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狼と名もなき墓標
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暗闇で震えていた。
寒さに歯の根が合わなくなる。自身を抱きしめるようにして両腕を肩に回した。
「大丈夫ですか?」
気づかわしげに尋ねられ、エミールは顔を上げた。しかし声がした右斜め上を見たところで、暗闇でなにも見えない。
『狼』の里へ向かう途中で雨が再び降りだしたため、狼面の男の先導で急遽近くの洞窟に避難したのだった。
ザァザァと強い雨音が、岩肌に反響して聞こえていた。雨音に混じって、川の流れる音も聞こえる。この洞窟は山の斜面に開いた横穴式のもので、もうすこし下った場所に川が流れているのだと『狼』が言っていた。
雨が降り出すや否や、足場が悪いというのにこの男はエミールを背負ったまま、最速でここへ連れてきてくれたのである。さすがに疲れているだろうとエミールは『狼』にも座って体を休めるよう言ったのだが、彼はそれよりもエミールの保護を優先させていた。
足場を確かめ、なるべく平坦になっている岩におのれの上着を敷き、そこへエミールを座らせる。『狼』だって寒いだろうからそんなことしなくていいと言ったのに、「体を冷やしてはいけません」と頑なに主張された。申し訳ないながらもエミールは男の上着の上に腰を下ろした。
雨は止む気配がなかった。真っ暗な中じっとしているとどんどんと体が冷えてくる。
スヴェンは無事なのだろうか。そしてクラウスは。エミールの騎士はいまどこに居るのだろう。ファルケンは合流できたのだろうか。
不安と焦燥が胸で渦巻き、そのせいか下腹部に痛みを覚える。精神的なものだろう。それでも胎の子が心配で、エミールはほんのすこしの膨らみのある腹を撫でた。
懐妊して四ヶ月。胎動はまだ感じないが、ベルンハルトは「お腹の中でしっかりと赤ちゃんの形になる頃ですなぁ」と言っていた。
アマーリエのときに比べてお腹のふくらみが少ない気がしたが、男性オメガの場合は胎児は小さく育つことが多いとも教えてもらって安堵した。
自分が身籠るなんてこと、想像したこともなかったけれど、実際にクラウスとの子を授かって、いまでは絶対にこの子をまもるのだという使命感に駆られている。
だから、大丈夫。オレは大丈夫。
お腹をさすりながら自身にそう言い聞かせた。
いまは何時なのだろう。夜明けはまだ遠いのか。灯かりがほしい。周りの様子がわかれば、すこしは不安も和らぐのに。
「エミール様、エミール様!」
強い囁きで名を呼ばれ、エミールはハッと肩を跳ねさせた。
「眠らないでください。体温が下がってしまう」
「ご、ごめん。起きてる。大丈夫」
「……ランタンを、点けましょう」
「いいの?」
「我々は夜目が利くよう訓練してますが、こう暗いとあなたの顔色もわからない」
背に腹は代えられないとばかりに、『狼』が苦渋の決断をする。
「敵からも見つけられやすくなりますが、味方も我々を探しやすくなる」
だから悪い影響ばかりではないと言い訳のように口にして、『狼』が小さなランタンに火を点した。だが、やはり外を警戒しているようで、自身の巻いていたマフラーを使って光量を絞る。
仄かな光でエミールを照らして、男は面の奥の瞳を歪めた。
「大丈夫。気分が悪いわけじゃないから」
こちらの体調を気にしたのがわかって、エミールは慌ててそう言った。男からはすでに上着を借りている。これ以上は負担になりたくなかった。
「もうひとり居れば、里から防寒具を持って来れたのですが」
『狼』の足なら里までは大した距離じゃない。だがエミールをひとり此処に残すことはできないため、防寒具や雨具を取りに行けないのだとわかり、エミールは悄然と項垂れた。
「……ごめん。オレのせいだね」
自分がファルケンを……ファルケンと護衛についていた二人の『狼』をクラウスの元へと行かせてしまったから、いまはこの男ひとりしか居ないのだ。
『狼』が面の下で小さな笑いを漏らした。
「あなたは、謙虚なおひとだ。『狼』の準備が悪いと怒ってもいいところなのに」
「なんでオレが怒るんだよ。こんなにたすけてもらってるのに」
「言ったでしょう。俺たちは亡霊だと。疾うの昔に滅んでいたはずの一族です。いまは陰から王家の手足となり、恩を返すために動いているだけの亡霊だ。だからそもそも人間ですらないんです」
「でも、クラウス様がそうしろって言ったわけじゃないよね」
エミールはか細い橙の光の中、横に立つ男を見上げた。
「あのひとは、あなたたちを亡霊のままでいさせたくはないんだ。きっと、人間として仕えてほしいんだと思うよ。だから対等な主従契約を結びたいって言ったんだ」
エミールの言葉に、『狼』が一拍押し黙った。
「…………『影』から、聞きましたか」
「うん。スヴェンに教えてもらった。あなたにも、本当はきっと、ちゃんと名前があるよね」
「…………」
「教えてくれないなら、勝手に名前をつけるけど」
エミールが唇を尖らせると、『狼』がまた小さく笑った。
「亡霊に名前をつけますか」
「だって、里に行ったら皆が『狼』なんだろ? あなたに用事があるときに『狼』って呼んで他の皆が振り向いたら困るよ」
くくっ、と喉奥で笑いながら『狼』が首を横に振る。
「我々は全員でひとりの『狼』です。主に仕えるための存在だ。だから里では全員が俺だと思って用事を言いつけてもらっても構いません」
「う~ん……そうじゃなくてさぁ……ほら、さっき背負ってもらったお礼を改めて言いたくなったときとかさ。オレを背負ったのは他の『狼』じゃなくてあなたなんだし」
「お礼、ですか」
「そう。あなたとスヴェンがどれだけオレをたすけてくれたか、ちゃんとクラウス様にも報告するから、たぶん、ラスからもすごく褒めてもらえると思う!」
エミールがこぶしを握って断言すると、『狼』が堪えきれなくなったように両手で顔を覆って肩を震わせた。必死に声を噛み殺して笑っているのだ。
「あなたは……ふはっ、やっぱり面白いですね」
「そうかな」
「はい」
「でも、本当はオレのこと笑ったりしたら不敬だよね?」
「申し訳、」
「悪いと思うならそのお面の下の顔見せてもらうことってできないかな?」
男の語尾に被せてそう問うと、『狼』が再び笑いの発作に襲われた。
「く、くくっ……気になりますか、これ」
「だって、口元しか見えないから。なんでお面してるんだろってずっと気になってた。里のひとは皆してるの?」
「はい。ふだんはしませんが、あなたがいらっしゃるときは全員が面を付けます。先ほども言った通り、我々は全員でひとりの『狼』なので」
「オレに素顔を見せたら罰則とかってあるの?」
「ございません」
「じゃあ!」
エミールは期待に満ちた目で男を見つめた。仕方ありませんね、と応じた彼が、右手で面を掴んだ。
その直後だった。
『狼』は突如として身を屈め、エミールの頭を庇うように低く押さえつけた。
「なっ」
「シッ! じっとして」
驚きの声を上げかけたエミールを黙らせ、『狼』は片手でランタンを引き寄せる。
男が灯りを消そうとした、その瞬間。
「ご無事でしたか」
不意に、どこからか声が聞こえてきた。『狼』がホッと力を抜いたのがわかった。
「灯りがあったのでもしやと思い馳せ参じました。隠れ里の『狼』にございます」
「あ、え……仲間?」
隣の『狼』に問いかけると、彼はこくりと頷いた。
「外はどうなってる」
立ち上がった彼が、洞窟の岩肌に向かって話しかけた。エミールは目をこらしてそちらを見たが、暗いのもあってそこにひとが居るのかどうかわからなかった。
スヴェンに教えてもらった、隠行というやつだろうか。
ともかく、味方がひとり増えたのは間違いないようで、エミールは安堵の息を吐いた。
暗闇で震えていた。
寒さに歯の根が合わなくなる。自身を抱きしめるようにして両腕を肩に回した。
「大丈夫ですか?」
気づかわしげに尋ねられ、エミールは顔を上げた。しかし声がした右斜め上を見たところで、暗闇でなにも見えない。
『狼』の里へ向かう途中で雨が再び降りだしたため、狼面の男の先導で急遽近くの洞窟に避難したのだった。
ザァザァと強い雨音が、岩肌に反響して聞こえていた。雨音に混じって、川の流れる音も聞こえる。この洞窟は山の斜面に開いた横穴式のもので、もうすこし下った場所に川が流れているのだと『狼』が言っていた。
雨が降り出すや否や、足場が悪いというのにこの男はエミールを背負ったまま、最速でここへ連れてきてくれたのである。さすがに疲れているだろうとエミールは『狼』にも座って体を休めるよう言ったのだが、彼はそれよりもエミールの保護を優先させていた。
足場を確かめ、なるべく平坦になっている岩におのれの上着を敷き、そこへエミールを座らせる。『狼』だって寒いだろうからそんなことしなくていいと言ったのに、「体を冷やしてはいけません」と頑なに主張された。申し訳ないながらもエミールは男の上着の上に腰を下ろした。
雨は止む気配がなかった。真っ暗な中じっとしているとどんどんと体が冷えてくる。
スヴェンは無事なのだろうか。そしてクラウスは。エミールの騎士はいまどこに居るのだろう。ファルケンは合流できたのだろうか。
不安と焦燥が胸で渦巻き、そのせいか下腹部に痛みを覚える。精神的なものだろう。それでも胎の子が心配で、エミールはほんのすこしの膨らみのある腹を撫でた。
懐妊して四ヶ月。胎動はまだ感じないが、ベルンハルトは「お腹の中でしっかりと赤ちゃんの形になる頃ですなぁ」と言っていた。
アマーリエのときに比べてお腹のふくらみが少ない気がしたが、男性オメガの場合は胎児は小さく育つことが多いとも教えてもらって安堵した。
自分が身籠るなんてこと、想像したこともなかったけれど、実際にクラウスとの子を授かって、いまでは絶対にこの子をまもるのだという使命感に駆られている。
だから、大丈夫。オレは大丈夫。
お腹をさすりながら自身にそう言い聞かせた。
いまは何時なのだろう。夜明けはまだ遠いのか。灯かりがほしい。周りの様子がわかれば、すこしは不安も和らぐのに。
「エミール様、エミール様!」
強い囁きで名を呼ばれ、エミールはハッと肩を跳ねさせた。
「眠らないでください。体温が下がってしまう」
「ご、ごめん。起きてる。大丈夫」
「……ランタンを、点けましょう」
「いいの?」
「我々は夜目が利くよう訓練してますが、こう暗いとあなたの顔色もわからない」
背に腹は代えられないとばかりに、『狼』が苦渋の決断をする。
「敵からも見つけられやすくなりますが、味方も我々を探しやすくなる」
だから悪い影響ばかりではないと言い訳のように口にして、『狼』が小さなランタンに火を点した。だが、やはり外を警戒しているようで、自身の巻いていたマフラーを使って光量を絞る。
仄かな光でエミールを照らして、男は面の奥の瞳を歪めた。
「大丈夫。気分が悪いわけじゃないから」
こちらの体調を気にしたのがわかって、エミールは慌ててそう言った。男からはすでに上着を借りている。これ以上は負担になりたくなかった。
「もうひとり居れば、里から防寒具を持って来れたのですが」
『狼』の足なら里までは大した距離じゃない。だがエミールをひとり此処に残すことはできないため、防寒具や雨具を取りに行けないのだとわかり、エミールは悄然と項垂れた。
「……ごめん。オレのせいだね」
自分がファルケンを……ファルケンと護衛についていた二人の『狼』をクラウスの元へと行かせてしまったから、いまはこの男ひとりしか居ないのだ。
『狼』が面の下で小さな笑いを漏らした。
「あなたは、謙虚なおひとだ。『狼』の準備が悪いと怒ってもいいところなのに」
「なんでオレが怒るんだよ。こんなにたすけてもらってるのに」
「言ったでしょう。俺たちは亡霊だと。疾うの昔に滅んでいたはずの一族です。いまは陰から王家の手足となり、恩を返すために動いているだけの亡霊だ。だからそもそも人間ですらないんです」
「でも、クラウス様がそうしろって言ったわけじゃないよね」
エミールはか細い橙の光の中、横に立つ男を見上げた。
「あのひとは、あなたたちを亡霊のままでいさせたくはないんだ。きっと、人間として仕えてほしいんだと思うよ。だから対等な主従契約を結びたいって言ったんだ」
エミールの言葉に、『狼』が一拍押し黙った。
「…………『影』から、聞きましたか」
「うん。スヴェンに教えてもらった。あなたにも、本当はきっと、ちゃんと名前があるよね」
「…………」
「教えてくれないなら、勝手に名前をつけるけど」
エミールが唇を尖らせると、『狼』がまた小さく笑った。
「亡霊に名前をつけますか」
「だって、里に行ったら皆が『狼』なんだろ? あなたに用事があるときに『狼』って呼んで他の皆が振り向いたら困るよ」
くくっ、と喉奥で笑いながら『狼』が首を横に振る。
「我々は全員でひとりの『狼』です。主に仕えるための存在だ。だから里では全員が俺だと思って用事を言いつけてもらっても構いません」
「う~ん……そうじゃなくてさぁ……ほら、さっき背負ってもらったお礼を改めて言いたくなったときとかさ。オレを背負ったのは他の『狼』じゃなくてあなたなんだし」
「お礼、ですか」
「そう。あなたとスヴェンがどれだけオレをたすけてくれたか、ちゃんとクラウス様にも報告するから、たぶん、ラスからもすごく褒めてもらえると思う!」
エミールがこぶしを握って断言すると、『狼』が堪えきれなくなったように両手で顔を覆って肩を震わせた。必死に声を噛み殺して笑っているのだ。
「あなたは……ふはっ、やっぱり面白いですね」
「そうかな」
「はい」
「でも、本当はオレのこと笑ったりしたら不敬だよね?」
「申し訳、」
「悪いと思うならそのお面の下の顔見せてもらうことってできないかな?」
男の語尾に被せてそう問うと、『狼』が再び笑いの発作に襲われた。
「く、くくっ……気になりますか、これ」
「だって、口元しか見えないから。なんでお面してるんだろってずっと気になってた。里のひとは皆してるの?」
「はい。ふだんはしませんが、あなたがいらっしゃるときは全員が面を付けます。先ほども言った通り、我々は全員でひとりの『狼』なので」
「オレに素顔を見せたら罰則とかってあるの?」
「ございません」
「じゃあ!」
エミールは期待に満ちた目で男を見つめた。仕方ありませんね、と応じた彼が、右手で面を掴んだ。
その直後だった。
『狼』は突如として身を屈め、エミールの頭を庇うように低く押さえつけた。
「なっ」
「シッ! じっとして」
驚きの声を上げかけたエミールを黙らせ、『狼』は片手でランタンを引き寄せる。
男が灯りを消そうとした、その瞬間。
「ご無事でしたか」
不意に、どこからか声が聞こえてきた。『狼』がホッと力を抜いたのがわかった。
「灯りがあったのでもしやと思い馳せ参じました。隠れ里の『狼』にございます」
「あ、え……仲間?」
隣の『狼』に問いかけると、彼はこくりと頷いた。
「外はどうなってる」
立ち上がった彼が、洞窟の岩肌に向かって話しかけた。エミールは目をこらしてそちらを見たが、暗いのもあってそこにひとが居るのかどうかわからなかった。
スヴェンに教えてもらった、隠行というやつだろうか。
ともかく、味方がひとり増えたのは間違いないようで、エミールは安堵の息を吐いた。
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