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リヒト⑦

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 山に向かったはずの僕は、なぜかエミール様のお屋敷に来ていた。

 不思議なことがたくさん起こったなぁ、と手の中のカップをもてあそびながら、思う。
 ユーリ様のお屋敷を出たら、通りすがりの女のひとが手すりの場所を教えてくれて。
 そのあと、通りすがりの男のひとが、余っていたという外套を着せてくれて。
 歩いていると、まるで僕が山に行きたがっているのを知っているかのように、山は向こうだ、と話す声が聞こえて。
 奇跡的に転ぶこともなく知らない道を進んで行った先に、エミール様の馬車がたまたま通りかかったのだというから、本当に不思議なこともあるものだ。

 いまが何時なのか、僕はまるで意識していなかったのだけど、馬車から降りてきたエミール様が、
「こんな夜中にひとりで出歩くなんて!」
 と驚いておられたので、ああいまは夜中なのか、とわかった。

 夜中なのに、色んなひとが歩いていたけど、これまで外に出る機会のなかった僕が知らなかっただけで、夜中の散歩はわりとよく行われていることなのかもしれない。
 
 寒い、という認識のなかった僕を、このお屋敷に入るなりエミール様は毛布でぐるぐる巻きにして、温かいスープを手渡してくれた。体が冷えきっている、と言われた。
 それからエミール様は僕にここで座っているよう告げてから、部屋の外へと出て行かれた。

 エミール様と入れ違いに、使用人のひとだろうか、何人かが僕の周りに色々なものを置いて行く。
 赤い色がチロチロ動いているのが、ストーブだろうか? どうやらこの部屋ごと僕を温めようとしてくれているようだ。

 僕は所在なくソファに座ったまま、赤色を見るともなく見つめた。

 山には行けなかった。
 辿りつけなかった。
 ではこれからどうすればいいのだろう。
 どこで祈れば、神様の声を聞くことができるだろうか。

 答えが出ないまま、ひとり悶々と考え込んでいると、
「リヒト。体は温まりましたか?」
 エミール様の声が降ってきた。

 顔を上げると、部屋に戻ってきたエミール様が僕の隣に腰を下ろして、手を伸ばしてくる。
 エミール様の両手が、僕の頬を包んだ。

「まだ冷たいですね」

 そう言ってエミール様は、僕に持っているカップの中身を飲むように促してきた。
 僕は言われるままに、こくこくと喉を鳴らしてそれを飲んだ。

「リヒト。どこへ行こうとしていたのですか?」

 エミールのしずかな声で問われ、僕はカップから口を離した。

「……山に」

 小さな声で答えたら、エミール様がナフキンを持った手で僕の顎をこすった。スープがこぼれたのかもしれない。あんまり自然に……まるでユーリ様のように、エミール様が僕の世話を焼いてくれたので、僕は少し泣きたくなった。

「山には、なにをしに行こうと思ったのですか?」

 ゆっくりとした話し方で、エミール様が質問を重ねてくる。
 僕は通りすがりの女のひとにした説明を、エミール様にもしてみた。

「神様の声を、聞こうと思いました」
「神様の声?」

 エミール様の語尾が跳ね上がる。
 ふつうのひとは、信者であっても神様の声は聞こえない。それを聞くことができるのはハーゼだけだと、昔に教えられた。
 だからエミール様も聞いたことがないのだ。神様のお声を。

「オレにはよくわかりませんが、神様の声というのは、山に行けば聞こえるものなのですか?」
「……わかりません」
「わからない、というのはどういうことでしょう」
「…………」

 僕は口をつぐんだ。

 神様の声は、中央教会の祭壇のある部屋でしか聞いたことがない。
 山に行けばもしかしたら、というは僕のたんなる思い付きだ。
 本当は祭壇のある場所がいい。
 でもそれを説明するには、僕がハーゼだということも話さなければならない。
 僕の頭には、ユーリ様に拾われる前の記憶が戻っていて……昔の僕は、信者のひとたちを苦しめることしかできない、生まれつき罪を背負ったハーゼだったのだ、という話を、しなければならない。

 それが嫌で唇をきゅっと結んだまま僕がうつむくと、エミール様がこちらへ身を乗り出して、カップを持つ僕の手を上からしっかりと包んできた。

「リヒト。リヒト、そこがあなたの本当に行きたい場所なら、オレは連れて行ってあげたい。それはユーリ様の屋敷の者も皆同じ気持ちです。あなたがひと言、行きたいから連れて行ってほしいと乞えば、テオバルドも喜んで動いてくれるでしょう。でも、あなたはひとりで屋敷を出た。夜中に、たったひとりで。これがどれほど危険な行為か、あなたにはわかりませんか?」

 いつもはしずかなエミール様の声が波打ち、僕の耳に押し寄せてきた。

「ここは城門の内側。確かに治安はこの国のどこよりもいいでしょう。それでも、暴漢が紛れ込まないとも限らない。野生の獣だって居るかもしれない。夜行性の禽獣には鋭い牙や爪を持つものも多い。訓練された騎士ですらそれらに襲われたら無事ではいられないのに、ましてや五感の弱いあなたなど……。リヒト。あなたが馬車道を逸れて茂みや林に迷い込んでしまっていたかもしれないと思うと、それを想像するだけでオレは泣きそうです」

 泣きそう、という子どものような言葉に、僕はハッと顔を上げた。

「リヒト。なぜひとりでお屋敷を出たのでしょう。なぜ、誰かに相談しなかったのですか」

 エミール様の手に力がこもったのがわかった。

 叱られている。そう感じた。
 だけどエミール様の叱り方は、これまでの誰とも違った。

 神様の言葉が聞こえなかったときに、早く次のお告げを、と怒っていた信者のひとたちとも。
 あなたを信じる信者のために祈りなさい、と何度も言ってきた教皇様とも。
 右はこっちですしっかり覚えなさい、と腕をつねってきた女のひととも。
 誰とも違う、エミール様の声の響きに、僕の胸はなんだか熱いもので塞がれて、息が苦しくなった。

 僕の手に重なっていたエミール様の手が、持ち上がった。
 目の前でそれがゆっくりと動き、僕の頬にてのひらが当たった。

「これはあなたが勝手にお屋敷を出て、とても心配したテオバルドの代わりです。身分上、彼があなたを叩くわけにはいきませんからね。それから」

 エミール様のもう片方の手が同じように動いて、僕の反対側の頬に当たる。

「これは、夜道であなたを見つけたときに、心臓が止まりそうになったオレの分」

 エミール様のてのひらに両頬を挟まれて、僕はよく見えない目でエミール様の顔を見つめた。

 馬車でたまたま通りかかった、と言っていたエミール様のお言葉は、嘘で。
 たぶん、テオバルドさんか誰か他のユーリ様の従者のひとから連絡を受けて、駆け付けてくれたのだ。
 もしかしたら僕が気づいていなかっただけで、僕の後ろを、お屋敷のひとがついてきていたのかもしれない。

「痛かったですか? 叩いてしまい、すみませんでした」

 エミール様が謝罪して、僕の頬を撫でた。

 いいえ、と僕は答えた。
 でも声にはなっていなかったかもしれない。

 叩いた、とエミール様は言ったけれど、その動作はとてもゆるやかに見えたので、ほんのささやかな強さだったに違いない。

 エミール様、と呼ぶと、すぐに「はい」と返事が返ってくる。

「エミール様。……心配をかけて、ごめんなさい」

 ユーリ様からの手紙がなくなったとき、僕は混乱してしまって、神様にお祈りすることしか考えることができなくなっていた。
 神様の声が聞きたかった。
 ユーリ様が僕のところへ戻ってきてくださるかどうかが聞きたかった。
 もう一度、ユーリ様に会いたかった。
 だから確証もないのに、山へ行けばなんとかなるだろうかとお屋敷を飛び出してしまったけれど。

 僕は僕のことしか考えていなかったのだ、とエミール様に叱られて初めて、そのことに気づかされた。

 僕が勝手に出て行ったことで、テオバルドさんたちに迷惑をかけることも。
 エミール様がこうして心配してくださることも。
 僕はなんにも考えていなかったし、思いつきもしなかったから。

「ごめんなさい」

 反省を込めて、僕はエミール様に謝った。

 
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