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2・王城にて
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エミールの前に湯気の立つ紅茶が配された。
ふだん口にする安い茶葉とはまったく違う、匂いだけで口の中に旨味が広がるような紅茶だ。濁りのないそれをサーヴしてくれたのは、ロンバードと名乗った巨躯の男だった。
筋骨隆々とした太い腕でちまちまと茶を入れるその姿には、妙なおかしみがあった。
だが、のんきに笑っている場合ではない。
エミールは正面に座る男の、蒼い瞳を睨みつけた。
「そんなに警戒しないでくれ」
困り果てた、というように眉を寄せて、男が嘆いた。
男の名は、クラウス・ツヴァイテ・ミュラー。
ロンバード曰く彼は、ここサーリーク王国の王立騎士団第一部隊の小隊長であり、国王シュラウド・アウラ・ミュラーが第二子……つまり、正真正銘の王子様だということだった。
よくよく見てみれば、彼らが身に着けているのは黒い制服で、肩と胸に騎士団の紋章が刺繍されている。
クラウスの身分はともかくとして、二人が騎士団に所属しているという話は疑う余地がないように思えた。
クラウスの説明によると、クラウス率いる騎士団の小隊がエミールの住むヴローム村に到着したとき、盗賊団が強奪の限りを尽くしていたところであったということだ。
団員たちは速やかに盗賊たちを捕縛して回った。その過程でエミールも発見されたという。物置小屋に隠れていた子どもたちも、騎士団によって無事に保護されたとのことで、エミールは安堵した。
しかし、ヴローム村は壊滅的な被害を受けており、再建の目途はないという。
田畑や屋内は荒らされ、家畜は殺されるか騒動に乗じて逃げ出したかのどちらかという話だった。
村人にも被害は出た。幾人かはいのちを落とし、幾人かは治療院送りになったらしい。
騎士団の指揮で、身寄りのない子どもたちは全員王都の孤児院で保護されることになった。大人たちはそれぞれの親族を頼り、三々五々に地方へと居を移している。
淡々と村の惨状を語られ、エミールの頬から血の気が引いた。
クラウスの蒼い双眸が気づかわしげにこちを窺っているのに気づき、エミールは息を飲んで背筋を伸ばした。彼の言うことが事実とは限らない。エミールを騙そうとしているのかもしれない。
男の話には疑問点がいくつもある。
すべてを鵜呑みにすることはできない。
頭の中でクラウスの語った内容を整理していると、彼はさらに信じられないようなことを告げてきた。
「きみはヒートを起こしていた。だから王城で保護させてもらった」
意味がわからなかった。エミールがヒート……発情期を起こしていた? ヒートがあるのは三種類のバース性の中で、オメガだけだ。
「オレがオメガ? なんの冗談です」
おまけにこの男は『王城』と言った。
王城はサーリーク王国の中枢も中枢、王都の中央に位置する国のシンボルである。そんな場所に、片田舎の自分のような孤児が招かれるわけがなかった。
法螺話だ、とエミールは乾いた笑いを漏らした。
しかし信じがたい思いがありつつもこの数日の記憶がないのは確かで、日付を確認したら村が襲われてからもう八日も経っていたのだから恐ろしくなる。
クラウスが小さな溜め息とともに、エミールに白い封筒を差し出してきた。
受け取ることを逡巡していると、クラウスはそれを手元に引き戻し、封を開いて二つ折りになった用紙をエミールに見えるよう広げた。
それは証明書だった。エミールの名前と、生年月日(これは捨てられていたのを自警団に保護された日が適用されている)、血液型、性別、そしてバース性が記載されている。紙面の下部には医師団の正式な印鑑が赤々と刻まれていた。
「これは……」
「無断で申し訳なかったが、きみをここへ連れてきてすぐに検査をした。きみはオメガで間違いない」
クラウスが真面目な顔でそう言った。それから慌てたように、
「だが軍神フォルスに誓って、不埒な真似はしていない。きみのヒートは薬で抑えた。だからヒートのピークが長引いたんだ」
と付け足した。
「…………」
「本当だ。着替えの際に肌を見てしまったが、それ以外では私は決して!」
真顔でブンブンと首を振る男の方から、ふわりと、良い匂いが漂ってきた。
この匂いは覚えている。目覚める直前までずっと、隣にあった匂いだ。
くん、と鼻を鳴らすと、なぜか下腹部がきゅうっと疼いたような気がした。
クラウスがハッとしたように目を見開いた。切れ長の、鋭い、蒼い瞳。狼のようだ、とエミールは思った。
そうだ。最初からそう思っていた。
野党に組み敷かれ、横たわる地面から、厩舎に飛び込んできたこの男を見上げたときから……。
「……エミール」
低く甘い声に名を呼ばれ、エミールは慌てて身を引いた。
いま自分はなにをしようとしたのか。この男の手を握ろうとした? 自分から?
「そ、それ」
誤魔化すように空咳をして、姿勢を正す。
「だから、なんでオレの名前を知ってるんですか」
「ヒート中のきみが教えてくれたんだが……覚えていないか?」
まったく記憶にない。
けれどずっと聞いていたような気もする。自分を呼ぶ、クラウスの声を。
あまりに真っすぐに見つめられて、エミールは座りが悪くなり姿勢を正すふりで視線を逸らした。
なんだか空気がおかしい。この匂いのせいだ。それに、クラウスの眼差しも悪い。ひたすらにこちらに向けられている、ひたむきで、熱く、獲物を逃すまいとする肉食獣のような、それなのにとろりと色香を溶かし込んだ砂糖細工のような、なんとも表現できない眼差しがエミールをおかしくする。
「……こっちを見ないでくれますか。気持ち悪い」
居心地が悪くなって、つい口走ってしまったら、クラウスがものすごく悲愴な顔つきになって、しおしおと項垂れた。
気持ち悪いは言い過ぎた、とすこし申し訳ない気持ちを覚えつつも、男の視線が途切れたことでホッと息が吐けた。
ようやくまともに頭が回りだした気がする。
エミールは両手の指を組み合わせ、ぎゅっと力を込めた。
ヴローム村の被害状況を聞いたときから、ずっと気になっていたことがある。
けれどそれを確かめるのには覚悟が必要だった。
クラウスの話が本当ならば、盗賊団に襲われた際、村民には死者も出たという。
恐ろしい可能性が、脳裏をよぎっていた。確かめるのが怖い。しかし確かめなければならない。
ファルケンの、安否を。
「村に……」
切り出した声がかすれた。エミールは空咳をして、祈るようにクラウスへと問いかけた。
「村に、黒髪の青年は居ませんでしたか。背が高くて……そう、あの日は茶色の外套をつけてました。弓を持ってたはずだ! ファルケンという名の、十八歳の青年です!」
エミールの言葉を聞いたクラウスが、蒼い瞳をまたたかせた。
「ああ、裸馬で私たちを追ってきた男が居たな。黒髪の、」
「彼は! 彼はどこに居るんですか!」
「不敬罪で捕らえた」
エミールは声にならぬ悲鳴を上げ、咄嗟に立ち上がった。
クラウスが唇の端で笑った。
「というのは冗談で、彼ならきみより先に王城に馴染んで、騎士団の訓練に参加している」
「…………」
洒落にならぬジョークを飛ばした男を、エミールはありったけの殺意を込めて睨みつけた。
「いまのはないッスわ、隊長」
唐突に割り込んできた声にドキリとする。
ふと見れば壁際に控えたロンバードがひたいを抑えて首を振っていた。紅茶を淹れて以降まったく気配がなかったので存在を忘れていた。こんなに大柄な男なのに、不思議な話である。
「大方、ジョークを交えてこのひとの気持ちをほぐれさそうとか考えたんでしょうけど、いまのはないッスわ。マジで。ありゃダメだ。俺もフォローできねぇわ」
ロンバードの言葉に、クラウスが悄然と肩を落とした。
キリリと引き締まった容貌は硬質的で、無表情に近いのに、その眉の下がり方や仕草ひとつでエミールには彼の落ち込みが伝わってくるかのようだった。
しゅんとしたクラウスの姿は、尻尾と耳の下げてしょんぼりとした犬を連想させて俄かに憐れみを覚えたが、エミールはそれを見ないふりで、場にそぐわない冗談を口にした男に冷たい視線を注いで要求した。
「いますぐオレを、ファルケンに会わせてください」
エミールの前に湯気の立つ紅茶が配された。
ふだん口にする安い茶葉とはまったく違う、匂いだけで口の中に旨味が広がるような紅茶だ。濁りのないそれをサーヴしてくれたのは、ロンバードと名乗った巨躯の男だった。
筋骨隆々とした太い腕でちまちまと茶を入れるその姿には、妙なおかしみがあった。
だが、のんきに笑っている場合ではない。
エミールは正面に座る男の、蒼い瞳を睨みつけた。
「そんなに警戒しないでくれ」
困り果てた、というように眉を寄せて、男が嘆いた。
男の名は、クラウス・ツヴァイテ・ミュラー。
ロンバード曰く彼は、ここサーリーク王国の王立騎士団第一部隊の小隊長であり、国王シュラウド・アウラ・ミュラーが第二子……つまり、正真正銘の王子様だということだった。
よくよく見てみれば、彼らが身に着けているのは黒い制服で、肩と胸に騎士団の紋章が刺繍されている。
クラウスの身分はともかくとして、二人が騎士団に所属しているという話は疑う余地がないように思えた。
クラウスの説明によると、クラウス率いる騎士団の小隊がエミールの住むヴローム村に到着したとき、盗賊団が強奪の限りを尽くしていたところであったということだ。
団員たちは速やかに盗賊たちを捕縛して回った。その過程でエミールも発見されたという。物置小屋に隠れていた子どもたちも、騎士団によって無事に保護されたとのことで、エミールは安堵した。
しかし、ヴローム村は壊滅的な被害を受けており、再建の目途はないという。
田畑や屋内は荒らされ、家畜は殺されるか騒動に乗じて逃げ出したかのどちらかという話だった。
村人にも被害は出た。幾人かはいのちを落とし、幾人かは治療院送りになったらしい。
騎士団の指揮で、身寄りのない子どもたちは全員王都の孤児院で保護されることになった。大人たちはそれぞれの親族を頼り、三々五々に地方へと居を移している。
淡々と村の惨状を語られ、エミールの頬から血の気が引いた。
クラウスの蒼い双眸が気づかわしげにこちを窺っているのに気づき、エミールは息を飲んで背筋を伸ばした。彼の言うことが事実とは限らない。エミールを騙そうとしているのかもしれない。
男の話には疑問点がいくつもある。
すべてを鵜呑みにすることはできない。
頭の中でクラウスの語った内容を整理していると、彼はさらに信じられないようなことを告げてきた。
「きみはヒートを起こしていた。だから王城で保護させてもらった」
意味がわからなかった。エミールがヒート……発情期を起こしていた? ヒートがあるのは三種類のバース性の中で、オメガだけだ。
「オレがオメガ? なんの冗談です」
おまけにこの男は『王城』と言った。
王城はサーリーク王国の中枢も中枢、王都の中央に位置する国のシンボルである。そんな場所に、片田舎の自分のような孤児が招かれるわけがなかった。
法螺話だ、とエミールは乾いた笑いを漏らした。
しかし信じがたい思いがありつつもこの数日の記憶がないのは確かで、日付を確認したら村が襲われてからもう八日も経っていたのだから恐ろしくなる。
クラウスが小さな溜め息とともに、エミールに白い封筒を差し出してきた。
受け取ることを逡巡していると、クラウスはそれを手元に引き戻し、封を開いて二つ折りになった用紙をエミールに見えるよう広げた。
それは証明書だった。エミールの名前と、生年月日(これは捨てられていたのを自警団に保護された日が適用されている)、血液型、性別、そしてバース性が記載されている。紙面の下部には医師団の正式な印鑑が赤々と刻まれていた。
「これは……」
「無断で申し訳なかったが、きみをここへ連れてきてすぐに検査をした。きみはオメガで間違いない」
クラウスが真面目な顔でそう言った。それから慌てたように、
「だが軍神フォルスに誓って、不埒な真似はしていない。きみのヒートは薬で抑えた。だからヒートのピークが長引いたんだ」
と付け足した。
「…………」
「本当だ。着替えの際に肌を見てしまったが、それ以外では私は決して!」
真顔でブンブンと首を振る男の方から、ふわりと、良い匂いが漂ってきた。
この匂いは覚えている。目覚める直前までずっと、隣にあった匂いだ。
くん、と鼻を鳴らすと、なぜか下腹部がきゅうっと疼いたような気がした。
クラウスがハッとしたように目を見開いた。切れ長の、鋭い、蒼い瞳。狼のようだ、とエミールは思った。
そうだ。最初からそう思っていた。
野党に組み敷かれ、横たわる地面から、厩舎に飛び込んできたこの男を見上げたときから……。
「……エミール」
低く甘い声に名を呼ばれ、エミールは慌てて身を引いた。
いま自分はなにをしようとしたのか。この男の手を握ろうとした? 自分から?
「そ、それ」
誤魔化すように空咳をして、姿勢を正す。
「だから、なんでオレの名前を知ってるんですか」
「ヒート中のきみが教えてくれたんだが……覚えていないか?」
まったく記憶にない。
けれどずっと聞いていたような気もする。自分を呼ぶ、クラウスの声を。
あまりに真っすぐに見つめられて、エミールは座りが悪くなり姿勢を正すふりで視線を逸らした。
なんだか空気がおかしい。この匂いのせいだ。それに、クラウスの眼差しも悪い。ひたすらにこちらに向けられている、ひたむきで、熱く、獲物を逃すまいとする肉食獣のような、それなのにとろりと色香を溶かし込んだ砂糖細工のような、なんとも表現できない眼差しがエミールをおかしくする。
「……こっちを見ないでくれますか。気持ち悪い」
居心地が悪くなって、つい口走ってしまったら、クラウスがものすごく悲愴な顔つきになって、しおしおと項垂れた。
気持ち悪いは言い過ぎた、とすこし申し訳ない気持ちを覚えつつも、男の視線が途切れたことでホッと息が吐けた。
ようやくまともに頭が回りだした気がする。
エミールは両手の指を組み合わせ、ぎゅっと力を込めた。
ヴローム村の被害状況を聞いたときから、ずっと気になっていたことがある。
けれどそれを確かめるのには覚悟が必要だった。
クラウスの話が本当ならば、盗賊団に襲われた際、村民には死者も出たという。
恐ろしい可能性が、脳裏をよぎっていた。確かめるのが怖い。しかし確かめなければならない。
ファルケンの、安否を。
「村に……」
切り出した声がかすれた。エミールは空咳をして、祈るようにクラウスへと問いかけた。
「村に、黒髪の青年は居ませんでしたか。背が高くて……そう、あの日は茶色の外套をつけてました。弓を持ってたはずだ! ファルケンという名の、十八歳の青年です!」
エミールの言葉を聞いたクラウスが、蒼い瞳をまたたかせた。
「ああ、裸馬で私たちを追ってきた男が居たな。黒髪の、」
「彼は! 彼はどこに居るんですか!」
「不敬罪で捕らえた」
エミールは声にならぬ悲鳴を上げ、咄嗟に立ち上がった。
クラウスが唇の端で笑った。
「というのは冗談で、彼ならきみより先に王城に馴染んで、騎士団の訓練に参加している」
「…………」
洒落にならぬジョークを飛ばした男を、エミールはありったけの殺意を込めて睨みつけた。
「いまのはないッスわ、隊長」
唐突に割り込んできた声にドキリとする。
ふと見れば壁際に控えたロンバードがひたいを抑えて首を振っていた。紅茶を淹れて以降まったく気配がなかったので存在を忘れていた。こんなに大柄な男なのに、不思議な話である。
「大方、ジョークを交えてこのひとの気持ちをほぐれさそうとか考えたんでしょうけど、いまのはないッスわ。マジで。ありゃダメだ。俺もフォローできねぇわ」
ロンバードの言葉に、クラウスが悄然と肩を落とした。
キリリと引き締まった容貌は硬質的で、無表情に近いのに、その眉の下がり方や仕草ひとつでエミールには彼の落ち込みが伝わってくるかのようだった。
しゅんとしたクラウスの姿は、尻尾と耳の下げてしょんぼりとした犬を連想させて俄かに憐れみを覚えたが、エミールはそれを見ないふりで、場にそぐわない冗談を口にした男に冷たい視線を注いで要求した。
「いますぐオレを、ファルケンに会わせてください」
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