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狼と名もなき墓標

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 二人の『狼』が小声で情報共有をしている。時折エミールにはまったくわからない単語も混ざっていた。恐らく、暗号の類なのだろう。独自の言い回しで早口に話す二人の男の声に、すこしの眠気を誘われる。
 だが、眠ってはいけないと先ほど注意を受けたばかりだ。寝たら、体温が下がってしまう。

「エミール様、これを」

 不意に肩になにかが乗った。見れば『狼』が上着をエミールに着せかけていた。姿の見えないもうひとりの『狼』が着ていたものだろうか。

「でも、オレが着たら、あなたが寒いでしょう」

 震えながらも遠慮したが、暗闇からは「いいえ」と返ってきた。

「私は動いているので大丈夫です。粗末なもので申し訳ないのですが」
「粗末だなんて。オレが昔来てた服よりもずっと上等だよ」

 エミールは小さく笑って、
「ありがとう」
 とお礼を言った。

 上着には『狼』の体温がほんのりと沁みている。そのぬくもりに、なんだか泣いてしまいそうになった。
 しかし気をゆるめている場合ではない。『狼』の纏う空気はまだ張り詰めたままだ。

「外は、どうなってるって?」

 エミールがそっと問いかけると、『狼』はしずかに首を振った。

「雨が強いので追尾の足も鈍ってるようです。しかし同様に『狼』も思うように動けていません」
「やっぱり雨で……」
「はい。それ以外にも、もうひとつの要因が」
「え?」
「敵を殺してはならぬと命令が出たようです」

 殺す、という言葉にエミールは息を飲んだ。このまま逃げ切ればそのうちにマリウスがなんとかしてくれる。そういう思いがあった。しかし『狼』にとってはもはやここは戦場なのだ。エミールを追ってくる者は敵であり、討伐対象なのだ。

「これによって我らからの攻撃はほぼ不可能となりました。敵を攪乱し、追い払う。そういう戦い方ができないわけではありませんが……いかんせんこの雨です」
「命令って、もしかしてクラウス様が」
「いいえ。マリウス殿下です」
「……そっか……」

 エミールはすこし落胆した。『狼』に命令できるのはクラウスだけかと思ったが、マリウスにだって当然その権限があるに決まってた。
 そして、エミールの追手を殺してはならないとそのマリウスが指示したという。それがなにを意味するのか。
 考えても答えは出てこない。
 エミールはまばたきをして思考を切り替えた。

「スヴェンは大丈夫かな?」

 エミールの服に身を包み、囮となった侍従を案じて問えば、「恐らく」と暗闇の方から返事が返ってきた。

「エミール様の身柄を押さえたならば、敵はもうこの山には用がないはずです。しかし人数が減った様子もない。まだあなたを探しているのです。つまり、『影』はまだ捕まってない」

 断言されて、ホッと息を吐く。
 身代わりの役目なんて投げ出していいから、このままどこかへ無事に逃げてほしい。エミールは内心でそう願った。

「雨は朝まで降りそうです。エミール様、このままここに居ては体が冷える一方ですので、ご無理をかけますが移動します」
「わかった」
「その前にそこの『狼』が防寒具と雨具を取ってきます」
「ついでに人手も集めてきます。御身には負担を掛けぬよう、我々が交互に背負いますので」
「……すみません」

 一瞬遠慮の言葉が口から出そうになったが、エミールはそれを飲み込んで素直に頭を下げた。エミールが自分で歩くよりも『狼』に身を任せた方が早く動くことができる。それに、やせ我慢ももう底をつきかけていた。体力も気力も限界が近い。

「では、後程」

 その声を残して、『狼』は洞窟を出て行ったようだった。最初から最後までまったく姿が見えなかった。すごいな、と感心していると、残った『狼』が灯かりをエミールの方へと翳し、
「もうすこしの辛抱ですよ」
 とやさしい言葉をかけてくれた。それから、迷うように唇を動かし、
「これは未確認なので、本来はまだ告げるべきではないのですが」
 そう前置きをして、エミールに耳打ちしてくる。

「騎士団らしき一行が入山したとの情報も」
「……騎士団」
「はい」
「クラウス様?」
「恐らくは。それと、あなたの『鷹』も」
「ルーも!」

 エミールは両手を握りしめて叫んだ。『狼』に「シッ」と窘められ慌てて口を噤んだが、クラウスとファルケンがここに来ているかもしれないという情報は、エミールに活力を与えた。

「顔色がすこし戻りましたね」

 『狼』がそう言って小さく笑った。
 もしかしたらこれは、エミールに希望を持たせるための嘘なのかもしれない。でもいまは、嘘でも騙されていたかった。クラウスに会いたかった。そして、ファルケンにも。

「オレ、頑張るよ」

 エミールがぽつりと呟くと、『狼』が軽く頷いた。

「もう充分頑張っていらっしゃいますけどね。『狼』が来ればそのまま里まで走ります」
「わかった」
「それまではここで、」

 『狼』の囁き声に被って、外からなにかが聞こえてきた。
 『狼』はランタンをエミールに預け、そのままで、と手で合図をして入り口の方へと歩み寄って行った。途中、暗闇に溶けるようにして『狼』の姿が消えた。隠行したのだ。

 エミールは『狼』のマフラーで覆われたランタンを、さらに体で隠して光が漏れないように気をつけた。
 いったい外でなにが、と耳を澄ませる。
 雨音に混じってまたなにかが聞こえた。ひとの声だ。

「…………を、……ぞ!」

 誰かが叫んだ。それに歓声のような声が混じる。
 エミールはランタンを置いてそっと立ち上がり、『狼』が行った方向へと壁伝いに歩いた。足音が鳴らぬよう、慎重に進むうちに、外の声が徐々に拾えるようになる。

「……そこに逃げたぞ!」
「白い外套だ!」

 耳に飛び込んできたセリフに、ハッとする。
 白い外套。それは、元々エミールが着ていたものではないか?
 直後、また歓声が上がった。

「捕らえた! 捕らえたぞ!!」

 雨音を貫き、高々と轟いだ声。
 エミールは思わず、洞窟から飛び出した。

「スヴェンっ!!」
「エミール様っ、いけませんっ!」

 侍従の名を叫びながらエミールは夜の闇の中、足を踏み出した。冷たい雨のつぶてが顔に降りかかってくる。『狼』がすぐに背後からエミールの腕を掴んだ。

「戻ってください!」
「でもスヴェンがっ!!」
「危ないっ!」

 『狼』がエミールを抱き込んだ。途端、顔の横で風を切る音が聞こえた。矢だ。どこからか、矢が飛んできたのだ。

「あそこだっ!」

 思いのほか近くで誰かの声がした。見れば周囲にはランタンや松明の灯かりがいくつも揺れていた。

「炙り出されたか」

 『狼』が呻くようにつぶやいた。      
 エミールのせいだ。スヴェンが捕まったと思い、我を忘れて飛び出してしまった。

「逃げます。こちらへ!」

 『狼』がエミールの腕を引く。また矢が飛んでくる気配がした。

「この暗さです。当たりません! 大丈夫!」

 『狼』の励ましに背を押され、エミールは走った。濡れた上着が重い。お腹が痛い。……痛い。

「エミール様! こっちです!」

 また誰かの声がする。べつの『狼』だ。さらにはべつの。
 幾人か駆けつけてきた『狼』がエミールの退路を広げてくれる。

 エミールは山の急斜面を上った。『狼』がしっかり支えてくれている。追手の声は遠ざかっている気がする。大丈夫、逃げ切れる。
 しかし息が続かずに、エミールは立ち止まり、肩を喘がせた。苦しい。きっと、お腹の子も苦しがっている。だからこんなにも痛むのだ。

「エミール様、大丈夫ですか」

 狼面の男が背後を気にしつつも、呼吸が整うのを待ってくれている。

「背負います」
「大丈夫、行ける」

 そう応じて、足を踏み出したときだった。
 濡れた山肌に靴裏が滑った。咄嗟に差し出された手を掴んだ。『狼』が、片手で木の枝を持ち、もう片方の手でエミールを掴んでいる。

「エミール様! 足を踏ん張れますか?」
「う、うん」

 滑って倒れた拍子に、あちこちを擦りむいている。でも『狼』が手を掴んでくれたおかげで滑落せずにすんだ。あとは足裏を地面につけて、立ち上がって体勢を整えれば……。

 ザァっと雨が顔に降りかかった。崖に近い勾配だ。足場を確かめながら、なんとか踏ん張れる場所を探す。
 川の音が聞こえている。『狼』が下は川だと洞窟で言っていた。下まで落ちていたら川で溺れたかもしれない。

 はぁ、はぁ、と自分の息遣いがやけに大きく聞こえた。
 焦れば焦るほど体が上手く動かない。

「エミール様、大丈夫です! しっかり握ってますから!」

 手は絶対に離さない、と『狼』が勇気づけてくれる。
 エミールはようやく右足を踏ん張ることができた。『狼』の手を借りて、膝を持ち上げる。次は、左足。

 そのとき、また矢が飛んできた。
 『狼』の腕がひくりと動いた。男はうめき声ひとつ漏らさなかったが、束の間硬直したその動きが、彼に矢が当たったことを教えてきた。

 ひっ、と息を飲んだエミールの手を、『狼』がさらに強く掴んでくる。

「エミール様、里に入ったらこの面の下を見せてさしあげます」
「え……」
「だからもうひと頑張りです!」

 励まされ、うんと頷く。頷き、泣きながら、エミールは左足を出した。ようやく体勢が整った。これで前に進めば……。
 ぐらり、と体が揺れた。

「…………っ!!」        

 下腹部に鋭い痛みが走った。
 両手でそこを押さえた。傾いだエミールを支えようと、『狼』の手が伸びてくる。しかし矢で射られたせいで、動きが鈍ったのか、その手が空を切るのがやけにゆっくりと見えた。

 自分が倒れてゆくのがわかった。
 まるで時間が止まったかのようだ。
 音が消えて、周囲の景色だけがくっきりと見える。

 雨粒と、ところどころで揺れる橙色の灯かり。

 そして……木々の向こうから、闇に溶け込むような黒い片マントペリースを広げた男が走ってきて……。

 松明を左手に掲げた、その狼のようにうつくしい顔と、目が、合った、気がした。
 蒼い、瞳と……。


「エミールっ!!」

 聴覚が戻った。
 しかしどうしようもなかった。
 
 自分の名を呼ぶ痛切な叫びを聞きながら、エミールは急斜面を転がり落ちていった。    




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