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狼と名もなき墓標
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雨がいまにも降りそうだった。しかし雨具を持って行く余裕はなかった。
一刻も早くファルケンのところへ。その考えしかなかった。
屋敷を出るときに誰にも引き止められなかったことを、おかしいと思うだけの冷静さもなかった。
ファルケンのねぐらである娼館は、城門の近くだ。普段は馬車を使って移動していたが、徒歩で行けない距離ではない。エミールは走った。すぐに息が上がって苦しくなったが、足を止めることはしなかった。
このまま真っすぐにファルケンの元へ。
そう思った矢先、
「走るな! 危ない!」
前方から鋭い注意が飛んできた。ハッと顔を上げると、当のファルケンがものすごい速さで走ってくるのが見えた。
足から力が抜けて、へたりこみそうになる。膝に手をつくことでそれをなんとかこらえて、エミールは肩で荒い息をついた。
「ルー……なんで……」
「影野郎から緊急招集があった。おまえこそ、なんでひとりで」
呼吸を軽く切らしたファルケンが、エミールの背を撫でながら周囲を見渡した。
「屋敷で待ってるように言われたんだろ?」
「オレ……ルーに、話が」
「クラウス様の件は聞いた」
ファルケンがエミールに耳打ちをした。
腕を引かれて、通りから建物の影へと連れて行かれる。この辺りはまだ王族の私有地だから、通行人は限られている。しかし話の内容が内容だ。ファルケンの警戒はもっともだった。
エミールはゆっくりと息を整え、下腹部をさすった。後先考えずに全力で走ってしまった。胎の子は大丈夫だったろうか。
エミールの仕草を、ファルケンの隻眼が映している。
「大事にしろよ」
「うん、でも……ルーには? クラウス様からなにか連絡が?」
「俺のところには来てない。鷹も向こうに行ったきりだ。あいつが、手紙が本物かどうか調べに行ってるんだろ?」
王城へと向かったスヴェン。彼の調査を待て、とファルケンは言う。
「行方がわからないっていうのも誤報かもしれないだろ。なにかあれば、あのひとなら鷹のひとつぐらいすぐに飛ばせるはずだ」
自分になんの連絡も来ていないのだから、クラウスは無事である可能性が高い、と。だからひとまずはスヴェンを待つしかない、と。
幼馴染のそんな慰めに、エミールは首を横に振った。
「ルー、ファルケン、お願い。クラウス様のところへ行って。それであのひとがもしも……なにか危ない目に遭ってたら、たすけてあげて」
ファルケンの黒い包衣の胸元を縋るように掴んで、エミールは懇願した。
「お願い。オレはルーしか頼れない。クラウス様を探して」
「エル、落ち着け」
「お願い! お願いします!」
ファルケンに向かい、勢いよく頭を下げた。途端にくらりと目眩が起こり、足がふらついた。ファルケンの手が体を支えてくれる。エミールはそのまま幼馴染に抱き着いた。
「お願い、ルー。クラウス様をたすけて」
「……おまえなぁ……」
困り果てた声が落ちてきた。
ファルケンが頭を掻き、曇天を仰いでため息をついた。
「無茶ばっかり言いやがって」
「ルー」
「あのな、エル」
黒い隻眼がエミールを覗き込み、僅かに細まった。
「俺はおまえの護衛なんだよ。クラウス様に、そう命じられてる」
クラウスと私兵の契約をしているファルケン。
エミールをまもれ、というのがクラウスからの指示だと彼は言った。そして、吐息ほどの声でひそっと続けた。
「俺だけじゃない。周りに三人潜んでる。全員クラウス様の私兵だ」
「え?」
「視線を向けるな。有事の際の護衛だ。おまえに気づかれるなとも命令されてるんだ」
「クラウス様が?」
「そう。まもられてるって知ったら、おまえが気にするだろ」
全然気づかなった。エミールは辺りを見回しそうになる目を一度ぎゅっと瞑って、どこに護衛が居るのか気配を探ろうとしたが、まったくわからなかった。
だが、護衛が複数人居るならちょうどいい。
「じゃあ、そのひとたちと一緒に、クラウス様を」
ファルケンとほかの私兵とでクラウスを探しに行ってほしい。
そう乞おうとしたエミールの言葉を、ファルケンが遮った。
「エル、それはできない」
「なんで!」
「私兵は、クラウス様に雇われている。クラウス様の命令が絶対だ」
クラウスの命令。それは、エミールをまもれ、というものだ。
その命令を彼らは遵守する。だからエミールの、クラウスのところへ行ってほしいという命令は聞けない。
ファルケンの説明に、エミールは絶望的な気分になった。
クラウスがエミールの護衛につけるぐらいだ。全員がそれなりに腕が立つはずで、そんな彼らが窮地のクラウスの役に立たないはずがなかった。
それなのに。
エミールをまもることを優先するなんて。
堪えきれずに、ぼろぼろと涙がこぼれた。握ったこぶしでファルケンの肩を叩いた。完全なる八つ当たりだ。ファルケンは文句も言わず、エミールの後頭部にてのひらを置き、自分の肩口へと引き寄せた。
「エル、聞け」
「き、聞きたく、ないっ」
「エミール!」
耳元で強く名を呼ばれた。密着していなければ聞こえないほどの、囁きの音量だ。
「クラウス様の私兵は、クラウス様のものだ。だが、俺の本当の主は、おまえだ。エミール」
「……え?」
言われた意味がわからず、エミールはポカンと口を開けた。
「クラウス様との契約だ。おまえを主として、おまえの剣となる。それが俺の役割だ」
「なんで……そんな……」
「クラウス様が言っていた。自分を除いて、王城でエミールのためにすべてを擲てるのは、おまえだけだから、と」
一刻も早くファルケンのところへ。その考えしかなかった。
屋敷を出るときに誰にも引き止められなかったことを、おかしいと思うだけの冷静さもなかった。
ファルケンのねぐらである娼館は、城門の近くだ。普段は馬車を使って移動していたが、徒歩で行けない距離ではない。エミールは走った。すぐに息が上がって苦しくなったが、足を止めることはしなかった。
このまま真っすぐにファルケンの元へ。
そう思った矢先、
「走るな! 危ない!」
前方から鋭い注意が飛んできた。ハッと顔を上げると、当のファルケンがものすごい速さで走ってくるのが見えた。
足から力が抜けて、へたりこみそうになる。膝に手をつくことでそれをなんとかこらえて、エミールは肩で荒い息をついた。
「ルー……なんで……」
「影野郎から緊急招集があった。おまえこそ、なんでひとりで」
呼吸を軽く切らしたファルケンが、エミールの背を撫でながら周囲を見渡した。
「屋敷で待ってるように言われたんだろ?」
「オレ……ルーに、話が」
「クラウス様の件は聞いた」
ファルケンがエミールに耳打ちをした。
腕を引かれて、通りから建物の影へと連れて行かれる。この辺りはまだ王族の私有地だから、通行人は限られている。しかし話の内容が内容だ。ファルケンの警戒はもっともだった。
エミールはゆっくりと息を整え、下腹部をさすった。後先考えずに全力で走ってしまった。胎の子は大丈夫だったろうか。
エミールの仕草を、ファルケンの隻眼が映している。
「大事にしろよ」
「うん、でも……ルーには? クラウス様からなにか連絡が?」
「俺のところには来てない。鷹も向こうに行ったきりだ。あいつが、手紙が本物かどうか調べに行ってるんだろ?」
王城へと向かったスヴェン。彼の調査を待て、とファルケンは言う。
「行方がわからないっていうのも誤報かもしれないだろ。なにかあれば、あのひとなら鷹のひとつぐらいすぐに飛ばせるはずだ」
自分になんの連絡も来ていないのだから、クラウスは無事である可能性が高い、と。だからひとまずはスヴェンを待つしかない、と。
幼馴染のそんな慰めに、エミールは首を横に振った。
「ルー、ファルケン、お願い。クラウス様のところへ行って。それであのひとがもしも……なにか危ない目に遭ってたら、たすけてあげて」
ファルケンの黒い包衣の胸元を縋るように掴んで、エミールは懇願した。
「お願い。オレはルーしか頼れない。クラウス様を探して」
「エル、落ち着け」
「お願い! お願いします!」
ファルケンに向かい、勢いよく頭を下げた。途端にくらりと目眩が起こり、足がふらついた。ファルケンの手が体を支えてくれる。エミールはそのまま幼馴染に抱き着いた。
「お願い、ルー。クラウス様をたすけて」
「……おまえなぁ……」
困り果てた声が落ちてきた。
ファルケンが頭を掻き、曇天を仰いでため息をついた。
「無茶ばっかり言いやがって」
「ルー」
「あのな、エル」
黒い隻眼がエミールを覗き込み、僅かに細まった。
「俺はおまえの護衛なんだよ。クラウス様に、そう命じられてる」
クラウスと私兵の契約をしているファルケン。
エミールをまもれ、というのがクラウスからの指示だと彼は言った。そして、吐息ほどの声でひそっと続けた。
「俺だけじゃない。周りに三人潜んでる。全員クラウス様の私兵だ」
「え?」
「視線を向けるな。有事の際の護衛だ。おまえに気づかれるなとも命令されてるんだ」
「クラウス様が?」
「そう。まもられてるって知ったら、おまえが気にするだろ」
全然気づかなった。エミールは辺りを見回しそうになる目を一度ぎゅっと瞑って、どこに護衛が居るのか気配を探ろうとしたが、まったくわからなかった。
だが、護衛が複数人居るならちょうどいい。
「じゃあ、そのひとたちと一緒に、クラウス様を」
ファルケンとほかの私兵とでクラウスを探しに行ってほしい。
そう乞おうとしたエミールの言葉を、ファルケンが遮った。
「エル、それはできない」
「なんで!」
「私兵は、クラウス様に雇われている。クラウス様の命令が絶対だ」
クラウスの命令。それは、エミールをまもれ、というものだ。
その命令を彼らは遵守する。だからエミールの、クラウスのところへ行ってほしいという命令は聞けない。
ファルケンの説明に、エミールは絶望的な気分になった。
クラウスがエミールの護衛につけるぐらいだ。全員がそれなりに腕が立つはずで、そんな彼らが窮地のクラウスの役に立たないはずがなかった。
それなのに。
エミールをまもることを優先するなんて。
堪えきれずに、ぼろぼろと涙がこぼれた。握ったこぶしでファルケンの肩を叩いた。完全なる八つ当たりだ。ファルケンは文句も言わず、エミールの後頭部にてのひらを置き、自分の肩口へと引き寄せた。
「エル、聞け」
「き、聞きたく、ないっ」
「エミール!」
耳元で強く名を呼ばれた。密着していなければ聞こえないほどの、囁きの音量だ。
「クラウス様の私兵は、クラウス様のものだ。だが、俺の本当の主は、おまえだ。エミール」
「……え?」
言われた意味がわからず、エミールはポカンと口を開けた。
「クラウス様との契約だ。おまえを主として、おまえの剣となる。それが俺の役割だ」
「なんで……そんな……」
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