。でも寝台から出て来られない。
朝食はクラウス様おひとりで召し上がられた。そろそろ刻限だ。クラウス様をお見送りするならば、いい加減起きなければ間に合わない。
私がひとり気を揉んでいると、エミール様がようやく起きてこられた。しりきに瞼を気にされている。たしかにふだんに比べるとすこし腫れぼったいが、そんなことで彼のうつくしさが損なわれるわけもなく、そんなに気にしなくてもいいのにと私は思った。
エミール様は気丈に振る舞われ、クラウス様との別れの挨拶を終えられた。
抱き合うお二人は、やはり一対の生き物のように私には見えた。
本当に離れ離れになってしまうのか。
なぜ。こんなにも互いのことを愛しているのに、なぜ別れの道を選ばなければならないのだろうか。
なぜ、なぜ、と、そんな問いが頭の中でぐるぐると渦を巻く。
騎士団の制服に身を包んだクラウス様を送り出し、ひとり荷造りを始めたエミール様の背中があまりに頼りなく見えて、思わず引き留めそうになった。
出て行くのをやめて、このままクラウス様の元で暮らしましょう、と、言いたくなった。
けれど私ごときの言葉で翻意されるのであれば、その程度の覚悟であれば、ファルケンが昨日の時点で説得できただろう。
私はやさしくもかなしいオメガへと、引き留める言葉の代わりに、私も同行することを申し出た。
エミール様は飴色の瞳を真ん丸に見開いて、それからボロボロと泣き出した。
いいの? と尋ねてくる声はいじらしかった。
このひとが私の主だ。強くそう思った。
あの夜……『狼』の山でまもりきれなかった、エミール様とお腹の子……同じ失態は繰り返さない。こんどは絶対にまもりきる。たとえ相手が……クラウス様であっても。
覚悟を新たにしながら、手早く荷物を準備する。エミール様は繊細そうなお顔とは裏腹に、手先が意外と不器用だ。なぜこんな詰め方になるのだろう? そしてなぜこんなたたみ方になるのか。首を傾げつつエミール様がご自分で詰めた荷物を一度すべて出してから、よりコンパクトになるように収納していった。
シーツも持って行きたいと主が言うので、それも詰めた。
アルファとオメガの間では、匂いというものは殊更重要なもののようだった。正直邪魔になるだけだと思ったけれど、ベータの私にはわからない類のものなので、異論は差しはさまなかった。
荷造りが終わったタイミングで、バルコニーにファルケンが現われた。彼がここに来たということは、屋敷の周囲に他の『狼』は居ないということだ。
今回の逃亡で一番のネックは、そこだった。
あの事件以来、エミール様はずっと屋敷に籠っておられた。クラウス様もエミール様から離れることはなかった。だから護衛役の『狼』も現在は任を解かれ、里へと戻っている。
今日、クラウス様が騎士団へ赴かれることとなり、『狼』が再び招聘される可能性があった。
いくらファルケンと私が居るからと言って、『狼』の目を掻い潜ってエミール様を逃がすことは難しい。そうなれば当然、力ずくで押し通ることとなる。しかしエミール様の前でまさか仲間同士が争う様を見せるわけにもいかない。
そこでファルケンが先に露払いを済ませておく手筈になっていた。
一対一であれば、いかに相手が『狼』といえどもこの男が負けるはずがなかった。
チラと見たファルケンの服装に汚れや乱れはない。つまりは戦闘することなくここへ来れたということだ。エミール様に『狼』の護衛はついてないと見て間違いないだろう。
ファルケンと視線を交わし、互いに頷き合う。
エミール様がポカンとしたように我々を見比べていた。私が同行することをファルケンが知っているとは思っていなかったのだ。私の説明不足ではあったが、いまはゆっくり話している時間が惜しい。すぐに出立しなければ。
それはエミール様もよくわかっておられるようで、薄い唇を引き結んで窓越しにご自身の過ごした部屋を数秒見つめたのち、こくりと一度頷いた。
ファルケンがエミール様を抱き上げようと手を伸ばす。
そのときだった。
すさまじい質量の殺気が、突如として我々に向けられた。
私は咄嗟に飛び退り、胸の隠しに手を入れて短剣の柄を掴んだ。ファルケンも即座に戦闘態勢に入ったのがわかった。
意思とは無関係に、目のふちが痙攣する。本能が警戒せよと叫んでいた。
膝が、折れそうになった。戦う前から体が屈したがっていた。こんなことは初めてだ。ひたいに脂汗がじわりと滲んだ。
いったい、誰だ……。
唾液すら飲み込めない緊張感の中、私の視界でゆらりと揺れた人影があった。
石造りのバルコニーの、風下になっている一画。
そこに現れたのは、クラウス様だった。
「聞いてないぞ、クラウス様が隠行できるなんて」
「私も初めて知りました」
口早に、ファルケンと囁き合う。そんな我々をクラウス様が冷めた目で一瞥した。
「私と『狼』が何年の付き合いだと思っている。おまえがそれなりにできるぐらいだ。私もできて当然だとは考えなかったのか」
言葉の後半はファルケンに向けられていた。
おのれのオメガを奪おうとするアルファへと、クラウス様が剥き出しの怒りを見せている。
こんな威圧を浴びて、エミール様は大丈夫なのだろうか。
私は俄かに私の主が心配になり、エミール様へと目をやったが……エミール様は突然現れたクラウス様に驚愕しながらも、きちんとご自身の足で立っていた。
このひとはわかっているのだ。クラウス様が絶対に自分を傷つけることはないと、心底から理解しているのだ。魂のつがいと呼ばれる関係だからだろうか。クラウス様を怖がる素振りは微塵も見せずに、エミール様はただただクラウス様を見つめていた。
その後、クラウス様が熱烈にエミール様を口説き落として、お二人は元の鞘に収まった。
ファルケンが、
「俺と影……スヴェンの二人がかりでもクラウス様には勝てない。そのひとから逃げるのは無理だ。俺もいのちが惜しいから、計画は白紙だ」
と冗談交じりの口調で言っていたが、声音に悔しさが滲んでいるような気がした。
クラウス様には勝てない。それはまさしく、この男の敗北宣言に聞こえた。
ひとりのオメガを挟んで、アルファ同士、私にはわからない複雑な感情があるのだろう。
ファルケンは今夜も、発散できない昂ぶりを抱えて娼婦と寝台をともにするのかもしれない。
早々に場を離脱したファルケンに続いて、私も室内へと戻り、まったく出番のなかった旅支度を荷ほどきしていった。
バルコニーではエミール様とクラウス様が抱き合っている。しあわせそうな主の笑顔にほっとした。
片付けをしていると、革の財布が出てきた。逃げる際の路銀としてファルケンから預かっていたものだった。
エミール様はクラウス様の元へ残ることを選ばれたのだから、これはファルケンに返さなければならない。
私はひとつ吐息して、革の財布をポケットへと突っ込んだ。
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